木曽家親移住付高遠家廃興 現代語訳 蕗原拾葉11より
その後、何年か経て九十五代の帝を後醍醐天皇と呼んでいたが、帝が鎌倉の執権北条(相模守・平の)高時を誅殺でき、ようやく北条一族の過去の悪政(一統の業)に報いができたが、しばらくしたら、高時の次男の(相模次郎)時行が信濃の諏訪郡の諏訪(三河守)頼重の許に隠れて生き残り、自分と同志の北条残党を集め(=余類を催し)鎌倉へ反撃して復権する事を計画する。旭将軍木曾義仲の六代目の後胤の木曽(又太郎)家村(・太平記大全には木曽源七と名乗らせている)は出征し、時行軍と戦うが、木曽軍は少数なので敗北させられ、ついに時行は鎌倉へ乱入する。足利(治部大輔)尊氏は、応戦するが時行に反撃される。要所の鎌倉で幕府に反目するので、尊氏は新田(左兵衛督)義貞を節度使(=地方の軍政官、この時は鎌倉の鎮圧軍)に任命して鎌倉へ出向かせた。義貞の軍勢は各所の北条残党を攻撃した。箱根の一戦でも、少し前、足利直義を打ち破り勝ちを誇って搦手に向かうが、(一宮の)尊良親王に箱根の竹ノ下の戦いで敗北を喫したのを聞いて、義貞は力及ばずと思い帰京する。尊氏は東国の幕府軍を率いて北条残党に攻め向かっていった。木曽家村はその前から尊氏に追随し、大渡の戦いから山門の攻撃、京中の合戦、豊島河原難戦、また西国落ちの湊川の戦いに至るまで、度々の粉骨(骨身を惜しまずに苦労すること)を尽くしていた。その功績で、暦応元年(1338)9月7日讃岐守に任官され、木曽谷とともに伊那郡高遠と筑摩郡洗馬を与えられ、帰国して長男を高遠に住まわせた。長男の名を高遠(太郎)家親といい、これが高遠家の始祖となった。
以下、木曽家の家系図・・・(因・接続詞・それに関連して、と解釈?)
(箇条書き、に書き直して)
木曽義仲には四人の男児がいた。
・長男は、志水((・清水)冠者)義隆、頼朝の虜になり元暦元年(1184)4月21日武州・入間河原で殺害される。・次男は、原(・治郎(次郎))義重。・三男は、木曽(三郎)義基。
・季(末)子は、木曽(四郎)義宗。・・母は、上州の住人の沼田家国の娘であった。
・・原義重、義仲が討たれた後、祖父の家国に育てられ沼田荘に隠れ住んだ。その子を(刑部少輔)義茂という。義茂は義重のことか?。・源(三郎)基家は、原義重の子。鎌倉五代頼嗣将軍(摂家将軍藤原頼嗣)から名香山荘を貰う。鎌倉に出仕。・安養野(兵部少輔)家昌は基家の子。上野家の始祖。・熱川(刑部少輔)家満は、系譜。熱川家の始祖。・千村(五郎)家重は系譜。上州に住んで、そこが千村荘になる。・・六郎は早世。
*・木曽(七郎・伊予守)家道は系譜。木曽須原に住す。義仲以後絶えた木曽家を再興し祖となる。
・木曽(佐馬頭)義昌は、系譜。この時、南北朝が分かれて天下(四海・天下の意味)に動乱が起こり、休むことなく騒乱が続いた。その中でも(就中<ナカンズク>接続詞、とりわけ、そのなかでも)当高遠郡は南朝の皇子(一品征夷大将軍)宗良親王は大河原の香阪高宗の城郭を御所に見立てて、朝敵の追討の計画を怠慢無く遂行していた。当信濃国の宮方には、上杉民部太輔、仁科弾正少弼、井上、高梨、海野、望月、知久、村上の一族が勢力を誇ってあり、近隣の敵に対して優勢であった。将軍側は個々の城が孤立に陥り、防戦するがかなわず、反旗を降ろして宮方に従う。
*・木曽家親は義昌の子。やむを得ず木曽家親も降参して、大河原に長年のわたり出仕していたが、やがて死去する。・・その年月は不詳。
*・その子の(太郎)義信が後を継ぎ、応安2年(1369)10月に、上杉(弾正少弼)朝房と畠山(右衛門佐)基国入道、徳本?が両大将として大河原の御所を襲った。これに対し宮方の諸将は塩尻の青柳の嶺嶺を守って防戦する。折しも、連日の大雪で双方の戦いが膠着していた時に、12月21日、伊那の諸将は青柳の畠山入道の陣に夜襲を掛けて追い払うに至った。上杉陣も勢いが衰え、同23日、和田まで退却し、それから武州の本田へ帰った。それで、伊那の郡中が平穏になった。だが、長引いて宮方の気運がだんだんと衰え、信濃国の諸将がほとんど宮に反旗を翻していった。康暦2年(1380)宗良親王は大河原を引き払って河内国にお帰りになった。
*・木曽義信も、信濃国守護の小笠原長基に臣下していたが、やがて明徳年中(1390-1394)に死去した。・その子の(右馬助)義房が家を継いでいたが、応永28年(1421)に死んだ。
*・その子の(上野介)義雄の代になって、南朝の宮の(一品兵部郷征夷大将軍)尹良親王(宗良親王の第2皇子、吉野で元服して正二位大納言、元年(1386)8月に源氏姓を貰う)は、千野(六郎)頼憲の諏訪島崎城には入った。(疑問・一品や二品は天台宗僧侶の最高位位階であり、宗門経験のない尹良には、これはおかしい、かつ、尹良に征夷大将軍が任命されたという事実は根拠がない。)
伊那の松尾小笠原(兵庫介)政秀と神ノ峰城の知久(左衛門慰)祐矯と大河原の香阪入道を始めとする諸将は、守護臣下から変心して、守護の背いて尹良についた。
*・木曽義雄も宮方についたが将軍側にも属して日和見して、孤立の難を逃れ家を失わなかった。文安2年(1445)3月16日死去。法名義雄殿寺○宗と号す。・その子(左衛門慰)義建、文明(1469-1487)の頃没す。
*・その子を(兵庫助)義俊という。武名は父祖より優れ、近隣の地士(小豪族)を従え、諏訪(刑部大輔)頼隣(ヨリチカ)を討って諏訪郡を手に入れようと野望し小條では接戦でいったんは勝利したが、大将の義俊が流れ矢に当たって討たれ、味方は崩れて敗北して退去するのを頼隣に追いかけられ、高遠城に逃げたが囲まれ何度も攻められられる。味方は突然の籠城なので準備無く、兵糧は欠乏し兵は飢えに苦しみ、やむなく降参を乞うて、いったんの延命を図る。諏訪頼隣はこれを許して、
*・義俊の幼稚なる一子の義嶺に本領を与えて、かつ義俊の旗本の地士を諏訪家に従うように定めて、代官として頼隣の次男(右兵衛慰)信定を天神山の城主に据えて諏訪へ帰る。信定は義嶺が幼少をいいことに侮り、牧を横領して義嶺に与えなかった。義嶺が成長してこの不正を時の信濃守信有に訴訟すること度々だが、言を濁し遅らせた。挙げ句に、義嶺を追い出してその跡地を信定の任せるという下心が見えたので、とうとう深く憤慨して、この不正を許さんと、信定を討ち取って多年の鬱憤を晴らさんと思っていた時、好機が到来してきた。信濃守政満(頼隣の孫、信有の子)が大祝高家に殺され、諏訪郡、諏訪家が二つに割れて争乱が起こった。義嶺はこの時とばかり与力の兵を集め、天神山に夜襲を掛ける。信定は、諏訪の騒乱を鎮める事もあり、郎党を双方に分けて派兵してきた。信定軍は少数だったので支えきれず、囲みの一方を破り、笠原山に逃げ登り、黒沢を峰伝いに諏訪へ退却する。これで、義嶺は両方の領土を取り戻し、地士を支配するに至った。・その子(豊後守)義里。
*・その子(左衛門慰)義久に相続して繁栄する。天文(1532-1555)のはじめ、信濃高遠の郡司小笠原(孫六郎)信定と不和になり小競り合いをするに及んで、隣の木曽谷の領主の(左京太夫)義康(・家村から八代あと、甲斐軍艦に(左衛門佐)義高としている)は、義久の軍が孤立し援軍がないのを確かめて、兵を潜めながら来て高遠を襲う。義久は、突然のことで防御の時間と対策がとれず、城を明け渡して落ちていった.哀れであった。これで、高遠九代190年の年月が続いた木曽高遠が絶えた。木曽が木曽に攻略されたのである。
高遠治乱記では、永正年中(1504-1520)諏訪信定が天神山に城を構えて付近を領有していた。天神山城には信定の子息を城主にして高遠一揆衆を治めた。諏訪一族の統治に抵抗する貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部)は、天神山城に夜襲をかけたが、天神山の信定に、保科が夜襲があることを知らせたので、信定の郎党は諏訪の黒沢山の峰伝いに諏訪に逃れた。この夜襲に怒っていた諏訪信定は(陣を立て直し)諏訪から藤沢谷を通り高遠に入って、貝沼と春日を討ち果たし、その両人の領地を、夜襲の知らせの礼として保科の与え、城に戻った。これより保科氏は、高遠一揆衆のなかで一番の大身になった。
・・この保科は誰であるのか、不明。藤沢谷の保科、若穂保科から流れた保科正則の可能性。
・・この時の高遠城は不明。天神山城が諏訪一族の城であった。
諏訪家の家系に拠れば、諏訪信定は、諏訪頼隣(刑部太夫)の次男で、信有(信濃守)の弟である。
諏訪家の財力と武力は、かなり裕福だったので、他を軽んじて自身を信じすぎて、子孫などの力を信用しなかった。ことに保科家は、従来からの諏訪家の家来ではなく、保科(正則?正俊??)の父は高井郡保科の領主であり、保科(筑前守)正則とその子の甚四郎正俊の代・・疑問・・に、伊那郡に移り、正俊は文永二年83歳で卒する、と保科家系に記録がある。逆に辿れば、正俊の出生は永正8年になる。このことを推測すると、永正年中に「高遠治乱」が起きたとすると、永正17年の永正末年でも正俊10歳の小児となり、10歳の正俊が武功を挙げて一家を興すというのは、無理がある。
一説には、木曽高遠家は木曽に負けて所領は少なくなったが、なお高遠に住んでいたが、まもなく病死する。子が無くて家系は断絶したともいう。
箕輪系図といって、伊那恩知集に記載された内容を見てみると、高遠家親の孫の(右馬助)義房になって、はじめて高遠と箕輪の両城を持ち、箕輪を家号とする。子孫に(大膳)義成というものが、天正(1573-1593)小笠原貞慶に従って青柳合戦で討死する。その系図はすべて高遠と同じであり、ただ義嶺と義里の間に刑部左衛門某が記載されておるが、これは何故なのか説明できない。これを記して後世に考察を乞う。
矛盾と疑問点
諏訪信定を攻撃したのは誰か、春日氏と貝沼氏なのか、木曽(高遠)義嶺なのか、また木曽氏と春日氏と貝沼氏の関係は?
天神山城の攻撃(最初)は木曽氏伝承でも高遠治乱記でも記載有り、名前のみ違う。
木曽伝承には二度目の信定の反攻の記載がない。その後の保科氏の活躍の前提や、高遠頼継の各書の存在をみると、木曽のその後の存続は疑問が残る。
定説としてある、諏訪高遠家の系譜も満継以前に疑問が残る。
高遠家は、鎌倉時代は笠原高遠家、室町前期は木曽高遠家、文明以降室町時代は諏訪高遠家、戦国期は武田(高遠)、森(高遠)、京極(代官岩崎重次・高遠)、保科(高遠)、幕藩の藩主と続いたのか。木曽と諏訪の繋ぎが不明?特に諏訪高遠の頼継以前が不鮮明
その後、何年か経て九十五代の帝を後醍醐天皇と呼んでいたが、帝が鎌倉の執権北条(相模守・平の)高時を誅殺でき、ようやく北条一族の過去の悪政(一統の業)に報いができたが、しばらくしたら、高時の次男の(相模次郎)時行が信濃の諏訪郡の諏訪(三河守)頼重の許に隠れて生き残り、自分と同志の北条残党を集め(=余類を催し)鎌倉へ反撃して復権する事を計画する。旭将軍木曾義仲の六代目の後胤の木曽(又太郎)家村(・太平記大全には木曽源七と名乗らせている)は出征し、時行軍と戦うが、木曽軍は少数なので敗北させられ、ついに時行は鎌倉へ乱入する。足利(治部大輔)尊氏は、応戦するが時行に反撃される。要所の鎌倉で幕府に反目するので、尊氏は新田(左兵衛督)義貞を節度使(=地方の軍政官、この時は鎌倉の鎮圧軍)に任命して鎌倉へ出向かせた。義貞の軍勢は各所の北条残党を攻撃した。箱根の一戦でも、少し前、足利直義を打ち破り勝ちを誇って搦手に向かうが、(一宮の)尊良親王に箱根の竹ノ下の戦いで敗北を喫したのを聞いて、義貞は力及ばずと思い帰京する。尊氏は東国の幕府軍を率いて北条残党に攻め向かっていった。木曽家村はその前から尊氏に追随し、大渡の戦いから山門の攻撃、京中の合戦、豊島河原難戦、また西国落ちの湊川の戦いに至るまで、度々の粉骨(骨身を惜しまずに苦労すること)を尽くしていた。その功績で、暦応元年(1338)9月7日讃岐守に任官され、木曽谷とともに伊那郡高遠と筑摩郡洗馬を与えられ、帰国して長男を高遠に住まわせた。長男の名を高遠(太郎)家親といい、これが高遠家の始祖となった。
以下、木曽家の家系図・・・(因・接続詞・それに関連して、と解釈?)
(箇条書き、に書き直して)
木曽義仲には四人の男児がいた。
・長男は、志水((・清水)冠者)義隆、頼朝の虜になり元暦元年(1184)4月21日武州・入間河原で殺害される。・次男は、原(・治郎(次郎))義重。・三男は、木曽(三郎)義基。
・季(末)子は、木曽(四郎)義宗。・・母は、上州の住人の沼田家国の娘であった。
・・原義重、義仲が討たれた後、祖父の家国に育てられ沼田荘に隠れ住んだ。その子を(刑部少輔)義茂という。義茂は義重のことか?。・源(三郎)基家は、原義重の子。鎌倉五代頼嗣将軍(摂家将軍藤原頼嗣)から名香山荘を貰う。鎌倉に出仕。・安養野(兵部少輔)家昌は基家の子。上野家の始祖。・熱川(刑部少輔)家満は、系譜。熱川家の始祖。・千村(五郎)家重は系譜。上州に住んで、そこが千村荘になる。・・六郎は早世。
*・木曽(七郎・伊予守)家道は系譜。木曽須原に住す。義仲以後絶えた木曽家を再興し祖となる。
・木曽(佐馬頭)義昌は、系譜。この時、南北朝が分かれて天下(四海・天下の意味)に動乱が起こり、休むことなく騒乱が続いた。その中でも(就中<ナカンズク>接続詞、とりわけ、そのなかでも)当高遠郡は南朝の皇子(一品征夷大将軍)宗良親王は大河原の香阪高宗の城郭を御所に見立てて、朝敵の追討の計画を怠慢無く遂行していた。当信濃国の宮方には、上杉民部太輔、仁科弾正少弼、井上、高梨、海野、望月、知久、村上の一族が勢力を誇ってあり、近隣の敵に対して優勢であった。将軍側は個々の城が孤立に陥り、防戦するがかなわず、反旗を降ろして宮方に従う。
*・木曽家親は義昌の子。やむを得ず木曽家親も降参して、大河原に長年のわたり出仕していたが、やがて死去する。・・その年月は不詳。
*・その子の(太郎)義信が後を継ぎ、応安2年(1369)10月に、上杉(弾正少弼)朝房と畠山(右衛門佐)基国入道、徳本?が両大将として大河原の御所を襲った。これに対し宮方の諸将は塩尻の青柳の嶺嶺を守って防戦する。折しも、連日の大雪で双方の戦いが膠着していた時に、12月21日、伊那の諸将は青柳の畠山入道の陣に夜襲を掛けて追い払うに至った。上杉陣も勢いが衰え、同23日、和田まで退却し、それから武州の本田へ帰った。それで、伊那の郡中が平穏になった。だが、長引いて宮方の気運がだんだんと衰え、信濃国の諸将がほとんど宮に反旗を翻していった。康暦2年(1380)宗良親王は大河原を引き払って河内国にお帰りになった。
*・木曽義信も、信濃国守護の小笠原長基に臣下していたが、やがて明徳年中(1390-1394)に死去した。・その子の(右馬助)義房が家を継いでいたが、応永28年(1421)に死んだ。
*・その子の(上野介)義雄の代になって、南朝の宮の(一品兵部郷征夷大将軍)尹良親王(宗良親王の第2皇子、吉野で元服して正二位大納言、元年(1386)8月に源氏姓を貰う)は、千野(六郎)頼憲の諏訪島崎城には入った。(疑問・一品や二品は天台宗僧侶の最高位位階であり、宗門経験のない尹良には、これはおかしい、かつ、尹良に征夷大将軍が任命されたという事実は根拠がない。)
伊那の松尾小笠原(兵庫介)政秀と神ノ峰城の知久(左衛門慰)祐矯と大河原の香阪入道を始めとする諸将は、守護臣下から変心して、守護の背いて尹良についた。
*・木曽義雄も宮方についたが将軍側にも属して日和見して、孤立の難を逃れ家を失わなかった。文安2年(1445)3月16日死去。法名義雄殿寺○宗と号す。・その子(左衛門慰)義建、文明(1469-1487)の頃没す。
*・その子を(兵庫助)義俊という。武名は父祖より優れ、近隣の地士(小豪族)を従え、諏訪(刑部大輔)頼隣(ヨリチカ)を討って諏訪郡を手に入れようと野望し小條では接戦でいったんは勝利したが、大将の義俊が流れ矢に当たって討たれ、味方は崩れて敗北して退去するのを頼隣に追いかけられ、高遠城に逃げたが囲まれ何度も攻められられる。味方は突然の籠城なので準備無く、兵糧は欠乏し兵は飢えに苦しみ、やむなく降参を乞うて、いったんの延命を図る。諏訪頼隣はこれを許して、
*・義俊の幼稚なる一子の義嶺に本領を与えて、かつ義俊の旗本の地士を諏訪家に従うように定めて、代官として頼隣の次男(右兵衛慰)信定を天神山の城主に据えて諏訪へ帰る。信定は義嶺が幼少をいいことに侮り、牧を横領して義嶺に与えなかった。義嶺が成長してこの不正を時の信濃守信有に訴訟すること度々だが、言を濁し遅らせた。挙げ句に、義嶺を追い出してその跡地を信定の任せるという下心が見えたので、とうとう深く憤慨して、この不正を許さんと、信定を討ち取って多年の鬱憤を晴らさんと思っていた時、好機が到来してきた。信濃守政満(頼隣の孫、信有の子)が大祝高家に殺され、諏訪郡、諏訪家が二つに割れて争乱が起こった。義嶺はこの時とばかり与力の兵を集め、天神山に夜襲を掛ける。信定は、諏訪の騒乱を鎮める事もあり、郎党を双方に分けて派兵してきた。信定軍は少数だったので支えきれず、囲みの一方を破り、笠原山に逃げ登り、黒沢を峰伝いに諏訪へ退却する。これで、義嶺は両方の領土を取り戻し、地士を支配するに至った。・その子(豊後守)義里。
*・その子(左衛門慰)義久に相続して繁栄する。天文(1532-1555)のはじめ、信濃高遠の郡司小笠原(孫六郎)信定と不和になり小競り合いをするに及んで、隣の木曽谷の領主の(左京太夫)義康(・家村から八代あと、甲斐軍艦に(左衛門佐)義高としている)は、義久の軍が孤立し援軍がないのを確かめて、兵を潜めながら来て高遠を襲う。義久は、突然のことで防御の時間と対策がとれず、城を明け渡して落ちていった.哀れであった。これで、高遠九代190年の年月が続いた木曽高遠が絶えた。木曽が木曽に攻略されたのである。
高遠治乱記では、永正年中(1504-1520)諏訪信定が天神山に城を構えて付近を領有していた。天神山城には信定の子息を城主にして高遠一揆衆を治めた。諏訪一族の統治に抵抗する貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部)は、天神山城に夜襲をかけたが、天神山の信定に、保科が夜襲があることを知らせたので、信定の郎党は諏訪の黒沢山の峰伝いに諏訪に逃れた。この夜襲に怒っていた諏訪信定は(陣を立て直し)諏訪から藤沢谷を通り高遠に入って、貝沼と春日を討ち果たし、その両人の領地を、夜襲の知らせの礼として保科の与え、城に戻った。これより保科氏は、高遠一揆衆のなかで一番の大身になった。
・・この保科は誰であるのか、不明。藤沢谷の保科、若穂保科から流れた保科正則の可能性。
・・この時の高遠城は不明。天神山城が諏訪一族の城であった。
諏訪家の家系に拠れば、諏訪信定は、諏訪頼隣(刑部太夫)の次男で、信有(信濃守)の弟である。
諏訪家の財力と武力は、かなり裕福だったので、他を軽んじて自身を信じすぎて、子孫などの力を信用しなかった。ことに保科家は、従来からの諏訪家の家来ではなく、保科(正則?正俊??)の父は高井郡保科の領主であり、保科(筑前守)正則とその子の甚四郎正俊の代・・疑問・・に、伊那郡に移り、正俊は文永二年83歳で卒する、と保科家系に記録がある。逆に辿れば、正俊の出生は永正8年になる。このことを推測すると、永正年中に「高遠治乱」が起きたとすると、永正17年の永正末年でも正俊10歳の小児となり、10歳の正俊が武功を挙げて一家を興すというのは、無理がある。
一説には、木曽高遠家は木曽に負けて所領は少なくなったが、なお高遠に住んでいたが、まもなく病死する。子が無くて家系は断絶したともいう。
箕輪系図といって、伊那恩知集に記載された内容を見てみると、高遠家親の孫の(右馬助)義房になって、はじめて高遠と箕輪の両城を持ち、箕輪を家号とする。子孫に(大膳)義成というものが、天正(1573-1593)小笠原貞慶に従って青柳合戦で討死する。その系図はすべて高遠と同じであり、ただ義嶺と義里の間に刑部左衛門某が記載されておるが、これは何故なのか説明できない。これを記して後世に考察を乞う。
矛盾と疑問点
諏訪信定を攻撃したのは誰か、春日氏と貝沼氏なのか、木曽(高遠)義嶺なのか、また木曽氏と春日氏と貝沼氏の関係は?
天神山城の攻撃(最初)は木曽氏伝承でも高遠治乱記でも記載有り、名前のみ違う。
木曽伝承には二度目の信定の反攻の記載がない。その後の保科氏の活躍の前提や、高遠頼継の各書の存在をみると、木曽のその後の存続は疑問が残る。
定説としてある、諏訪高遠家の系譜も満継以前に疑問が残る。
高遠家は、鎌倉時代は笠原高遠家、室町前期は木曽高遠家、文明以降室町時代は諏訪高遠家、戦国期は武田(高遠)、森(高遠)、京極(代官岩崎重次・高遠)、保科(高遠)、幕藩の藩主と続いたのか。木曽と諏訪の繋ぎが不明?特に諏訪高遠の頼継以前が不鮮明