将門ブログ

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52「将門祭祀伝説」

2008年02月21日 | 将門の乱
今回は、「将門祭祀伝説」の話です。

●「祭祀伝説」
将門を祀る寺社は数多く存在しますが、二つのパターンが考えられます。一つは、その土地や家を守る尊敬の対象としての神霊として。もう一つは、非業の死を遂げた将門の御霊を恐れ、それを鎮めるために祀られたものです。

○「神田明神」
まずは、「神田明神」について触れてみます。この神社にも様々な伝承があり、どれも面白い話なのですが、全部真実だと理解しようとすると矛盾が生じてきます。神田明神は元々現在の首塚がある場所、当時の柴崎村にあったとされ、ここに将門の霊を真教上人が嘉元年中(1303~1306)に祀ったのが実際の始まりといわれています。ところが面白いことに、藤原秀郷に討ち取られた将門の体がこの柴崎村まで追ってきて、ここで力尽きたため「からだ明神」として祀り、それが訛って「神田明神」となったという伝承もあります。むろん、飛んで来た首が力尽きた所であるという話もあるのですが、鶏が先か卵が先かというもの。慶長八年(1603)首塚のある柴崎村から駿河台へと遷り、さらに江戸城の北東の方角である湯島台に、元和二年(1616)に遷され、その二年後、桃山風の豪華な社殿を建てたと伝えられています。これは江戸城の守護神として、将門を鬼門封じとして配置するのが目的だったといいます。江戸時代、神田明神は大己貴命を一の宮の神として祀り、将門の霊を二の宮として祀る一殿二座でした。
http://www.kandamyoujin.or.jp/top.html

明治時代になり朝廷に対する謀反人将門は、神田明神の祭神から外されることになります。これは、「江戸幕府憎し」が「武家政治将門」に直結した対応であり、江戸城の守護者を排除しようという考えだったようです。明治6年(1873)、神社側は、朝敵が本社の祭神であることを明治政府に憚り、平将門を別殿に移し、その代わりに少彦名命の文霊を迎え入れたい、との願書を提出しました。翌明治7年(1874)、その許可が与えられましたが、納まらないのは188か町にも及ぶ氏子たち。何しろ、永い間「将門様」と言って崇め奉っていたのです。それが、どこの誰だか知らないような神様を急に迎え入れるなんてことは、神主たちの新政府へのへつらいとしか考えられなかった。そのため、本社には、さい銭がろくに投ぜられないの対し、本社右奥に新造することになった将門社には、続々と醵金が集まるという始末。将門に対する信仰は、その後も続き、明治17年(1884)の神田祭りが台風で中断されたことさえ、「将門様のたたり」として噂に上りました。当時の新聞紙上にも、《祭神から追い払われた将門様は大の御立腹。『おのれ神主めら、我が三百年鎮守の旧恩を忘れ、朝敵ゆえに神殿に登らすべからず、などと言いて末社に追い払いたるこそ奇怪なれ』と言って、祭りを待ち受けていた将門様。『時こそ来れり』とばかりに、日本全国よりあまたの雨師風伯を集め、八百八町を暴れまわって、折角のお祭りをメチャメチャになさった》などという記事が掲載されるくらいでした。
明治東京人は、本殿の祭神を表面上は敬いながらも、実質は将門社への信仰を中心にして、神田祭りの伝統を保っていったのです(ただし、祭りも近代化の進展には勝てず、明治29年(1896)以降は山車が引かれなくなった。というのは、町々に電線が張りめぐらされて、背の高い山車の通行が不可能になったため)。その後、将門が正式に神田明神の三の宮として復帰したのは、なんと昭和五十九年のことでした。これはNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」での、将門ブームが背景にあったといわれています。

○「国王神社」
続いて将門の一族が祀ったとされる神社を見てみます。まずは将門を国王として祀るその名も「国王神社」。これは伝承によれば、前述の将門の娘「如蔵尼」の夢枕に将門が立ち、「自分の像を総州一国の王として祀れ」と命じたといわれています。国王といっても、日本全体の王としてでは無く「上総・下総」の王として祀られた神社というわけで、土地の神として将門一族を守る神としてこの神社は誕生しています。この国王神社も湯島天神で出開帳を行い、そこそこの成果を挙げています。これは宗教的な意図は無く、これまでスポンサーであった相馬氏の援助が得られなくなったためだといわれています。
http://www.kandamyoujin.or.jp/top.html
http://www.city.bando.lg.jp/sights/historical_masakado/masakadosiseki11.html

○「相馬神社」
その相馬氏が将門を祀る神社を「相馬神社」といいます。戦国時代、下総の相馬一族は小田原北条氏に属していたため秀吉の北条攻めで没落し、細々と一族は江戸時代続いていきます。国王神社の援助を打ち切った背景は、単純に金銭的な問題だったと思われます。相馬神社は相馬家の屋敷神として祀られており、ここにも桔梗忌避の伝承が伝えられています。下総以外にも相馬一族は日本各地に点在しており、妙見菩薩を将門と併せて祀っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E7%A5%9E%E7%A4%BE
http://homepage3.nifty.com/reason_m/soumankmr.html


次は「神明神社」と「明神」の話です。

○「神明神社」
神明神社(しんめいじんじゃ)は、天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社です。神明社(しんめいしゃ)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。神社本庁によると日本全国に約5千社あるとされていますが、一説には約1万8,000社ともいわれています。中世に入り朝廷が衰微するに伴い、伊勢神宮の信者を獲得し各地の講を組織させる御師が活躍し、王家にとってのみの氏神から日本全体の鎮守としての存在へと神社の性格は大きく変わりました。また、布教とともに各地の有力者による神領(御厨)の寄進が行われ、その地に伊勢神宮の祭神が分霊され、神明神社が広範囲に分布することとなりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%98%8E%E7%A4%BE

○「明神」
明神(みょうじん)とは、日本の神道の神の称号の一つ。吉田神道で神号として用いられます。豊臣秀吉の「豊国大明神」が有名。「明神」とは、神は仮の姿ではなく明らかな姿をもって現れているという意味です。それに対し、仏教系の山王一実神道では神号として用いられる権現(ごんげん)は、「神が権(かり)に現れる」、また「仏が権(かり)に神の姿で現れる」という意味です。徳川家康の「東照大権現」が有名。なお、家康の神号をめぐって、南光坊天海の「大権現」案と、金地院崇伝の「大明神」案をめぐる論争は有名です。仏法が広まるとき、現地の神と争いが起こる場合がありますが、日本の場合は、神は仏の信者を守護するという形で落ちつきました(神仏習合)。これらが明神とか権現と呼ばれ、信仰の対象となっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%A5%9E

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/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


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