高遠城集成 中邨元恒 (蕗原拾葉-11)
抜粋 木曽云々より
保科正俊 年齢・生誕の謎の部分
高遠記集成 巻上 葛山平 常富(カツラヤマタイラ ツネトミ)
第二節 木曽家親移住付高遠家廃興
P6-10行目 抜粋
高遠治乱記では、永正年中(1507-1520)諏訪信定が天神山付近を領有し、天神山に城を構えたが、天神山城には信定の子息を城主に据えて、高遠一揆衆を治めた。諏訪一族の統治に抵抗する貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部?)は、天神山城に夜襲をかけたが、天神山の信定に、この夜襲があることを知らせたので、信定の郎党は諏訪の黒沢山の峰伝いに諏訪に逃れた。
この夜襲に怒った諏訪信定は(陣を立て直し)諏訪から、藤沢谷を通り高遠に入って、貝沼と春日を討ち果たし、その両人の領地を、夜襲の知らせの礼として、保科に与え、城の戻った。これより保科氏は、高遠一揆衆のなかで一番の大身になった。
・・この保科は誰であるのか、不明。藤沢谷の保科、若穂保科から流れた保科正則の可能性。
・・この時の高遠城は不明。天神山城が諏訪一族の城であった。
諏訪家の家系に拠れば、諏訪信定は、諏訪頼隣(刑部太夫)の次男で、信有(信濃守)の弟である。
諏訪家の財力と武力は、かなり裕福だったので、他を軽んじて自身を信じすぎて、子孫などの力を信用しなかった。ことに保科家は、従来からの諏訪家の家来ではなく、保科(正則?正俊?)の父は高井郡保科の領主であり、保科(筑前守)正則とその子の甚四郎正俊の代に、伊那郡に移り、正俊は文永二年83歳で卒する、と保科家系に記録がある。逆に辿れば、正俊の出生は永正8年になる。このことを推測すると、永正年中に「高遠治乱」が起きたとすると、永正17年の永正末年でも正俊10歳の小児となり、10歳の正俊が武功を挙げて一家を興すというのは、無理がある。
・・保科正俊の生誕と年齢の疑問は葛山平常富が抱いた疑問。
・・諏訪信定あるいは高遠信定は系譜上どこに該当するのか。
・・正則、正俊の代に伊那郡に移り、は正俊と正利の取り違えか
・・・保科正利と正則の高井郡の存在と正俊の生誕はどうも正しそうだが、そして、高遠頼継の家老だった時以来多古で卒するところも正しそうだが、その間の期間の1500年頃から1530年頃まで何が保科家であったのだろうか。
ここで、再度赤羽記の次の文章を確認する。
「保科」家は源(頼季)を祖とする系譜の名門であり、弾正公の御代に入り乱れた系譜をことごとく改めて整理したということです。
抜粋 木曽云々より
保科正俊 年齢・生誕の謎の部分
高遠記集成 巻上 葛山平 常富(カツラヤマタイラ ツネトミ)
第二節 木曽家親移住付高遠家廃興
P6-10行目 抜粋
高遠治乱記では、永正年中(1507-1520)諏訪信定が天神山付近を領有し、天神山に城を構えたが、天神山城には信定の子息を城主に据えて、高遠一揆衆を治めた。諏訪一族の統治に抵抗する貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部?)は、天神山城に夜襲をかけたが、天神山の信定に、この夜襲があることを知らせたので、信定の郎党は諏訪の黒沢山の峰伝いに諏訪に逃れた。
この夜襲に怒った諏訪信定は(陣を立て直し)諏訪から、藤沢谷を通り高遠に入って、貝沼と春日を討ち果たし、その両人の領地を、夜襲の知らせの礼として、保科に与え、城の戻った。これより保科氏は、高遠一揆衆のなかで一番の大身になった。
・・この保科は誰であるのか、不明。藤沢谷の保科、若穂保科から流れた保科正則の可能性。
・・この時の高遠城は不明。天神山城が諏訪一族の城であった。
諏訪家の家系に拠れば、諏訪信定は、諏訪頼隣(刑部太夫)の次男で、信有(信濃守)の弟である。
諏訪家の財力と武力は、かなり裕福だったので、他を軽んじて自身を信じすぎて、子孫などの力を信用しなかった。ことに保科家は、従来からの諏訪家の家来ではなく、保科(正則?正俊?)の父は高井郡保科の領主であり、保科(筑前守)正則とその子の甚四郎正俊の代に、伊那郡に移り、正俊は文永二年83歳で卒する、と保科家系に記録がある。逆に辿れば、正俊の出生は永正8年になる。このことを推測すると、永正年中に「高遠治乱」が起きたとすると、永正17年の永正末年でも正俊10歳の小児となり、10歳の正俊が武功を挙げて一家を興すというのは、無理がある。
・・保科正俊の生誕と年齢の疑問は葛山平常富が抱いた疑問。
・・諏訪信定あるいは高遠信定は系譜上どこに該当するのか。
・・正則、正俊の代に伊那郡に移り、は正俊と正利の取り違えか
・・・保科正利と正則の高井郡の存在と正俊の生誕はどうも正しそうだが、そして、高遠頼継の家老だった時以来多古で卒するところも正しそうだが、その間の期間の1500年頃から1530年頃まで何が保科家であったのだろうか。
ここで、再度赤羽記の次の文章を確認する。
「保科」家は源(頼季)を祖とする系譜の名門であり、弾正公の御代に入り乱れた系譜をことごとく改めて整理したということです。
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