母の祖母の出自について
母が昔語りに話したという。
母の祖母は大鹿村の「からやま」と言うところに生まれたと言う。先祖の墓に16弁の菊が刻印され、16弁の菊の書き付けがあり、五七の桐紋を紋付きとし、大蔵という姓であったという。母の兄弟の家に確認すると、生田の「からやま」で、あとは同じだという。大鹿村と16弁の菊が宗良親王を想像し、調べてみようという話になった。
私的な題である。
当初「からやま」は唐山と思っていた。
柄山(からやま)について
柄山の地名は、2カ所たどり着く。
一つは生田柄山(松川町)で、こちらは簡単に、もう一つは北川柄山で、こちらはたどり着くまでにかなり難儀をした。
生田柄山は、小渋川に沿って山中の峠道にあり、付近は伝承の多いところらしい。近くの桶谷は、古くは王家谷と書き、北条道や北条坂の地名が残り、北条を名字とする四家(1家は分家)があり、頭(上)屋敷、別当、木戸口を名乗っていたという。だが、昭和に「小渋ダム」が出来て沈んだ。さらに奥が四徳で、昔北条時行が潜んだと言われる四徳小屋があったという。ここも昭和に廃村になった。昭和36災害が因であるそうだ。
北川柄山(大鹿村北入地区)は、現在存在しない地区である。明治になって、山の生業でまず3家が住み、やがて入植が増え、最高時40戸弱を数え、やがて全村移転で消えた地区であるからという。昭和36災害によって、家屋全財産が流され、再建が不可能とされたからである。明治以前、北川は小渋川の支流の沢(川)の名前であった。勿論以前は、人が住んでいなかった地区である。移り住んだ人達のもとは、中川村や生田の山の人が多かった、と書いてあった。
北川柄山に住んだ人達は、もと生田柄山のひと、と考えるのは、あながち無理な筋道でも無さそうだ。この北川柄山に最初に住んだ家は、2人は大蔵と呼び、1人は小椋と呼んだ。木地師であったという。・・・大鹿村誌より
生田柄山に大蔵姓と小椋姓を名乗る家もあるそうだ。そこの大蔵家と小椋姓も木地師をルーツに持つとあった。この生田柄山は、江戸時代元禄の頃まで人家と地名を確認できていない。それまで長峯あるいは長峰とだけ呼ばれた地域だったらしい。・・松川町史
生田と大鹿を分離して考えるのは地元の考えと違うようです。大鹿村誌でも生田柄山も生田桶谷も、あたかも自分の村のような記載です。それと桶谷の神社遺産は小渋ダムに沈む前、保管を依頼されたのは大鹿の民族館だそうです。)
なお、大鹿村は山村で寒村であるのは確かですが、一時繁栄した時期があったそうです。中央資本の製材会社(久原鉱業株式会社)がこの地に出来ました。この地方としてはかなりな大会社だったそうです。だが、不景気とともに、製材会社は撤退し、大鹿の繁栄もそこで終わったと言います。残ったものは伐採された禿げ山で、保水力を失った山は脆く、昭和の36災害に繋がったのではないか、と思ったりもします。大西山の山崩れの爪痕は現在も残り、写真を見ましたが痛々しい限りです。この製材会社の後裔は、主人が替わって、日産(自動車)と大成(建設)になったそうです。
・・・悲話は書くつもりは無かったのですが、調べたらかなり切なくなりました。
木地師 について
木地師と言う者がある。
生業を木にもとめ、山に住み、主に食器としての椀や盆をつくり、それを里に売って生活していた者達のことである。この者達は、「轆轤(ろくろ)」を使い、円形の器を造ることを得意とした。木も選ばれた。しゃもじやさじやへら等は堅い桜木を、椀や盆などはほうやとちを、箸などは杉を材料とした。生活は小集団単位で3から5家族ぐらいが多かったらしい。
年代は古く、平安時代の話、文徳天皇の長男に惟喬親王(これたかしんのう)がいた。文徳天皇は長男の惟喬に天皇を継がせたかったが、弟に天皇を継がせることになった。異母兄弟の弟の方が外戚の力がかなり強かったためとされる。惟喬親王は滋賀県神崎郡永源寺町の小椋谷に逃れたという。この地の小椋谷で惟喬親王は、木材の木地を荒挽し、轆轤を使って盆や椀などを作る技法を伝えたとされる。また、木地師の伝承では文徳天皇の第一皇子惟喬親王を職能の祖とし、その側近藤原実秀の子孫が小椋氏、惟仲の子孫が大蔵氏になったという。近江の小椋谷にある君ケ畑と蛭谷は、羊腸たる山道の果てにあり、とりわけ木地屋(師)が自分たちの先祖と称している蛭谷の惟喬親王の墓のあたりは、南北朝時代の宝篋印塔が残っており、深山幽谷の気配が濃くたたようところであった。君ケ畑の地名は惟喬親王が幽開された所ということからつけられたというが、さだかではない。
木地師文書と言うものがある。
この木地師文書というもの、「文徳天皇の大一皇子、小野宮惟喬親王が祖神で、この一族の小椋、小倉、大倉、大蔵の姓のものは木地師であるから、この文書を所持しているものは全国の山の樹木を切ることを許す」という免許状である。この文書を持った木地師は日本の各地に散っていった。食器を作る木を求めての旅であるから、ほとんど山岳である。木地屋(師)は関所の通行手形のかわりに、近江の君ケ畑の高松御所の十六の花弁の菊の焼印を押した木札を見せて、関所をまかり通っていたことが、「伊勢参宮道中記」(会津の小椋長四郎家に伝えられた嘉永三年(1850))に記されている。求めた木の多い山を見つけ住み、山の木を伐りつくすと、次の山に移っていった。これを「飛」と称した。木地屋(師)の移動するところ、その足跡を印す地名が生まれた。各地に残る轆轤、轆轤谷、六呂山、六郎谷、六郎丸、六九谷、六六師、鹿路などの地名は彼らの居住したところである。
従来、山はその村里の共同所有地であり、個人所有地でなかった。そのため、その地の領主か村長に了解を取れば入山が可能であった。山を渡り歩けたのは、この為であったが、明治になって山の所有権が決まってしまい、木地師は定住を余儀なくされる。一族の小椋、小倉、大倉、大蔵の姓のものは全国に多いが、ほぼ山岳に祖を求めることができるという。長野県では、大鹿村も勿論だが、長谷(昔は黒河内)、木曽(小椋より大蔵姓の木地師祖先が多いらしい)、大平村(飯田市大平・・昔大平宿現在廃村?)に、この姓を多く持つ。なお、大平峠を越して南木曾に入ったあたり、漆畑という地区がある。たぶん地名からして、良質の漆の木をもっていたと思われる。更にこの地は、地区民全員が「大蔵」と「小椋」を名乗り「大蔵」姓の方が多いという。さらに、この地の生産は椀などの漆器であり、この器は優秀であるという。また彼らの祖は木地師でもあるという。あるいは、加賀の輪島も同様な成り立ちかもしれない。
木地師と入山の地もととの関係は、概して冷たかったと思われる。山間の米を生産しない地区は、「樽木」といって年貢を木で納める天領が多かった。大鹿村や木曽の山林が、そのようである。御樽木成山と呼ばれた。それ以外の山林でも地元の山人の既得権を侵す存在あった。その為か、地元には馴染まず、木地師は孤高の民であり、団結力だ強かったようだ。
木地師と御所車紋
「柳田国男もまた『史料としての伝説』のなかで、「信州伊那の大河原村は、宗良親王御経過の地であり、吉野に劣らざる南朝方の根拠地であっただけに、郷人思慕の情を基礎にして、その口碑に注意して見ると、浪合記一流の無理な伝説が幾らも出来て居る。小椋一族がこれに参与した確かな痕跡はないが、この辺も亦彼等(木地師)活動の舞台であった」と述べて、木地屋の痕跡を暗に認めている。
また,十六の花弁の菊のことを、「柳田はこの円盤紋様を描くのに、木地屋のもっていた轆轤をたぶん使ったのだろうといっている。それが菊花を思わせるところから皇室とのむすびつきの証拠として木地屋によって強調されることになったようである。」(谷川健一)
どうも、柳田の「ろくろ=菊紋説」は間違いのようだ。発見された惟喬親王時代とそれ以降しばらくは、ろくろは引き網式であり、円系図柄には向かない。これを裏付ける掛軸が発見されている。
柳田国男は、越後小川荘の高倉天皇陵の石塔に彫られた16の輻(やがら)をもった車輪紋から、これが木地屋の携えていた轆轤の応用で、菊の紋章の前身である(「史料としての伝説」)と想像している。しかし掛軸図に見られるようにこの時代の轆轤は引き綱式であり、車輪が用いられたのは水車を動力とした明治以降であるから、柳田説は誤りとなる。
メールを拝見しました。
大倉さんというんですか。懐かしい気持ちです。
自己紹介をしておきます。
・飯田市松尾生まれ、70歳になります。・現在はさいたま市在住・です。
・母が、高木村阿島生まれで、嫁いで松尾に来たそうです。
・母の母が生田・柄山から阿島に嫁に来たそうです。・--・母方の祖母という関係になるようです。
-- ・会ったことはありません。
-- ・祖母の出生は、生田・柄山で、
大蔵という姓。ダム湖からきて最初の集落。近くに小学校と神社があったように思います。
・大学で歴史を専攻したということもあり、
-- ・母から伝え聞いた”菊紋”や”木地師祖先”のことを気にかけております。
-- ・知識としては、ブログ以上のことは分かりません。
さて、・・
古来の由緒が途絶えることは寂しい限りです。
・大倉様のご趣旨のように、何とか文化財として残せないかと思います。
・その場合、文化的価値を認めてもらわなければなりません。
・墓は、基本的に、その家系の管理(個人)に属し、文化的価値を見出すのは難しそうです。
・神社は、(私に記憶と一致していそうですが)一族の共同体的管理が多く、可能性がありそうです。
・木地師を祖にする、一族家系の中で、轆轤とか手形とかの歴史の証になるものがあれば・・
近在の郷土史の学芸員を動かせるかもしれません。
・いずれにしても、もう少し詳しく知りたいと思っています。
出来れば、返信をお願いします。
・とりあえず、このブログのコメント欄で、返信をお願いします。「メルアド」を忘れずに!!
・その場合、当面の間コメント欄は、事前認可制にしますので、「メルアド」が公開されることはありません。
・以後は、私的な交信は、メールでやりたいと思います。
このコメント文面も、かなり私的な内容なので、1ヶ月ぐらいでこの「コメント」は非公開にします。
--- ・庄
現在は結婚して家内の姓を名乗っていますが、柄山という苗字を名乗っていた者です。私自身の生まれ育ちは神奈川県ですが、父方の柄山家は伊那で、母方の髙坂家は飯田です。中学生の頃に父方の祖父から聞いた話で、「先祖は元はオオクラ(漢字は分からず)という名前だったが、柄山という村に住んでいたので柄山を名前にした。昔は木地師という木の食器を作る仕事をしていた一族で、皇室にも収めたことがある。」というものと符号する様に思え、驚きました。祖父の生前にもっとよく話を聞いとけば良かったと後悔しております。私のルーツかもしれない話を読むことが出来、感謝しております。今、柄山家の方の親戚でも、先祖の来歴を知っている人が誰もいません。木地師だったと聞いている、というくらいです。また何か新しい発見がございましたら、ご教示下さい。ありがとうございまいした。