災難から逃れる方法はないでしょうかと言う質問に
江戸時代の曹洞宗の僧侶で良寛(りょうかん)さまが
災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候(そうろう)。
死ぬ時節には 死ぬがよく候(そうろう)。
是はこれ 災難をのがるる妙法にて候(そうろう)、と答えられました。
災難に逢う時には 災難に逢わない方が
災難を逃れる方法ではないかと 勘違いしていました。
災難に逢う時に 災難に逢うことによって
災難から逃れられると言うことは
災難に逢わなければならない 因縁があったからです。
どのような時節に 災難に逢うのかは 誰にも分りません。
まさに一寸先は闇です。何が起こるかが分らないのが実情です。
裏を返せば 災難に逢わないような生き方をすればいいのでは、と。
つまりは 神佛の加護をいただくようにすればよいのでは、と。
次に 死ぬ時には 死ぬことが 死という苦しみから逃れられるとは
納得がいきましたが 自殺は生きることを放棄したということですから別です。
生きていくなかで 愛する人と別れる苦しみがあります。
愛する人と別れなければならない時には 別れればいい
怨み憎い者と会わなければならない時には 会えばいい
と言われても なかなか納得のいかないことでしょうが
そのことから逃げ回っていては 何の解決にもなりません。
苦を増すばかりです。
では 何のために 私たちは四苦八苦という
肉体的苦痛 精神的苦悩に苛まされなければならないのでしょうか。
自我への執着があるから この執着から苦しみ悩みが生じるのです。
この執着から離れることができれば すべての悩み苦しみから解放されるのです。
それには 密教の教えを信じて 即身成佛することです。
せっかく 人間に生まれることができて
幸いにも この世に生まれることができたということは
まことに有難いことなのです。
また たとえ人間に生まれることができても
佛法を聞くことは まことに難しいことなのです。
なかでも密教の教えに縁があるということは
このうえない幸せなのです。
三密の行 つまり 真言を念誦することは
おん あ び ら うん けん ばさら だと ばん と口に唱え
南無大日遍照金剛 と心で念佛することによって
真言そのものに成りきる。念佛そのものに成りきることが極意です。
常日頃から 大日遍照金剛さまを 心に想い続けること。
日常生活のなかで 常に 真言を念ずるように心掛ける。
心の持ち方を変えることです。
真実の教えの方に 合わせていく。
そして さとりを求める心をおこす。
さとりを求める心をおこしたならば 忘れずに持続することです。
大日遍照金剛さまを信仰することによって
大日遍照金剛さまの眷属である諸天善神さまに守護されることになるのです。
おん あ び ら うん けん ばさら だと ばん
南無大日遍照金剛
おん あ び ら うん けん ばさら だと ばん
南無大日遍照金剛
おん あ び ら うん けん ばさら だと ばん
南無大日遍照金剛
ありがとうございました。
合掌
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