
さて、いよいよ歳の瀬も押し迫ってまいりましたが、皆さまいかがお過ごしでありましょうか。本年を締めくくるにあたりまして、年末にふさわしい『歴史超大作ロマン』な話しをしてみましょうか。また真日本再生コミュ(ミクシィ)に投稿した内容で、将門公の話しが中心なのですけれども、途中から聖徳太子意識に切り替わります。お楽しみください・・。
************************************
うーむ、私は【関東】と聞くと、すぐさま【関八州(せきはっしゅう)】と連想します。これは旧国名での八州、すなわち『相模・武蔵・下総・上総・安房・上野・下野・常陸』の八国を総称して【関八州】と呼ぶのです。この名前の【関】はたぶん【関所】の関で、今の【碓氷峠(うすいとうげ)】あたりにあったのではないかと記憶しています。
古くはヤマトタケルまで遡って、東夷征伐の帰り道、その碓氷峠(だったかな?)で振り返って「吾妻(あづま)よ」と弟橘姫(おとたたちばなひめ)を偲んで言ったとかで、関東のことは昔【東(あづま)】の国として、独立国として呼んでいました。ヤマト朝廷とは別個の独立国だったのです。物部系出雲族と、葛城系出雲族が統治し暮らす、独立王朝なのでありました・・・。
それがいつの頃からだったか、大宝律令で変わったのか、郡制から国制に変わり、その統治には朝廷貴族系の血を引いた人が派遣されるようになってきました。それが藤原氏、源氏、平氏などの氏族たちです。彼等は任期が終わると中央に帰るのが決まりでしたが、帰ったところで末席を汚すだけの冷遇ポジション、それよりか田舎で神のように扱われていた方がよっぽど心地よかったのです。だから現地妻をめとり、そのお嫁さん側の土地や館(当時は女性に土地と家の所有権があった)の主として納まり、土着してゆく現地氏族が増えてゆきました・・・。
そんな時代背景の中、桓武天皇から下るところの7代目、下総ノ国に平将門は産声を挙げました。父親の良持が生きている頃は征夷大将軍だったので、関東一円の豪族たちを従えるほどの勢力がったのですが、父親死後、将門が朝廷に馬番として奉公に出、12年の歳月が経った頃には勢力地図が変わっていました。嵯峨源氏系の末裔であり、常陸ノ国に勢力を誇っていた豪族、源護(みなもとまもる)を筆頭に、将門の叔父さんたちがみんな護の娘と政略結婚するほど、平家筋は源氏に従う格好になっていたのです・・・。
そんな中将門は、国の所領を守っていた長男の死をきっかけに、帰郷することになります。朝廷からは、元々父親が管主をやっていた伊勢神宮の荘園、相馬御厨(そうまみくりや)の管主というポジションを与えられて・・・。しかし帰ってみてびっくり!(@_@;)!・・広大な父の所領は見る影もなく、叔父さんたちや源氏筋にほとんど分けられてしまった状態だったのです。このころに叔父さんたちとのいさかいがあったかどうかは想像の粋を出ないのですが、将門は父の威光を慕う元家来たち、将門本人を慕う奴隷階級の者たちと共にがむしゃらに働き、4年かけて不毛な土地を沃土に変え、壮大な相馬王国を建設したのです。将門は平家の名前を名乗らず、相馬小次郎と名乗り、常陸ノ国から平家系の妻をめとり、子供も生まれ幸せに暮らしていました・・・。
その頃の話でしょうか・・・、将門は今の千葉県は松戸市・流山市・市川市付近に野場を放牧し、関八州の強者共を集め、野生の馬を素手で捕まえるという男らしさを競う遊びなんでしょうか、軍事訓練だったのでしょうか、そういうことをしていたらしいのです。その名残りが子孫の相馬氏に受け継がれ、今でも相馬野馬追祭として、福島県で毎年開催されています。写真はその模様・・・勇壮なり・・・。
そんな幸せ絶頂の相馬小次郎に、不穏な影が忍び寄ります・・・
あるとき将門が妻の郷里である真壁(筑波山のふもと)から妻子を連れ、小貝川の対岸にある館(千代川村?)に帰ろうとしますが・・・待ち伏せされ・・・不意打ちを食らうのです・・・ほとんど無防備でしたが、愛する妻子を危機に晒された将門、その卑怯さに激怒し、刺客を3人とも殺してしまいました・・・。その3人というのがなんと!!常陸源氏・源護の息子たちだったのです・・・。叔父さんたちの縁戚・・・大変なことになりました・・・
歴史で表面的に描かれている将門像は、その後の騒乱期の阿修羅な姿です・・・。
でもそれは虚像・・・、本当は紳士でインテリ風、しかも出雲の血を引く古代ネイティブ・・・。
相馬黄金郷の王だったのです・・・。
関東・・・その名前には、これだけの想念な積み重なっているのです・・・
その想念の・・・メグリの重みというものを・・・骨身に感じたことはあるでしょうか・・・
それは・・・今でも・・・時空を超えた世界において・・・脈々と・・・時にはドロドロと・・・息づいておるのです・・・。この関東という地縁・・・ここにおられる方々は・・・、そのメグリと無縁であるということはありません・・・なんらかの・・・身魂レベルでの・・・原因・因縁ありてこそ・・・この【関八州】におられるのです・・・。これは原因の世界の・・・【事実】です・・・。その原因が・・メグリが・・・地縁となり・・・人の縁となり・・あなたの【今】と成っておるのです・・・。
ですから・・真理を学び・・・自らの責任を取ろうとするならば・・・関東・・・この【国】に生きて・・・汗と血を流して・・・魔釣りながらも必死に生きてこられた方々を・・・大切に思いやる心は・・・是非・・・是非に持って・・・いただきたいのです・・・。それが・・・身魂責任を・・・とるということなのですから・・・。(←聖徳太子の意識らしい・・)
という感じが【関東】なのですけれども、まだまだ続きがあります。千葉氏を筆頭とした【坂東八平氏】です。これは将門公の娘の血を引いた、将門亡き後に大繁栄する氏族の総称なのですが、私シュバンは、その千葉氏や坂東八平氏を探求しているうちに、市川市から千葉市に引越してしまったのです。それが今私が、千葉市にいる理由です。
その理由を説明したかっただけなのですが・・・
【壮大な歴史ロマン】が好きな方が・・・たくさん居るもんでして・・・(^^ゞ
*****************************
はい、コミュニティーでブロック分けができたときに講釈した挨拶です。挨拶にしては大層なものですが・・・(^^ゞ
今年の6月頃から、『神界の地上顕現化』が始まっているようです。それゆえに地球上でも個人個人においても、大変な浄化の時期が到来しておる様子。『馬の耳に念仏』みたいだった私の話も、いよいよ聞かなければならない、大変な時節が到来しています。来年から6年間、未曾有のミソギが起こります。
皆々様方、覚悟よろしいか!!
よいお年を、お過ごし下しませ。
シュバン拝 <(_ _)>

/文:シュバン/平将門関連書籍/将門奉賛会/
************************************
うーむ、私は【関東】と聞くと、すぐさま【関八州(せきはっしゅう)】と連想します。これは旧国名での八州、すなわち『相模・武蔵・下総・上総・安房・上野・下野・常陸』の八国を総称して【関八州】と呼ぶのです。この名前の【関】はたぶん【関所】の関で、今の【碓氷峠(うすいとうげ)】あたりにあったのではないかと記憶しています。
古くはヤマトタケルまで遡って、東夷征伐の帰り道、その碓氷峠(だったかな?)で振り返って「吾妻(あづま)よ」と弟橘姫(おとたたちばなひめ)を偲んで言ったとかで、関東のことは昔【東(あづま)】の国として、独立国として呼んでいました。ヤマト朝廷とは別個の独立国だったのです。物部系出雲族と、葛城系出雲族が統治し暮らす、独立王朝なのでありました・・・。
それがいつの頃からだったか、大宝律令で変わったのか、郡制から国制に変わり、その統治には朝廷貴族系の血を引いた人が派遣されるようになってきました。それが藤原氏、源氏、平氏などの氏族たちです。彼等は任期が終わると中央に帰るのが決まりでしたが、帰ったところで末席を汚すだけの冷遇ポジション、それよりか田舎で神のように扱われていた方がよっぽど心地よかったのです。だから現地妻をめとり、そのお嫁さん側の土地や館(当時は女性に土地と家の所有権があった)の主として納まり、土着してゆく現地氏族が増えてゆきました・・・。
そんな時代背景の中、桓武天皇から下るところの7代目、下総ノ国に平将門は産声を挙げました。父親の良持が生きている頃は征夷大将軍だったので、関東一円の豪族たちを従えるほどの勢力がったのですが、父親死後、将門が朝廷に馬番として奉公に出、12年の歳月が経った頃には勢力地図が変わっていました。嵯峨源氏系の末裔であり、常陸ノ国に勢力を誇っていた豪族、源護(みなもとまもる)を筆頭に、将門の叔父さんたちがみんな護の娘と政略結婚するほど、平家筋は源氏に従う格好になっていたのです・・・。
そんな中将門は、国の所領を守っていた長男の死をきっかけに、帰郷することになります。朝廷からは、元々父親が管主をやっていた伊勢神宮の荘園、相馬御厨(そうまみくりや)の管主というポジションを与えられて・・・。しかし帰ってみてびっくり!(@_@;)!・・広大な父の所領は見る影もなく、叔父さんたちや源氏筋にほとんど分けられてしまった状態だったのです。このころに叔父さんたちとのいさかいがあったかどうかは想像の粋を出ないのですが、将門は父の威光を慕う元家来たち、将門本人を慕う奴隷階級の者たちと共にがむしゃらに働き、4年かけて不毛な土地を沃土に変え、壮大な相馬王国を建設したのです。将門は平家の名前を名乗らず、相馬小次郎と名乗り、常陸ノ国から平家系の妻をめとり、子供も生まれ幸せに暮らしていました・・・。
その頃の話でしょうか・・・、将門は今の千葉県は松戸市・流山市・市川市付近に野場を放牧し、関八州の強者共を集め、野生の馬を素手で捕まえるという男らしさを競う遊びなんでしょうか、軍事訓練だったのでしょうか、そういうことをしていたらしいのです。その名残りが子孫の相馬氏に受け継がれ、今でも相馬野馬追祭として、福島県で毎年開催されています。写真はその模様・・・勇壮なり・・・。
そんな幸せ絶頂の相馬小次郎に、不穏な影が忍び寄ります・・・
あるとき将門が妻の郷里である真壁(筑波山のふもと)から妻子を連れ、小貝川の対岸にある館(千代川村?)に帰ろうとしますが・・・待ち伏せされ・・・不意打ちを食らうのです・・・ほとんど無防備でしたが、愛する妻子を危機に晒された将門、その卑怯さに激怒し、刺客を3人とも殺してしまいました・・・。その3人というのがなんと!!常陸源氏・源護の息子たちだったのです・・・。叔父さんたちの縁戚・・・大変なことになりました・・・
歴史で表面的に描かれている将門像は、その後の騒乱期の阿修羅な姿です・・・。
でもそれは虚像・・・、本当は紳士でインテリ風、しかも出雲の血を引く古代ネイティブ・・・。
相馬黄金郷の王だったのです・・・。
関東・・・その名前には、これだけの想念な積み重なっているのです・・・
その想念の・・・メグリの重みというものを・・・骨身に感じたことはあるでしょうか・・・
それは・・・今でも・・・時空を超えた世界において・・・脈々と・・・時にはドロドロと・・・息づいておるのです・・・。この関東という地縁・・・ここにおられる方々は・・・、そのメグリと無縁であるということはありません・・・なんらかの・・・身魂レベルでの・・・原因・因縁ありてこそ・・・この【関八州】におられるのです・・・。これは原因の世界の・・・【事実】です・・・。その原因が・・メグリが・・・地縁となり・・・人の縁となり・・あなたの【今】と成っておるのです・・・。
ですから・・真理を学び・・・自らの責任を取ろうとするならば・・・関東・・・この【国】に生きて・・・汗と血を流して・・・魔釣りながらも必死に生きてこられた方々を・・・大切に思いやる心は・・・是非・・・是非に持って・・・いただきたいのです・・・。それが・・・身魂責任を・・・とるということなのですから・・・。(←聖徳太子の意識らしい・・)
という感じが【関東】なのですけれども、まだまだ続きがあります。千葉氏を筆頭とした【坂東八平氏】です。これは将門公の娘の血を引いた、将門亡き後に大繁栄する氏族の総称なのですが、私シュバンは、その千葉氏や坂東八平氏を探求しているうちに、市川市から千葉市に引越してしまったのです。それが今私が、千葉市にいる理由です。
その理由を説明したかっただけなのですが・・・
【壮大な歴史ロマン】が好きな方が・・・たくさん居るもんでして・・・(^^ゞ
*****************************
はい、コミュニティーでブロック分けができたときに講釈した挨拶です。挨拶にしては大層なものですが・・・(^^ゞ
今年の6月頃から、『神界の地上顕現化』が始まっているようです。それゆえに地球上でも個人個人においても、大変な浄化の時期が到来しておる様子。『馬の耳に念仏』みたいだった私の話も、いよいよ聞かなければならない、大変な時節が到来しています。来年から6年間、未曾有のミソギが起こります。
皆々様方、覚悟よろしいか!!
よいお年を、お過ごし下しませ。
シュバン拝 <(_ _)>

/文:シュバン/平将門関連書籍/将門奉賛会/
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます