将門ブログ

このブログは、歴史上の人物『平将門』公を探求する、ポータルサイトです。

八王子市(東京都)

2006年11月21日 | 縁地探訪(東京都)
今年五月、八王子市内の将門伝説を訪ねてみました。

【八幡八雲神社(横山党館跡)】八王子市横山町
JR八王子駅の北西400m。往古より「多摩の横山」は名馬の産地として世に名を知られており、平安の時代には陽成天皇の私牧(御料牧場)として発達し、延長二年(924)、武蔵守小野隆泰が横山の地へ石清水八幡宮(現在の八幡八雲神社)をまつり、天慶二年(939)、将門の乱の翌年に勅使牧(国営牧場)となった「横山の牧」に武蔵権之守に任ぜられた小野義孝は小野姓を横山氏に改め、八幡宮を中心に祭政一致を行いここに定住しました。この横山氏が武蔵七党の一つである横山党の始祖であり、日本における「横山姓」の始まりです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%85%AB%E9%9B%B2%E7%A5%9E%E7%A4%BE
http://joe.ifdef.jp/tokyo/043yokoyama.htm

【将門明神】八王子市上恩方
京王八王子駅またはJR八王子駅北口から陣場高原下行きバスで「力石」下車。バス停の先の駐在所の横の道に入る。正面の山麓の畑の上部に将門明神があり、左の草木家の墓地の前の草深い道を登ります。この社は、この地の旧家「草木家」の氏神で、将門を祀り「まさかさま」と呼ばれています。社殿の扉に鍵はなく、開けてみると小さな祠と破れた太鼓がありました。ここの御神体は、頭部三寸、長さ九寸ほどの石棒(男根)で、俗に「将門のちんぼう」といわれているとのこと。さすがに、祠の中まで開けて覗いてみることはできませんでした。
「江戸を歩く(番外編)将門明神」
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/~amon/edo1.html

【草木家】八王子市上恩方
朱雀帝の時代、将門が兵を下総に起こしたとき、草木兵部はその招集に応じてはせ参じようとしたが、その戦いに名分がないと知り、この地に退いて住むことになった。その折の鎧と鞍を伝えていたといいます。ただし、草木家に伝えられた文書によると、将門の家臣と伝えられた草木兵部は、実は戦国時代の武将で、祖先が将門の臣、藤原玄茂であったことが分かるといいます。

この先、上恩方町関場には「夕焼け小焼けふれあいの里」があり、さらに宮尾神社の境内には、「夕焼け小焼けの歌碑」があります。
http://www.hachioji-kankokyokai.or.jp/yuyake/yuyakekoyake.htm
http://homepage2.nifty.com/nendo/yuyake/yuyake.htm

【醍醐丸伝説】八王子市上恩方
陣馬街道は、案下川に沿って和田峠、陣馬高原に至ります。醍醐川は狭い渓流で、醍醐という名は今から1000年以上さかのぼり、関東地域を治めた平将門がつけたものといわれています。将門は、東の天皇といわれるまでになったが、やがて西の朝廷に反逆児とされ、恩方の里まで追われる身となった。将門は戦いの傷を癒すためこの地に留まったが、看病をしてくれた地元(草木家)の娘との間にかわいい男の子が生まれた。男の子は「醍醐丸」と名付けられ、すくすくと育った。三年後将門は朝廷軍に追われて、その生涯を閉じてしまう。その後、母子も追われてこの地で短い生涯を終えることとなる。里のものはこの悲しい親子の死を悼んで恩方の峯を「醍醐丸」、ここを流れる川を「醍醐川」と名付けたといいます。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/ttok_016.htm
「三国峠サイクリング記録」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/sangoku-touge.html
「醍醐丸山行記録」
http://koguma-g.org/repo04/daigo.html

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/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


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1 コメント

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Unknown (玄茂が子孫)
2024-09-10 20:15:49
だいぶお間違いがございます。家臣の子孫であり名は万徳丸ではないでしょうか?
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