「良兼との戦い・承平六年(936)6月」
=叔父・良兼、兵を発し、上総から水守営所に着く。
●「反将門の軍兵が結集」(『将門記』より)
《しかし、会稽の恥をすすぐ思いが深いため、まだ敵対心を発する。そのため兵力不足の由を記して長兄・下総介良兼に文書を奉った。その文書には「雷電が響きを起こすのは、風雨の助けによるものであり、おおとりが雲をしのいで飛ぶのは、その羽の力によるものです。願わくば協力を仰いで、将門の乱悪を鎮めましょう。そうすれば国内の騒ぎは自ずから鎮まり、上下の動きも必ず鎮まるでしょう」とあった。下総介良兼は口を開いて、「昔の悪王も父を殺害する罪を犯したのだ。今の状況で、どうして甥の将門を強くするような過ちを我慢できようか。弟の言うことはもっともだ。その理由は、姻戚の護の掾に近年愁えることがあったからだ。いやしくも良兼はその姻戚の長である。どうして力を与える心がなかろうか。早く武器を整え、密かに待つべきだ」と言った。良正は龍が水を得たように心が励まされ、前漢の武将・李陵のように戦意を燃やす。これを聞いて、先の(川曲村の)合戦で射られた者は、傷を治してやってきたし、その戦で逃れた者は、楯を繕って集まった。こうしているうちに、下総介良兼は兵を整えて陣を張り、承平6年6月26日をもって、常陸国を指して雲のように兵が集まってきた。上総・下総は禁圧を加えたけれども、親戚を訪ねるのだと称して集まる者が多く、あちこちの関所を通らず、上総国武射郡の小道から、下総国香取郡の神崎にたどり着いた。その渡しから常陸国信太郡[艸+奇]前(えさき)津に着き、その翌日の早朝、同国水守(みもり)の営所に着いた。》
【平良兼】
平高望の子。承平元年(931)以来、弟良持の子・平将門と対立、同五年兄平国香と前常陸大掾源護が将門に敗れ、次いで弟良正も敗れたのち、同六~七年下野・下総・常陸で戦い、石井営所を襲撃するが敗走。当時従五位下下総介。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E5%85%BC
【平良兼館跡】千葉県横芝光町屋形
平良兼の館は千葉県横芝光町にありましたが、現在は遺跡がありません。横芝光町には、館跡に地名もそのまま屋形があります。屋形地区の最も北側近く、栗山川に近いところに四所神社がありますが、ここが屋形の伝承地といわれているところです。由緒ある神社で、神社の周囲には低い土塁がありますが、館跡の遺構なのかどうかはわかりません。なお良兼は、将門の父・良持の死後、印旛沼以東の下総国を制覇して下総介となり、兄・国香の居た石田の隣、真壁郡羽鳥に荘園を持ち、館も持っていました。
「真壁町の平良兼館跡」
http://www.ushiq.net/~ushiq/castle/kennan/main051.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~dg8h-nsym/tairanoyosikane-tate.html
/取材:源六郎/平将門関連書籍/将門奉賛会/
=叔父・良兼、兵を発し、上総から水守営所に着く。
●「反将門の軍兵が結集」(『将門記』より)
《しかし、会稽の恥をすすぐ思いが深いため、まだ敵対心を発する。そのため兵力不足の由を記して長兄・下総介良兼に文書を奉った。その文書には「雷電が響きを起こすのは、風雨の助けによるものであり、おおとりが雲をしのいで飛ぶのは、その羽の力によるものです。願わくば協力を仰いで、将門の乱悪を鎮めましょう。そうすれば国内の騒ぎは自ずから鎮まり、上下の動きも必ず鎮まるでしょう」とあった。下総介良兼は口を開いて、「昔の悪王も父を殺害する罪を犯したのだ。今の状況で、どうして甥の将門を強くするような過ちを我慢できようか。弟の言うことはもっともだ。その理由は、姻戚の護の掾に近年愁えることがあったからだ。いやしくも良兼はその姻戚の長である。どうして力を与える心がなかろうか。早く武器を整え、密かに待つべきだ」と言った。良正は龍が水を得たように心が励まされ、前漢の武将・李陵のように戦意を燃やす。これを聞いて、先の(川曲村の)合戦で射られた者は、傷を治してやってきたし、その戦で逃れた者は、楯を繕って集まった。こうしているうちに、下総介良兼は兵を整えて陣を張り、承平6年6月26日をもって、常陸国を指して雲のように兵が集まってきた。上総・下総は禁圧を加えたけれども、親戚を訪ねるのだと称して集まる者が多く、あちこちの関所を通らず、上総国武射郡の小道から、下総国香取郡の神崎にたどり着いた。その渡しから常陸国信太郡[艸+奇]前(えさき)津に着き、その翌日の早朝、同国水守(みもり)の営所に着いた。》
【平良兼】
平高望の子。承平元年(931)以来、弟良持の子・平将門と対立、同五年兄平国香と前常陸大掾源護が将門に敗れ、次いで弟良正も敗れたのち、同六~七年下野・下総・常陸で戦い、石井営所を襲撃するが敗走。当時従五位下下総介。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E5%85%BC
【平良兼館跡】千葉県横芝光町屋形
平良兼の館は千葉県横芝光町にありましたが、現在は遺跡がありません。横芝光町には、館跡に地名もそのまま屋形があります。屋形地区の最も北側近く、栗山川に近いところに四所神社がありますが、ここが屋形の伝承地といわれているところです。由緒ある神社で、神社の周囲には低い土塁がありますが、館跡の遺構なのかどうかはわかりません。なお良兼は、将門の父・良持の死後、印旛沼以東の下総国を制覇して下総介となり、兄・国香の居た石田の隣、真壁郡羽鳥に荘園を持ち、館も持っていました。
「真壁町の平良兼館跡」
http://www.ushiq.net/~ushiq/castle/kennan/main051.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~dg8h-nsym/tairanoyosikane-tate.html
/取材:源六郎/平将門関連書籍/将門奉賛会/
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