将門ブログ

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54「七人の影武者伝説」

2008年02月23日 | 将門の乱
今回は「七人の影武者伝説」の話です。

○「影武者伝説と妙見信仰」
平将門にも七人の影武者がいた、という伝承があります。室町時代に書かれた『俵藤太物語』では「将門と全く同じ姿の者が六人いた」といわれており、同じ時期に書かれた『師門物語』では「同じ姿の武者が八騎いた」とあります。茨城県や山梨県などで、実際に七人の影武者伝承の残る寺や山があります。この七人の影武者伝説の背後には、「妙見信仰」があると考えられます。妙見信仰とは、北斗七星・北極星を神格化した妙見菩薩を祀る信仰です。また、北極星は天の中心に位置するいわば天子の星と見られており、この星に陰りや異変が起きると天子に災いがあると見なされ、それが転じて国土安穏のため信仰されていました。平安時代に怨霊思想が広がるとともに、この妙見の修法が盛んに行われ、中世になると千葉氏・相馬氏がこの妙見菩薩を信仰していました。この千葉氏・相馬氏こそが平家一門であり、始祖を将門としているのです。
『源平闘諍録』によると蚕飼河(小飼の渡し)の合戦において河を渡る際、子童が現れ将門を助けました。さらに豊田郡においては弓矢が尽きた時、この子童が再び現れ、落ちた矢を拾い集め将門に与え、自らも矢を放ち応戦しています。将門を追い詰めていた良兼は「只事にあらず、天の御計なり」と恐れ、撤退しました。将門は勝利を得、この子童の前に跪くと「吾は妙見大菩薩である。汝は正直武剛であるので加護を与えた」と言ったといいます。さらに、「上野花園寺から速やかに吾を祀れ」と告げたので、将門はその後、妙見大菩薩を崇敬しました。ところが将門は親王を名乗り、政務を曲げ神慮を恐れなくなったため、将門の元を離れ叔父でありながら将門の養子となった良文に移り、以降子孫である「千葉氏」が代々相伝したといいます。『将門記』では子飼の渡しでも豊田郡でも将門は敗北しているので、歴史的には正しくないのかもしれませんが、将門と妙見の関連を明確にするエピソードだといえます。また、相馬氏も将門の「直系」を称していますが、こちらにも妙見信仰の伝承が残っています。相馬氏は千葉氏と異なり、将門から妙見大菩薩が離れたという伝承がありません。将門の直系の自分達が代々自家に妙見大菩薩を祀っていることを強調した形になっています。将門の子孫を名乗る千葉・相馬の両一族が信仰していた以上、将門自身も妙見信仰に携わっていたと思われますが、残念ながら歴史上の資料を見出すことができません。いずれにせよこの北斗七星・北極星信仰が、将門の影武者を七人とし、中心に位置付く将門を北極星になぞらえたのだろうと思えます。

七人の「影武者伝説」の中でも有名なのが、千葉県千葉市中央区亥鼻台の千葉大学医学部構内に残る「七天王塚」(牛頭天王が祀られている)で、「将門に助力した興世王、藤原玄茂、藤原玄明、多治経明、坂上遂高、平将頼、平将武とする説、弟六人説などがある。」(村上『同上』)しかし、2002年の発掘調査により、「七天王塚」の中央から古墳時代後期と見られる前方後円墳が見つかり、「七天王塚」は中央の古墳を守護する意味をもつ陪墳ではないかという説が浮上してきました。
http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/tiba.html

○ 「桔梗忌避伝説」
さて、七人の影武者伝説の中でどうやって将門を倒したのかを調べてみました。『俵藤太物語』によると、将門の影武者は本体と違い日に向かうと影が無いといい、この影武者というのはどうやら人間では無いようです。この秘密を将門の女房である「小宰相」が、秀郷に教えてしまいます。また、将門の弱点は「こめかみ」であることも教え、秀郷は首尾よく将門のこめかみを射て、滅ぼすことに成功します。小宰相の伝承も各地に残っていますが、福島・関東地方では、この弱点を教える将門の女房の名が「桔梗」となって数多く伝わっています。この桔梗伝説では、秀郷に内通して将門に弱点を教えるのは一緒ですが、将門は裏切られたことを知り「桔梗咲くな」との呪いの言葉をはいています。以来、この地(将門が滅んだという伝承の残る地)には桔梗の花が咲かないのだといいます。前述の「成田山忌避」と同様、花だけにとどまらず模様のついた品物に至るまで「桔梗忌避」する伝承に発展しています。地方によって枝葉末節が様々に異なる伝説が残っていますが、面白い物をいくつか紹介すると、「桔梗」は秀郷の妹であるという千葉県市原市。これなら将門の弱点を秀郷に伝えた理由もわかります。また埼玉県城峰山には秀郷の紋所が「桔梗」だったと伝えていますが、これは史実と異なります。

『将門記』では「小宰相」も「桔梗」の名も出ておらず、あくまで伝承のものなのでしょうが、なぜ「桔梗」の名が使われるようになったのでしょう。「桔梗」が「卑怯」に繋がるという説をあげておられる方もいます。この桔梗伝承が、七人の影武者伝承に付随して生まれたことは明らかです。とすれば、「桔梗」という花の名が使われた理由は妙見信仰となんらかの関わりがあると考えられます。一つに考えられているのは、桔梗の形が「星」を象徴しているためだというもの。もう一つは、妙見信仰と関わりの深い密教・道教等を民間信仰に取り込んでいた山伏の影です。山伏達は古くから独自の医薬技術を持っていたのですが、この将門伝説の本拠地でもある常陸・下総・武蔵は咳・痰・熱の薬として効能の高い「桔梗の根」の産地として有名で、このことは『延喜式』「諸国進年料雑薬の条」に記載されています。飢饉の時には「桔梗の根」は非常食としても利用されていました。いずれにせよ、根は太い方が良いわけですが、太い根を取るためには、花を咲く前に摘んでしまえば良いといいます。桔梗伝説にある「桔梗咲くな」の言葉の背景には、これがあるように思われます。全く花をつけていない桔梗の姿は、傍目で見れば無気味であることから想像されたのではないでしょうか。江戸時代に、上等な薬用の桔梗の事を「相馬」と呼んでいたのですが、相馬一族の妙見信仰が背後にあると考えるのは考えすぎでしょうか。

「取手市の桔梗塚」
http://homepage3.nifty.com/jyoso/zyousou/kikyoutuka.htm

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/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


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