探 三州街道 歴史

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保科正俊 年齢・生誕の謎の部分 (蕗原拾葉より)

2013-03-30 19:33:14 | 歴史
高遠城集成 中邨元恒 (蕗原拾葉-11)

抜粋 木曽云々より

保科正俊 年齢・生誕の謎の部分

高遠記集成 巻上 葛山平 常富(カツラヤマタイラ ツネトミ)

第二節 木曽家親移住付高遠家廃興
P6-10行目 抜粋
高遠治乱記では、永正年中(1507-1520)諏訪信定が天神山付近を領有し、天神山に城を構えたが、天神山城には信定の子息を城主に据えて、高遠一揆衆を治めた。諏訪一族の統治に抵抗する貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部?)は、天神山城に夜襲をかけたが、天神山の信定に、この夜襲があることを知らせたので、信定の郎党は諏訪の黒沢山の峰伝いに諏訪に逃れた。
この夜襲に怒った諏訪信定は(陣を立て直し)諏訪から、藤沢谷を通り高遠に入って、貝沼と春日を討ち果たし、その両人の領地を、夜襲の知らせの礼として、保科に与え、城の戻った。これより保科氏は、高遠一揆衆のなかで一番の大身になった。
・・この保科は誰であるのか、不明。藤沢谷の保科、若穂保科から流れた保科正則の可能性。
・・この時の高遠城は不明。天神山城が諏訪一族の城であった。
諏訪家の家系に拠れば、諏訪信定は、諏訪頼隣(刑部太夫)の次男で、信有(信濃守)の弟である。
諏訪家の財力と武力は、かなり裕福だったので、他を軽んじて自身を信じすぎて、子孫などの力を信用しなかった。ことに保科家は、従来からの諏訪家の家来ではなく、保科(正則?正俊?)の父は高井郡保科の領主であり、保科(筑前守)正則とその子の甚四郎正俊の代に、伊那郡に移り、正俊は文永二年83歳で卒する、と保科家系に記録がある。逆に辿れば、正俊の出生は永正8年になる。このことを推測すると、永正年中に「高遠治乱」が起きたとすると、永正17年の永正末年でも正俊10歳の小児となり、10歳の正俊が武功を挙げて一家を興すというのは、無理がある。
・・保科正俊の生誕と年齢の疑問は葛山平常富が抱いた疑問。
・・諏訪信定あるいは高遠信定は系譜上どこに該当するのか。
・・正則、正俊の代に伊那郡に移り、は正俊と正利の取り違えか
・・・保科正利と正則の高井郡の存在と正俊の生誕はどうも正しそうだが、そして、高遠頼継の家老だった時以来多古で卒するところも正しそうだが、その間の期間の1500年頃から1530年頃まで何が保科家であったのだろうか。
ここで、再度赤羽記の次の文章を確認する。
「保科」家は源(頼季)を祖とする系譜の名門であり、弾正公の御代に入り乱れた系譜をことごとく改めて整理したということです。

赤羽記 付録

2013-03-26 17:04:47 | 歴史
赤羽記 付録

付録には、興味深い記述が多くある。

伝聞では、藤沢に移住したのは正則公である。弟の与次郎一同は、長いこと春近という所に5つの村を領有して住んでいたが、藤沢の台に一緒に移住した。後に、与次郎殿は北村家の先祖となった。与次郎の息子は保科三左衛門に、三左衛門の息子は保科十郎右衛門(会津)に、十郎右衛門の息子は北村十右衛門と北村権蔵と言う系譜である。・・保科家は藤沢の前は春近に住んでいたのか?

弾正公の攻め滅ぼした伊奈(伊那)の万才(阪西)は、信長記に伴西(阪西)星名(保科)と連書(署)していた。・・飯田城の阪西家と保科が戦った記録はあるのだろうか。知久家と阪西家と戦った記録はある。又武田家の下伊那攻めの時は知久家以外に武田に抵抗した家があったのか。武田の秋山配下の阪西が松尾小笠原の領土に進出して、松尾小笠原と武田連合軍が年1564年に阪西を攻めたときの武田方に保科正俊はいたのか。信長公記の信長記に伴西(阪西)星名(保科)は信長の信濃武田攻めのこと。この時の弾正は正直。

以下の文は、以前の文は悪文だったので、意訳を入れて書き直したものです。
高遠城の後詰めとして、渡辺金太夫、畑源左衛門が派遣されてきた時に、(飯田城、大島城から落ちて高遠城に入城した)飯島民部がいたので、弾正公を繋ぎ止めるため、民部を質としてに使った。金太夫は警備の兵の受け持ちを巡回して本丸に戻ったが、弾正公(正直)がいなかったのに腹を立て、飯島民部を長刀で掛け倒した。そのうえで、弾正公の盟友の民部からの目を離すなと命令した。・・正直はこの時余り信頼されていなかったらしい。(松尾小笠原は先に織田に下り、織田の高遠城攻めに案内役として織田方で参戦)。少し前(=先達)簾中(れんちゅう、貴婦人のこと・・誰かは不明)のご自害に付き添いをした重臣達は、弾正公が出て行ったきりで帰ってこないのを不審に思い始めていた。皆が、お互い顔を見合って、密かに行状を知っている人を調べると、上着を裏返して、病気の下女を装って素振りをして南曲輪へいく。また春日戸左衛門は胴服を脱いで頭から被った。いま、甲斐国は敗れて、(攻め手の)包囲網の薄い所から出て(囲一重・・城を取り巻く一重の土塁・ともとれる)廊下と櫓(やぐら)の下を隠れて進んだ(葬進=密かに進む)。以後の様子は本書にあるとうり、です。
ただし、(城主や奥方達の)御生害は3月朔日(ついたち)、葬(儀)は同6日の暮れのこと。
かつ新府(韮崎)より後詰に来た畑源左衛門は、で弾正公(正直)とは従兄弟に当たり、山田源左衛門ともいう。山田伯耆守は筑前守正俊公、井原淡路守、小原美濃守、金子某、山田伯耆守は婿という。

滝川は上方に軍を帰すとき、人質のため内藤家より亀千代を、筑前守より甚四郎殿を同道するとき、三河殿より九十郎を出させた。後の(飯島)民部のことである。人質を取り返したところは、この本文には和田ということになっているが、自分は一宮と言うところで一宮の神社の神官が協力してくれて、亀千代と九十郎の両人を一宮で取り返した。翌日の夜に小田井というところで、茂右衛門が甚四郎(正直)を救い出した。

小笠原貞慶の復活の部分 略

小笠原貞慶が高遠の保科を攻撃したが敗北する。この時何者かが、松本の大手に、高札を書いて立てた。
その高札の一首の歌は
  高遠の二ぶの(三峰川?)の川風はげしくて、破れて北る小笠原かな

兵部殿討ち死にの時 以下略

赤羽記(保科記)現代訳 

2013-03-21 15:32:48 | 歴史
赤羽記(保科記)現代訳 


赤羽記(保科記)改訂

赤羽記序
私(中村元恒)が、安政年間に、東京に来ていた高遠以来の会津藩士、黒河十太夫、広沢富次、高津仲三郎と、数年間にわたり、過去の保科家の歴史談義をしたときの内容です。私の歴史好きは、天正間の戦争の話(織田の高遠攻め)を聞く事になります。。この話には、つい柏手を打ち、耳をそばだてて訊いていました。そこには自分は今まで訊いたことが無かった新事実も聞くことが出来ました。話に膝が触れるのも忘れ、つい乗り出してしまいました。その話は赤羽記が出来た由来のことでもあります。そうしている内に赤羽四郎が訪れ、「赤羽記」を貰いうけることが出来ました。その書にはいくつもの話が載っており、今まで聞いたこととは内容の違う話が多くありました。その中に赤羽又兵衛の槍の功籍のこともありました。文明寺の謀略の話もありました。たぶん文明寺は金剛山峰山寺(ほうざんじ)の前身だろうと思われます。このことは詳細に記してあります。また、保科弾正(正直)が高遠(城)を去るときの経緯も詳しく説明され、この部分は旧記には所見が全くなかった部分で、この書だけの言い伝えです。つまり、天正10年3月、保科弾正は高遠城内にいたが、森勝蔵(織田側)が奇策を計って、保科弾正を誘い出して逃がした経緯のことです。。この時、跡部氏から嫁いだ正直の奥方は高遠城内で自害を図りました。春日戸左衛門と伊沢清左衛門は殉死し、戦いの後、満光寺の牛王和尚が亡骸を荼毘に付して弔ったということです。ことのに奥方は操を守り通した潔さは美しかったといいます。それで、以後保科家は香華を供え冥福を祈り、これを尊崇したといいます。この記述は以後の保科家の行事を見れば明白であり、当時の大将の自害や戦死の様子を思えば、弾正公のことを悪く言うものは悪く言うものは、ほとんどいなかった、と伝え聞きます。そうして、奥方は笹曲輪郭内にて自害なさったと聞きます。ですから、この書の記載するところを皆が納得しました。弾正が城を抜け出したことの些細の内容であり、この書の伝聞は疑いの余地のないところところであります。この事実の記載が、この書の伝搬の目的であり、保科家の創業期の艱難の内容であります。また、それ故にこそ、こうしてこのことを顕かにしていこうと思います。保科家の由緒をただすことは、愉しいことであります。そして今、十太夫、仲三郎、自分が故人の弾正公の為に出来ることです。富次は牧師の跡を継ぎ、自分は年をとって、引き比べて考えると、明治の中頃になって保科家はは君臣のあやまれる方向にいき、皆が流離し生活が困難になり、社稜が幾つもなくなる時代になった(戊辰戦争以後の保科・松平家の混沌の事か?)。しかしこの書は依然として現存し、現在に関わっています。さて、思いがけない災難で死ぬことは正しくないと、と知ることは喜びであります(非命を単語として理解しました)。自からこれを写し、蕗原拾葉の収録しました。併せてこの感激も記入しておきます。
明治11年10月23日信濃黒水老人中村元恒(中邨元起)書
於いて 東京小石川不如学舎


赤羽記

保科氏は,信州川中島の善光寺の西の方角に保科という所があって、ここが保科氏のご先祖の出生の地であります。
源頼朝の治世に、川中島近くの井上郷の領主に、井上九郎光盛という者がおりました。光盛は頼朝の家来になっていたのですが、甲斐国の一条忠頼(武田信義の嫡男)と共謀して頼朝に反旗を翻したのが露見し、京から戻る道の駿河で、頼朝により誅殺されました。保科太郎と小川原雲籐蔵は光盛の部下であり、光盛の同類として、鎌倉に捕らえられましたが、保科と小川原は謀反の心が無いことを申しあげて赦されて、鎌倉幕府の御家人に加えられることになり、これより源頼朝から三代の将軍の御家人として仕えるようになりました。そうして北条(得宗)家の時代になると、地元の領土争いから保科家は浪々の身となり、後に親戚筋を頼って藤沢へ来て年月を送りました。弾正公より10代ばかり前のことで、藤沢の住人は「保科」という名前を貰ったり、籾や栗と交換して「保科」という名字を手に入れたという事です。「保科」家は源(頼季)を祖とする系譜の名門であり、弾正公の御代に入り乱れた系譜をことごとく改めて整理したということです。
・・・これによると、北条得宗家の時代に、若穂保科から保科一族は、三々五々に、藤沢谷へ移り住んだことが書かれおり、名門保科家の嫡流はどこかで途絶えて、保科でない者が「保科」の名字を貰ったり買ったりして混乱していたことが、ずっと保科に随臣している家臣団から語られている。・・その一人、赤羽記自体が保科家臣の赤羽家(おそらく辰野の赤羽地区の小郷主)の記録であります。・・・

(木曽家の系統の)高遠城の城主は断絶して城主不在となりました。この時、この地方の豪族は会議をして、高遠城主に諏訪家の惣領を申し入れて城主にしましたが、この城主は生まれつき愚かだでありました。この城主は、頼次(継)より7代先祖に当たります(諏訪信員のことか?)。頼次(継)より三代(前)の城主(継宗)は、生まれつき賢く武術にも通じており、伊那の郡を残らず平定し、領土は10万石にもなったといいます。更に遠江にも遠征し、狩野氏を臣下に加えてもいます。その頃より、保科氏は(高遠)城主に仕え始めています。この頃、保科氏は北村という所に20石の知行が有り、そこの小領主であったみたいです。それでか、この頃の保科氏の代々の墓は北村にあるといいます。この(高遠)城主(継宗)は諏訪家の惣領筋で、諏訪一族の惣領の地位を奪おうと考えて、色々と対策を考えていた時に、弥勒という土地の一妙という法華宗の僧が、いつも継宗の近くにいて、城主の諏訪惣領家の野望をきき、自分が(惣領家の)証しを奪ってくると言って金子城に行き、諏訪家の様子を覗い、7月7日の朝に、諏訪家が重宝を外に出したのを確認してから、諏訪家の城内へ見物し、その後嫡子の証の「巻物」を奪って逃げました。城内を護る者が一妙を見つけて追いかけ、伊勢並(場所不明)と言うところまで追い詰めました。ここは諏訪と高遠の境です。高遠勢は加勢で30騎出向いたが、諏訪方はそれより大勢が出向いたので、無事に戻れず僧侶は自殺をします。諏訪方は文書は取り戻せず、死体もそのままにして、戻っていきました。高遠の人達は死人をそのまま放っておけば社殿の中の穢れを忌み嫌う勤めをなさないと思っていました。その後高遠城の者が検死すると、脇の下を貫いて傷口が変だと思ってみると、怪しいものが少し見えました。詳しく見ると傷口に一巻の書があって、これが諏訪家惣領の系図である事が解り、これが以来高遠家の宝物となり、この僧侶の着ていた血の付いた袈裟衣も、高遠家の代々の重宝と言うことにしました。後に仁科五郎が高遠城に籠城した時に、高遠家の二つの宝をを亡失してしまったと言うことです。
これよりしばらくして、保科氏は上牧の郷の野底という所に70石の知行の領地を貰ったという。
頼次(継)の親(満継)は、かなり傲慢で、かつ無礼な人で、人心を掌握できず、直参や旗本は、彼を嫌い、軽蔑し、皆自分勝手になり、この為か、勢力が衰えて、瞬く間に領土が2万石に減ってしまった。この時、高遠と伊那を高遠家と保科家は取り合って争いました。・・ここでは高遠家と保科家は満継の時代に争ったことになっている。・・かつ、高遠家と争った保科は、保科貞親でなく、弾正と言うことになる。貞親と弾正の関係は?

この戦いで保科氏は筑後と呼ばれていた、弾正の親父さん(=正則?OR秀貞?)が討ち死にした。討ち死にの場所は、伊那の駒場と言うところである。この時から保科の子孫は取り立てられて、筑前守を名乗り、高遠頼継の家老として1000石の領地の知行を貰うことになる。高遠頼継は時に勢力を拡大していた武田信玄の旗本になる。

確認事項1
時代・1530年代は、小笠原長棟(府中)と小笠原貞基(松尾)の身内の戦いがあり、1533年(天文2年)は長棟が伊那に出兵して下伊那で戦いがあった。松尾小笠原は知久頼元や高遠頼継が味方したが、敗れた。
確認事項2
その時筑後と呼ばれたのは保科正則か?正則は頼継の名代家老として松尾小笠原に協力したのだろうか?正則はこの戦いで戦死したのだろうか?弾正と呼ばれたのは正俊か?

頼継は妾がいたが、正妻は嫉妬深くて城内に妾を置いておけなかった。そこで城下の武家屋敷に妾を置き、佐野清左衛門という侍を警護に就けた。頼継の正妻は、諏訪頼重の妹であった。奥方は妾のことを知り、兄の頼重に頼んで手勢を借りて妾を謀殺しようとする。諏訪より50人の手勢がある夜の夜更けに妾宅に討ち入った。清左衛門は枕元に置いてあった3尺あまりの刀を抜いて、手勢に斬りかかった。
諏訪の手勢を8,9人切り伏せ尚も大勢にキズを負わせたが、自らも右の腕を切り落とされて、刀を左に持ち替えて、妾を肩に背負い、この屋敷を立ち退いて、その後、月岡庄兵衛の宅へ逃げ込んだ。月岡は若年の頃よりの知り合いである。その後、佐野清左衛門は、取り立てを断り、片輪になってしまったので在郷に引き込み田地を作ったという。大男で、キズなどですさまじき面だったという。

右のこれまでは、高遠城主の大筋と保科氏の加増の様子のことである。

頼継の家臣は、上林上野入道と保科筑前守の両人である。筑前守は、宮田に700石と野底に500石併せて1200石を領有していた。上林は信玄に、高遠頼継は謀反の気持ちがあることを伝えた。この為に頼継は信玄から甲府に呼び出され、咎め殺された。上林が頼継を讒言したのは、主人を廃し、自分が取って代わって領主たらんと欲したためである。<筑前守殿ハ上林ト相ヤケナリ>上野入道の子は彦三郎という。彼は筑前殿の聟(婿)でもある。この讒言を筑前殿は毛頭聞かされてなかった。これ故に筑前殿へ信玄より不審をもたれた。上野入道は忠義で謀反を報告してくれたが、筑前は報告がなかった。そこで筑前は、仏法寺の禅寺で1年間を過ごすが、事実が段々露見していき、筑前守は信玄の信頼を取り戻していった。上林へのお咎めはなかった。

信州佐久郡に志賀と言うところがあります。そこの領主に志賀平六左衛門という者が居りました。信玄に背いたので信玄は保科筑前を招集して、先導させて、彼を討つべしと志賀の町に討ち入りました。角屋の蔀の蔭に潜んで居った家来の北原彦右衛門が打って出ました。平六左衛門は栗毛の馬に乗り、大勢を引き連れて、町中を乗り回しておりました。北原彦右衛門は、志賀平六左衛門の馬の太っ腹に長刀を突きだすと、馬は倒れて平六左衛門を降り立ったところへ筑前殿は走り寄って首を打ち落とす。首を打ち落とすところに大髭があったが髭もごっそりそぎ落としてしまった。そして信玄の御前へ平六左衛門の首を持参した。信玄は上ノ山よりこの筑前の働きをご覧になっており、御前に出たときにご褒美としてその刀は髭切りと名付けられ、、刀の作者を尋ねられたので、基重だと答えた。また保科家の重代の宝とせよと申し、感状も与えられた。また、盛景という長刀を使った家来の北原彦右衛門の働きにも感状を下された。これより筑前殿は信玄の直参に召し抱えられた。

以後、信玄時代、勝頼時代と続く・・・歴史書に記述が多いので、後日に回す。
不確定部分、不明箇所判明次第改訂要。

保科正則の謎3 宗教の話

2013-03-12 01:36:16 | 歴史
保科正則の謎3 宗教の話

長野若穂保科の広徳寺は保科家の菩提寺ときく。宗派は曹洞宗である。
高遠藤沢に流れた保科は、日蓮宗法華寺の敬虔な信徒となった。正則以後、正俊、正直、正光の歴代法華寺の信徒であった。藤沢谷と山室川と金澤街道は法華の郷であり、特に金澤街道沿いは法華の道と呼ばれた。この地区は久遠寺の第22代日朝が布教したと言われる。
多古城時代の保科はここの在位は短く、正直、正光の時代だが、家康の江戸入府の時で、実際の領国経営は保科正近が行った。保科正近と正光は法華寺を大事にした史料がある。
会津に移封した保科正之は仏教よりも儒教信者であり、他の保科一族と高遠以来の家臣団が法華教を保護したと言われる。
保科正俊以降、正直、正光に臣下し、数ある戦いにともに参戦した家臣に、系譜の嘘は通用するはずがない。従って、史料の信憑は、会津風土記や赤羽記の正則以降はほぼ正確だと思って良い。会津風土記の保科の系図は高遠以来の保科家臣団の供述の記録であり、赤羽記(保科記)は保科家臣の赤羽家が郷土残留と正之随行に分かれ、高遠近在に残った赤羽家が自家の記録と会津随行組に確認した記録と言われる。更に後の中村元恒の蕗原拾葉は伝聞を元にしたと言われる。

保科正則の年齢の謎は、おそらく確認されていた、と思われる。だが、そこを説明してる文を見いだせない。何故なのだろうか。

今日、図書館に頼んでおいた「上高井郡誌」が届いた。確認したい部分がある。
更に、「赤羽記」「蕗原拾葉」も取り寄せを頼んだ。
史料が届く空いた時間、井上靖「風林火山」を読んでおく。

保科正則の謎 2 正則の生きた時代の背景

2013-03-08 16:23:59 | 歴史

保科正則の謎 2 正則の生きた時代の背景

昭和に、保科姓の地域別の戸数調査がある(長野県版)。
○長野県
北佐久郡北御牧村十七戸、立科町十三戸、上伊那郡高遠町三十戸、長谷村十四戸、宮田村二十九戸、中野市四十戸、茅野市三十七戸、塩尻市五十四戸。
参考・・・○新潟県中蒲原郡小須戸町四十五戸、栃尾市四十二戸
たぶん・・北御牧と立科は隣接なのでグループ(東御市)、高遠と長谷も隣接でグループ(伊那市)ひよっとして、茅野市も歴史背景からグループかも、参考の新潟の小須戸と栃尾は若穂保科から別れて上杉臣になった、保科分流の可能性。
若穂は綿内、川田、保科が昭和に合併して出来た町で、現在は長野市に属す。但し、江戸時代は綿内は須坂藩、川田、保科は松代藩に属す・・・参考。

保科氏発祥地
 奈良・平安の昔は信濃国高井郡穂科郷であった。穂科と言う地名が保科と変わり、さらにこの地に土着した諏訪氏支族の姓に転じたのである。
 初めて保科姓を名のったのは平清盛と同時代の保科行遠、治承四年(1180)九月に源義仲が平家追討のため信濃に挙兵したころ、保科党と呼ばれたこの一族は騎馬武者三百余騎を擁し、義仲についた清和源氏の井上氏に属した。この時の保科党の居住地は不詳。
 行遠のせがれ行信は源氏合戦に討死。保科氏は井上出身の忠長を迎えて再興されることになる。保科氏は忠長のせがれ長直の時代から角九曜の紋を使いはじめ、長時ー光利ー正知ー正利ー正則の代まで保科郷に居住していた。
 永享年間(1429-41)以後、北信の豪族村上氏が強大化した時期に村上氏に追われて全国に散らばったと思われる。・・・ (中村彰彦『保科家その発祥の地を訪ねて』)

若穂保科の郷の保科一族の通巻はかなり疑わしい。築城年は不明だが、地元に勢力を持っていた保科氏が築城した。若穂保科にある広徳寺の場所が保科氏の居館跡と伝えられている。寺歴によると、平安時代、川田一帯を治めていた保科氏が絶え、後に井上氏から分かれた忠長が保科氏を再興したという。北信濃に、存在の跡を確実に残している保科一族は、名前由来の地に拠点の跡地痕跡を長時ー光利ー正知ー正利ー正則の時代以外残していない。ただ、高遠に移った保科の本流はこの地であったことが、「正」を継ぐ名前の継承性と、霜台城の霜台と意味を同じくする「弾正」を子孫が名乗った経緯から、ほぼ断定していいと思う。更に、家紋の表紋を角九曜(平方九曜)、替え紋を諏訪神族の梶紋とする。会津松平(保科)は、初代の正之と二代までを角九曜と梶紋とし、松平になってから、三つ葉葵変形と梶紋にしたが、明治維新まで、若穂保科の広徳寺との音信を絶やさなかったという。保科出自の源流としての認知もあり、証左もあったのだろうと思われる。

以下は、小坂城の現地説明板・・
保科氏は清和天皇の後?、井上掃部介頼房の子孫である。井上忠正始めて保科に居す依って保科氏を称した。忠正より六世を保科弾正正利と云い、其子正則、*永享年中、村上顕国と戦い、破れて本国伊那郡高遠に走る。其子正俊也。正則の弟保科左近尉(左近将監)永禄の初め武田氏に降る、天正10年7月武田氏亡び上杉景勝大挙して本軍を侵す、保科左近上杉氏に降り、小坂城上杉氏に帰す。保科弾正義昌とは保科左近尉をいうか不明。*永享年間(1429-41)はたぶん誤記(『桑原振興会・現地説明板』)。
・・ここで注意すべきは、保科正則は、長享年中(1487~89)、村上顕国と戦い、破れて本国伊那郡高遠に走る。とあるが、保科正利は高遠に行ったとは言っていないこと。延徳年間(1489~92)保科正利は、霜台城を築城。・・・ここにも、時折の解説文で、時代逆子の混乱を散見する。ただし正利が、ここを居城として領地を統治したという歴史は見いだせない。村上一族に降りた保科も、上杉に合力した保科も、若穂保科を長く統治した歴史事実を見つけられない。たが、頼朝に陰謀を悟られた井上光盛の殺害後には、その侍保科太郎は赦されて、井上光盛の領土を北信濃に安堵されて頼朝の御家人と成る。若穂保科を流れる保科川は菅平に源流をもち、川に随行する保科道は、別名を鎌倉道と称し北御牧や立科を経て鎌倉に通じる。戦乱の世に、拡大する村上一族の圧力から保科の一族を避難する場所としては、隣接する中野市や東御市あたりは理にかなう場所であっただろう。
また、北条得宗家に御身内人として接近し権力を拡大する諏訪一族と御家人として奉公する保科一族は、諏訪神党として同族である。このように経過する時代に建武の新政が起こり、この際に時行(幼名亀寿丸)は得宗被官諏訪盛高に連れられ鎌倉を脱出。幕府滅亡後に、時行は北条氏の守護国であった信濃に移り、諏訪氏などに迎えられた。北条時行の幼児から元服までを秘匿し養育したのが諏訪盛高であり、その実務に当たったのが保科一族であったとは考えられないだろうか。
保科の名は、鎌倉期を通じて北信濃の戦いに散見されるが、後醍醐天皇の建武の新政あたりから、北条残党として黒河内・藤沢郷に名の痕跡を見るようになる。保科は、諏訪上社との関係から藤沢・黒河内そして茅野を中心に、主として「相模次郎」(北条時行)のサポーターとして、後に南朝の「宗良親王」のサポーターとして存在し、保科の居住する地は北条時行秘匿の地と重複するのも、裏付けとして可能性が高い。
保科一族が、北条残党としてまた南朝側として、諏訪上社とどのような関係にあったのか、ということを考えるに至ったきっかけを記述してみる。
・・・文明十四年、高遠継宗は高遠氏に代官として仕えていた保科貞親と荘園経営をめぐって対立し、大祝らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず調停は不調に終わった。継宗は笠原氏らの支援を得て、千野氏・藤沢氏らの支援を得る保科氏と戦ったが高遠氏の劣勢に終わった。以後も保科氏との対立は続き、保科方は府中小笠原氏らの支援を得て高遠氏の属城である山田城を攻撃したが、双方決定的な勝敗はつかなかった。・・・
この文章の不自然さは異常である。繰り返し読み返し、その時代の他の歴史書を読み返しても、「保科貞親と荘園経営をめぐって対立」の引用のみを記してあり、何故に対立したかの意味の示唆を与えてくれない。そこで登場する人物の野望や思いや立場をそれぞれ分解し、記述されている言葉の意味を再考して、さらに歴史の流れに意味を見いだそうとした作業がしばらく続く。まず高遠継宗は大徳王寺の戦いを主導した諏訪頼継の子信員を祖とする。諏訪上社大祝の嫡流で諏訪惣領の意識が高いし野望もある。保科貞親は継宗の家老でなく、なぜ代官なのか。荘園経営の代官は何を意味するのか。黒河内・藤沢は諏訪神社の神領の荘園である。高遠継宗に味方したのは誰で何故か。又、保科貞親に味方したのは誰で何故か。特に、諏訪社の大祝や千野氏や藤沢氏は北条残党や南朝の主力メンバーであった。そうして、中先代の乱、或いは大徳王寺の乱から約150年の後の出来事に、「保科貞親と荘園経営をめぐって対立」が起こった。
この対立構造の歴史的な意味合いは以下のように解釈すると辻褄が合う。
まず、諏訪上社は、北条時行や宗良親王を援助する経済的基盤として、黒河内・藤沢荘園の一部を時行、宗良に割譲し、あるいは彼らに経済的援助の役割を保科一族に任官した。高遠城は、諏訪上社の一族の隠居城の性格もあり、保科一族は高遠城の経済的基盤も代行した。保科貞親はその代官の系譜の中にある。高遠継宗は諏訪家惣領の自覚もあり野心もあるために、諏訪神領の荘園の自国化を企てた戦いであり、諏訪上社側としては、防衛戦でもあった。この様に結論すると、代官や荘園経営などの言葉の使い方と歴史背景から辻褄が合う。
こうして、保科一族は1340年あたりから、諏訪一族の協力者として、北条残党として、また南朝側として、一定の役割と使命感をもって、藤沢谷を中心に、長谷や茅野に移住してくる。
さて、保科正則に戻る。
正則、ママ永享(長享)年中(ママ1429-1441年(1478-1488))、村上顕国と戦い、破れて本国伊那郡高遠に走る。・・これは保科一族が領有した若穂保科の近くの古城、小坂城の説明文である。
保科氏が長享年間(1487-1488年)に坂城の村上顕国に侵略され、藤沢郷へ移住した・・上高井郡誌。
この二つの文に、違いがある。永享といい、長享という約50年の年代の差がある。また、前文に本国伊那郡高遠という表現がある。この部分は地もと贔屓からか、本国を分国と逆の意味の言葉に置き換えている説明文もある。とにかく、この頃の北信濃の保科一族や村上一族に関する史料はかなり乱暴で雑なものが多い。
村上顕国の活躍した時期を複数の史料から確定すると、保科氏が長享年間(1487-1488年)に村上顕国に侵略され、藤沢郷へ移住した、という長享年間(1487-1488年)が正しそうである。
藤沢郷に移住した保科正則の、その後、を少ない史料から拾いながら記述してみる。
*高遠保科氏郷(藤沢郷)から誠訪(諏訪)に逃れ、一時誠訪(諏訪)頼重のもとに身を寄せた
*保科親子は、諏訪頼重の元に一時身を寄せた。
**高遠頼継の配下となって
・・保科正則は藤沢郷の保科貞親の子孫の一族に寄生したと考えられるが、その頃の高遠城は、諏訪から隠棲した諏訪継満か高遠満継の時代に、満継など能力や性格に問題があって、満継配下が次々と高遠家を離れていった。その流れで、代官職の保科家と新規に寄生した保科正則は藤沢郷を離れ諏訪惣領家(諏訪頼重)の元に身を寄せた。満継から高遠頼継の時代になると、保科正則と子の保科正俊は高遠頼継に家老として復帰している。この間に、保科正則は二代目正則として跡目相続している可能性有り。・・保科正則(<1489>-1533)・前正則。二代目正則・後正則・・

この間の高遠家(高遠城主)の系譜
  高遠義光 諏訪頼貞子?信貞子? 官名;信濃守 法名;義海
  法名;太源 官名;信濃守 永享頃 1421-1449
  法名;悦山 官名;信濃守
  高遠継宗(別名;諏訪次郎;継家)官名信濃守 法名;商山 通称;「藤沢殿」
               文明長享頃 1469-1486
   (?諏訪継満 1486- 諏訪大祝から高遠城に逃れている)
  高遠満継 継宗子 官名;信濃守 永正頃 1504-1520 
  高遠頼継 満継子 官名;信濃守・紀伊守 1513-1552 
・・・・上記系譜は、諏訪神社神官長守屋文書からと思われるが、生存年はまだ検証していない。

諏訪頼重(1516-1542)
諏訪頼隆の嫡男。武田晴信の妹を娶る。1542年、高遠頼継と共謀した武田軍に攻められ降伏。甲府に送られた後毒殺された。 ここに諏訪惣領家は滅亡する。なお頼重の娘は晴信の側室となり、生れた子が武田勝頼である。なお、諏訪頼重(南北朝期)は同姓同名の先祖。

若穂保科:保科
・・・・・長時-光利-正知-正利-1正則
              合流 1正則=2正則-正俊-正直-正光-正之(会津藩)   
・・・・・家親-貞親-正秀=易正-2正則
藤沢保科:保科

解説;若穂保科の正利・1正則が村上顕国に保科を追われたのは1488年頃で高遠・藤沢・諏訪に逃避していたのは1530年代までで、1506年には保科正利は亡くなっている。
藤沢;保科は正秀の時、諏訪家の文明の内訌で没落し、時期を同じくして、荒川易氏の次男の易正を保科の里に養子に送り、家督を継いだと思われる。更に、正利没時に易正が、1正則没時に(2正則)が保科惣領家の名跡を継いだ可能性がある。時まさに、諏訪家の内訌の時で、名家保科家の一族存亡の危機を救い、高遠家の没落寸前に、歴代の代官職として高遠頼継をもり立てて再興に尽力した、という流れに読める。この保科家の存亡の危機と高遠家没落の危機を救った易正を、人は「神助易正」の尊称で呼んだ。
なお、保科惣領家は歴代の嫡流に「正」の名を継承し、「弾正」の自称官名を継承し、諏訪神党の「甚四郎」を自称し、高遠地区の領土知行の官名の「筑前守」を公称したようである。保科家は歴史的に諏訪神領(荘園)の代官であったことから、諏訪惣領家への忠誠心が強く、高遠家の家老であっても意識は独立していたようである。ちなみに、諏訪家惣領家の歴代の嫡流は「頼」の名を継承している。