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2013/12/31 ヒジハラ
そして舞台は金沢柵へ。
金沢柵擬定地は沼柵と同様に秋田県横手市にあります。
現在は史跡公園になっていて、金沢公園、後三年の役金沢資料館、平安の風わたる公園が作られている。
このブログの平安カテゴリ(平安の風)の名前はこちらから頂きました。笑。
辺りの風景はこんな感じ。まあ正確には平安の風わたる公園からの写真です。
柵跡はもう少し離れた金沢公園の方です。(時間がなくて行けなかった)
(西沼)
うん…98年…(笑)
当時頂いたパンフレットによると(今も大して変わってないだろう)、金沢柵の中心は麓から91mの高さがあり、四面断崖絶壁の天然の要害。全山に多くの段丘を作り、峰毎に塹壕を掘り、シャガを植え防衛していたとのこと。
うーん…高さ91m?んん…?と思わない事もないですが、規模の大きな、かなり堅牢な城柵であったことには変わりないようです。
金沢柵跡から沼柵跡を一望できるので(写真で見たことある)、まあ結構高さもあったんじゃなかろうか。
堅固過ぎて、陸奥守源義家と藤原清衡(当時清原姓)は攻めあぐねる事になります。
沼柵での敗退後、彼ら連合軍は再度戦の準備を始める。
で、出陣になったのが9月です。oh…当時は太陰暦ですから今の10月中旬頃になりますか。
負けたばかりなのに何でまた冬の入り口から戦を始めようとする(笑)
まあ、分からんでもないんですよ。
この敗戦は都にも伝わっていまして、朝廷では義家の次弟、義綱の派遣が議の俎上に上っている。
朝廷は義家の清原氏の内訌への介入を、初めから『勢力拡大/扶植のための私戦』と疑っているんです。
自分の勢力拡大のために勝手に戦争に介入したと。
そう考えている中で朝廷から人間を送るという目論見は義家の支援ではなかったでしょう。
事態収束のための派遣、または内情調査だったかと思われます。
義家には弟が3人おりまして、次弟が義綱、その次が義光、その下が快誉。
快誉については僧籍であったという事くらいしか分からないようです。
上3人は同父母兄弟で歳も近い。義綱とは3つ、義光とは6つ違い。
それだけに仲のいい兄弟だったという話もあるのですが、まあ、その辺りはどうかなあ…子供のころはとにかく。
当時、義家は武士として大きな勢力を持って来ております。
元々義家らの武門系源氏は「摂関家の走狗」と言われていて、それまでの特権階級からすると義家の台頭はやはり面白くないし、何よりも脅威でした。
この力を殺ごうという動きは当然ある訳で、その当て馬とされたのが弟の義綱になります。
で、この東北への赴任時、つまり義家が都にいない間に義綱が勢力を伸ばして来ている。しかも兄に協力しようという姿勢も見せない。
そういう流れがあっての義綱の抜擢と思うと、まあ…
実際には義綱の派遣は沙汰やみになるのですが、あれこれの経緯を考え、また陸奥守の残りの任期を考えて、八幡太郎には焦りがあったのかもしれませんねえ。
どうだろう。
義綱は来なかったけれど、もうひとりの弟、義光はやってきた。
源義光、新羅三郎義光と言えばピンとくる方も多いと思います。武田信玄の甲斐武田や秋田の佐竹氏の祖になっているのがこの義光。
義光は当時兵衛尉(ひょうえのじょう)でしたが、この官職を擲って苦戦している長兄を助ける為に都から出羽へと馳せ参じます。
義家は
「三郎が来てくれたなら、家衡武衡の首など掌中にあるようなものだ」
と、その心をとても喜んだ。
この100年程後の話、平泉からやってきた源義経が兄頼朝に兄弟の名乗りをする場面がありますが(黄瀬川の陣)、その際、頼朝はこの先祖の佳例をひいて義経の参陣を涙を流して喜んだというエピソードが残っている。
安田靭彦がこの場面を描いてますね。私とても好きなんです。安田の黄瀬川の陣。
この義光が馳せ参じた話は後三年の役を彩る有名な逸話なので、ご存じの方も多いかと思います。
「兄のために一身を顧みず」という兄弟愛を説いた美談としてもよく知られているものです。
義光は出羽に下向する際、朝廷に暇乞いをするも許可されず、それで自ら官を辞したと言われるのですが、
実際には暇乞いをせず、仕事をほっぽり出して出羽に下向している。それで罷免されてるんですよね^^ゞ
で、出羽に到着したのが戦の始まる前というタイムリーさに、これは不意の救援ではなかったでは?
義光がやって来るのを待って義家は9月に戦を始めたのでは?という研究者もいます。義家自身が義光に下向を打診していた可能性だってある。
それにしても義光はなんでそこまで強引に下向したかっちゅう話ですよね。
兄のためにという事だけではなかった事は確かです。
まあなんというか、京都にいても芽がでないんですよ。残念ながら。
義家と義綱がいて頭押さえられてる状態。
この義光は後年、自分が河内源氏の棟梁にならんが為に、
義家が次期棟梁として指名した子を暗殺し、その犯人を次兄義綱だとして冤罪にかけ結果的に一族を皆殺しにした。
美点も伝わっている人物ですが、どうもなあ。
随分野心家だったのではないですかね。
奥州への下向は、自分自身の勢力扶植のためという打算もあったと思います。
そんなこんなでメンバーをそろえて始まったのが金沢柵攻防戦。
>まゆみさん (反転して下さい)
清衡ラバーでいらっしゃいますか!いいですよね、清衡。私はドラマ放送の5年後に原作を読んで嵌りました^^ ドラマになると関連書籍がすごいですよね。私も当時の雑誌や書籍を古書店などで沢山買い込みました(笑)創作もお読み頂いているようでありがとうございます!最近ちょっと離れていますが、ぼちぼち考えていきますので、気長にお付き合いくださいませ。コメントありがとうございましたv
平泉の話が続いています。いつもの事ですが中々終わらない。
前回までの話。
長兄清原真衡急逝の後、陸奥守源義家は奥六郡を清衡、家衡に折半して与える。
それを面白く思わない家衡が、兄藤原経清(当時は清原姓)と同居していた際に妻子眷族を殺害したというところまで。
これ、まずかったんですよね。
陸奥守の裁定に不満があると態度で表明した事になる。それに態度に示すにしてもちょっとやり過ぎだろう…(と今の感覚だと思ってしまう)
この後どうなるかというのは、流石に家衡もよく分かっていたと思います。
彼はその後、清原氏の本拠出羽国に戻り、戦の準備を始める事になる。
一方、ひとり生き残った清衡は源義家の所に転がりこみ、この顛末を訴えた上で助力を願います。
ここで義家は再度兄弟喧嘩に介入することになる。
上図に、出羽地方に金沢柵(かねさわのさく)と沼柵(ぬまのさく)があります。
安倍氏の柵と同様に、遺跡がないため場所の確定ができていない。擬定地というのがいいのかな。
柵というと、言葉のイメージから私なんかは粗末な感じしかなかったんですが、平城の一種と考えていいのではないかと思います。
何回かこのブログでも出て来た鳥海柵なんかは、とのみのき、とかとのみのさく、なんて振り仮名が打ってあったりしますが、き=城(キ/しろ)に繋がるんじゃないかなあと思うんですよ。それに、たて(館)、と呼ばれていた可能性もあるそうですし、どうなんだろう。
まあ、調べた事もないですし、単に私が思ってる事ですので、真に受けないでください。^^ゞ
いつも思うんですが、見たことないものって想像できないんですよね… 例えば軍艦の中とか。
で、柵に関しては えさし藤原の郷 に再現されたものがあります。
写真古くてごめん!98年だよ!(笑)
と言っても再現されているのもめちゃめちゃ一部だと思うんですが。『後三年合戦絵詞』を参考に復元したんだろうなあ。
これは入り口。後は普通の屋敷でした。
柵が軍事的交通的な要衝に置かれていた事を考えると、実際にはもう少し軍事的要素の強い施設だっただろうとは思いますが。
まあ、ぶっちゃけエネーチケーの撮影セットなんで…(身も蓋もない)
家衡が立てこもったのは沼柵(ぬまのさく)になります。
沼柵、現在の秋田県横手市雄物川町沼館のあたり。
この沼館の辺りにあったのは間違いないだろうと言われていますが、やっぱり詳細な場所は特定できていないそうで。
写真を出せたらいいんですけどね、私沼柵だけは行ったことがないんだ…
ここへ義家と清衡の連合軍数千が押し寄せる。
ただ時期が悪かったんですね。秋から冬、まあ冬に起こったんです、この戦。
横手って毎年雪すごいですよね。豪雪地帯です。今年は1.8mくらい積ってニュースになっていました。
今でさえ大変なのに、当時の粗末な防寒具で、満足に暖も取れないまま何ヶ月も包囲戦なんてできませんよ。
そしてその内食料も底をつき始めます。
満足に干戈を交えないまま、兵士は飢えと寒さで死んでいく。どうしようもなくてこの連合軍は一旦軍を引きます。
平たく言えば負け戦になった。
この間、有名なエピソードがふたつ程あります。
ひとつは、この寒さに耐えかね倒れた兵士たちを八幡太郎義家が自ら介抱してやったという話。
門番を代わってやったという話もありますな。
義家は彼が生きている時から伝説が生まれていたような人物です。
彼が使った弓矢というだけで魔を祓う力があると信じられたり、名乗るだけで悪党が退散したり。
そしてその評価は「天下第一武勇の士」、日本一の武者、武士の頂点にいる人。
そんな人にこんな労られ方したら、これは兵士じゃなくても感激します。
八幡太郎の優しさを強調する逸話。
もうひとつはアレっすな(投げやり)
納豆。
これは今まで何度か書いてますので、覚えてる方も居られるかと思います。
沼柵を包囲しても柵は陥ちないわ、寒さで兵は死ぬわ、食料はなくなっていくわ。
そんな時に義家が見つけたのが馬のエサ。
兵士が馬のエサを捨てていたのを見た。
当時馬には飼葉だけではなく煮大豆なども与えていたようです。
煮た大豆を乾燥させて、藁に包んで保存していたそうで。
この時は戦中でもあり時間が無かったのか、その大豆を乾燥させずに藁に包んでおいた。
で、暫く放置したものの様子を見ると、糸引いている上異臭が。
うん。まあ要するに腐っていた。
こりゃ馬にゃやれねーな、やれねーよ(桃城くん風)ということで、担当していた兵士が処分しようとしていた…所を 家政婦 義家は見た。
そして何を思ったか、彼は果敢にもそれを口にしました。
はい。そこで一言!
「なぁコレ、食べれるで」
ちょww おまwww よしいえええええwwwwww
どこの世界に兵士が捨てた腐ったもん(しかも馬のエサ)を食べる総大将がおんねん!!
いやー私、八幡太郎大好きです。7・8歳の頃から好きです。大好きです(2回目)。
この人が好きだったからという理由で雅楽も聞いたりします(ごくたまに)。
でも納豆は無理orz (好きな人ごめんなさい。根っからの関西人です。これはほんまに無理)
まあ結局腐った豆(酷)が食べられることが分かった所で戦況が動くわけでもなく、結局沼柵で連合軍は敗退する。
つーか腐った豆食べたから敗(禁句)
……。
………。
………………。
ハイ。
家衡から言えば籠城の末の勝ち戦。
この結果を見て、叔父・武衡が家衡の元を訪れます。 (武衡:一番左)
曰く
独力であの武人の誉れ高い源義家を追い返すとは。これはそなただけでなく清原一族の名誉でもある。共に合力して戦おう。
この沼柵より金沢柵の方が要害である。そちらに移ろうではないか。
前回は陸奥守源義家が清衡、後の藤原清衡とその弟家衡に奥六郡を折半すると下した裁定に、弟が不満を持ったという所まで。
家衡は義家にその不満を訴えます。
また兄清衡について讒言するも全く相手にされず、却って義家は清衡に目をかける素振りを見せる。
まあ…対真衡で陣を同じうしていたとはいえ、こんなことになってしまえばふたりの出自なども手伝って兄弟仲が上手く行くわけがない。
それがどういう経緯でか家衡が清衡の館、豊田館に住む事になります。
数日泊ったという事なのか、同居したという事なのか。
それもまた分からないのですが、どうも義家の差配であったようです。
…本当に資料がないので、”~らしい”とか、”~みたい”という感じになっていきます…
でもこれは私じゃどうしようもない。
しかし、これは本当に何か起こせと言わんばかりの差配です。
えげつないな。なんでこんなことしたの八幡太郎。
そしてそこで事件が起こりました。
豊田館に滞在している家衡が清衡を殺害すべく行動を起こす。
家衡は屋敷に火を放ち、清衡の『妻子眷族を殺害し了んぬ』。
つまり、この時に豊田館にいた清衡の家族、また眷族とあることを考えると郎党等も入ると思いますが、彼らが全員殺された。
しかし清衡本人は難を逃れています。
夜討ちを察知し身を隠していた、とある。
彼も自分を憎む弟を屋敷に置いて身の危険は感じていたとは思うのですが、妻子に気を配ることもできなかった程急だったのか。
外からではなく、内側からこんなことされたら流石に対応するのも難しかったかと思われます。
家衡は侵入者じゃないし、建物の内部構造をよく知っている筈だし。
ちなみにこの時代夜討ち朝駆けは卑怯でもなんでもありません。仕掛けられる方が悪いんです。
まあこの場合、家衡が”夜討ちをかけた”というのは少し違う気もしますが…
清衡は家族を失い、ここでも生き残った。
清衡は孤独だなと思うんです。
前九年の役では自分と母だけが陸奥国に残った。
母といっても清原氏の後妻に収まり、家衡を生んでいる。それが清衡7つ8つの頃。
お母さんはいるんです。いるけど、こうなったらもう母は清原の人ですよね。
人情として、母と義父清原武貞と家衡がいる席に清衡が普通の顔をしていられたとは思えない。
平気な顔でこの輪の中に入れたとは思えない。
ましてや武貞は父親の仇です。
そして前九年の役から20年経って得た自分の家族を、今度は自分の弟に根こそぎ奪われる。
清衡は死のギリギリ一歩手前で、いつも孤独と引き換えに生き残っている。
不思議だよね…
まだ死ぬ時じゃないよ、やることがあるだろうって何かに言われているみたいな感じ。
何かに選ばれている感じ。
私、普段はこんな事言わないし書かないんですが、この人を見ていると不思議とそう思うんです。
運命とか、何かをするために生れてきた人って、やっぱりあるし、いるんだと思う。
平泉の成立は大局的に見たら古代から中央との諍いや戦乱がひっ切りなく続いた東北地方に平和を齎したんですよね。
この人は、多分平泉を作るために生れて来たんだし、生かされたんだと思う。
後に書きますが清衡は後に中尊寺を建立します。
その建立の理由が現在も残されていまして、それを『中尊寺建立供養願文』という。
その中の一文にこういう事が書かれている。
この鐘の音は世界のあらゆる所に、生死するもの全ての上に平等に響き渡り、
苦しみを取り除き、喜びを与えるものである。
奥州では古来より数え切れぬほどの官軍と蝦夷が命を落とし、
また限りない毛羽鱗介(獣、鳥、魚等の動物)も犠牲となった。
その魂は今や他界へと逝ったものの、骨は朽ちて塵となりこの世に留まっている。
この鐘の音が大地を震わせる度に、彼等の、命を奪われしものの魂魄が
救われんことを、浄土に導かれんことを。
清衡は前九年の役、後三年の役で、その都度家族の殆どを喪っている。
7歳から30歳までの間で見たものは家族の死と諍いの繰り返しです。
若い柔らかい時期にそんなものばかりを見ていたら、普通なら屈折すると思う。
いや、もしかしたら屈折していたのかもしれないけれど、でもそれなら尚更、どうしてこんなことを言えるような人になれたんだろう。
争って、その後が虚し過ぎたんじゃないかなあ。
後三年の役終結した後、清衡ひとりの手に陸奥国が委ねられます。
書いてしまうと、戦争が終わって気が付いたら清衡の周りに誰もいなかったんだよね。
家衡は戦死、義家は陸奥守解任で都へ帰ってしまって。
それなのにもう清衡にはこれから頑張ろうねって言える家族もいない。
清衡は戦争の痛みが骨身に沁みていた人だったのではないかと思うんですよ…
東北は本当に古代から中央と現地との諍いの絶えない地で、何度も”反乱”や戦争が起っている。
犠牲者も沢山出ています。
中尊寺はそんな彼らや戦争の犠牲になった生きもの、そして喪った家族のための、清衡のレクイエムのようだなと私は思うのですが、どうだろうか。
長兄清原真衡が亡くなり、後に残された清衡、家衡兄弟と陸奥守源義家。
もうこれでは戦う意味もないよね、という事で、清衡家衡は陸奥守に降伏します。
義家はその戦後処理として、安倍氏が、次いで清原氏が継いだ奥六郡をふたりに折半して与えています。
奥六郡というのは北上川沿いの六郡のことで、奥州市~盛岡市の辺りに該当する。
胆沢郡の一番南が衣川かな?平泉もここ。また胆沢鎮守府がありますな。
江刺郡は清衡の父藤原経清の館があった豊田館があったところ。和賀は今の北上市あたりになります。
八幡太郎義家はこの6郡を半分に分けた。
どう分けたかというのは分からないようです。
南の3郡を兄の清衡へ、北の3郡を弟の家衡へと言われることが多いですがちょっとよく分からない。
後三年の役は前九年の役以上に分からん事ばかりで?が続きます。
とにかく家衡にはこの裁定が不満であった。
家衡からすれば父は清原氏、母は安倍氏。
血筋から見て、清原氏が治めて来た仙北、安倍氏が治めて来た奥六郡を統べるのは自分こそ、という意識はやはりあったと思います。
その上、兄・清衡は自分より7・8歳年上とはいえ、先の戦の敗者の子供ですからねえ…
刎ねられた父経清の首は京都まで運ばれて右獄に晒されている(安倍貞任も)。
都で晒し首にされているんですな。
悪い言い方をすると清衡は戦犯の子なんです。
殺されもせず敵である清原氏でその子供として養育されたのが不思議な位です。
そして南3郡は兄、北3郡は弟とに分けられたということで話を進めると、
南は北と比べて降雪量が少なく、土地は肥沃で米がよく取れる。
つまり豊かなんです。面白い筈がない。
恐らく北を兄、南を弟に与えられても、家衡は不満だっただろうと思いますが。
まあ、問題は八幡太郎義家ですね。
彼は前九年の役の初めから終結までを見ていて、この内情の複雑さというのはよく理解していた筈なんです。
それをこういう形で解決を図ろうとするというのは、何を考えてたかな、という所ですね。
平等にとか、公平にとか、そういう事を考えていたのではない事は確かでしょう。
陸奥守としてこの地域の安定を図るなら、誰かひとりを清原氏の長として立てれば良かったでしょうし。
というか真衡の養嗣子成衡がいただろうに。
何度か書きましたが、成衡は妻に義家の異母妹を迎えています。
義家からすると義弟なんですよね。
利益を得るという点では、この成衡を立てるのが一番楽だったんじゃないかと思うんですが、真衡が亡くなった後、なんの力もない新婚夫婦では周りを納得させられないとみたんでしょうかね。
だってこのふたり、清原、安倍どちらの血も引いていないんですよ。
成衡は平氏、妻は源氏で、完全に現地豪族を排している。
真衡は現地の血を引き継がないと表明したことになる。
何故真衡がこういう事をしたのかという問題がありますが、中央の血をインスパイアして家の正当性を高めようとでもしたのか(これは蔑ろにされつつあった一族の反感をかなり買ったと思われます)。
まあ立ちまわり方を見ていると、真衡は結構な策士だったんじゃないかと思います。
歴史にイフは禁物ですが、彼が急死してなかったらどうなってたか分からないよね…
中尊寺は建立されなかったかもしれない。
とまれ、義家は清衡家衡兄弟の微妙なバランスの上に立って陸奥国の実権を得ようとしたのかもしれません。
そう考える方が自然かなあ…
この連載の3話目でも書きましたが、前九年の役で源氏は鳶(清原氏)に油揚げ攫われたような感じになっていますので(源氏視点から見ると、という話)、決して清原氏にいい感情は持ってなかった筈なんですよ。
国守としての最低限の仕事はしても、清原に波風が起らないようにとか、感情面ではそこまで肩入れする謂われはなかったでしょうし。
とにかく義家の存在と裁定が、ややこしい兄弟を更にややこしくしたのは確かです。
義家は清衡をより篤く扱ったとか、清衡が義家に讒言したとか、それをひどく家衡が憎み恨み、義家に訴えたが相手にされなかったとか、
考えるよすががないだけにまあ研究書でも色々と言われている。
利益配分に不満があった、うん。
確かにそうだと思うんですけど、その他諸々も込めて単純に面白くなかったんじゃないかなあ。家衡は。
蔑ろにされているように思えて。
歴史を書く場でこんなこと言い出すのは失格だって分かってるんですが(笑)、歴史作ってるの人間だもんね。
小説的だなとは思うんですが、感情のもつれやこじれってやっぱり大きい問題だと思う。
話は少し変わりますが、当時、清衡がいたのは江刺の豊田館(とよたのたち)と言われています。
(奥州市江刺区)
清衡に南3郡が与えられたと考えられるのは、この豊田館が彼の本拠であったとされているため。
ここ、安倍氏の時代に父経清が与えられ、住んでいた土地なんです。清衡もここで生まれたと言われている。
で、後三年の役が始まった頃はここにおり、既に妻を迎えていました。
当時清衡は27・8歳ですから、恐らく子供も何人かいたと思われます。
***
世界遺産登録の繋がりで平泉関係の記事を見て下さる方が非常に多いです。
おー…ドキドキして来た(チキン)
後三年役関係の話をここでちゃんと書くのは初めてなんですよね。いつも前九年の役で力尽きて(笑)
27Kの際はあっちの案内もあるし、でもタイムリーだからこっちも進めたいし、…の割には放置気味でしたがorz
言い訳ですが、近世近代を扱っている最中にこちらを考えるのはしんどいです。
混乱して訳が分からなくなる、というか、時代の雰囲気が中々頭に戻って来ない。か、感覚が^^A
まあ片方が終わったので、こちらを最後まできちんと書きたいです。
本当に、平泉の歴史は色んな人に知って欲しい。
中尊寺の金色堂と、ミイラという話だけじゃなくて、藤原清衡という人がいたという事を色んな人に知って欲しい。
私じゃうまく伝えられないというのはよく分かってるんですけど…
少しでもへえ、と思う人がいてくれたらいいな。
間が開くと忘れるね!
前回は清原氏の真衡、清衡、家衡3兄弟の争いが勃発、その途中で長兄真衡がぽっくり逝った、という所まででした。
真衡と清衡は血の繋がりのない兄弟、清衡と家衡は母が同じ兄弟、真衡と家衡は父が同じ兄弟 という大変ややこしい間柄。
そして清原真衡の養嗣子は源義家の妹と婚姻関係を結んでいる。
義家は当時陸奥守として下向しており、多賀城(仙台の隣)か胆沢鎮守府(奥州市水沢区)かどちらかにいたと思われます。
位置を考えると、鎮守府の方じゃないかなあ…
真衡は下向した義家を饗応し、それが済んだ後に一族の長老格吉彦秀武(きみこのひでたけ)を討つために秋田へと軍勢を進めた訳ですが、その途中で真衡が急逝した。
真衡が白鳥舘を開けた際、清衡と真衡はここを襲撃しています。
こちらには真衡の妻、また養嗣子がおり、多分その妻(義家妹)もいたかと思われます。
本当に計ったかのようなタイミングですが、この時、この近くに源義家の部下がふたり、仕事に来ていたんですよ。
義家の部下と言っても、仕事はれっきとしたお上、朝廷の仕事をしている。つまり一応は国家公務員なんです。
そのふたりに真衡妻が、応戦出来ないので助けて欲しいと助力を請うた。
で、このふたり、どういう積りだったのかその力になり、清衡・家衡らと一戦交えることになってしまった。
いやー…えらいこっちゃ。
ここまでは兄弟喧嘩なんですよ。
規模が大きくても清原の内紛。内訌。平たく言うとやっぱり兄弟喧嘩なんです。
それに朝廷からのゴーサインなく、現地が独断で参戦してしまった。
陸奥守源義家としてはどちらかに肩入れするのではなく、調停、事態の収拾を図らないといけない立場なんですよ。
あーあぁ…
まぁこの辺り、純粋に部下ふたりの独断で真衡方を助けたのか、はたまた義家の意を受けての参戦だったのかは分かりません。
教科書に記載があるのでご存じの方も多いかと思われますが、義家はこの後三年役が終わった後、陸奥守を解任されます。
その時の理由が、”公”ではない”私”の戦、『私戦』を開始した、というもの。
それはこういう事なんですな。
ちなみに義家は戦争の傍ら、これを公戦と認めて欲しいと訴えていたんですが、認められていません。
一応義家は陸奥での戦乱を”平定”したという事になるんですが、朝廷からすると、
「お前何勝手なことやってんの。は?恩賞?何言ってんの?勝手に始めた戦で恩賞まで貰う気?」
ということになる。
結局この後三年役で戦った武士たちには朝廷から恩賞は出ておりません。
代わりに義家が自腹を切って彼らに恩賞を与えた。
この一事で義家は武士たちより大きな信望を得、また源氏が東国で立つ大きな要因になっています。
まあ在世当時から伝説が生まれるような力のある武者でしたので、そういうのも相俟ったというのもあるのだろうと思いますが…
で。
源義家が兄弟喧嘩に介入します。清衡家衡もさすがに陸奥守にはかなわず敗走。
さてこれからどうしようかとしたところで、出征中だった真衡がぽっくり。
これは流石に、義家も清衡家衡兄弟も
「え?」
だったと思います。
なんかもう、あれだよね。戦う理由なくなった。そうなんですよね。戦う理由が…。笑。
で、残された3者がどうしたかと言うと、和議を結ぶことになります。
陸奥守の下に兄弟が下った。
ここであっさり戦が終われば良かったのですが、そうは簡単に終わりませんで。
義家はこの戦後処理で兄弟に奥六郡を折半して与えています。
しかし家衡はこの裁定が不満だった。