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荒川家と保科家の接点をもとめて(まとめ)

2012-07-22 07:25:46 | 歴史

伊奈忠次と保科正之は、ともに江戸時代を代表する、それも優れた政治家として後世から評価されています。その二人の祖が、室町末期に接点があったようだ、というのが、テーマです。

それを解く鍵は、当時の政治状況と、そこに関わる諏訪神族(神党)の歴史の中に、あるように思いました。

以下、まとめ・・・

高遠 保科家の家系の謎

「武家家伝ー保科家」の特に参考略系図を読み返している。

保科家は、保科太郎を名乗った忠長のあと分流している。長男の長直と、たぶん五男の(大槻)頼重に。この大槻頼重の嫡子が保科実重を名乗ったことから、保科家は二派の保科家として存在するようになる。
この忠長・長直と続く保科家は川田郷保科(いまの長野市若穂保科あたり)に霞台城を居とする豪族に、一方大槻頼重・保科実重と続く保科家は、高遠近くの小豪族となった。それがどこかは分からない。だが高遠近在の保科家は、諏訪家の分流となった高遠家に仕えるようになった。高遠継宗の代官、保科貞親である。保科貞親は別称で弾正貞親と呼ばれている。つまり保科○○こと弾正貞親と。この○○は、保科実保か、実行か、それとも実年なのか、資料が乏しく想像も貧弱、その後に正信の養子で、荒川易正が保科家を嗣ぐこととなる。ここで参考略系図に戻る。

参考略系図

保科太郎長直・・・・・光利・正知・正利・正則・正俊・正直・正光・正之

大槻頼重・保科実重・・実俊・正員・正信・正則・正俊・正直・正光・正之

見ての通り、保科正則以降は同一人物で、保科家の二流派は合流したことを意味している。これは疑いの余地は無い。保科長直系の正利と大槻頼重系の真員・正信のところで、なにがあったのだろうか?!!

そこでまた、「武将系譜辞典」(小笠原文書)を再読する。

実俊
正員
正倍五郎左衛門正信?・・・正信のことを正倍と書き間違えたのだろうか?
易正正倍嗣荒川易氏子神助

長直矢井忠長子清長孫桑淵光長彦曾孫常田光平玄孫井上家季耳孫太郎
長時
光利太郎
正知弾正秀貞
正利正知子光利子?正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正筑前仕高遠頼継
正俊15091593正則子弾正筑前「槍弾正」

気になる言葉を、とりあえず列挙する。

易正正倍嗣荒川易氏子神助の「神助」
正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正筑前仕高遠頼継
そして、別の書に出てくる「保科家の甚(神)四郎」

神助・・・
神助とは四文字熟語の「天佑神助」の神助で、天佑は神(天)の助け、神助は神の加護、で天佑も神助も意味はほぼ同じと見ていい。絶体絶命の危機のとき、荒川易正は神の加護、天の助けで助かった、それは諏訪一族に関係する出来事なので、諏訪神族の神家の意味合い、天佑ではなく、神助というあだ名でなくてはならなかった。この出来事は、保科家にも関係することで、その後、保科家に入っていく。高遠家とその代官である保科家が荘園経営で対立した前後で、易正は活躍し、諏訪神族が諏訪神党として、党派性・連携性を鮮明にしていく時期と重なる。そして、保科易正は神助易正と呼ばれるようになる。保科家はもとより、諏訪神族である。
保科家の本家筋は、どうも、保科長時以来の長野保科の系統でありそうだ。別家筋の大槻頼重・保科実重系統の保科正信も主君の高遠継宗の代官を務める家柄で、保科貞親のように高遠家と対抗できると勢力を持った豪族として育っている。そこへ、本家筋の保科正利が、「村上一族」の台頭で、若穂保科を追われて、合流してくる。正利は村上一族に追われる過程で戦死したのかもしれない。
正尚はこうした事情を踏まえて、保科易正が変名したと見ることは、ごく自然のように思える。保科正尚も高遠家に仕えたのだろう。
保科易正の子、保科正則と、正則の子保科正俊は、高遠家の高遠頼継の家老となる。
なお、保科易正以後正直?までの四代?にわたって甚(神)四郎も名乗ることになる。甚四郎は神族の四男坊という意味で、さしずめ、長男が諏訪惣領家、次男が高遠家、三男が藤沢家、そして四男が保科家ということだろうか?
事実、易正以降、諏訪神族は諏訪神党として党派的な色彩を強く持つようになり、保科家は、弱小豪族から、戦国武将的強者のイメージ豪族へ変身してくる。特に保科正俊がそれを象徴しているようだ。易正から三代目の正俊は隔世遺伝だろうか、性格が易正に似ている気がする。

以上が、私の「神助易正」考・・・
歴史の資料が少ない中で、事実に迫る作業には、時代背景の正確な知識と想像力・構想力で迫るしかない。その作業は、状況証拠の積み重ねで、推理小説にも似た、ある意味愉しい作業でもあるが、どこかに独断と偏見と思い違いと無知で、誤った結論になったのでは、と思っている。
できれば、そんな箇所をご指摘いただけたら、と願って。
そういえば、司馬遼太郎氏は奈良本辰也氏と歴史考証で激論を交わす間柄であった、そうな!!
この時代に、特に歴史のここの部分に、興味がある方は、コメントをお願いします。



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