探 三州街道 歴史

調べています

控え室の雑談記 塩の道 塩尻

2012-09-30 01:40:19 | 歴史
塩尻
承久の乱に塩尻弥三郎の出陣の記録がある。またそれより30年前に、諏訪大社の神事に、塩尻郷の記録がある。彼は、塩尻郷の領主と思われることから、承久の乱(1221)より30年前の、1181年には、すでに塩尻が郷名として在ったこと推測される。時は平安時代にあたる。いや、それ以前かもしれない。
塩尻が塩の道の終着地として実績を残したには事実であるが、塩の道の終着地として名を残したのは、どうも事実では無さそうだ。つまり、塩の道と無関係に、塩尻の地名が生まれたようだ.

北塩・南塩
信濃に運ばれる塩のルートは、大きく分けて二つのルートが確認されている。一つは、日本海の糸魚川を起点とする千石街道、もう一つは、吉良周辺を起点とする三州街道。千石街道の塩を北塩と呼び、三州街道の塩を南塩と呼ぶ。この二つのルートとも、塩の道の終着地が塩尻だとする説は、どうも誤りで、千石街道では松本(当時は府中と呼んでいた)に、三州街道では伊那の高遠への入り口あたりに、塩溜が在ったと確認されている。塩尻は、諏訪大社の勢力下、諏訪神党地域であり、南塩の地域でもある。
北塩の背景を深掘りしてみると、新潟の塩生産(塩田)は、河崎(佐渡)、寺泊(長岡)、糸魚川に生産の痕跡を見ることができるが、極めて貧弱で、自国の需要もまかなえず、十州(瀬戸内海)より船で運ばれていたようだ。これを信濃に運ぶことは、産業を意味しない、いわゆるバイパスであり、むしろ日本海の海産物が主力に思える。千石街道に散在する馬頭観音は、馬で海産物と塩を運搬したことを想像させるが、行商が主力であったのであろう。
一方、南塩の三州街道は、西尾あたりから、塩を船で足助近くまで運び、馬の背に左右均等に乗せられるように、袋に詰め替えた場所、足助からは、馬で運んだという中馬の賃金帳、馬宿(中馬宿)などが、かなり多く残っている。吉良の塩は三河の大きな産業でもあった。
北塩を有名にしたのは、武田が今川・北条と対立したとき、今川・北条から、戦略上「塩止め」を受け、困窮した武田を、上杉謙信が塩を送って助けた、いわゆる「敵に塩を送る」という故事があり、このルートが千石街道だろうと言うところから、のようである。だが、今川・北条の「塩止め」の事実はなく、謙信が塩を送った事実も無い様だ。

控え室の雑談記 三州街道・塩の道

2012-09-26 10:04:52 | 歴史
三州街道は信濃と三河の往還道であり、塩の道であり、宗教の通であり、野望と失意の道でもありました。

以下の文は、オリジナリティが、ほぼ有りません。話してみると、知らない人が割と多いのと、各時代の風景像をごっちゃにしていて、気付いていない部分もあったのであえて書いてみます。

塩尻から岡崎までの道のうち、「塩の道」ととらえれば、足助から河口までの矢作川もまた、塩の道であったわけで、この道すがら、なんと塩の名残の多いこと、三河の西尾が「煮塩」を語源としていることも最近知りました。たぶん、雨の多い海岸で天日だと時間が掛かりすぎるから、海水から濃縮する方法で、大鍋で煮る方法が開発されたのだろうと思います。

三州街道の中心は、信濃では飯田、三河では足助でありました。鎌倉時代、室町時代、この時代としてはまれな商業都市の出現です。飯田や足助に城があったから城下町だとする説は誤りで、城と城下町が機能する時代は、織田・豊臣(織豊)時代を待たなければ出現しません。刀狩りと兵農分離によって始めて成り立つ町機能であり、戦国までは、武士も稲を植え、田を耕していた、と見るのが自然です。そうすると、武士(領主)は、各の領地の中心にいたわけで、人口集積を要素とする町はこの時代に無かったと思います。領土争いが頻繁に起こったこの時代は守るのに厄介な橋は、領主に嫌われたわけで、大河川に橋は架かっていなかったと思います。

昔に聞いた話(漫画かも)に、秀吉の幼名の日吉丸時代、蜂須賀小六との出会いが矢作大橋だったと思いますが、そもそも矢作大橋はその時代に無かったはずで、これは明らかな作り話です。また、蜂須賀小六の在所は、木曽川流域にあったはずですが、矢作近辺に、これは用事があって、たまたま来ていたとも考えられるのですが。

塩と言えば、この西尾周辺の昔の殿様は、年末に放映される赤穂浪士の敵役の吉良様です。大学時代にこの近辺出身の友人が多かった所以で、彼らの話をもとに、多少反論をしてみます。吉良の殿様は、駿河今川家とほぼ同等の格式を持つ、足利家庶流(分家筋)といわれています。三河に徳川家(前身の松平家)が台頭すると、敗れて徳川臣下になるわけですが、所領は許されて、この碧海郡の一部に長く居着くわけで、この所領での治世は領民にかなり優しかったといわれています。なかでも殖産に熱心で塩産業に力を入れて、従来の塩より格段と味の良い焼き塩をあみだし、世に広めたといわれています。
時に、常陸から赤穂へ移封された浅野家は、赤穂に産業が無いのを憂い、塩の製法を吉良家に問い、吉良家は、惜しみなく製法を教えたと聞きます。時が経ち塩産業が軌道に乗り、品質も吉良の塩を超えるようになった赤穂藩は、自藩で作った焼き塩を江戸幕府に献上するようになり、品質が評判になり、広大な江戸の市場から吉良の塩を駆逐していきます。当時の吉良家は、米沢上杉家に養子を送り、経済援助もしていたので、財政的にも苦しく、恩を仇で返した礼儀知らずとして、浅野家につらく当たった、というのが真相のようです。
吉良の塩が産業として定着するのは、昔から信濃野国が顧客として存在していたからと言われています。当たり前ですが、当時の沿岸地域は、塩は自家生産で自家消費が原則です。客としては存在するわけがありません。そこに海無し国としての信濃国が、三州街道でつながっており、冬の長い信濃国は、貯蔵食品としての味噌や漬け物を他国より多く消費していたわけで、この味噌も漬け物の塩が無くてはできないわけで。
三河の、岡崎、西尾、刈谷、奥三河出身の友人達はこぞって、吉良さまを悪くは言いません。

塩の道は、昔から、沿岸から内陸へ、数多く存在していたと思われます。だが、三州街道の塩と海産物の物量の多さは、中馬の多さと、塩尻の名の由来を考えると、他を圧していたと考えられます。
鎌倉・室町(戦国後期)に、封建社会では当たり前ですが、信濃国の商業集積は、善光寺の門前町界隈と飯田のみ、特に飯田は中馬従業員の多さと蔵が建ち並ぶ小京都と呼ばれる風景をもった特異な町であったようです。大火災で、小京都の雰囲気はほぼ無くなってしまったが。
中馬とは、賃馬から変化した言葉で、中継地から中継地まで荷物を、一定の料金を払って馬で運ぶ運送形態を指す言葉で、現代のトラック輸送の、トラックを馬に置き換えれば、ほぼ理解できる。その中継地が飯田であり、足助であった。

控え室の雑談記 伊奈家の精神風土

2012-09-13 01:59:09 | 歴史
三河一向一揆

伊奈熊蔵家・伊奈半十郎家が関東代官頭時代・関東郡代時代に業績を残した各地には、地名を残したり、伊奈を冠にした神社や、銅像を残したりしている。いわゆる「官」のリーダーを民衆の手で、尊び懐かしんで、のことで、このことは、他にほとんど類を見ない。業績に対する尊敬や人気は、神様仏様伊奈様と称せられ、事あるとき(災害や飢饉)、幕府よりも郡代様頼りだったことが、当時の各地に残る資料からも伺われる。

時には、幕府の意向をも無視して、窮民救済を行った伊奈家(熊蔵家・半十郎家)の精神構造とは、どんなものだったのだろうか。家康や将軍に対しての距離感、窮民に対しての距離感は、幕府のトップ官僚の立場であったから、余計に興味がわく。そこに宗教は存在するのだろうか。
代々、関東移封後の伊奈家は、浄土宗の有力檀家であった。伊奈熊蔵家は忠次を中心に前後四代の墓を、鴻巣の勝願寺に持っている。忠家、忠次、忠政、忠冶(半十郎)の四人である。忠克以降の半十郎家は、川口市の源長寺にある。また、忠政の嫡子の忠勝は九歳で病死しいるが、伊奈町小室の願成寺に葬られている。三寺とも浄土宗である。
・・・この項の目的とは違うが、熊蔵家と半十郎家の関係を少しだけ説明しておきます。忠次の嫡男の忠政が亡くなったとき、忠政の子の忠勝も九歳で亡くなり、熊蔵家はここで改易になり断絶する。後に、忠勝の弟忠隆が成人を迎える頃に許されて、旗本として復活するが。幕府天領と関東治水事業は伊奈家の名声と業績を惜しむ声が多く、忠次の次男の忠冶が関東郡代として引き継ぐこととなる。なお、将軍家光の相談役だった保科正之(家光の弟)が行った、末期養子の禁の緩和(嫡子法の改革)は、由井正雪の乱のあとだから、この数十年後のことで、伊奈家の改易・復活には関わっていない。医療の貧弱だったこの頃は、領主(城主=大名・小名)が若死にする場合が多く、改易となれば、配下の大量の武士が浪人し、多大の政情不安が起こり、この因で由井正雪の乱も起こった。保科正之の嫡子法の改革は、数ある保科改革の善政の一つといわれている。・・・

伊奈熊蔵忠次を祖とする、伊奈家は代々、敬虔で真摯な仏教信者であったと聞く。
では、伊奈熊蔵忠次が若くして経験した、三河一向一揆とは、何であったのか。
三河一向一揆については、簡単な解説や大久保彦左衛門の「三河物語」などで、実際よく分からなかったが、、最近、杉浦幹雄さんのブログで「父なる教えー浄土真宗ー」を読ませてもらった。分かりやすい解説だ。
それを基に、要約しながら考査してみる。

三河地方の浄土真宗の根付き方。
三河地方には従来より、聖徳太子信仰と善光寺信仰が、多く見られるようだ。今もお寺や旧家には聖徳太子絵像と長野善光寺絵馬がかなりの数、残っているそうな。この人達は、念仏集団を作り、講という形で集会を行っていた。
15世紀、三河浄土真宗の萌芽は親鸞の矢作での説教に始まった。時が経ち、蓮如の時代になると、蓮如の弟子に如光が現れて、精力的に真宗の布教を行うようになる。彼は油ケ淵の伝説のボスとも呼ばれ、入り江の油ケ淵の漁業権、内陸の寺町の商業権、城の出入りも統轄したようである。如光は佐々木上宮寺で息女と結婚し、上宮寺の住職となり、ここを拠点に、オルガナイザーとして、布教拡大に力を発揮してゆく。門徒は百姓だけでなく、武士・町民、さらに職人や漁業関係者も多かった。宗教活動は、矢作地方で、縦割りに組織を超え、横割りの宗教的連携活動をしている。浄土真宗の信者には家康の家臣も多くあった。
三河一向一揆
人質生活から、岡崎に戻った家康が、まず目論んだことは、西三河の支配と領国造りであった。真宗の寺がかなり多く、年貢徴収には何かと文句が多い。本願寺には喜んで寄進するし、寺内町は商業が繁盛しているし、「不入」特権があり既得権が他にもあった。家康22歳の時の決断は、真宗の寺をけしかけて、門徒を分散させ、蹴散らすことであった。家康の直参家臣で真宗門徒の石川・本多・鳥居などの一族は敵味方に分かれた。東条城の吉良義昭は非門徒であったが、一向一揆に組みして蜂起した。伊奈熊蔵忠基は家康側についた。孫の忠次と父は吉良(荒川義広)の一向一揆側についた。家康はまずここから攻めた。戦況は、一揆側の直参の家臣団は家康とは戦いぬくいし戦意も喪失する。圧倒的に家康有利に進んだ。リーダーの吉良義昭は早々と降参してしまう。
ここで、家臣の大久保が和議を提案し、1562年に和議が成立する。条件は、坊主を除き、一揆参加者は赦免、一揆張本人の助命、「不入」特権の承認であった。この様にして、三河一向一揆は終結する。
伊奈熊蔵家は東条吉良の同族の吉良(荒川)義広との義で、一向一揆側に加担したと言われている。配下に真宗信徒を多く持っていただろうことは、想像できるが、熊蔵自体は真宗信徒であると言う資料は出てこない。
・・・家康の参謀・本多正信も三河一向一揆に一揆側で参加した。あと各地を放浪し、後に家康に帰参した。後年に死しての墓は、京都東本願寺に埋葬されて、ある。改宗しなかったようだ。・・・
時をほぼ同じくして、一向一揆が各地で起こっている。代表的なのは、三河一向一揆を含めて三つ。加賀の一向一揆、長島(伊勢)の一向一揆。織田信長は、長島一向一揆で二万人、比叡山の焼き討ちで三千人、高野山金剛峯寺で千人の、世界でも類を見ない大量殺戮を行っている。この頃も、織田信長は、石山合戦で、本願寺門徒と対峙していた。京にある僧侶寺院・貴族・朝廷は、この怨恨を明智光秀に託した。これが、世に言う「本能寺の変」である。この背景分析は、教科書で習ったことと違った結論だが、合理的で、ある意味正しいと思っている。

さて、伊奈忠次の精神風土だが、一向一揆に参加して敗れたが、浄土真宗への信仰の宗教心はどうも見えてこない。
改宗したという痕跡も見つからない。伊奈忠基の、一揆が起こったときの檀家寺が何処だったが分かれば、話は別だが、資料は今のところ見つかっていない。以後の伊奈熊蔵家は一貫して浄土宗徒である。

関東天領を預かる代々の伊奈家に貫流する、民政への思い、困窮する民への暖かい思い、はどこから来るのだろうか。
仮説する。
小田原の役(北条征伐)のあと、五国大名となり巨大化した家康を危険視した秀吉は、関東移封を命じた。家康の重臣達は、荒廃している関東をみて、こぞって反対した。その中で唯一関東に行くべき、と主張したのが、伊奈忠次であったという。
その時、伊奈忠次の頭の中には、すでに利根川の東遷、荒川の西遷の青写真があり、関東平野中央部の広大な河川敷的荒れ地を、豊穣の作地に替えうる方策があり、伊奈家代々の仕事とする自負もあった。この自負があったからこそ、関東に行くべし、と主張したのだろう。優れたテクノラート官僚の、グランドデザインでもある。事実、関東移封当時、180万石とも、250万石ともいわれた家康の所領は、後に400万石になった、と言われている。
そのすべてが、伊奈家の業績では無いだろうが、中核は、常に伊奈関東代官頭・郡代であった。
民を豊かにし、徳川家を豊かにする事を絶えず冠にした職業倫理観は代々引き継がれる。この職業倫理観は、民政への思い、困窮する民への暖かい思い、と共通する。度々起こる自然大災害の際、この救済は伊奈家以外できないだろうという自負と倫理観をもって対応する。それも歴代である。
上記は、仮説である。


控え室の雑談記 伊奈忠次の治水技術・知識の原風景を探る 

2012-09-04 13:27:19 | 歴史
知識や技術とか強烈な精神構造がどのように培われたか、を探ることを、出自とは言わない様だ。突然に、強い精神が生まれることも、急に知識や技術が身につくことも、無いとすれば、その人の、生まれてこのかたにあるのは必然、それを、原風景と呼び、探ってみる。

祖父忠基の三河

元服を終えた金太郎易次は信濃を離れ、三河に行く。そこで名前を伊奈熊蔵忠基と変える。伊奈熊蔵忠基が小島城の城主となるのが、後年の約60歳(1561年)の時だから、およそ45年間三河のの何処かに生活して、徐々に一族郎党を増やし、地元と密着し、小豪族としての体裁も整えていったのだろう。頼ったのが、荒川・戸賀崎の吉良一族であろう事は、後の一向一揆の時、一族の約半分が、東条吉良家の荒川義広(弘)に与したことからも伺われる。この三河一向一揆のリーダーは荒川義広の実兄の吉良義昭である。三河の新参者の伊奈熊蔵忠基は、おそらく、絶えず氾濫を繰り返す矢作川の河川敷の荒れ地か、荒れ地の近くを領地として与えられたのではないか、これは想像であるが、後に散見される治水の知識や堤防の技術から伺える。矢作川の河川敷荒れ地を耕作地に替えながら、少しずつ力を増大していったのではないか・・・祖父熊蔵忠基から始まる、伊奈熊蔵忠次の伊奈流と言われる治水技術の原風景である。
西尾市の歴史人物の「偉人録」の伊奈熊蔵忠次の項に、本多清利さんの「家康政権と伊奈忠次」の紹介文がある。
「三河一向一揆の反乱に連座して父子ともども小島から追放された。・・・各地を転々として渡り歩く放浪生活・・・忠次は質実剛健の士分であったが、なりふりかまわず食を求めて雑役に従事した。すなわち行く先々で、地頭や地侍が河川の堤防や、用悪水路の補修を施工していれば、一般農民とともに人足として働き、・・・忠次なりに堤防や用悪水路のより有効適切な施工技術を生み出し、地頭や地侍層を驚かせた。・・・」
本多清利さんは、西尾市や付近各地に残る伊奈忠次の風聞を言語データとしてつなぎ合わせて、上記の本を書いたのだろう。
伊奈忠次の足跡を追いかけてみても、治水の基礎知識、施工技術のレベルの取得は、この時期でしかあり得ない。