将門ブログ

このブログは、歴史上の人物『平将門』公を探求する、ポータルサイトです。

筑西市5(茨城県)

2007年08月29日 | 縁地探訪(茨城県)
昨年、筑西市(旧下館市、旧協和町)の将門伝説を訪ねてみました。

【上館・中館・下館】旧下館市樋口ほか
藤原秀郷が将門との戦いに際して、下館台地に三つの館(上館・中館・下館)を築き、根拠地としたといわれています。しかし、秀郷が築城(館)したのではなく、実際はそこにあるものを短期間利用しただけではないかといわれています。
「上館(久下田城)」旧下館市樋口
http://yogokun.hp.infoseek.co.jp/kugeta.htm
「中館(伊左城)」旧下館市中館
奥州伊達氏の発祥の地。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/6650/simodate.htm
「下館(下館城、城山八幡神社)」旧下館市本町
現在の下館小学校が本丸にあたり、その北にある城山八幡神社に「下館城址」の石碑と説明板があります。下館城は別名・法螺貝城といいます。
http://yogokun.hp.infoseek.co.jp/simodatej.htm

【田中稲荷神社】旧下館市田町
下館小学校から南100m、国道50号線沿いに小さな社殿あります。将門が上総、下総を討ち取り、平良文と戦うためにここ田中村に駐屯しました。ある夜、夢の中に稲魂姫命が現れ、将門の反逆を責めて改心しなければ家を滅ぼすと告げました。将門は大いに悩み、近臣と諮ってこの社を修復したといわれています。

【金井薬師堂】旧下館市金井町
大橋のたもとにある三峰神社の左側に、薬師如来を祀った小さな薬師堂があります。この御堂に、藤原秀郷が金銅の十二神将を奉納したと伝えられています。ただし、実際には平貞盛が奉納したのだといわれています。

【横島三仏堂】旧下館市横島町
旧下館市街地の北東、小貝川に近いところ、常盤橋のふもとが横島集落です。この集落の、北西方の田んぼの中の墓地内に「三仏堂」があります。手前に横島児童会館(公民館)。将門が、阿弥陀如来、勝軍地蔵尊、先手観音の三体を牛車に乗せてここまで来たとき、牛が倒れてしまった。そこで、三体の仏像を安置したのが、この三仏堂だといわれています。この三体の仏像は、いづれも将門の守り本尊だと伝えられています。ただし、大正中頃、床下に住み着いたホームレスにより出火して、三仏堂、三体の仏像ともに焼失してしまいました。
このとき、将門にまつわるものとして、
「牛ヶ淵」牛車を牽かしてきた牛を小貝川で洗ったところ。
「牛塚」牛を葬ったところ。
「車塚」仏像を乗せた牛車を埋めて塚を築いたところ。
「花御堂」三仏堂に供えた花を埋めたところに建てた御堂。
などがあるといわれていますが、どれも確認することはできませんでした。

【横塚の地】旧協和町横塚
横島から小貝川の「常盤橋」を渡ると、横塚の地です。この地は、藤原秀郷が大国玉(旧大和村)の将門を攻めたさいに、その兵具を収蔵して塚(予具塚)のように築いたところだとされていて、この名が付いたといいます。

【平国香討死の地】旧下館市西石田
平国香が大掾館に車でやってきて、この地で討ち死にしたと伝えられています。

【女館】旧下館市女方(おざかた)
この地の女方にある「女館」に、桔梗の前が住んでいた。藤原秀郷の妾であったが、将門の秘密を探るため将門の居館に遣わされた。そうして、将門の弱点であるこめかみを教えて将門は滅んだという。女館があったのは、現在の羽黒神社(入口に児童会館)のあるあたりではないかと思われます。場所未確認。このため、この辺りでは「不咲桔梗伝説」が伝わっています。
「下館市の民話伝説・女の館」
http://furusatotabi.com/story1/ibarakist00.htm#下館市
↑この中で次の「北向き地蔵」は、羽黒神社から南300mのところ、道路沿い(船玉交差点の手前)にあります。
《伊達の祖先の地を参詣し持病で倒れた奥州からの旅人を供養するため、仙台のある方を向いて建つ地蔵の話》

【池羽一族】旧下館市女方
この地の池羽一族の祖先は、常羽御厩別当を務めた多冶経明であって将門に属していた。将門の乱ののち、現八千代町栗山からこの地に移り常羽を名乗りのちに池羽に改めたといわれています。
「多冶経明居館跡」
http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/shinou2.htm

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/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


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