2006年10月、群馬県多野郡にある神流町(旧中里村)と上野村に「将門落人伝説」を訪ねてみました。この地に入るには、JR高崎線新町駅前から上野村行きの日本中央バスを利用します。
* バス時刻表は、ネットで「日本中央バス」を検索すれば「奥多野線」にあります。
【駿河大明神】神流町神ヶ原字間物
上野村行きのバスで「古鉄橋」下車。橋を渡り国道299号を間物集落、志賀坂峠方面へと向かいます。途中、瀬林の「蓮痕さざなみの岩(恐竜の足跡化石)」を見て、まもなく間物集落に着きます。集落の入り口に、「駿河大明神」の小さな祠があり説明板があります。これによると、将門の妾・駿河姫(御前)が石間(城峰山)城の陥落後、将門が関東平定を祈った叶山丸岩へ祈願しようと、下僕を従え志賀坂峠を越え、この地・間物に逃れてきました。姫と下僕二人は、落人生活をするうち互いに慰め合い身分の許されない関係に陥ります。下僕は恐れ多いということで、局所に蕗の葉をあてがってするまねをしましたが、ついに本当になってしまいました。自責の念に駆られ二人は自害、村人は二人をこの社に祀り、二人が互いに慰め合ったということで須流真似(するまね=洒落か)大明神を建てて、御前を偲んで立派な男根を祀るようになったと伝えられています。こんなことから、この地の蕗の葉はどれも穴が開いているといいます。
また、間物集落ではぬるでの木で男根の形を作り、「おんまらさま」と呼んで注連縄の真ん中に吊るす習慣があります。さらに気がついたのですが、この間物集落には強矢(すねや)姓が多いのは、将門落人伝説となにか関係があるように思われますが、如何でしょうか。
*ネットで「間物の御神体祭」または「おんまらさま」で検索すると、間物集落での伝習が分かります。また、「間物伝説」で検索すると、島内景二氏の長編小説(駿河の前と下僕との物語)を読むことができます。
次に、昔の峠道を上野村まで歩いてみました。歩いたコースは、間物集落→オバンドウ(オバンド)峠→明家集落(廃村)→烏頭沢林道終点(烏頭沢)→野栗峠→野栗神社・野栗集落。このコースは昔から上野村←→秩父へ往来する要路であり、将門の落人たちが歩いたコースと思われます。このコースの途中、烏頭沢林道終点→野栗峠は完全に廃道になっており、山慣れた人でないと歩くことはできないのでお勧めできません。
*ネットで「オバンドウ峠」または「野栗峠」で検索すると、数件のツーリング記録を見ることができます。
【野栗神社】上野村新羽字野栗
野栗峠から林道を下っていくと、野栗集落の手前に「野栗神社」があります。多野郡の奥地・神流(かんな)川流域に、野栗神社が多く分布しています。この野栗神社には将門の弟・平将平の御子を祀り、駿河明神には将平の奥方(または将門の妾)の駿河御前を祀る、と伝えられています。
【神流川】多野郡
将門が石間(城峰山)に潜伏中、その一丈余の髪の毛がこの川に流れ、追っ手の秀郷に所在を知られて滅ぼされることとなった。このように、一名「髪流れ川」ともいわれた伝説があります。今でも秘境で、徳川中期に上流から椀が流れてきたことから初めて知られたもあったという。将門の恨みで、この一帯には秀郷の紋所である桔梗が一本も生えないと伝えられています。秀郷の紋所と桔梗の関係はこの地方だけのようです。
さらに、神流町・上野村周辺を調べてみますと、次のような伝説などがあります。
【乙父の相馬家】上野村乙父
この家は将門の後裔で、家紋は将門の紋・九曜です。この地に逃れたとき、門松としてツガマツを飾り、以後、その風習を続けているといいます。
【楢原の黒沢家】上野村楢原
将門の流れを継ぎ相馬と名乗っていましたが、弘治二年(1556)、黒沢に改めたといいます。楢原集落には、旧黒沢家住宅が残されています。
【杖植峠(おそう峠)の伝説】神流町持倉
将門に寺を焼き討ちにされて逃れた僧の一団が、奥多野の万場の山奥へ分け入り杖植(つえたて)峠を越えようとしました。飢えと寒さの中、やっと山陰に人家を見つけ一夜の宿を乞うたところ、大勢を泊めることはできないと断られ、しかたなく山道を登っていきました。やがて春となった峠道に、その僧たちが赤い石と化して転がっているのが発見されました。そしてこの峠を「おそう(和尚)峠」と呼んだ、と伝えられています。(『奥多野残照』に掲載された伝説より)

/取材:源六郎/平将門関連書籍/将門奉賛会/
* バス時刻表は、ネットで「日本中央バス」を検索すれば「奥多野線」にあります。
【駿河大明神】神流町神ヶ原字間物
上野村行きのバスで「古鉄橋」下車。橋を渡り国道299号を間物集落、志賀坂峠方面へと向かいます。途中、瀬林の「蓮痕さざなみの岩(恐竜の足跡化石)」を見て、まもなく間物集落に着きます。集落の入り口に、「駿河大明神」の小さな祠があり説明板があります。これによると、将門の妾・駿河姫(御前)が石間(城峰山)城の陥落後、将門が関東平定を祈った叶山丸岩へ祈願しようと、下僕を従え志賀坂峠を越え、この地・間物に逃れてきました。姫と下僕二人は、落人生活をするうち互いに慰め合い身分の許されない関係に陥ります。下僕は恐れ多いということで、局所に蕗の葉をあてがってするまねをしましたが、ついに本当になってしまいました。自責の念に駆られ二人は自害、村人は二人をこの社に祀り、二人が互いに慰め合ったということで須流真似(するまね=洒落か)大明神を建てて、御前を偲んで立派な男根を祀るようになったと伝えられています。こんなことから、この地の蕗の葉はどれも穴が開いているといいます。
また、間物集落ではぬるでの木で男根の形を作り、「おんまらさま」と呼んで注連縄の真ん中に吊るす習慣があります。さらに気がついたのですが、この間物集落には強矢(すねや)姓が多いのは、将門落人伝説となにか関係があるように思われますが、如何でしょうか。
*ネットで「間物の御神体祭」または「おんまらさま」で検索すると、間物集落での伝習が分かります。また、「間物伝説」で検索すると、島内景二氏の長編小説(駿河の前と下僕との物語)を読むことができます。
次に、昔の峠道を上野村まで歩いてみました。歩いたコースは、間物集落→オバンドウ(オバンド)峠→明家集落(廃村)→烏頭沢林道終点(烏頭沢)→野栗峠→野栗神社・野栗集落。このコースは昔から上野村←→秩父へ往来する要路であり、将門の落人たちが歩いたコースと思われます。このコースの途中、烏頭沢林道終点→野栗峠は完全に廃道になっており、山慣れた人でないと歩くことはできないのでお勧めできません。
*ネットで「オバンドウ峠」または「野栗峠」で検索すると、数件のツーリング記録を見ることができます。
【野栗神社】上野村新羽字野栗
野栗峠から林道を下っていくと、野栗集落の手前に「野栗神社」があります。多野郡の奥地・神流(かんな)川流域に、野栗神社が多く分布しています。この野栗神社には将門の弟・平将平の御子を祀り、駿河明神には将平の奥方(または将門の妾)の駿河御前を祀る、と伝えられています。
【神流川】多野郡
将門が石間(城峰山)に潜伏中、その一丈余の髪の毛がこの川に流れ、追っ手の秀郷に所在を知られて滅ぼされることとなった。このように、一名「髪流れ川」ともいわれた伝説があります。今でも秘境で、徳川中期に上流から椀が流れてきたことから初めて知られたもあったという。将門の恨みで、この一帯には秀郷の紋所である桔梗が一本も生えないと伝えられています。秀郷の紋所と桔梗の関係はこの地方だけのようです。
さらに、神流町・上野村周辺を調べてみますと、次のような伝説などがあります。
【乙父の相馬家】上野村乙父
この家は将門の後裔で、家紋は将門の紋・九曜です。この地に逃れたとき、門松としてツガマツを飾り、以後、その風習を続けているといいます。
【楢原の黒沢家】上野村楢原
将門の流れを継ぎ相馬と名乗っていましたが、弘治二年(1556)、黒沢に改めたといいます。楢原集落には、旧黒沢家住宅が残されています。
【杖植峠(おそう峠)の伝説】神流町持倉
将門に寺を焼き討ちにされて逃れた僧の一団が、奥多野の万場の山奥へ分け入り杖植(つえたて)峠を越えようとしました。飢えと寒さの中、やっと山陰に人家を見つけ一夜の宿を乞うたところ、大勢を泊めることはできないと断られ、しかたなく山道を登っていきました。やがて春となった峠道に、その僧たちが赤い石と化して転がっているのが発見されました。そしてこの峠を「おそう(和尚)峠」と呼んだ、と伝えられています。(『奥多野残照』に掲載された伝説より)

/取材:源六郎/平将門関連書籍/将門奉賛会/
はじめまして。
上野村の野栗神社が本尊であちらこちらにある野栗神社は大葦原四郎将平こと平将平氏の御子を祀っているのですか?皆野の円福寺と城峰神社には行きましたが祀られてる神社もあるのですね?
ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/e0011938_16494167[1].jpg
といった惨憺たる虐殺死体と化した
一方、救助に奔走したのは米国のみであった
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/e0011938_16494167[1].jpg
といった惨憺たる虐殺死体と化した
一方、救助に奔走したのは米国のみであった
なお、米国機関で改めて調査を行ったところ、生存者の一部は、伊豆の達磨山の地下にヘリで連れていかれ、少なくとも十数年は生存していたことが新たに判明した
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/e0011938_16494167[1].jpg
といった惨憺たる虐殺死体と化した
一方、救助に奔走したのは米国のみであった
なお、米国機関で改めて調査を行ったところ、御巣鷹での救助に行って日露勢力に撃墜された米軍機は乙女湖に沈められていることが新たに分かった。
また、藤岡の遺体安置所では、都合の悪い遺体が選別されてから棺桶に入れる作業を行っていて、なんなんだおかしいぞといった意義を唱えると殺害されるという状況にあり、殺された担当者や地元住民は藤岡公民館に埋設されていることも新たに分かった