人が人であるために、必ずあるべき姿がある。
それが隣人愛。
誰かが困っていたら助ける、よくあること。
例えそれが自分に対してマイナスの感情しか抱かせない人でも。
過去にいろいろと迷惑を受け、精神的に病まされた相手でも。
舌打ちもせず、何の見返りも期待せず、純粋に困っている人がいたら助ける。
助けた相手からの「ありがとう」の一言で、それが報われるのなら。
誰かが幸せならその幸せを祝う、これも人として生きるなら当然。
例えそれが今の自分を追い込む原因になろうとも。
幸せに飢えている自分なのに、人の幸せを祝福できるだろうか。
嫉妬もせず、非難もせず、笑顔で幸せを見送る。
祝った相手からの「嬉しい」の一言で、それが報われるのなら。
誰かが悲しんでいたら共に泣いてあげる、情に弱い者の宿命。
例えそれが今の自分にとって好都合であろうとも。
人の不幸を見て笑うことが、外道・人外・畜生と分かっているから。
相手の悲しみを組んで、自分も悲しい涙を流す。
泣きに泣いて立ち直り、再び先へ歩き出してくれるのなら。
そんなことを考えたり行動していた自分に反吐が出る。
隣人愛と簡単に言うが、どれもこれも「見返り」を期待してばかりの行動。
某ゲームじゃないけれど、
「自分はこれをしました、だから私にこれをしてください」
と、まるで一人ギブアンドテイク。
「自分はこれをしませんでした、だからあなたもしないでください」
と、勝手に自分の中だけで暗黙の了解作って思い込む。
自分の思うように行かないとストレスが溜まる。
でもそれを言わない、我慢するのは自分だけでいいと壁を作る。
結果、よくしてくれている人を憎む。
相手に悪気は無いのに。
自分だけで動き、周りを信用せず、常に疑いの目を向け、人と距離を置き、孤独になる。
それを嫌がり、また人と接し、仲良くなってもそこまで。
自分を殺して話し、主導権を奪われ、信用できなくなり、相手を疑い、距離を置き、孤独になる。
全部自分の勝手な態度・行動から生まれることばかり。
だからいろんな物が自分の手元を離れていく。
…と、かなり個人的でダークな鬱話。
それが隣人愛。
誰かが困っていたら助ける、よくあること。
例えそれが自分に対してマイナスの感情しか抱かせない人でも。
過去にいろいろと迷惑を受け、精神的に病まされた相手でも。
舌打ちもせず、何の見返りも期待せず、純粋に困っている人がいたら助ける。
助けた相手からの「ありがとう」の一言で、それが報われるのなら。
誰かが幸せならその幸せを祝う、これも人として生きるなら当然。
例えそれが今の自分を追い込む原因になろうとも。
幸せに飢えている自分なのに、人の幸せを祝福できるだろうか。
嫉妬もせず、非難もせず、笑顔で幸せを見送る。
祝った相手からの「嬉しい」の一言で、それが報われるのなら。
誰かが悲しんでいたら共に泣いてあげる、情に弱い者の宿命。
例えそれが今の自分にとって好都合であろうとも。
人の不幸を見て笑うことが、外道・人外・畜生と分かっているから。
相手の悲しみを組んで、自分も悲しい涙を流す。
泣きに泣いて立ち直り、再び先へ歩き出してくれるのなら。
そんなことを考えたり行動していた自分に反吐が出る。
隣人愛と簡単に言うが、どれもこれも「見返り」を期待してばかりの行動。
某ゲームじゃないけれど、
「自分はこれをしました、だから私にこれをしてください」
と、まるで一人ギブアンドテイク。
「自分はこれをしませんでした、だからあなたもしないでください」
と、勝手に自分の中だけで暗黙の了解作って思い込む。
自分の思うように行かないとストレスが溜まる。
でもそれを言わない、我慢するのは自分だけでいいと壁を作る。
結果、よくしてくれている人を憎む。
相手に悪気は無いのに。
自分だけで動き、周りを信用せず、常に疑いの目を向け、人と距離を置き、孤独になる。
それを嫌がり、また人と接し、仲良くなってもそこまで。
自分を殺して話し、主導権を奪われ、信用できなくなり、相手を疑い、距離を置き、孤独になる。
全部自分の勝手な態度・行動から生まれることばかり。
だからいろんな物が自分の手元を離れていく。
…と、かなり個人的でダークな鬱話。