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伊奈忠次の源流の再資料 5代前の荒川易氏の信濃国

2012-12-17 00:41:22 | 歴史
伊奈忠次の源流の再資料 5代前の荒川易氏の信濃国

頼んでおいた資料が届いたと近くの図書館から連絡が来た。
「豊丘村村誌」である。知久氏と芦川氏館の項をを調べたいので、取り寄せをを頼んでおいたのだ。
埼玉県に住む者が長野県の図書館に蔵書されている資料を見るには、近くの図書館を経由する方法があるのは最近知ったことである。

以下、原文をそのまま記載する。
「豊丘村村誌」上巻、P143-P144・・
第1章第8節 壬生沢の足利殿
これより先、天正元年京都の室町幕府の第十五代将軍義昭は、武田信玄と結んで織田信長を討たんと画策し、却って信長のために追われ、将軍はここに亡びてしまった。この時に足利氏の一族の者が亡命して、信州の山奥の壬生沢の天険、字あしかわに拠り、その名あしかがをかくしてあしかわと言ったという伝承があって、村内ではこれを知り「足利殿」と言い、京都から来た足利氏であると伝えている。これを明らかにする文書はないが、足利氏の遺品と称するものを見れば単なる伝承ではないと思われる。足利一族が亡命して隠棲したと言う所は壬生沢中心の高台を利用した天険の地に構築された城砦である。正面から城址が見えず、南と北に開け、東方は山地につづき、館の址は今水田となっている。付近には土塁の址、物見台、すずみ場、碁打場、馬屋のつるねなどの地名があり、無名の墓もある。東方の渓谷から引水した井桁の址も残っている。この城址から足利時代の茶臼が発見されたが、俗鄙では到底見ることのできない大型のうすで、しかも精巧にできている頗る貴重なものである。足利殿はここで農耕しながら武技を練り、したたかの黄金をためたらしい。そして勢いにまかせて矯慢な振舞があったから郷民に憎まれ、終に追放されてしまった、と言うのである。この時のこして行った馬の鞍、青貝ずりの矢筒、弓矢、画軸などがあるが、いずれも室町時代のものと見られる。足利殿は山伝いに帰牛原へ出て西国を目指して逃げ去ったという。遺品は壬生清美氏方に保管されている。」
P701-P702
第2章 伝説 芦川館
「壬生沢の字芦川という所に芦川殿の館あとというところがあって、そこを中心にしていろいろのいいつたえをもつ地名が散在し、それに関係した遺物が保存されております。
芦川殿は足利殿という殿様であったといわれております。むかし遠い西の方から世をのがれてはるばる壬生沢の山中へ入り込んで来て、ここにおちついて、りっぱな館をかまえ一族が大へんはびこり武士の権利をふりまわしました。あんまり威張りましたから土地の人々からいどまれておることができなくなり、長い間すみなれた館をすててどこかへ逃げて行ってしまいました。その時のこしておいていったという弓の矢二本と青貝ずりの矢筒の馬のくらがのこっております。館あとの東の丘の上の天伯さまの森の中に芦川殿の使ったという茶臼がまつってあります。それでこの近所に一族のお墓らしい古い墓石がいくつもならんでおり、屋敷あとにあったお墓からは刀が出ました。その近くに弓のけいこをしたというまとうずるね、敵の弓矢をふせいだというどるいのあと、物見台のあとらしい涼み場、碁うちば、馬屋のあった馬屋のつるね、井戸のあと、水を引いた井水のあとなどがのこっております。
今でも春になるとお姫さまの大事にしていたという紫色のかわいらしい百合の花がこの森のあたりに咲いて、その昔をかなしげに物語っております。芦川殿が館をすてて逃げる時にたくさんの黄金を埋めておいたという所にこんな歌がのこされました。
   朝日さす 夕日かがやく 芦川の ちがやのもとに 黄金千両
芦川殿は大切にして持っていたお薬師さまと籾だけは途中の農家へあづけておき、いのちからがら逃げていきました。それから何年かの後こっそり牛を引いて取りに来ましたが、その籾はもうありませんでした。仕方なく牛を引いて帰って行きました。そこが帰牛原でした。」

第1章は、第2章の基本構成を基にして、この筆者独自の足利氏解釈を被せて書いた解説文とみえます。
筆者独自の足利氏解釈は15代将軍の足利義昭の経歴の所ですが、私の知識では、足利義昭は織田信長と途中で対立して西国に逃げたが、本能寺あと、連絡を取り合っていた秀吉の九州征伐など助け、関白・将軍時代を少し続けたあと、朝廷に秀吉に連れられて将軍職辞退した、そのあと、秀吉に一万石の領地をもらって大名になっている。
・・・記憶が正しいか、そのあたりの歴史の再確認もしてみたい。
第1章も2章も、足利氏が「武士の権利をふりまわしました。あんまり威張りましたから土地の人々からいどまれておることができなくなり、長い間すみなれた館をすててどこかへ逃げ」ました。
あるいは、「矯慢な振舞があったから郷民に憎まれ、終に追放されて」しまいました。
・・・武士の権利や傲慢な振る舞いや威張ったことで、郷民に追放されるのだろうか、という疑問である。これが、隣接する「武力をもった」領主などだったら、話が別なのだが。

浪合記 訳文

2012-12-11 00:15:49 | 歴史
少し、時間をかけて、浪合記を検証解読して、平易文にしていました。
論理矛盾のところを修正して、更に読みづらい人名のうち、自称らしい官名は出来るかぎり外してあるので、多少読みやすくなっていると思います。
次回は、宗良親王の人となりを、手紙や和歌などを通して探ってみたいと思います。キャラクターの肉付けで彼を知ろうと思います。うまくいくかどうか?

浪合記 訳文

浪合記は尹良(ユキヨシ)親王とその子良王の二人が主人公の戦記物語です。
時代は、朝廷が南北に分かれてから約60年経った応永四年(1397)の頃の物語です。新田一族の世良田正義は桃井宗綱と相談して、宗良親王の御子の尹良親王を上野の国(群馬県)に迎えました。

尹良親王は、(*1)信濃の国大河原の大草城で生まれた。母は香坂高宗の妹で、育ての乳母は知久敦貞の娘であります。。それから、尹良は吉野に行っては元服まで育ち、中納言・征夷大将軍・親王におなりになりました。
元中3年(1387)8月8日、尹良親王は源の姓をお受けになった。

その後、上野の新田、小田、世良田、桃井をはじめとし、遠江や三河の南朝に味方する人達が相談して、桃井貞識(サダモト)を吉野への使者として遣わして、尹良親王を上野の国へ迎えに行った理由であります。
尹良親王を吉野からお供した武士は、大橋貞元、岡本高家、山川重祐、恒川信規の四人であり、この四人を新田家の四家といいます。吉野からお供してきた公家庶流は、堀田正重、平野業忠、服部宗純、鈴木重政、真野通資、光賀為長、河村秀清の七人で、この七人を七名字と号します。南朝側の武士は、この計11家を吉野11党と呼んだのであります。この11党の人々は心から忠心し、その後ずっと、尹良親王を守護したのであります。

まず、西遠江の井伊谷井伊家、天野遠幹、秋葉家の兵たちがご旅行の間を警護し、駿河の国、富士谷・宇津野(富士宮市内野)の田貫の館(富士宮市猪之頭字長者原、田貫神社)に住んでいただいたのであります。

この田貫の館は田貫次郎のもので、もと富士浅間神社の神主だった人で、その神職を長男の左京亮に譲って宇津野に閑居していたが、次郎の娘が新田義助の妾だったので、その誼(ヨシミ)で親王を招き入れたのでした。
井伊道政は親王を宇津野・田貫に送ったあと、警護の兵を残して本国へ帰りました。
富士十二郷の者たちは新田義助に厚恩を受けていました。郷の者のうち、鈴木正茂、鈴木正武、井出正房、下方三郎、宇津越中守たちが、みんなで尹良親王を饗応して歓迎しました。

柏坂の戦い

元中5年(1388)、宇津野を出発し、上野の国へ向かう途中、(*2)柏坂(足柄上郡山北町柏坂)で、北朝側鎌倉の軍勢が、宮様を襲いました。これに対し、富士十二郷の者の兵が宮を守り戦いました。尹良親王は鈴木越後の丸山の館(湯河原宮上丸山)に入り、桃井和泉守と四家七党が中心となり宮を守りました。敵は4日間丸山の館を取り巻いて攻撃したが、南朝側に、地方豪族が加勢味方するものが多かったといいます。桃井和泉守は500騎を連れて、北朝・鎌倉の大将である上杉重方と嶋崎大炊助の陣に攻めかかった。上杉軍は5000余騎あったが、真っ只中に切り込まれて追われ、途中上杉軍の長野安房守が討ち死にし、退却しました。桃井軍は深追いして上杉軍を追ったが、別動隊の嶋崎軍が桃井軍の背後を突こうと移動すると、桃井軍は上杉追撃と嶋崎防衛に勢力を二分せざるを得なかった。少数になった桃井軍の不利を知った南朝の大橋、岡本、堀田、平野、天野は200騎で急遽、桃井を助けに駆けつける。嶋崎軍は徐々に兵を退いて山浪?まで後退する。上杉軍は200騎を失い上一色(河口湖の旧名)に陣を敷いたので、桃井軍も丸山の館に戻りました。

丸山の館で、井出弾正少弼は鈴木越後に「新田一族の働きには、目を見張るものが有り、私も十二郷のものも驚かされました」と語りかけました。
越後守は「年寄りの言葉として、失礼を許してもらうなら、寺尾城へ行くという大事な目的があるなら、その為の守護護衛なのだから不必要な危険は避けたほうがいいのではないですか」と言いました。
それを聞いていた桃井和泉守は「鈴木殿のおしゃっている事は尤もです」「大人気なく、この桃井が鎌倉方に戦をしないのも無念に思い、また敵が逃げるのを面白がって深追いしました」と反省しました。

尹良親王は丸山を出て、甲斐の武田信長の館(韮崎、日の出城)へ向かいました。
その時の護衛に、宇津越中、下方三郎、鈴木左京、高橋太郎の軍のうち280騎を付けました。

そこから、さらに、上野の国の寺尾の城(高崎市茶臼山城 別称寺尾城)に移りました。
尹良親王が来た寺尾城に新田、世良田その他の豪族が集まりました。

応永19年(1412)4月20日、上杉憲定の軍が寺尾城に向けて来て、世良田政親を攻撃しました。政親は数回の戦闘のあと傷を負い、長楽寺(群馬県大田市世良田)に逃げ込み、そこで自害しました。次男の世良田親氏は、どうにか新田まで逃げました。

同年6月7日、北朝側の木賀秀澄は25人の農民に姿を変えた部下を連れて、底倉(箱根町底倉)に蟄居していた新田義則を夜陰に紛れて攻撃しました。義則は長く防戦していたが、耐えられずついに討ち死にしました。

上杉禅秀の乱

応永23年(1416)上杉禅秀は名月ことよせて新御堂満隆のもとを訪れ、北朝の鎌倉方への謀反を勧めました。同時に武蔵、上野、下野の豪族に廻文を送って、鎌倉叛旗を促しました。時を待っていた新田、世良田、千葉、岩松、小田の各豪族は次々と反旗の旗を上げました。

桃井宗綱は上杉禅秀側に加わり、北朝の鎌倉方を攻撃し、江戸近江守を国清寺(伊豆・韮山)で打ち取り、荏原の矢口(東京都荏原、矢口)に高札を立てて、その首を晒しました。
高札・・
・・・「このたび、相州鎌倉国清寺に於いて、江戸近江守を討ち取った。その首を新田義興に奉るものである
・・・・応永23年丙申10月10日 桃井右京亮源宗綱」

実は、かって江戸遠江守は矢口の渡しで、船のみの「のみ」を抜いて新田義興を溺死させました。江戸近江守はその時の江戸遠江守の子であります

翌年応永24年(1417)1月10日、新御堂満隆と持仲の親族と上杉定禅の家来170人が北朝との戦いに敗れて、ことごとく自害する。

同年5月13日、武州入間川で、岩松大輔は中村時貞に捕まり殺害される。

桃井宗綱は剃髪して、下野入道宗綱と名乗るようになる。

(*3)応永30年(1423)、小栗満重が北朝鎌倉に背き、下総の結城に立て篭る。小栗に味方して桃井入道、宇津宮持綱、真壁義成、佐々木入道が合戦にくわわった。
しばらく経った8月13日に桃井は下野の落合(群馬県藤岡市上落合城山)に帰った。

応永31年(1424)尹良親王を信濃の国にお連れすることになりました。
今までの四家七党に、上野、下野、武蔵から新田義一、世良田政義、世良田親季、世良田政親、桃井宗徹、大江田安房守、羽河景康、羽河景国、宇津宮一類、大岡重宗、宇津道次、大庭景平、熊谷直郷、児玉定政、酒井忠則、鈴木政長、天野遠幹、天野家道、石黒越中守、上野主水正、山内太郎左衛門、土肥助次郎、小山五郎左衛門尉が加わって、上野を出て、4月7日に千野頼憲の嶋崎城(岡谷市、別称岡谷城)にお着きになりました。
(*4)信濃国南朝側は、小笠原政季、千久祐矯ほか香坂、滋谷の一族が嶋崎城に来て尹良親王の旅の疲れを癒し慰めました。

ここで、尹良親王の子の、良王のことが話題になりました。四家七党のものと世良田、桃井の13人で良王を戦いの旅から外して上野の落合に返そうということになり、ここの13人と熊谷弥次郎、同弥三郎、桃井左京亮、宇佐美左衛門尉、開田、上野、天野、土肥、上田、小山らがお供して、落合に帰ることになりました。

8月10日、尹良親王は千野を出発し、三河に向かうことになりました。
ここで、尹良親王は和歌をお作りになっています。
 
・・「さすらへの 身にしありなば 住み果てん とまり定めぬ 憂き旅の空」

尹良親王はこの和歌を千野伊豆守に贈り、千野家では、家宝にしたと言われています。

尹良親王が以前三河に行ったとき、吉良の郷は、桃井義繁に恩のあるものたちが西郷正康をはじめ多く、三河の地で南朝側を集め、落合の良王と示し合わせて、宮方の残兵も集合させて、合戦しようと相談しました。
それで、千野の嶋崎城を出発し、三河に向かうことになりました。三河からは、久世、土屋など大勢が迎へにやってきました。

(*5)13日、飯田に向かう途中、杖突峠で賊徒が道を塞ぎ財宝を奪おうと集まり、あちこちの山より矢を放ちました。小笠原、千久の兵は、尹良親王を護り賊を破りました。

飯田から三河へ向かう。

浪合合戦

大野村(阿智村智里大野、現在の昼神温泉近く)から大雨が降り、道路が大河のように水が流れていた。夜半から風雨がさらに強くなり、あたり一面は全くの暗闇でした。
そこへ、駒場小次郎と飯田太郎という野武士が現れて、尹良親王に襲いかかりました。
下野宗徹、世良田義秋、羽河景康、同景国、一宮伊予守、酒井貞忠、同貞信、熊谷直近、大庭景郷、本多忠弘以下が懸命に防戦しました。賊は、いくら討っても斬っても、ここの地理に詳しく離散集合し、水の中や丘をを飛び回り、畦道などから矢を放ってくる。味方は天難もあり、運もここに窮まって、尹良親王を避難させることも不可能になりつつあった。大井田、一井も賊に討たれてしまいました。
下野入道と政満は山麓の民家に尹良親王の御輿を入れて、もうこれまでと自害をお勧めしました。
宮は残った者たちをお集めになり、「これまでの忠義は後世まで忘れません」とここまでお供した者たちに感謝を言って、ご自害なされました。
同時に、入道を始め主従25人も、各々自害し、家に火をかけ、ことごとく火中に亡んで行きました。
政満は遺言を守り持って、この難中を逃れ上野国に帰りました。

尹良親王 自害

時は往永31年(1424)8月15日
(*6)信濃国浪合にて尹良親王自割。
この場所を宮の原と呼ぶ。
討死の死骸を埋めた塚を千人塚と呼ぶ。
ここは、信濃国浪合の(*7)聖光寺にある。

合戦討死名と法名

大龍寺殿一品尹良親王尊儀(後醍醐天皇孫)
大円院長(一字ヌケ)宗徹大居士(桃井入道宗綱)
智真院浄誉義視大居士(羽河安芸守景庸)
依正院義傅道伴大居士(世良田義秋)


良王伝

良王の父は尹良親王で母は世良田政義の娘で、上野国寺尾城でお生まれになりました。そして、正長元年(1428)に寺尾城から下野国三河村の落合城(前橋市三河)に移りました。

永享5年(1433)良王は寺尾城を出発して、信濃国に向かう途中、笛吹峠で北朝の上杉軍が追ってきて合戦になりました。良王は木戸河内守の城に立てこもり、防戦します。
同年5月12日、木戸の城を出て、木曽の金子の館(?不明)へ行ってしばらく滞在します。そのうち、千久五郎が迎えに来て、伊那の千久城(知久城、飯田市下久堅知久平)にお連れします。
同年冬、世良田政義と桃井貞綱は四家七党とも相談して、良王を尾張の津島にお連れすることを決めます。
同年12月1日、まず三河に向かい、途中浪合に到着します。

浪合合戦2

浪合では、先年尹良親王との戦いで、駒場小次郎と飯田太郎が討死しており、飯田や駒場の一族郎党が「宮方は親兄弟の仇、討ち取って供養にしよう」と待ち構えて、良王を取り囲みました。
桃井貞綱、世良田政親、児玉貞広らが浪合の森から反撃し、賊徒130人くらいを討ち取ったが、戦闘は終結しませんでした。
翌日も朝から夕方・夜半(酉刻から亥刻=PM6:00~PM12:00)まで戦いは続き、その間の良王を合の山(平谷?)まで避難させました。激闘は宮方にも被害が多く、桃井貞網、児玉貞広、野田彦次郎、加治監物以下21騎が戦死しました。

3日目、桃井満昌が合の山にいた7、8人の子供に「浪合の合戦はどうなったのか」尋ねたところ、
子供の一人が「自分は浪合近くの村に住んでいますが、昨日浪合近くの民家に武士が大勢駆け込んで腹を切りました。大将も腹を召されたそうです。」と答えた。
満昌が続いて「その腹を切った者たちの遺骸はどうなったか」尋ねると、
子供は「武士たちは切腹したあと、家に火をかけました。」「風が烈しく吹いていたので、浪合の街は焼け失せてしまいました。」「今朝近くを通ったら、一文字の笠印、一番の笠印や樫木瓜の紋をつけた兵たちが、焼け跡を探して、鎧や太刀の焼けた金具を拾っているのを見ました。」「可哀想なことです。」と語ったといいます。

満昌が良王に報告すると、良王は早速大橋修理を呼んで、満昌とともに、平谷から浪合まで出向いて、討死の者たちを弔わせた。満昌と定元(大橋)は、ともに涙を流し、同朋を悲しんだといわれています。

ちなみに、一文字は世良田の、一番は山川の、木瓜は堀田の紋であります。

ある家の蔀(しとみ=跳ね上げ式格子戸)に世良田政親の辞世の歌が置いてありました。

・・「思いきや 幾世の淀も しのぎ来て この浪合に 沈むべきとは」 

定元は、討死の死骸を集めて、浪合の西の寺の僧に頼んで埋葬し、夕暮れに平谷のの陣所の戻った。満昌は、敵の首を晒した。良王は政親の辞世に涙を流し、お供の者たちも慟哭し、声は天地を揺るがした。

5日、三河国鳴瀬(=成瀬)村につくものの、村人が疑ったので村に入れなかった。
そこで、満政の領地の坂井郷に行き、正行寺を頼り、良王はここに45日居て、尾州津島にある大橋定省の奴野城に行くことになる。

良王君 没
明応元年(1492)3月5日、逝去。御年78歳。瑞泉院と号す。同3年3月5日、天王社の境内に社を建て、御膳大明神と名前をつけて、祀る。

以下は、尹良親王と良王に伴って、各地を転戦した者たちの、その後を記した記録と逸話であるため、省略する。

追記、愛知県津島市津島神社に、天王祭という祭りがあります。この天王祭の祭りの由来故事に、良王と四家七党の出来事があり、始まったとされています。


参考・異説
(*1)尹良親王の生誕と没年を書から推定すると、官名などを貰ったときが元服の時とすると、1387年(元中3年)で、15年前が生誕で1372年、没年は1424年(応永31年)で52歳の生涯と言うことになる。宗良親王が井伊谷に住んだのは、1338年から1340年の2年間であり、これを記す書は複数であることから、34年余の差は不自然であり、「遠江の国井伊谷の館でお生まれになりました。母親は井伊道政の娘でございます(*異説が多い)」は支持しがたい。もちろん井伊谷で子供が生まれていた説は否定しないが、この子が尹良親王の可能性は、ほぼない。だが、宗良親王は、1374年から1377年まで吉野に戻って新葉和歌集など編纂している。宗良親王64歳の時の吉野帰還である。宗良親王の62歳の時の子供というのも多少無理もあるし、「親王」の認知官名も多少無理がありそうで、疑問。以上を踏まえた上で、一番辻褄のあう説に書き換えてある。
(*2)迦葉坂?との説もあるが、足柄上郡山北町柏坂のほうが理に叶う、丹沢ダム付近。
迦葉坂は駿河と甲州を結ぶ富士川沿いの街道で、付近に丸山に地名はない。また一色(河口湖)村へは直線距離で50Kmになり、まして箱根の険の山岳道で、戦ったあとの退却ではたどり着けない。
(*3)これは、有名な結城合戦とは、発生年代と参加者名簿が違うことから、異なっているようです。
(*4)小笠原政季、千久祐矯、は小笠原家系図、知久家系図ともに見えない。さらに、知久氏はともかく、小笠原家は、ガチガチの尊氏派・北朝側であり、別流の小笠原家の存在が確認されないところから、信憑が薄い。
(*5)ここの場所は、諏訪神社の御神体山の守屋山で諏訪神党の聖域であり、本来は南朝の勢力圏で、秋葉街道(一部杖付き街道)で、一ノ瀬氏(南朝側)、香坂氏(南朝側)、知久氏(南朝側)と続く南朝の道と呼ばれています。少し不自然に思えます。
(*6)文中は大河原だがこれは誤記、浪合とその周辺に大河原の地名はありません。大河原と浪合はともに長野県下伊那郡内ですが、北東の端と南西の端で地図上の直線で約60km、赤石山中と木曽山中に分かれます。当時の装備と歩行では2日以上かかります。
(*7)聖光寺は存在しない。
浪合に堯翁院(ギョウオウイン)がある。もと浪合宿の南町裏にあったが、戦国時代に戦火で移転し現在の地に移った。正式には尹良山(インリョウザン)堯翁院と称す。山号は尹良親王に由来する。建立年は1577年だが、これは移転した年である。
尚、尹良親王の遺跡は浪合神社として宮の原にある。
(**)同じ場所で、親王親子が、同じように賊に二度も襲われたことに疑問を持つ研究者がいます。良王のお伴で討ち死にした者を葬った場所・寺(西の寺)は確認されていません。

あとがき

浪合記は偽書とされることが多い。理由は、歴史の事象で確認されている年代と違っていることが多い点、地名が辻褄にあわない箇所散見される点、中世の当時の政治状況で説明が無理な点、などであろう。
読んで明らかなことは、南朝の宗良親王、尹良親王、良王に忠臣した、四家七党の忠誠心の証明と彼らの一族の正当性を、語り継がれた伝承をもとに、後世に戦記化したというのが、本当のところだろう。
尹良親王は実在した可能性の方が高いが、吉野朝から親王を認められたかは、証拠もないし可能性は低い。
このことを踏まえたうえで、戦記ものとしての価値はあると思う。良王は浪合記以外の書では確認できていない。

なお、この文は、発見されている事跡から合理的とおもわれる説に、自称の官名を可能な限り外して人名としたこと、多少文脈から前後を入れ替えたことなどで、読みやすくしてあります。        

南朝の道 秋葉街道  宗良親王

2012-12-04 00:12:58 | 歴史

南朝の道 秋葉街道  宗良親王

秋葉街道、時は南北朝時代、大河原地区は脚光を浴びる事になる。
南朝側の東日本総司令本部がこの南信濃の山奥に設立された。宗良親王こと信濃宮を征東大将軍に任命し、東国の南朝側の拠点である。宗良親王は、南朝の後醍醐天皇の皇子(第四とも第五とも第七皇子とも、説はある)である。以後30年間この地を拠点に南朝の勢力拡大に活動したという。
後醍醐天皇は、実に32人の子供がいたといわれる。それと相関して、30人以上の女性と関わったとも言われている。

南北朝になった経緯を簡単におさらいすると、

建武の新政・・1333年
北条得宗家は武士層から支持を失っていた。北条得宗家は大覚寺統と持明院統と相互に皇位を交代させていた。大覚寺統の後醍醐天皇は自己の政策と皇統の一本化を図るため、両統交代を支持する鎌倉幕府の倒幕を計画し、何度かの失敗のあと、足利高氏や新田義貞の味方を得て、鎌倉幕府を倒すことになる。

新政の瓦解
武士の力を嫌った後醍醐天皇は、当然足利尊氏が力を持つことも嫌った。一旦西国へ放逐するが、尊氏が再び九州から攻め上り、入京すると、後醍醐天皇は比叡山に逃避する。各地に北条残党が反抗を開始すると、実際には各地豪族に支持された尊氏は北条残党を駆逐する。それでも尊氏を認めない天皇は反抗するが、敗れて新政は瓦解する。

南北朝
後醍醐天皇は尊氏と和睦して「三種の神器」を渡し、尊氏は持明院統の光明天皇を擁立し幕府を開く・・北朝・室町幕府。一方吉野に逃れた後醍醐天皇は「三種の神器」は偽物であると主張し、吉野に朝廷を開いた・・南朝。
以後、北朝・南朝の対立時代が始まる。

宗良親王

生涯
後醍醐天皇の皇子として生まれた宗良は、幼少より和歌の道に親しみ、当代一の歌詠みと称せられた。後、妙法院門跡を継ぎ、天台宗座主になるが、後醍醐天皇が南朝をつくると還俗して宗良親王となり、南朝方として活躍するようになる。1338年、南朝勢力拡大のために、伊勢から陸奥(福島県伊達郡霊山町)に船で渡ろうとするが、途中遠江で難破して、井伊谷の井伊道政に身を寄せる。1340年、足利方に井伊城を攻められて落城すると、寺泊(新潟)や放生津(=富山県射水市)などで南朝方で戦い、あと、香坂高宗(大河原、長野県大鹿村)に招かれて、大河原に身を寄せる。以後30年間この地を拠点として、南朝方として各地に転戦することとなる。
この地の利点として、南朝勢力の温存地域で、味方する豪族が諏訪地方や秋葉街道沿いに多く(・・南朝の道)、また味方の遠州の井伊谷の井伊家に通じ、三河の南朝方の味方にも通じていた。事実、劣勢になった南朝の兵(新田一族など)は、大河原に逃げ込むことも多かった。
1351年、正平一統、宗良親王は新田義興とともに、足利尊氏を破り、一時的に鎌倉を占領するが続かず、後に越後で再起するが振るわず、大河原に戻る。1355年、信濃国南朝方、諏訪神党の豪族中心に、桔梗ヶ原(塩尻)で、守護小笠原長基・村上などの北朝と戦うが、敗れて、失意のもとに大河原に帰る。・・桔梗ヶ原の戦い
この戦いのあと、南朝側は諏訪氏、仁科氏などが離反し、停滞・沈静化していく。1369年に関東管領の上杉朝房の攻撃も受けている。南朝の勢力回復ができないまま吉野に戻った宗良親王は、新葉和歌集を編纂したあと、再び香坂高宗のもとに戻ったようである。

個人的見解であるが、宗良親王の大河原での居城は大草城(中川村)であろう、と思っている。当時、高坂高宗の領域は大河原地区と大草地区であり、大草には香坂氏の支城(大草城)があった。宗良親王は、別称信濃宮、香坂宮と呼ばれ、また大草宮と呼ばれた。本人記述の文中に大草の文字が散見される。
大草に隣接する長谷の入野谷が宗良親王の没所の説も支持したい。長谷、常福寺に、文書、16弁菊花の紋章、法名の尊澄法親王の文字の刻まれた無縫塔が発見されている。