塩尻
承久の乱に塩尻弥三郎の出陣の記録がある。またそれより30年前に、諏訪大社の神事に、塩尻郷の記録がある。彼は、塩尻郷の領主と思われることから、承久の乱(1221)より30年前の、1181年には、すでに塩尻が郷名として在ったこと推測される。時は平安時代にあたる。いや、それ以前かもしれない。
塩尻が塩の道の終着地として実績を残したには事実であるが、塩の道の終着地として名を残したのは、どうも事実では無さそうだ。つまり、塩の道と無関係に、塩尻の地名が生まれたようだ.
北塩・南塩
信濃に運ばれる塩のルートは、大きく分けて二つのルートが確認されている。一つは、日本海の糸魚川を起点とする千石街道、もう一つは、吉良周辺を起点とする三州街道。千石街道の塩を北塩と呼び、三州街道の塩を南塩と呼ぶ。この二つのルートとも、塩の道の終着地が塩尻だとする説は、どうも誤りで、千石街道では松本(当時は府中と呼んでいた)に、三州街道では伊那の高遠への入り口あたりに、塩溜が在ったと確認されている。塩尻は、諏訪大社の勢力下、諏訪神党地域であり、南塩の地域でもある。
北塩の背景を深掘りしてみると、新潟の塩生産(塩田)は、河崎(佐渡)、寺泊(長岡)、糸魚川に生産の痕跡を見ることができるが、極めて貧弱で、自国の需要もまかなえず、十州(瀬戸内海)より船で運ばれていたようだ。これを信濃に運ぶことは、産業を意味しない、いわゆるバイパスであり、むしろ日本海の海産物が主力に思える。千石街道に散在する馬頭観音は、馬で海産物と塩を運搬したことを想像させるが、行商が主力であったのであろう。
一方、南塩の三州街道は、西尾あたりから、塩を船で足助近くまで運び、馬の背に左右均等に乗せられるように、袋に詰め替えた場所、足助からは、馬で運んだという中馬の賃金帳、馬宿(中馬宿)などが、かなり多く残っている。吉良の塩は三河の大きな産業でもあった。
北塩を有名にしたのは、武田が今川・北条と対立したとき、今川・北条から、戦略上「塩止め」を受け、困窮した武田を、上杉謙信が塩を送って助けた、いわゆる「敵に塩を送る」という故事があり、このルートが千石街道だろうと言うところから、のようである。だが、今川・北条の「塩止め」の事実はなく、謙信が塩を送った事実も無い様だ。
承久の乱に塩尻弥三郎の出陣の記録がある。またそれより30年前に、諏訪大社の神事に、塩尻郷の記録がある。彼は、塩尻郷の領主と思われることから、承久の乱(1221)より30年前の、1181年には、すでに塩尻が郷名として在ったこと推測される。時は平安時代にあたる。いや、それ以前かもしれない。
塩尻が塩の道の終着地として実績を残したには事実であるが、塩の道の終着地として名を残したのは、どうも事実では無さそうだ。つまり、塩の道と無関係に、塩尻の地名が生まれたようだ.
北塩・南塩
信濃に運ばれる塩のルートは、大きく分けて二つのルートが確認されている。一つは、日本海の糸魚川を起点とする千石街道、もう一つは、吉良周辺を起点とする三州街道。千石街道の塩を北塩と呼び、三州街道の塩を南塩と呼ぶ。この二つのルートとも、塩の道の終着地が塩尻だとする説は、どうも誤りで、千石街道では松本(当時は府中と呼んでいた)に、三州街道では伊那の高遠への入り口あたりに、塩溜が在ったと確認されている。塩尻は、諏訪大社の勢力下、諏訪神党地域であり、南塩の地域でもある。
北塩の背景を深掘りしてみると、新潟の塩生産(塩田)は、河崎(佐渡)、寺泊(長岡)、糸魚川に生産の痕跡を見ることができるが、極めて貧弱で、自国の需要もまかなえず、十州(瀬戸内海)より船で運ばれていたようだ。これを信濃に運ぶことは、産業を意味しない、いわゆるバイパスであり、むしろ日本海の海産物が主力に思える。千石街道に散在する馬頭観音は、馬で海産物と塩を運搬したことを想像させるが、行商が主力であったのであろう。
一方、南塩の三州街道は、西尾あたりから、塩を船で足助近くまで運び、馬の背に左右均等に乗せられるように、袋に詰め替えた場所、足助からは、馬で運んだという中馬の賃金帳、馬宿(中馬宿)などが、かなり多く残っている。吉良の塩は三河の大きな産業でもあった。
北塩を有名にしたのは、武田が今川・北条と対立したとき、今川・北条から、戦略上「塩止め」を受け、困窮した武田を、上杉謙信が塩を送って助けた、いわゆる「敵に塩を送る」という故事があり、このルートが千石街道だろうと言うところから、のようである。だが、今川・北条の「塩止め」の事実はなく、謙信が塩を送った事実も無い様だ。