イジメの加害者たちも 無罪では 済まされないのです。
イジメを始めた時点から 堕地獄の業を 背負ったのです。
陰湿なイジメにより 被害者に 生き地獄の思いをさせ続けた罪は
消えないのです。
すべての生き者は 暴力におびえるものです。
すべての生きとし 生けるものにとって
生命は愛おしいのです。
自分の身にひきくらべて 殺してはならないし
殺さしめてもならないのです。
イジメによって 自殺に追い込む行為は
間接的ではあるが 殺生業を犯したことになるのです。
すべての生きとし生ける者は 幸せを求めるものです。
もしも 暴力によって 生き者を害するならば
その人は 自分の幸せを求めても
死後には 幸せは得られないのです。
誰も望んで不幸になることはないのですが
間違った生き方により不幸になることはあるのです。
まだ 悪業の報いが 熟していない間は
悪人でも幸運に遇うことがあるのです。
しかし 悪業の報いが熟した時には
悪人は 災難に遇うのです。
加害者たちが 罰せられないからといって
いい気になってはいけないのです。
心の中で笑っているようでは
救いようがないのです。
善業と悪業とは それぞれの業報を異にして
善業は幸せを 悪業は災難をもたらし
動かすことのできない 道理によって定められているのです。
しかも それぞれが 自己の業を背負い
報いの定まっているところへと 一人闇に赴くのです。
末法の現代。反佛教的な社会では
人が人を平気で殺す 今の世の中 他人はどうなってもいい
邪魔ならば殺してしまってもいいなんて 間違っています。
僧侶の世界でも イジメはあります。
僧侶でさえ 殺人を犯しました。
罪の自覚がなく 自己正当化して 責任転嫁する。
イジメの事実を認めないのも 罪なのです。
誤魔化せれば それでいいという問題ではないのです。
イジメを認めず 隠ぺいすることによって
保身はできたのかもしれないが
問題の本当の解決にはならないのです。
イジメという行為は 相手に苦と不幸をもたらし
自らも 知らず知らずのうちに不幸になり
苦しみを受けるものです。
自他ともに 苦と不幸をもたらす行為は 悪業であると。
自分にも 他人にも 苦と不幸をもたらすことは 悪なんだと。
罪を認めなければ 罰せられない。
罪がばれなければ 証拠がなければ
罰せられないのは 嘘です。
天網 (てんもう) 恢恢 (かいかい) 疎(そ) にして漏らさずです。
人間の行為。身業・口業・意業による
自らの行いは 自らがうけるものです。
自業自得・因果応報は 必ずあります。
それが 偽りなき 真理・真実です。
釈迦牟尼佛陀さまの み教えが信じられない者には
自らの身をもって 悪の報いを受けてもらうしかありません。
自らの悪業・罪業が尽きるまで 苦しまなければならないのです。
イジメに遇っている人は 神佛の加護が得られるようにすべきです。
イジメの加害者たちは ただちにイジメを止めることです。
南無大日遍照金剛 南無大日遍照金剛 南無大日遍照金剛
おん あ び ら うん けん ばさら だと ばん
おん あ び ら うん けん ばさら だと ばん
おん あ び ら うん けん ばさら だと ばん
合 掌
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