キャンディキャンディが大好きです。

テリィに堕ちたのに、どういうわけかアルバートにはまって、アルバートとキャンディのファンフィクションを書いてます。

あのひと考察 追記の追記

2022-05-08 13:53:00 | あのひと考察、最終考
小説キャンディキャンディFinal Story
あの人考察について、更に追記します。

わたしの言いたかった事が、分かりやすく書けなかったので、さらに追記。


作者は、あのひとを明かすには、長い物語が必要だと言ってます。

ですが、

その長い物語は、この小説には描かれていないのです。


FSには、ラストシーンに至るまでの具体的な出来事が描かれていません。

そして描かれていない部分が、長い物語に相当するのです。

(だから、FSでは、あの人が明かされていない訳ですよね。)

あのひととどんな風に、どんな出来事があって、一緒に暮らすようになったのかが描かれていません。

ここに、どんなエピソードを入れるかで、あのひとは変わります。

どんなエピソードが入るのか、

どうとでも想像出来ます!


どうとでも想像出来るとはいえ、

それは、どんなエピソードだったのかを、FSの中のエピソードをヒントに考えるので、FSで描かれたエピソードを読み解こうとするのでしょうが…。


キャンディの心に残るテリィへの気持ちが復活しても、アルバートさんへの穏やかな愛を選ぶかもしれないじゃないですか?
(わたしはそういう二次小説を書いているところです。)

今が幸せだって言ったって、それを捨てて激しい恋を選ぶかもしれない。


FSだけのエピソードじゃ、あの人まで、たどり着けないのです。

FSでは、あの人は確定出来ないとわたしが言うのは、そういう事です。



でもまあ、FSで描かれるキャンディの気持ちを読み解いても、わたしにはキャンディはアルバートさんを選んだと読みましたけれどね。
運命の赤い糸。
今がわたしのしあわせです。発言。
レイクウッドへのドライブデート❤️
テリィへの気持ちは、好きでした。と、過去形。
今、しあわせなのね。
このまましあわせになるんだな❤️
と、読む。



テリィだと読む人は、過去形であるけれど、今にも落ちそうな杏…キャンディのテリィへの気持ちは眠っているだけ。エイボン川のほとり、テリィっぽい地名の状況証拠があるわ。スザナも死んでるし。テリィも、おれは変わってないと手紙をくれた!
と、住んでる場所などの状況証拠から推察


作者は、どちらにも受け取れるように、細心の注意を払って書いた…と、わたしは思います。

FSだけのエピソードで、キャンディの気持ちが、どっちに転ぶか読めなんて…。名木田先生は、「それは無理なように作ったのよ。」と、微笑んでいそうです。


わたしの言いたいこと、伝わったでしょうかね?

絆を感じた…と、キャンディがアルバートさんにラブを感じる発言を読んでも、テリィ派は『それは家族的なものよ!』と、解釈をするし、『エイボン川のほとり』とテリュースっぽい地名を出しても、テリィっぽい地名に過ぎないでしょ?とアルバート派思う。

こじつけて解釈すればどうとでも出来るんですね。
言葉通りに解釈すれば、そういう意味なハズですがね。

更に、書かれていない沢山の隙間がありますからね。




先生は、どっちでもいいって言ってるのに、どっちでと良いはずないって…何故そう思うのでしょうか?

先生のあのひとは、アルバートさんだと思います。

ラストシーンのあのひとの人物描写は、アルバートさんぽいですし、丘の上の王子さまの正体を明かすシーンが、設定し直され描写されていましたから…。

最初から、あの人はアルバートさんのつもりで作劇したんだし…。

ただ、長い物語を先生は書かないと決めたんです。

長い物語は、読者の心に委ねられたのです。



一言一句に気を配らないと、読み解けないような文章を何故、名木田先生が、書くと思うのか?

てにをは一つ読み落とすと伝えたい大意が変わるような…?読み方の解説が必要な、そんな下手な文章を書く先生ですかね?名木田先生って…。

わたしは、一度しか読んでいませんが、気になるところはコピーをとってますし、大意は掴んでいると思っています。そして、何度も読まなくては理解出来ない作品ではありませんでした。



これは、わたしの見解に過ぎません。













ファイナルは、あの人を曖昧にした。あのひとはどちらでもいい…。

某さんは、こういう意見を読むと、飛んで来て、

『わたしたちは、あのひとをどちらでもいいとは思ってない!』と、言ってたんですよね。
某さん。あなたが、「アルバート派の意見を聞きたい」と彼女にメールまで送ったから、彼女はあなたのブログに書き込みしたんですよ。それを…誹謗中傷だと罵り、ブロックまでしたこと…。彼女はとても傷ついていますよ。そして今、その彼女の言っていた事と同じ意見に考えを変えたなら…、それは尚更、彼女に謝って欲しいなと思います。

誹謗中傷したのはどちらか…。
トラブルを起こしたのは誰か…。
答えは皆、知っています。




あのひと考察 追記

2022-04-23 11:35:00 | あのひと考察、最終考
最近、更に、あの人考察についての思いが深まったので、追記させていただきます。


とあるブログにて、そう!その通り!と、納得する文章に出会いました。

以下になります。


────────────

作者の狙いなのでしょうが、作品が曖昧で、物語の隙間が多く、読者の想像で埋めていかないと作品が完成していきません。

────────────


『FSの「書かれていないこと」は読めない。』とわたしは書きました。

この文章で、改めて気がつきました。
そう!書かれていないんです。


─────────────

あのひとを誰かを書くには長い物語が必要、
それは読者の想像に委ねると、作者は書いています。

──────────────

実にストレートに断言してらっしゃる。
カッコいい。


そうですよね。

そう読解するのが、自然な読み方だと思うんです。
そう読むのは、わたしだけじゃなかった。良かった。


引用させていただいた文章は、以下のサイト様になります。



作者:白鳥雨雨 さま

なぜ今更だけどFinal story

小説キャンディ・キャンディFINAL STORYに感化されて、徒然なる思いを綴った文章とそこから広がったファン・フィクションを書き留めたブログです。




ご本人の了解も得ております。
テリィ系の方です。
例のごとく、小説の全文は、わたしは未読です。
冒頭のみ読ませていただきましたが、とても美しい文章で、素敵です。

(わたしは、エピソードの重なりや、文章などが似たり影響を受けるのを避けるため、執筆中は他所さまの二次小説は読みません。作者さまに申告済みです💦)

白鳥さまは、とても聡明な方で、引用の御願いの返信にも、金子みすゞさんの詩を引用した返信をくださいました。

みんなちがってみんないい。

素晴らしいです。

白鳥さま、引用させていただいて、ありがとうございました。


最後に、


FSにあの人が誰か明確にできる事は書いてないと、この考えを主張すると、他の考えを否定することになるので、言うのをためらっていました。わたしは、努力は無駄だと言うのは嫌いです。なので、考察は無駄だと主張したいわけではありません。それが意図ではありません。『あの人は読者に委ねられた』と言う事を、主張したいだけです。



わたしや、わたしのブログ友だちは、とある方に、
『正しく読め』『なんでわからないかな』『読解力が無い』『読み込んで無い』など、数々の暴言を吐かれ、侮蔑をされ、読み方を押し付けられて腹立たしい思いをしてきました。

読解力が無いのはどっちだよ!言いたいところでしたが…ブログ上で応酬するなど、不毛だと思い、黙っておりました。

その方は、ブログを書きたいだけ書いて、すぐ消してしまう方なのですが…。
最近、意見を変えたらしいと、ブロともさんに聞きましたが…。

今までブログ上で、自分の主張(あの人は分かりきってる)を押し付けて、人の事を馬鹿にしてきたのですから、考えを変えた(あの人は曖昧にされた)と発言を変えたなら、今までさんざん言いたい放題言ってきたことに対して、ブログ上で弁明、謝罪すべきじゃないでしょうか。

一度くらいは、反撃しようと思い、一連の考察を上げました。

本来、個人的な内容は、ブログで書くことじゃありません。書かれたのでやむなく書いています。わたしがこういう事を書くのはこれきりにしたいです。

弁明、謝罪出来ないのなら、そのまま黙っていて下さいませ。わたしたちは、ブログ上で侮蔑的発言を止めてくれれば、それで良いと思っています。



追記
わたしの考察を、絶対的に正しいから受け入れろ…とは、欠片も考えていませんよ。

『自分の考えが正しいのに理解出来ないなんて馬鹿じゃないの。』と、侮蔑するような、失礼な行為を止めて欲しいだけです。

みなさまご自分の信じたい道を信じて下さいませ。信じたい考察を信じてください。




shushu

(苦言の内容と、文章を引用させていただいた白鳥さまは、全く無関係ですので、ご迷惑お掛けしないように、よろしくお願いいたします。)















あのひとを論争するよりも…

2022-04-14 17:28:00 | あのひと考察、最終考
あのひとは、FSでは、曖昧にされた。
原作者の先生がそう言っています。

私自身も、よくよく考えてみると、テリィらしいエピソード、アルバートらしいエピソードが混ざっていると感じ、名木田先生は、2人があの人に見えるように書いたのかもしれない。いやそうにちがいない…と考えるようになりました。

ですが、名木田先生自身は、あの人を曖昧にし、明かさないと言いながらも、あの人をアルバートさんにしていると思います。

理由は、FSに書かれているエピソードだけで、2人は結ばれていると読む事が可能だからです。

糸で結ばた運命

今がわたしの幸せです。

等の部分を、曲解、読みおとしせずに
ごく普通の自然な読み方をすれば、
アルバートさんと結ばれたのだと読む事ができるのです。

一方、テリィがあの人の場合、どのようにキャンディと再会したのか、どのように心を通わせたのか、どのようにスザナの死を乗り越えたのか、具体的なエピソードが一切書かれていません。

おれは変わってないというテリィからの手紙と、スザナの死亡記事と、あとは状況のみです。
宝石箱、エイボン川のほとりの家。状況のみです。具体的やりとりが全く描かれていません。


ですので、名木田先生はあの人をアルバートさんにして捉えていると思うのです。



けれど、FSは、あの人を曖昧に描いた作品なのです。

あの人は、2人いるのです。
その、あの人を、FS考察などで争うのは不毛です

あの人は曖昧にされた。

それがあのひと考察論争の答えです。


さかんに考察合戦が行われていますが、作者は、根掘り葉掘り言葉尻を捉えて思いもよらない曲解されて、ぎょっとしてると思います。




それよりも…。



わたしは、むしろ論争するなら、

キャンディというキャラクターは、テリィとアルバートさんのどちらを選ぶのか?

という事だと思うのです。


FSのあの人は、アルバートさんだ…と、わたしは確信していますが、キャンディというキャラクターがどちらを選ぶのか?という観点からみると…、アルバートさんだ…と、即座に答えるのは難しくなります。


少女漫画は、読者は主人公に感情移入して読みます。その読者の多くが選んだのがテリィならば、あの人はテリィが正解なのか…!?と、考えたりしてしまいます。

しかし、キャンディファンの多くは、テリィやアルバートに、深く思い入れしていないでしょう。そういう、一般的なファンは、『初恋の人と結ばれるのね。良かったね!』と、構成の素晴らしさに感心して終わっていると思います。

ですが、真の問題は…。

構成や、物語の役割などの観点などからではなく、純粋にキャンディというキャラクターの精神性を考えた場合だと思います。

・キャンディは、テリィを思い続けるのか?

・アルバートさんの愛に目覚めて、心変わりをするのか?

論争すべきは、そこだと思います。


二度と会えない運命があると知った。

それでも、キャンディは、忘れない…のか!?

キャンディのたくましい性格ならば、二度と会えない運命に立ち向かうはずだ!

そう、捉えるのか!?

アルバートさんと、昔から結ばれた絆が、キャンディの心に愛の繋がりを思い出させ、膨らませて、アルバートさんと結ばれたのか!?



まあ、この論争には、答えは無いと思いますけどね…。

イメージ作品のFSに、あーだこーだ言い続けるよりも生産的な論争になると思います。

この論争によって、二次創作に使えるエピソードを考えつく事ができそうですしね…。


おれは変わってない。


あの、手紙を貰ったキャンディは、辛くなるでしょう。
両手で喜べるわけがありません。

辛い別れをしたのは何のためだったのか…と、苦しむはずです。



まあ、そんな感じで…。

キャンディは、テリィを忘れられるのか?

皆様、語ってみてはいかがでしょうか?



わたしの場合は、もちろん、キャンディはテリィを忘れられます。

忘れるというより、テリィへの恋心とは別の場所に、アルバートさんへの別の愛が花開くのです。


アルバートさんに、キャンディは懐かしさを感じるのです。幼い頃から結ばれた運命の糸で結ばれたアルバートさんへの親愛は、ゆっくりと恋と愛に姿を変えて育って行ったのです。

なんて、ロマンチックなんでしょう❤️




shushu











FSは未完のイメージ作品

2022-04-14 17:07:00 | あのひと考察、最終考
わたしは、ファイナルストーリーでは、あの人を確定することが出来ない。と、前回のブログで書きました。
その理由を書こうと思います。

それは、
キャンディキャンディのファイナルストーリーは、未完のイメージ作品だと思っているからです。

ですので、曖昧なイメージ作品では、あの人を確定することが出来ない…と思うわけなのです。


ファイナルというのは、『名木田先生がキャンディを書くのが最後』ってだけで、『キャンディキャンディというストーリーの最終稿』ではない…と、思うんです。

名木田先生は、あのひとを明確にするには、長いストーリーが必要って言ってますよね。


そして、作者は、そのその長いストーリーを、細部まで深く詰めていないだろうって、わたしは、思っているのですよ。

深く詰めずに、ファイナルストーリーは描かれたと思うんです。

だから、もしも長いストーリーを作ったら、その発表する場の文字数などのサイズによって、エピソードも変化するだろうと思います。ということは、ファイナルのエピソードの時系列も変化して、変わると思うんです。

だから、あのファイナルを、いくら読み込んでも仕方ないと思うんですよね。

どんなに読んでも、『描かれていないこと』までは読むことが出来ませんよね?

水木先生は作家で、いつもお忙しくされてますよね。
書かない予定のモノを、そんなに深く詰めて作れないと思う。

それに、どんなに細かくあらすじを作っても、実際に作品にして、書き起こして行くと、ズレが出てきたりするもんです。

(実際、アンソニーの死も、バラの死から、落馬に変更になったりしてますよね。テリィが主役を喰ってしまったりしています。)

そういう事から、ファイナルは…。

あらすじのイメージを伝えているだけの作品だとわたしは考えます。


そして、そのイメージ作品に、原作者は、テリィっぽいエピソード、アルバートさんっぽいエピソードをそれぞれ散らして入れて書いているだけだと思います。

だから、あの作品に答え(あの人はどちらなのか)は隠れていないと思います。

水木先生は、FSという作品を、2人のあのひとを想定して書いたのではないか…、と最近わたしは、そう思うようになりました。




でも、
作者は、あの人を、誰だと思って描いているのか…と、そこを絞って読んで、答えを探してみるならば…。


漫画の最終回の、その後の姿が具体的に描かれているのは、キャンディとアルバートさんです。それから、ラストの人物描写は、テリィ派も、アルバートさんっぽいと受け取りますよね。

それが答えなんじゃないかな…と、わたしは思います。

わたしは…ね。



だいたい、
テリィとキャンディの2人が、どうやってスザナの死を乗り越えるのか…。そこに水木先生はどんなエピソードを授けるのか…。ファイナルには全く片鱗も覗かせてはいません。それを具体的に書くなら、今のファイナルと、全く違う時系列になると思います。

更に、テリィとキャンディが結ばれるなら、アルバートさんとの訣別があるわけですよ。もう、全然、長いストーリーはファイナルとは別物になるでしょう。

スリムの絵のエピソードなど、使わない作品になるんじゃないかなぁ。他に書くことが多すぎて…。

ファイナルは、大人になったキャンディは、しあわせに暮らしている…ということ、あの人は、ファンがその胸に描いている人でいいんだよ…ということ。

その二点を伝える為のイメージ作品である。

それが、わたしのファイナルに対する見解です。

それ故に、『イメージ作品の考察』など、意味の無い、雲を掴むようなものにしか思えません。(もとの作品が、イメージ作品なんですから。)私にはね。


イメージ作品であるとはいえ、

キャンディの、テリィのことを思うと、熟れて今にも落ちそうな杏…という描写や、

アルバートさんがキャンディに伝える、泣いてても可愛いよ…など、

素晴らしいエピソードが満載の、ファンには堪らない一冊であることは確かです。

特に、テリィファンにとっては、原作漫画では、どうあってもあの人はアルバートさんであったので、その呪縛から解き放たれ、『テリィであってもいい』という新たな決定を下しているファイナルは、特別な意味をもつものだと思います。

ですが、決して忘れて頂きたくないことは、あの人は、テリィに限定されたわけではないと言うことです。

作者の意思を尊重し、あの人は、どちらの可能性もあるとし、もう片方の可能性を排除、否定しないで、尊重しあえれば…と思います。

FSはイメージ作品。
わたしの見解です。

shushu

あのファイナルを読み込んで見えてくるものは…。空想の答えだとしか思えません。
空の雲の形をみて、これは家でね、色は赤でと、想像を膨らませているだけにしか見えないのです。

これが、わたしにとっての真実です。他の考え方もあるのでしょうが、わたしは、このようにしか思えませんし、この考え方が正しいと思っています。

ですが、わたしは、この考え方を他所のブログにまで行って、主張したり、押し付けたりする気はありません。

ブログでは、みな自分が正しいと信じていることを書いているのです。そこに乗り込んで、自説を押し売りするのは、ブログ主への侮辱であり、乗り込んだ人間の自己を過信する傲慢さと、他人には他人の考え方があるという事が理解できない愚鈍さを表していると思います。

ちなみに、

自説の押し売りは、一般的に「荒し」と呼ばれる行為です。

荒らさないように、ネットエチケットを守りましょうね。



shushu



あのひと考察について 最終考

2022-04-14 14:55:00 | あのひと考察、最終考
最初に申し上げます。
FINAL STORYですが、作者はあのひとをを「曖昧にした」と言っています。それを受けて、わたしは、あのひとはどんなに考察を重ねても確定できないと思っています。

あのひとを確定できるのは、作者だけだと思っています。

作者は、各々のあのひとを壊したく無いと言っています。
なので、わたしもそれにならい、どちらの可能性もある…と考えています。


ですが、わたし自身は、あのひとをアルバートさんだと思っています。

わたしの中では、95%アルバートさん、5%テリィですね。

何故なら、
その方が、
・構成上も美しく、
・作品のメッセージ的にもより合致していますし、
・何よりアルバートさんというキャラクターが大好きだからです。




では、

考察に入ります。
考察と言っても、ここでは、いくつかのエピソードについて、テリィ派、アルバート派、双方の見方を比較してみます。

まず、漫画では描かれていないエピソード。

○キャンディとアルバートさんの往復書簡
漫画のその後、2人の関係性が少しずつ変わって行く様子が読み取れます。

…テリィ派には、親子関係止まりに見える
…アルバート派には恋愛関係に進んだと見える

○テリィからの手紙とスザナの死亡記事

…テリィ派には、キャンディとテリィは結ばれると思う根拠となる。

…アルバート派には、で?だから?邪魔者がいなくなったからって…ハイそうですか…ってくっつくかなぁ?と、思う。


○ラガン家のホテル開業の写真。
アルバートさんが呼ぶけれど、キャンディは端で写った。この写真は小説で描かれるキャンディの最も新しい状況を伝える。この写真が飾られた部屋に、キャンディとあの人は住んでいる。

…テリィ派は、キャンディの思い出として部屋に飾られていたのだと思う。


…アルバート派は、キャンディとあのひとをの共通の思い出として飾られていたのだと思う。(あの人がテリィなら、イライザが写っている写真は飾らないだろうとも思う。)

○エイボン川のほとりの家

…テリィ派は、エイボン川といえば、イギリス、ストラトフォードはシェイクスピアの聖地、そこでシェイクスピア劇団の仕事をしているテリィと、キャンディは一緒に住んでいるにちがいないと考える。

…アルバート派は、エイボン川はどこにでもあるし、ロックスタウンのように架空の地名かもしれないと考える。1920年代から、シカゴはマフィアが力をつけて、無法地帯になる。富豪のアルバートさんは、マフィアに命を狙われるので、国外に転居…したと考える。イギリスも十分考えられる。

※住んでいる場所だけが記載されていて、
他は読者の想像…妄想なんです。




○代々伝わる象嵌細工の宝石箱

…テリィ派は、代々伝わるというのが、貴族のテリィっぽいと考える。

…アルバート派は、アードレー家も代々続く家柄、それくらいあるだろう。と、思う。それから、テリィは貴族の跡取りではないから、代々続くモノを受け継げないだろうと考える。




○腕を広げて迎えるあの人「明かりもつけずに、どうしたんだい?」

…テリィ派は、アルバートさんっぽいけどテリィも腕を広げるくらいするだろう。どうしたんだい?って言うだろう。と、思う。

…アルバート派は、アルバートさんのイメージそのまま!やっぱりあのひとはアルバートさん!と思う。




どちらが、ミスリードを誘う文章なのか!?



●テリィっぽい地名、テリィっぽいアイテム


●アルバートさんっぽいしぐさ、言葉じり。


これはもう、作者が明かさなければ答えは分からないと思います。


ただ、わたしは、

やはり、
キャンディキャンディという作品は…、
ポニーの丘で出会った王子さまのバッジを拾い。
「泣いてる顔より笑った顔の方が可愛いよ。」
この言葉を励みに生きてきた女の子のお話なので…、

その女の子が成長し、その王子さま自身と奇跡的な出会いを繰り返し関係を深め、結ばれる。

という方が、お話の起承転結が美しく、完璧な構成で、ストーリーの完成度が高くなります。

ですので、キャンディキャンディというストーリーは、あのひとはアルバートさんの方が良いと思うのです。


テリィがあの人では、丘の上の王子さまのエピソードは、活きません。アルバートさんは、キャンディに気持ちを告げずに自分が丘の上の王子さまと申し出る事もしないのではないでしょうか?

元々、連載が短ければ、テリィというキャラクターは登場しない予定だった。テリィは予定外のキャラクターだったというのも、あの人はアルバートさんだ、という根拠です。



…ですが、構成上の美しさなど関係無い、キャラクターとして、テリィと、キャンディというカップルは結ばれるべきふたりなのだ!と、言われれば…。激しく求め合う2人が結ばれて終わる…というお話も有りだよな…と、思います。

物語の構成としてみると、破綻していて不恰好ですが…。このカップルが好きなら、いいんじゃないでしょうか?構成なんて、そんなこと、どうだって…。



そうして、最終的に思う事があります。


それは…、
本当は、キャンディキャンディというストーリーのキモは、穏やかな愛が育まれるところだったんじゃないかと思うのです。

7巻からですね。

アルバートさんがキャンディの勤める病院に運ばれて来たところから!

守られいたキャンディが、守る立場になる!

そして、アルバートが回復していくに連れて…。
キャンディが、アルバートに惹かれて行く。

深い愛に、気がつき、目覚めていく。

こここが!
ここが!作品の肝だったのではないかと思うんですよ。

そして、最後の、風来坊のアルバートさんが大おじさまだと種明かしされるところ!
これが素晴らしい見せ場だったはずなんです!

すべて、駆け足描写で…、アルバートファンとしては、残念です。


そうして、最大の見せ場は、
丘の王子さまの正体が明かされるシーン!!!!!

そのシーンは本当は

アルバートの大きな見守る愛に気がついて、キャンディの中にも、アルバートへの揺るぎない穏やかな愛が育っている事にを自覚している、その状態で、丘の上の王子さまだった!と種明かしされているのがベストだったのです!

そういうシーンだったはずなんです!


なので!


だから!
FSでは、丘の上の王子さまとタネ明かしするシーンが、漫画とは違って、変えられていたのだと思います。

FSで、丘の上の王子様とタネ明かしのシーンが変更されていたのは、「キャンディの中にもアルバートさんへの気持ちが恋に変化した状態で、打ち明けるシーンにしたから」だとおもいます。(「FSの往復書簡でキャンディの心が恋へ変化が描かれた。」とアルバート派のわたしにはそう読めますんで。)

このシーンの時期の変更をしたということは、名木田先生が、キャンディとアルバートさんの恋愛をきちんと描く意思をお持ちなんだ…。キャンディとアルバートというカップルも名木田先生は愛して下さっているんだ…。と、推定する根拠でもあります。





結論として…。

作者はあのひとを明かすつもりは無いとしています。

ですので、わたしは、それぞれの胸のあのひとを大切に、思い描けば良いと思っています。


最後になりましたが、


わたしは、あのひと考察が好きではありません。何故なら、あのひと考察は、あのひとを確定することによって、それ以外の結末を排除するために行われる事が多いように見受けられるからです。

「最終的に作者はあのひとを○○に決めたから、それ以外はあり得ない、考えないでね…。」と、言いたいが為に考察を行うように感じられるのです。それは、作者の意図を無にしている事になりませんか?

それぞれのあのひとを、互いに大切に出来たら良いと思いませんか?

…もちろん、あの人は○○だ!と、主張するのは自由ですし、熱く語るのを止めろと無粋な事は言いません。

多いに、熱く、熱く、
キャンディキャンディのあの人を語って頂きたいと思います!

ですが…。

5%くらいは…。まあ、それもありなんじゃない?と、ほんのちょっと譲り合えたら、キャンディキャンディファン全体で、なごやかにこの作品を楽しめるのではないかと思います。


最低限、

あの人は○○で××じゃないから!と、××ファンに合意を強要することは、止めていただきたいですね。
失礼ですよ。


ご一考、いただければ幸いです。


それから…。

よく、FINAL STORYで作者はあの人をテリィに変えたとの意見を見かけますが…。
その時に思い浮かぶのが、ある作品です。

映画、マイ・フェア・レディの原作、バーナード・ショーのピグマリオンという作品では、主人公のイライザとヒギンス教授は、恋仲にはならなかった。だけど、原作から映画にしたマイ・フェア・レディという作品のラストシーンは、教授とイライザは恋仲を予感させて終わっているのだそうです。
もとは、このピグマリオンという作品は人気のお芝居だったんだそうです。観客らは、2人が恋愛関係になることを望みました。映画にする際に、監督がそれを望み、原作者も了承したそうです。

そんな風に、名木田先生も長年テリィとキャンディの愛の復活を望む読者に応えた※1のかもしれない…とは、一瞬、思ったりします。

「生きていても、二度と会えない」そんな辛い運命から、2人を解放したいと思ったかもしれない。キャンディとテリィを愛する沢山のファンの為に…。


…。

でもね…。 やっぱり、丘の上の王子さまてしょ!?

沢山のテリィファンの為に、スザナに死んで貰って、想像の余地を与えただけ※2じゃないかなー。と、いうのがわたしの見解です。


…どちら(※1か※2か)が名木田先生の真意か?
謎ですね。

言えることは…、

名木田先生は、

『それぞれのあのひとを壊したくない。』

そう、おっしゃって下さったのです。




それぞれの胸のあのひとを、大切にしましょう。


以上。

あの人考察でした。



FSは、本当に正確に読めば、2人のあのひとが見えてきます。

その人の希望の結果になるように都合の悪い箇所は読み落とし、拡大解釈、曲解を繰り返していることに気がつかない人もおりますが、それはそれで、その人にとっての真実なのでしょう。


shushu

それに…。
FINAL STORYは、わたし的には、決定的な最終稿じゃないと思ってます。
次の記事に書きます。