とりあえず、荒川(伊奈)家と保科家の接点をもとめて、「神助易正考・・・」を、1クールとして、たどたどしくも,書き終えて終了します。
テンプレートの使い方も分からぬままに、ブログを始めて、読み返して間違いに気付いても編集修正の仕方も知らないまま、ここまできました。いまは少しブログも解りかけてきたので、折を見て、修正していきます。
ブログに興味を覚えたのは、「比企の丘から」というブログに多少触発されたところがあります。ここで、「比企の丘から」のブログの方に感謝しておきます。
また、樹堂さんから出典資料のご教授をいただき、感謝しております。また混迷したときは、お世話になりたいと思っています。
次は、三州街道を南下します。街道を上る、下るとは、京都に向かって、と聞いたことありますが、この場合は、天竜川の沿道とする故に、南下としておきます。
竜東とは何か?という軽い質問がありました。これは、天竜川を挟んで東側を指し、地名としては藤沢・長谷・高遠・河野(豊岡村)、阿島(喬木村)・知久(下久堅。上久堅)など、その多くは、諏訪一族が領主とした地域で、諏訪神党の聖地でありました。河野(豊岡村)は少し複雑です。竜東は、対岸よりも山が川縁までせり出してくる割合が多く、その分、作物耕地が少ないようにも思えます。対して対岸は竜西と呼び、教科書にも載るくらいの典型的な河岸段丘で、上部は果樹園の好適地、その下の地域は水田の好適地になっています。この竜東と竜西を総じて伊那谷とよんでいます。いまは、竜東と呼ぶことは多くても、あまり竜西とは呼んでいませんが。
「信濃の国」の県歌に、松本伊那佐久善光寺、四つのたいら(平)は肥沃の地・・・とありますが、伊那谷は伊那平(たいら)とは、昔も今も呼びません。
次のテーマは伊奈忠次から四代前の伊奈易氏・易次の信濃の国の赴任地を探っていこうと思います。その前に、少し寄り道をします。まさに道草ですが、三州街道から少し離れていますが、三河の豊川です。
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