小河一敏という人物がいます。小河と書いて「おごう」と読む。
幕末に活躍した岡藩士で、生まれは文化10(1813)年。
子供の頃から才覚を認められるような人物であったようで、24才という若さで会計元締役という藩の要路に大抜擢され、藩政改革に参加しています。
しかしながら天保11(1840)年に藩主が急死すると、抜擢してくれた上司と一緒に失脚してしまう。
そこから雌伏の時代になる訳ですが、この時に小河は天下国家の形勢に目を向けるようにり、交流が藩外へと広がっていきます。
恐らく一番影響があった付き合いが中山家の諸大夫であった田中河内介ではないかと。
田中河内介は過激な勤王家のひとりでした。
中山家、当時の当主は明治天皇の祖父、中山忠能。
明治天皇は幼少時は中山邸で養育されており、その教育係のひとりが田中だった。
田中は文久2年春に起きた寺田屋騒動に深く関与した人物としてよく名前を知られています。
寺田屋騒動の後、薩摩藩が薩摩に護送するということになったのですが、生かしておいても都合が悪いという事でそのまま帰る船の上で殺害され海に捨てられた。遺体は小豆島に漂着し、その関連で色々と怪談が残っている。
維新なって後、明治天皇が薩摩、長州といった嘗ての志士たちを前に、
「寺田屋騒動以後田中河内介の消息を聞かない。彼はどうなったのか」
と尋ねた事があります。
うーん。これはね、答えられなかったんですよね。その場にいた人。
殺された事もその理由も最期も知っているし、何よりも当事者の薩摩人がいたから。
その時にこれこれこういう理由で殺害したのがここにいる大久保利通でござる、と返答したのが小河一敏ということになっている。
小河は自分を抜擢した上司が尊王の志の篤い人であったこと、また小河自身が神道の研究をしていた事もあったためか、逼塞している時代に皇室の衰退について思いを致す所が深かったようです。
そういう事もあったのか、毎月若い藩士を相手に尊王の必要性を説くような講義を開いていたといいます。
どういうツテがあったのか詳細は知りませんが、田中河内介との交流はそういう所から出て来たのではないか。
多分、ここまでは尊王だと思うんです。
それが勤王に変わったのが嘉永5年のペリー来航以降じゃないかな、と。
多くの志士たちと同様に対外交渉の拙さと朝廷の意に反する事ばかりする幕府を見て、これではだめだと。
それに小河は陽明学の徒でして、これは結構大きかったのではないかと思います。
陽明学は大塩平八郎で有名な学問ですが、知行合一を大事にする。
要するに行動しろというやつですな。
ちなみに尊王と勤王では意味が違ってきます。
尊王は当時知識人層でそうでなかった人は少ないのではないかと思います。
皇室を尊ぶ、という思想。思い。
勤王はその為に何か行動する。行動を伴っている。
尊王という大きな括りの中に、勤王があるというイメージでしょうか。
厳密に言うと尊皇じゃないかという気がしますが、その辺りは他に任せます。
その後、小河は尊王だか勤王を説くために九州を遊説し交流を広げ、その行動に危機を感じた藩より罪に問われて投獄され、のち赦免。
その後さらに問罪、投獄、赦免されている。
この2度目の赦免が文久元(1861)年なのですが、この年から幕末史の中では薩摩の動きが目立つようになってきます。
薩摩の藩主の父、久光が東上すると言いだした。
前藩主島津斉彬の意を継いで公武合体の推進と幕政改革を行うために江戸に行きたい。
この意図が尊王・勤王の志士たちに誤って理解されてしまいます。
薩摩率兵上京という情報を得て奮い立ったのが平野国臣、真木和泉、清河八郎らになります。
この薩摩の東上に乗じて兵を上げ、幕府を倒して天皇中心の国体に作り変えてしまおう。これはその機である!
……あれ?話が逆に…
犬って言ったのに猫って伝わってる!(笑)
薩摩立つよ、だから俺達も一緒に!とこの方々、九州を遊説し同士を糾合していった。
その中のひとつが岡藩で、真木の弟外記と清河が小河を尋ねて来ています。
彼らと義挙について打ち合わせをし、その後は小河自身も広瀬友之允と二手に別れて福岡、熊本の同士を歴訪している。
広瀬はその後竹田に帰ったようですが、小河は文久2年2月には薩摩に迄行ってますなあ…
宮部鼎蔵や田中河内介らと入薩し、有馬新七、田中謙助、村田新八と面談している。
薩摩の方では、藩主父子の東上実施に際して西郷隆盛が大島から呼び返されています。
この西郷が東上の先発として村田新八と下関に到着したのが文久2(1862)年の3月13日。
落ち着いた先は商人白石正一郎の邸宅でした。
白石は志士達のパトロン、奇兵隊の出資者として高杉晋作との関係でよく知られる人物です。
白石は熱心な国学者でもあり、西郷との繋がりはこの国学を通じて生じたようですな。
この縁から白石は薩摩藩御用達の商人になっている。
また白石は国学繋がりで真木和泉や平野国臣とも懇意でした。
で、西郷は道々これは随分雲行きが怪しくなっていると感じながら下関に至る訳ですが、当時白石邸には各地から多くの志士が集まっていました。
有名な所では御当地長州の久坂玄瑞、山田亦介、薩摩の義挙を聞きつけて脱藩した土佐の吉村寅太郎。
ちなみに坂本龍馬もこの時に脱藩しています(白石邸に来たけど吉村は既に出発していていなかった)。
白石邸には平野国臣もいた。
そして小河一敏も、岡藩士16名を連れて丁度逗留していた所でした。
小河一敏、この時に平野国臣と共に西郷隆盛と面会しています。
そこで西郷はこのふたりから話を聞き、思いの外切迫している上方の状況を聞いて到着したその日に京都に向かった。
とはいえ小河らはかなりのんびりしていて、薩摩の船で上阪し、土佐堀の薩摩藩邸に入ったのが3月26日。
そこから岡藩士らが何をしていたかというと、代表者小河が他藩の同志らと京都と大阪を往復して義挙に関する談合をしたり。
動けはするのだけど、ただ何か様子がおかしい。
そういう事は感じていた。
それもそのはずで、彼らが放り込まれた薩摩藩邸の28番長屋、実の所は監視しやすいように他藩の人間を含む同志たちが一ヶ所に集められていた長屋だった。
薩摩藩士とは接触するなと言い渡され、その上久光も討幕に向けて動くような雰囲気もない。
どうも思っていたのと様子が違う…
薩摩、長州、真木和泉や平野国臣といった同志たちが集まり、
「これはもう自分たちで動くしかない」
そういう事で至った結論が関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を血祭りに上げて二条城を奪い取ろう!というもの。
これを聞いた久光はびっくり仰天です。
そらそうですよねえ。公武合体やっちゅうに。
しかもこの段階で久光、朝廷から「その方向で頑張って」という許可まで貰っていた。
「浪士を鎮静しろ」という事まで言われているのに、自藩から朝廷と幕府の人間を血祭りにあげるような人間出せないですよ。
だから止めて、とこの時に説得に来たのが大久保一蔵(利通)ですが、結局説得はし切れなかった。
有馬新七らは説得された振りをして、4月23日夜に決行するよ、という事で、大阪の薩摩藩邸を抜け集合場所である寺田屋を目指した。
この時、彼らは二手に分かれて京都に向かっています。
人数が多いので一辺に京都に向かうとばれる。そういう理由。
そして薩摩藩士の同志討ち、寺田屋騒動が起こったのがこの4月23日になります。
この同志討ちが起った際、寺田屋には篠原冬一郎(国幹)、西郷信吾(従道)、大山弥助(巌)なんて人たちがいました。
薩摩藩士の他真木和泉や田中河内介なんかもいた。
有名な事件な上高名な人物が多いだけに、この辺りはちょこちょこ名前付きで事件が紹介される事が多いですがここにあの人たちは出て来ない……
岡藩士どこいった。
笑。
岡藩士たち、寺田屋騒動が起こっていた時は多分移動中だった。
小河らは京都に向かう後発組だったんです。
大阪の薩摩藩邸から京都伏見の寺田屋に到着した時、4月24日早朝、その時には全てが終わっていた。
はい。ここまで!
続く…かどうか…(ここで終わる可能性が非常に高い…^^;)
(※寺田屋騒動の記述は滅茶苦茶端折りまくってます)
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