今夜は、イロイロとしか表現できないくらい予定がたくさんあるのでこの時間に更新。ちなみにこの後すぐからもやはり予定が二つあるので結構休めず。
にしても早いお帰りです大学生w。
で、考えますところ俺の人生の帰宅時間は、早い順に
浪人生、小学生、高校生、大学生、中学生となるわけです。ひどい順番ですね。
浪人時代は、そもそも予備校に行くことのほうがレアで、それにしたって授業を受けているというより友達に会いにいく時間でした。で、すぐ帰ってきたり、おいしいケーキなぞを食べたりするのが目的でした。この1年は死ぬほどカラオケに入り浸っていたのを思い出します。メインで生息していた街は、大宮でした。ルミネの屋上で大宮サンセットです。あと、タリーズで政治とか哲学論議をしてたりもしました。はい、市谷に行くと友達が多すぎて人間駄目になると思いましたし、代々木は宗教団体の聖地であったため敬遠したのです。
小学生は、こんな俺ですがかわいくランドセルで登下校。残念なことに、自宅から小学校も中学校も完全に直線コース上にあり、寄り道するのが夢でした。で、毎日、学校から帰るとすぐ学校にもどりサッカーしてました。夢のような日々でした。土日に川越で遊ぶのが大好きで、この頃から牛丼屋がホームグランドになりました。
高校生。我が母校は8時10分から始まり2時半!!に終わるのです。だからまっすぐ帰ると私立小学校の制服を着たかわいい娘達と一緒の電車で帰るんですね。早く帰って夕方再放送のドラマとか見てましたw。一番遊んだのは池袋。ムダにデパート歩いたり、この前ユーカラで話題になった『IWGP(池袋ウエストゲートパーク)』でパントマイムとか見てだらだらしたり、トキワボウルでボーリングしたり。ジュンクで暇つぶしに本を探したり、ハナマサとか牧場とかで合コンしてました。この頃、ウタヒロとスタバが聖地でした。他には日暮里『歌広場』&ビルディ、高田馬場『山水』もヘビーユーズでした。渋谷は見事に開成のある西日暮里とは山手線逆サイドで、あまり行きませんでした。鶯谷を経由して、猫を追いかけ上野を目指す下町コースなどもよくいきました。帰りに赤羽無限散歩ごっことかして、死にかけたこともありました。最悪だったのは、路地でジャンケンして方向を決めながら池袋を目指そうと企画した時でした。そりゃぁもうぐるぐる回り続けるだけで最後は結局投げやりでキレ気味で諦めたました。
大学生の今、学校が目の前なので、ダベル気があまり起きませんね。生協とかダベル気見事にまったく起きないですし。病院正門前にスタバとかタリーズとかできてくれると最高です。とかいって家でコーヒー煎れるんでしょうがw。だから遊ぶといったらいきなり車で遊びに行くか飯食いにいくか家に帰るばかり。たぶん20年後に記憶に残るのは『ユーカラ』と『ジクウ』でしょうね。ダーツを覚え、カラオケからビリヤードに遊びの構造改革が起きましたw。
中学生。そりゃあもう部活部活部活部活でした。帰りにミニストップでハロハロをみんなで食べるのが幸せな瞬間でした。土日は川越に飽きだし、池袋・新宿に進出。この頃からラーメンツアーが展開されはじめました。この頃の世界で一番うまいと思っていた店は、新宿スカラ座裏の『航海屋』。赤トロが最高すぎて新宿にきたら必ず寄っていました。そして原宿⇔渋谷の遊歩道を発見し、いわゆるファッション雑誌の中にある服の世界に触れました。とにかく大学生などの兄ちゃん達がかっちょよく自由に生きているように思えました。でも、何処に行っても服の値段が所持金より30倍以上高く、いつも遊ぶといったら映画ばかりでした。学校関連ではカラオケが大ブームでした。なんだかんだの大会後や文化祭など、打ち上げは必ずカラオケ。今から思えばプチ合コンみたいな感じで他校の人と遊ぶときもカラオケ。ビリヤードの面白さに気づいたのがこの時期です。
って感じで俺は遊んできました。遊びはカラオケ→ビリヤード→カラオケ→ダーツという流れをとってますね、そしてどの時代でも最強の遊びは映画でした。また飯としては牛丼が最古の歴史を誇り、その後ラーメンが政権をとりました。群馬に来てからはラーメンブームも下火となり、それ以外のいわゆるミシュランにちょっと載っちゃいそうな感じのお店が大好きになりましたw。コーヒー屋としてはドトール→ファッキン回数券→スタバ→エクセルシオール→タリーズと変遷しました。
大好きな街は、故郷川越と池袋。川越はたまり場と化していたビリヤード場がなくなったことが大きい…。しかし、実家に帰るたび、誰かとエクセルシオールに行き、クレアモールの吉野家で牛丼を食べたくなります。
池袋はとにかく何処に行っても何らかの思い出があります。そりゃぁもういろんな恋愛の思い出がねw。でも、最近知らないお店とか増えてきて悲しくなりす…。今でも東京の友達との待ち合わせは池袋をメインにし、飲み屋などを知ろうとしています。
今、住みたい街は、四谷。でっかいプラズマとか買って、サッカー見るのです。ジャグジーとかもいいですね。この意味がわかる人にはわかるw。
将来住みたい街は、横浜。俺の感覚だと埼玉県民あんまり行かないんですよw。でも街ってよりも横浜の東京ヨリの田舎に住みたいです。でも、世田谷・宇奈根に住めれば人生幸せに推移していることになりますw。
将来住みたい国は、エチオピア。医療活動に従事し、人類の歴史遺産を発掘するのであります。そして、エチオピア将棋協会会長?になりオリンピックエチオピア代表となりますw。で惨敗するのが夢ですw。さらに、ジオン国立シャア記念病院を設立し、白衣ではなく緑の制服を着て(俺が院長ならば当然赤なのですがw)、顔を隠して診察したりするのです。んでもって当院最大のウリは中東情勢が不安定となると病院ごと移住でありますw。
↑こんな冗談ほっといて、将来の小さな目標は、マイカートを所有しレースすること、ビリヤードルームをつくること、バスケゴールのある庭を造り子供の身長以上のボールを与えることです。
あぁ、時間ないのにテンションあがって書きまくっちゃいましたw。
にしても早いお帰りです大学生w。
で、考えますところ俺の人生の帰宅時間は、早い順に
浪人生、小学生、高校生、大学生、中学生となるわけです。ひどい順番ですね。
浪人時代は、そもそも予備校に行くことのほうがレアで、それにしたって授業を受けているというより友達に会いにいく時間でした。で、すぐ帰ってきたり、おいしいケーキなぞを食べたりするのが目的でした。この1年は死ぬほどカラオケに入り浸っていたのを思い出します。メインで生息していた街は、大宮でした。ルミネの屋上で大宮サンセットです。あと、タリーズで政治とか哲学論議をしてたりもしました。はい、市谷に行くと友達が多すぎて人間駄目になると思いましたし、代々木は宗教団体の聖地であったため敬遠したのです。
小学生は、こんな俺ですがかわいくランドセルで登下校。残念なことに、自宅から小学校も中学校も完全に直線コース上にあり、寄り道するのが夢でした。で、毎日、学校から帰るとすぐ学校にもどりサッカーしてました。夢のような日々でした。土日に川越で遊ぶのが大好きで、この頃から牛丼屋がホームグランドになりました。
高校生。我が母校は8時10分から始まり2時半!!に終わるのです。だからまっすぐ帰ると私立小学校の制服を着たかわいい娘達と一緒の電車で帰るんですね。早く帰って夕方再放送のドラマとか見てましたw。一番遊んだのは池袋。ムダにデパート歩いたり、この前ユーカラで話題になった『IWGP(池袋ウエストゲートパーク)』でパントマイムとか見てだらだらしたり、トキワボウルでボーリングしたり。ジュンクで暇つぶしに本を探したり、ハナマサとか牧場とかで合コンしてました。この頃、ウタヒロとスタバが聖地でした。他には日暮里『歌広場』&ビルディ、高田馬場『山水』もヘビーユーズでした。渋谷は見事に開成のある西日暮里とは山手線逆サイドで、あまり行きませんでした。鶯谷を経由して、猫を追いかけ上野を目指す下町コースなどもよくいきました。帰りに赤羽無限散歩ごっことかして、死にかけたこともありました。最悪だったのは、路地でジャンケンして方向を決めながら池袋を目指そうと企画した時でした。そりゃぁもうぐるぐる回り続けるだけで最後は結局投げやりでキレ気味で諦めたました。
大学生の今、学校が目の前なので、ダベル気があまり起きませんね。生協とかダベル気見事にまったく起きないですし。病院正門前にスタバとかタリーズとかできてくれると最高です。とかいって家でコーヒー煎れるんでしょうがw。だから遊ぶといったらいきなり車で遊びに行くか飯食いにいくか家に帰るばかり。たぶん20年後に記憶に残るのは『ユーカラ』と『ジクウ』でしょうね。ダーツを覚え、カラオケからビリヤードに遊びの構造改革が起きましたw。
中学生。そりゃあもう部活部活部活部活でした。帰りにミニストップでハロハロをみんなで食べるのが幸せな瞬間でした。土日は川越に飽きだし、池袋・新宿に進出。この頃からラーメンツアーが展開されはじめました。この頃の世界で一番うまいと思っていた店は、新宿スカラ座裏の『航海屋』。赤トロが最高すぎて新宿にきたら必ず寄っていました。そして原宿⇔渋谷の遊歩道を発見し、いわゆるファッション雑誌の中にある服の世界に触れました。とにかく大学生などの兄ちゃん達がかっちょよく自由に生きているように思えました。でも、何処に行っても服の値段が所持金より30倍以上高く、いつも遊ぶといったら映画ばかりでした。学校関連ではカラオケが大ブームでした。なんだかんだの大会後や文化祭など、打ち上げは必ずカラオケ。今から思えばプチ合コンみたいな感じで他校の人と遊ぶときもカラオケ。ビリヤードの面白さに気づいたのがこの時期です。
って感じで俺は遊んできました。遊びはカラオケ→ビリヤード→カラオケ→ダーツという流れをとってますね、そしてどの時代でも最強の遊びは映画でした。また飯としては牛丼が最古の歴史を誇り、その後ラーメンが政権をとりました。群馬に来てからはラーメンブームも下火となり、それ以外のいわゆるミシュランにちょっと載っちゃいそうな感じのお店が大好きになりましたw。コーヒー屋としてはドトール→ファッキン回数券→スタバ→エクセルシオール→タリーズと変遷しました。
大好きな街は、故郷川越と池袋。川越はたまり場と化していたビリヤード場がなくなったことが大きい…。しかし、実家に帰るたび、誰かとエクセルシオールに行き、クレアモールの吉野家で牛丼を食べたくなります。
池袋はとにかく何処に行っても何らかの思い出があります。そりゃぁもういろんな恋愛の思い出がねw。でも、最近知らないお店とか増えてきて悲しくなりす…。今でも東京の友達との待ち合わせは池袋をメインにし、飲み屋などを知ろうとしています。
今、住みたい街は、四谷。でっかいプラズマとか買って、サッカー見るのです。ジャグジーとかもいいですね。この意味がわかる人にはわかるw。
将来住みたい街は、横浜。俺の感覚だと埼玉県民あんまり行かないんですよw。でも街ってよりも横浜の東京ヨリの田舎に住みたいです。でも、世田谷・宇奈根に住めれば人生幸せに推移していることになりますw。
将来住みたい国は、エチオピア。医療活動に従事し、人類の歴史遺産を発掘するのであります。そして、エチオピア将棋協会会長?になりオリンピックエチオピア代表となりますw。で惨敗するのが夢ですw。さらに、ジオン国立シャア記念病院を設立し、白衣ではなく緑の制服を着て(俺が院長ならば当然赤なのですがw)、顔を隠して診察したりするのです。んでもって当院最大のウリは中東情勢が不安定となると病院ごと移住でありますw。
↑こんな冗談ほっといて、将来の小さな目標は、マイカートを所有しレースすること、ビリヤードルームをつくること、バスケゴールのある庭を造り子供の身長以上のボールを与えることです。
あぁ、時間ないのにテンションあがって書きまくっちゃいましたw。