伊奈忠次の源流の再資料 5代前の荒川易氏の信濃国
頼んでおいた資料が届いたと近くの図書館から連絡が来た。
「豊丘村村誌」である。知久氏と芦川氏館の項をを調べたいので、取り寄せをを頼んでおいたのだ。
埼玉県に住む者が長野県の図書館に蔵書されている資料を見るには、近くの図書館を経由する方法があるのは最近知ったことである。
以下、原文をそのまま記載する。
「豊丘村村誌」上巻、P143-P144・・
第1章第8節 壬生沢の足利殿
これより先、天正元年京都の室町幕府の第十五代将軍義昭は、武田信玄と結んで織田信長を討たんと画策し、却って信長のために追われ、将軍はここに亡びてしまった。この時に足利氏の一族の者が亡命して、信州の山奥の壬生沢の天険、字あしかわに拠り、その名あしかがをかくしてあしかわと言ったという伝承があって、村内ではこれを知り「足利殿」と言い、京都から来た足利氏であると伝えている。これを明らかにする文書はないが、足利氏の遺品と称するものを見れば単なる伝承ではないと思われる。足利一族が亡命して隠棲したと言う所は壬生沢中心の高台を利用した天険の地に構築された城砦である。正面から城址が見えず、南と北に開け、東方は山地につづき、館の址は今水田となっている。付近には土塁の址、物見台、すずみ場、碁打場、馬屋のつるねなどの地名があり、無名の墓もある。東方の渓谷から引水した井桁の址も残っている。この城址から足利時代の茶臼が発見されたが、俗鄙では到底見ることのできない大型のうすで、しかも精巧にできている頗る貴重なものである。足利殿はここで農耕しながら武技を練り、したたかの黄金をためたらしい。そして勢いにまかせて矯慢な振舞があったから郷民に憎まれ、終に追放されてしまった、と言うのである。この時のこして行った馬の鞍、青貝ずりの矢筒、弓矢、画軸などがあるが、いずれも室町時代のものと見られる。足利殿は山伝いに帰牛原へ出て西国を目指して逃げ去ったという。遺品は壬生清美氏方に保管されている。」
P701-P702
第2章 伝説 芦川館
「壬生沢の字芦川という所に芦川殿の館あとというところがあって、そこを中心にしていろいろのいいつたえをもつ地名が散在し、それに関係した遺物が保存されております。
芦川殿は足利殿という殿様であったといわれております。むかし遠い西の方から世をのがれてはるばる壬生沢の山中へ入り込んで来て、ここにおちついて、りっぱな館をかまえ一族が大へんはびこり武士の権利をふりまわしました。あんまり威張りましたから土地の人々からいどまれておることができなくなり、長い間すみなれた館をすててどこかへ逃げて行ってしまいました。その時のこしておいていったという弓の矢二本と青貝ずりの矢筒の馬のくらがのこっております。館あとの東の丘の上の天伯さまの森の中に芦川殿の使ったという茶臼がまつってあります。それでこの近所に一族のお墓らしい古い墓石がいくつもならんでおり、屋敷あとにあったお墓からは刀が出ました。その近くに弓のけいこをしたというまとうずるね、敵の弓矢をふせいだというどるいのあと、物見台のあとらしい涼み場、碁うちば、馬屋のあった馬屋のつるね、井戸のあと、水を引いた井水のあとなどがのこっております。
今でも春になるとお姫さまの大事にしていたという紫色のかわいらしい百合の花がこの森のあたりに咲いて、その昔をかなしげに物語っております。芦川殿が館をすてて逃げる時にたくさんの黄金を埋めておいたという所にこんな歌がのこされました。
朝日さす 夕日かがやく 芦川の ちがやのもとに 黄金千両
芦川殿は大切にして持っていたお薬師さまと籾だけは途中の農家へあづけておき、いのちからがら逃げていきました。それから何年かの後こっそり牛を引いて取りに来ましたが、その籾はもうありませんでした。仕方なく牛を引いて帰って行きました。そこが帰牛原でした。」
第1章は、第2章の基本構成を基にして、この筆者独自の足利氏解釈を被せて書いた解説文とみえます。
筆者独自の足利氏解釈は15代将軍の足利義昭の経歴の所ですが、私の知識では、足利義昭は織田信長と途中で対立して西国に逃げたが、本能寺あと、連絡を取り合っていた秀吉の九州征伐など助け、関白・将軍時代を少し続けたあと、朝廷に秀吉に連れられて将軍職辞退した、そのあと、秀吉に一万石の領地をもらって大名になっている。
・・・記憶が正しいか、そのあたりの歴史の再確認もしてみたい。
第1章も2章も、足利氏が「武士の権利をふりまわしました。あんまり威張りましたから土地の人々からいどまれておることができなくなり、長い間すみなれた館をすててどこかへ逃げ」ました。
あるいは、「矯慢な振舞があったから郷民に憎まれ、終に追放されて」しまいました。
・・・武士の権利や傲慢な振る舞いや威張ったことで、郷民に追放されるのだろうか、という疑問である。これが、隣接する「武力をもった」領主などだったら、話が別なのだが。
頼んでおいた資料が届いたと近くの図書館から連絡が来た。
「豊丘村村誌」である。知久氏と芦川氏館の項をを調べたいので、取り寄せをを頼んでおいたのだ。
埼玉県に住む者が長野県の図書館に蔵書されている資料を見るには、近くの図書館を経由する方法があるのは最近知ったことである。
以下、原文をそのまま記載する。
「豊丘村村誌」上巻、P143-P144・・
第1章第8節 壬生沢の足利殿
これより先、天正元年京都の室町幕府の第十五代将軍義昭は、武田信玄と結んで織田信長を討たんと画策し、却って信長のために追われ、将軍はここに亡びてしまった。この時に足利氏の一族の者が亡命して、信州の山奥の壬生沢の天険、字あしかわに拠り、その名あしかがをかくしてあしかわと言ったという伝承があって、村内ではこれを知り「足利殿」と言い、京都から来た足利氏であると伝えている。これを明らかにする文書はないが、足利氏の遺品と称するものを見れば単なる伝承ではないと思われる。足利一族が亡命して隠棲したと言う所は壬生沢中心の高台を利用した天険の地に構築された城砦である。正面から城址が見えず、南と北に開け、東方は山地につづき、館の址は今水田となっている。付近には土塁の址、物見台、すずみ場、碁打場、馬屋のつるねなどの地名があり、無名の墓もある。東方の渓谷から引水した井桁の址も残っている。この城址から足利時代の茶臼が発見されたが、俗鄙では到底見ることのできない大型のうすで、しかも精巧にできている頗る貴重なものである。足利殿はここで農耕しながら武技を練り、したたかの黄金をためたらしい。そして勢いにまかせて矯慢な振舞があったから郷民に憎まれ、終に追放されてしまった、と言うのである。この時のこして行った馬の鞍、青貝ずりの矢筒、弓矢、画軸などがあるが、いずれも室町時代のものと見られる。足利殿は山伝いに帰牛原へ出て西国を目指して逃げ去ったという。遺品は壬生清美氏方に保管されている。」
P701-P702
第2章 伝説 芦川館
「壬生沢の字芦川という所に芦川殿の館あとというところがあって、そこを中心にしていろいろのいいつたえをもつ地名が散在し、それに関係した遺物が保存されております。
芦川殿は足利殿という殿様であったといわれております。むかし遠い西の方から世をのがれてはるばる壬生沢の山中へ入り込んで来て、ここにおちついて、りっぱな館をかまえ一族が大へんはびこり武士の権利をふりまわしました。あんまり威張りましたから土地の人々からいどまれておることができなくなり、長い間すみなれた館をすててどこかへ逃げて行ってしまいました。その時のこしておいていったという弓の矢二本と青貝ずりの矢筒の馬のくらがのこっております。館あとの東の丘の上の天伯さまの森の中に芦川殿の使ったという茶臼がまつってあります。それでこの近所に一族のお墓らしい古い墓石がいくつもならんでおり、屋敷あとにあったお墓からは刀が出ました。その近くに弓のけいこをしたというまとうずるね、敵の弓矢をふせいだというどるいのあと、物見台のあとらしい涼み場、碁うちば、馬屋のあった馬屋のつるね、井戸のあと、水を引いた井水のあとなどがのこっております。
今でも春になるとお姫さまの大事にしていたという紫色のかわいらしい百合の花がこの森のあたりに咲いて、その昔をかなしげに物語っております。芦川殿が館をすてて逃げる時にたくさんの黄金を埋めておいたという所にこんな歌がのこされました。
朝日さす 夕日かがやく 芦川の ちがやのもとに 黄金千両
芦川殿は大切にして持っていたお薬師さまと籾だけは途中の農家へあづけておき、いのちからがら逃げていきました。それから何年かの後こっそり牛を引いて取りに来ましたが、その籾はもうありませんでした。仕方なく牛を引いて帰って行きました。そこが帰牛原でした。」
第1章は、第2章の基本構成を基にして、この筆者独自の足利氏解釈を被せて書いた解説文とみえます。
筆者独自の足利氏解釈は15代将軍の足利義昭の経歴の所ですが、私の知識では、足利義昭は織田信長と途中で対立して西国に逃げたが、本能寺あと、連絡を取り合っていた秀吉の九州征伐など助け、関白・将軍時代を少し続けたあと、朝廷に秀吉に連れられて将軍職辞退した、そのあと、秀吉に一万石の領地をもらって大名になっている。
・・・記憶が正しいか、そのあたりの歴史の再確認もしてみたい。
第1章も2章も、足利氏が「武士の権利をふりまわしました。あんまり威張りましたから土地の人々からいどまれておることができなくなり、長い間すみなれた館をすててどこかへ逃げ」ました。
あるいは、「矯慢な振舞があったから郷民に憎まれ、終に追放されて」しまいました。
・・・武士の権利や傲慢な振る舞いや威張ったことで、郷民に追放されるのだろうか、という疑問である。これが、隣接する「武力をもった」領主などだったら、話が別なのだが。