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荒川家と保科家の接点をもとめて(信濃守護の歴史)

2012-07-17 13:13:44 | 歴史

信濃守護の歴史

建武の新政以降の信濃守護を年代と氏名を単純記載してみる

年代 信濃守護

1336 小笠原貞宗
1338 村上信貞
1342 小笠原貞宗
1347 小笠原政長
1355 小笠原長基
1366 上杉朝房
1384 斯波義種
1387 斯波義将
1398 斯波義重
1399 小笠原長秀
1401 斯波義将
1402 幕府直轄
1419 細川持康
1425 小笠原政康
1446 小笠原宗康
1446 小笠原光康
1451 小笠原持長
1453 小笠原光康
1463 小笠原政秀
1477 上杉房貞
1542 小笠原長棟
1542 小笠原長時

年表を見てみると、1330年代から1440年代まで、伊賀良荘(飯田)が信濃の政治の中心で、1440年代以降は府中(松本)に政治の中心が移っている。飯田が政治の中心であった時代でも、室町幕府は、小笠原家の政治統治能力に疑問を抱き、尾張三河の斯波家に守護を兼任させたり、幕府直轄にしたりしている。
たぶん、室町幕府がここからの収入に不満があったのだろう。年貢取り立ての「出張機関」としてであろうと思われる。「出張機関」の軍事的サポートは小笠原家のままであったようだ。
では「出張機関」は何処だったのだろうか?。・・・
室町幕府が、忠実な家臣の居住区域である「伊賀良荘」を取り上げたとは、以後の関係からも想像し難い。付近を見てみると天竜川の対岸の「河野荘」(現在の豊岡村)にそれらしい痕跡がいくつも残っている。
また、佐久と諏訪は特別に別の管理区として、存在していたらしい。佐久は小笠原家の別家の「大井氏」が、諏訪は諏訪惣領家が、それぞれ信濃守護代として存在している。
特に、小笠原家と諏訪家の関係は、歴史的にかなり複雑である。当初小笠原家は、北条残党の一掃の任務を帯びて、その領地を奪うことを目的として信濃守護に着任した。そして「伊賀良荘」とほぼ同規模の「春近荘」を諏訪家より奪っている。諏訪家はもとより北条残党の主力である。だが、諏訪家はやがて足利尊氏との関係を改善し、地元では小笠原家との対立の構造を残しながら、足利幕府には、小笠原家との、併存の関係を保持していくようになる。



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