赤羽記(保科記)現代訳
赤羽記(保科記)改訂
赤羽記序
私(中村元恒)が、安政年間に、東京に来ていた高遠以来の会津藩士、黒河十太夫、広沢富次、高津仲三郎と、数年間にわたり、過去の保科家の歴史談義をしたときの内容です。私の歴史好きは、天正間の戦争の話(織田の高遠攻め)を聞く事になります。。この話には、つい柏手を打ち、耳をそばだてて訊いていました。そこには自分は今まで訊いたことが無かった新事実も聞くことが出来ました。話に膝が触れるのも忘れ、つい乗り出してしまいました。その話は赤羽記が出来た由来のことでもあります。そうしている内に赤羽四郎が訪れ、「赤羽記」を貰いうけることが出来ました。その書にはいくつもの話が載っており、今まで聞いたこととは内容の違う話が多くありました。その中に赤羽又兵衛の槍の功籍のこともありました。文明寺の謀略の話もありました。たぶん文明寺は金剛山峰山寺(ほうざんじ)の前身だろうと思われます。このことは詳細に記してあります。また、保科弾正(正直)が高遠(城)を去るときの経緯も詳しく説明され、この部分は旧記には所見が全くなかった部分で、この書だけの言い伝えです。つまり、天正10年3月、保科弾正は高遠城内にいたが、森勝蔵(織田側)が奇策を計って、保科弾正を誘い出して逃がした経緯のことです。。この時、跡部氏から嫁いだ正直の奥方は高遠城内で自害を図りました。春日戸左衛門と伊沢清左衛門は殉死し、戦いの後、満光寺の牛王和尚が亡骸を荼毘に付して弔ったということです。ことのに奥方は操を守り通した潔さは美しかったといいます。それで、以後保科家は香華を供え冥福を祈り、これを尊崇したといいます。この記述は以後の保科家の行事を見れば明白であり、当時の大将の自害や戦死の様子を思えば、弾正公のことを悪く言うものは悪く言うものは、ほとんどいなかった、と伝え聞きます。そうして、奥方は笹曲輪郭内にて自害なさったと聞きます。ですから、この書の記載するところを皆が納得しました。弾正が城を抜け出したことの些細の内容であり、この書の伝聞は疑いの余地のないところところであります。この事実の記載が、この書の伝搬の目的であり、保科家の創業期の艱難の内容であります。また、それ故にこそ、こうしてこのことを顕かにしていこうと思います。保科家の由緒をただすことは、愉しいことであります。そして今、十太夫、仲三郎、自分が故人の弾正公の為に出来ることです。富次は牧師の跡を継ぎ、自分は年をとって、引き比べて考えると、明治の中頃になって保科家はは君臣のあやまれる方向にいき、皆が流離し生活が困難になり、社稜が幾つもなくなる時代になった(戊辰戦争以後の保科・松平家の混沌の事か?)。しかしこの書は依然として現存し、現在に関わっています。さて、思いがけない災難で死ぬことは正しくないと、と知ることは喜びであります(非命を単語として理解しました)。自からこれを写し、蕗原拾葉の収録しました。併せてこの感激も記入しておきます。
明治11年10月23日信濃黒水老人中村元恒(中邨元起)書
於いて 東京小石川不如学舎
赤羽記
保科氏は,信州川中島の善光寺の西の方角に保科という所があって、ここが保科氏のご先祖の出生の地であります。
源頼朝の治世に、川中島近くの井上郷の領主に、井上九郎光盛という者がおりました。光盛は頼朝の家来になっていたのですが、甲斐国の一条忠頼(武田信義の嫡男)と共謀して頼朝に反旗を翻したのが露見し、京から戻る道の駿河で、頼朝により誅殺されました。保科太郎と小川原雲籐蔵は光盛の部下であり、光盛の同類として、鎌倉に捕らえられましたが、保科と小川原は謀反の心が無いことを申しあげて赦されて、鎌倉幕府の御家人に加えられることになり、これより源頼朝から三代の将軍の御家人として仕えるようになりました。そうして北条(得宗)家の時代になると、地元の領土争いから保科家は浪々の身となり、後に親戚筋を頼って藤沢へ来て年月を送りました。弾正公より10代ばかり前のことで、藤沢の住人は「保科」という名前を貰ったり、籾や栗と交換して「保科」という名字を手に入れたという事です。「保科」家は源(頼季)を祖とする系譜の名門であり、弾正公の御代に入り乱れた系譜をことごとく改めて整理したということです。
・・・これによると、北条得宗家の時代に、若穂保科から保科一族は、三々五々に、藤沢谷へ移り住んだことが書かれおり、名門保科家の嫡流はどこかで途絶えて、保科でない者が「保科」の名字を貰ったり買ったりして混乱していたことが、ずっと保科に随臣している家臣団から語られている。・・その一人、赤羽記自体が保科家臣の赤羽家(おそらく辰野の赤羽地区の小郷主)の記録であります。・・・
(木曽家の系統の)高遠城の城主は断絶して城主不在となりました。この時、この地方の豪族は会議をして、高遠城主に諏訪家の惣領を申し入れて城主にしましたが、この城主は生まれつき愚かだでありました。この城主は、頼次(継)より7代先祖に当たります(諏訪信員のことか?)。頼次(継)より三代(前)の城主(継宗)は、生まれつき賢く武術にも通じており、伊那の郡を残らず平定し、領土は10万石にもなったといいます。更に遠江にも遠征し、狩野氏を臣下に加えてもいます。その頃より、保科氏は(高遠)城主に仕え始めています。この頃、保科氏は北村という所に20石の知行が有り、そこの小領主であったみたいです。それでか、この頃の保科氏の代々の墓は北村にあるといいます。この(高遠)城主(継宗)は諏訪家の惣領筋で、諏訪一族の惣領の地位を奪おうと考えて、色々と対策を考えていた時に、弥勒という土地の一妙という法華宗の僧が、いつも継宗の近くにいて、城主の諏訪惣領家の野望をきき、自分が(惣領家の)証しを奪ってくると言って金子城に行き、諏訪家の様子を覗い、7月7日の朝に、諏訪家が重宝を外に出したのを確認してから、諏訪家の城内へ見物し、その後嫡子の証の「巻物」を奪って逃げました。城内を護る者が一妙を見つけて追いかけ、伊勢並(場所不明)と言うところまで追い詰めました。ここは諏訪と高遠の境です。高遠勢は加勢で30騎出向いたが、諏訪方はそれより大勢が出向いたので、無事に戻れず僧侶は自殺をします。諏訪方は文書は取り戻せず、死体もそのままにして、戻っていきました。高遠の人達は死人をそのまま放っておけば社殿の中の穢れを忌み嫌う勤めをなさないと思っていました。その後高遠城の者が検死すると、脇の下を貫いて傷口が変だと思ってみると、怪しいものが少し見えました。詳しく見ると傷口に一巻の書があって、これが諏訪家惣領の系図である事が解り、これが以来高遠家の宝物となり、この僧侶の着ていた血の付いた袈裟衣も、高遠家の代々の重宝と言うことにしました。後に仁科五郎が高遠城に籠城した時に、高遠家の二つの宝をを亡失してしまったと言うことです。
これよりしばらくして、保科氏は上牧の郷の野底という所に70石の知行の領地を貰ったという。
頼次(継)の親(満継)は、かなり傲慢で、かつ無礼な人で、人心を掌握できず、直参や旗本は、彼を嫌い、軽蔑し、皆自分勝手になり、この為か、勢力が衰えて、瞬く間に領土が2万石に減ってしまった。この時、高遠と伊那を高遠家と保科家は取り合って争いました。・・ここでは高遠家と保科家は満継の時代に争ったことになっている。・・かつ、高遠家と争った保科は、保科貞親でなく、弾正と言うことになる。貞親と弾正の関係は?
この戦いで保科氏は筑後と呼ばれていた、弾正の親父さん(=正則?OR秀貞?)が討ち死にした。討ち死にの場所は、伊那の駒場と言うところである。この時から保科の子孫は取り立てられて、筑前守を名乗り、高遠頼継の家老として1000石の領地の知行を貰うことになる。高遠頼継は時に勢力を拡大していた武田信玄の旗本になる。
確認事項1
時代・1530年代は、小笠原長棟(府中)と小笠原貞基(松尾)の身内の戦いがあり、1533年(天文2年)は長棟が伊那に出兵して下伊那で戦いがあった。松尾小笠原は知久頼元や高遠頼継が味方したが、敗れた。
確認事項2
その時筑後と呼ばれたのは保科正則か?正則は頼継の名代家老として松尾小笠原に協力したのだろうか?正則はこの戦いで戦死したのだろうか?弾正と呼ばれたのは正俊か?
頼継は妾がいたが、正妻は嫉妬深くて城内に妾を置いておけなかった。そこで城下の武家屋敷に妾を置き、佐野清左衛門という侍を警護に就けた。頼継の正妻は、諏訪頼重の妹であった。奥方は妾のことを知り、兄の頼重に頼んで手勢を借りて妾を謀殺しようとする。諏訪より50人の手勢がある夜の夜更けに妾宅に討ち入った。清左衛門は枕元に置いてあった3尺あまりの刀を抜いて、手勢に斬りかかった。
諏訪の手勢を8,9人切り伏せ尚も大勢にキズを負わせたが、自らも右の腕を切り落とされて、刀を左に持ち替えて、妾を肩に背負い、この屋敷を立ち退いて、その後、月岡庄兵衛の宅へ逃げ込んだ。月岡は若年の頃よりの知り合いである。その後、佐野清左衛門は、取り立てを断り、片輪になってしまったので在郷に引き込み田地を作ったという。大男で、キズなどですさまじき面だったという。
右のこれまでは、高遠城主の大筋と保科氏の加増の様子のことである。
頼継の家臣は、上林上野入道と保科筑前守の両人である。筑前守は、宮田に700石と野底に500石併せて1200石を領有していた。上林は信玄に、高遠頼継は謀反の気持ちがあることを伝えた。この為に頼継は信玄から甲府に呼び出され、咎め殺された。上林が頼継を讒言したのは、主人を廃し、自分が取って代わって領主たらんと欲したためである。<筑前守殿ハ上林ト相ヤケナリ>上野入道の子は彦三郎という。彼は筑前殿の聟(婿)でもある。この讒言を筑前殿は毛頭聞かされてなかった。これ故に筑前殿へ信玄より不審をもたれた。上野入道は忠義で謀反を報告してくれたが、筑前は報告がなかった。そこで筑前は、仏法寺の禅寺で1年間を過ごすが、事実が段々露見していき、筑前守は信玄の信頼を取り戻していった。上林へのお咎めはなかった。
信州佐久郡に志賀と言うところがあります。そこの領主に志賀平六左衛門という者が居りました。信玄に背いたので信玄は保科筑前を招集して、先導させて、彼を討つべしと志賀の町に討ち入りました。角屋の蔀の蔭に潜んで居った家来の北原彦右衛門が打って出ました。平六左衛門は栗毛の馬に乗り、大勢を引き連れて、町中を乗り回しておりました。北原彦右衛門は、志賀平六左衛門の馬の太っ腹に長刀を突きだすと、馬は倒れて平六左衛門を降り立ったところへ筑前殿は走り寄って首を打ち落とす。首を打ち落とすところに大髭があったが髭もごっそりそぎ落としてしまった。そして信玄の御前へ平六左衛門の首を持参した。信玄は上ノ山よりこの筑前の働きをご覧になっており、御前に出たときにご褒美としてその刀は髭切りと名付けられ、、刀の作者を尋ねられたので、基重だと答えた。また保科家の重代の宝とせよと申し、感状も与えられた。また、盛景という長刀を使った家来の北原彦右衛門の働きにも感状を下された。これより筑前殿は信玄の直参に召し抱えられた。
以後、信玄時代、勝頼時代と続く・・・歴史書に記述が多いので、後日に回す。
不確定部分、不明箇所判明次第改訂要。
赤羽記(保科記)改訂
赤羽記序
私(中村元恒)が、安政年間に、東京に来ていた高遠以来の会津藩士、黒河十太夫、広沢富次、高津仲三郎と、数年間にわたり、過去の保科家の歴史談義をしたときの内容です。私の歴史好きは、天正間の戦争の話(織田の高遠攻め)を聞く事になります。。この話には、つい柏手を打ち、耳をそばだてて訊いていました。そこには自分は今まで訊いたことが無かった新事実も聞くことが出来ました。話に膝が触れるのも忘れ、つい乗り出してしまいました。その話は赤羽記が出来た由来のことでもあります。そうしている内に赤羽四郎が訪れ、「赤羽記」を貰いうけることが出来ました。その書にはいくつもの話が載っており、今まで聞いたこととは内容の違う話が多くありました。その中に赤羽又兵衛の槍の功籍のこともありました。文明寺の謀略の話もありました。たぶん文明寺は金剛山峰山寺(ほうざんじ)の前身だろうと思われます。このことは詳細に記してあります。また、保科弾正(正直)が高遠(城)を去るときの経緯も詳しく説明され、この部分は旧記には所見が全くなかった部分で、この書だけの言い伝えです。つまり、天正10年3月、保科弾正は高遠城内にいたが、森勝蔵(織田側)が奇策を計って、保科弾正を誘い出して逃がした経緯のことです。。この時、跡部氏から嫁いだ正直の奥方は高遠城内で自害を図りました。春日戸左衛門と伊沢清左衛門は殉死し、戦いの後、満光寺の牛王和尚が亡骸を荼毘に付して弔ったということです。ことのに奥方は操を守り通した潔さは美しかったといいます。それで、以後保科家は香華を供え冥福を祈り、これを尊崇したといいます。この記述は以後の保科家の行事を見れば明白であり、当時の大将の自害や戦死の様子を思えば、弾正公のことを悪く言うものは悪く言うものは、ほとんどいなかった、と伝え聞きます。そうして、奥方は笹曲輪郭内にて自害なさったと聞きます。ですから、この書の記載するところを皆が納得しました。弾正が城を抜け出したことの些細の内容であり、この書の伝聞は疑いの余地のないところところであります。この事実の記載が、この書の伝搬の目的であり、保科家の創業期の艱難の内容であります。また、それ故にこそ、こうしてこのことを顕かにしていこうと思います。保科家の由緒をただすことは、愉しいことであります。そして今、十太夫、仲三郎、自分が故人の弾正公の為に出来ることです。富次は牧師の跡を継ぎ、自分は年をとって、引き比べて考えると、明治の中頃になって保科家はは君臣のあやまれる方向にいき、皆が流離し生活が困難になり、社稜が幾つもなくなる時代になった(戊辰戦争以後の保科・松平家の混沌の事か?)。しかしこの書は依然として現存し、現在に関わっています。さて、思いがけない災難で死ぬことは正しくないと、と知ることは喜びであります(非命を単語として理解しました)。自からこれを写し、蕗原拾葉の収録しました。併せてこの感激も記入しておきます。
明治11年10月23日信濃黒水老人中村元恒(中邨元起)書
於いて 東京小石川不如学舎
赤羽記
保科氏は,信州川中島の善光寺の西の方角に保科という所があって、ここが保科氏のご先祖の出生の地であります。
源頼朝の治世に、川中島近くの井上郷の領主に、井上九郎光盛という者がおりました。光盛は頼朝の家来になっていたのですが、甲斐国の一条忠頼(武田信義の嫡男)と共謀して頼朝に反旗を翻したのが露見し、京から戻る道の駿河で、頼朝により誅殺されました。保科太郎と小川原雲籐蔵は光盛の部下であり、光盛の同類として、鎌倉に捕らえられましたが、保科と小川原は謀反の心が無いことを申しあげて赦されて、鎌倉幕府の御家人に加えられることになり、これより源頼朝から三代の将軍の御家人として仕えるようになりました。そうして北条(得宗)家の時代になると、地元の領土争いから保科家は浪々の身となり、後に親戚筋を頼って藤沢へ来て年月を送りました。弾正公より10代ばかり前のことで、藤沢の住人は「保科」という名前を貰ったり、籾や栗と交換して「保科」という名字を手に入れたという事です。「保科」家は源(頼季)を祖とする系譜の名門であり、弾正公の御代に入り乱れた系譜をことごとく改めて整理したということです。
・・・これによると、北条得宗家の時代に、若穂保科から保科一族は、三々五々に、藤沢谷へ移り住んだことが書かれおり、名門保科家の嫡流はどこかで途絶えて、保科でない者が「保科」の名字を貰ったり買ったりして混乱していたことが、ずっと保科に随臣している家臣団から語られている。・・その一人、赤羽記自体が保科家臣の赤羽家(おそらく辰野の赤羽地区の小郷主)の記録であります。・・・
(木曽家の系統の)高遠城の城主は断絶して城主不在となりました。この時、この地方の豪族は会議をして、高遠城主に諏訪家の惣領を申し入れて城主にしましたが、この城主は生まれつき愚かだでありました。この城主は、頼次(継)より7代先祖に当たります(諏訪信員のことか?)。頼次(継)より三代(前)の城主(継宗)は、生まれつき賢く武術にも通じており、伊那の郡を残らず平定し、領土は10万石にもなったといいます。更に遠江にも遠征し、狩野氏を臣下に加えてもいます。その頃より、保科氏は(高遠)城主に仕え始めています。この頃、保科氏は北村という所に20石の知行が有り、そこの小領主であったみたいです。それでか、この頃の保科氏の代々の墓は北村にあるといいます。この(高遠)城主(継宗)は諏訪家の惣領筋で、諏訪一族の惣領の地位を奪おうと考えて、色々と対策を考えていた時に、弥勒という土地の一妙という法華宗の僧が、いつも継宗の近くにいて、城主の諏訪惣領家の野望をきき、自分が(惣領家の)証しを奪ってくると言って金子城に行き、諏訪家の様子を覗い、7月7日の朝に、諏訪家が重宝を外に出したのを確認してから、諏訪家の城内へ見物し、その後嫡子の証の「巻物」を奪って逃げました。城内を護る者が一妙を見つけて追いかけ、伊勢並(場所不明)と言うところまで追い詰めました。ここは諏訪と高遠の境です。高遠勢は加勢で30騎出向いたが、諏訪方はそれより大勢が出向いたので、無事に戻れず僧侶は自殺をします。諏訪方は文書は取り戻せず、死体もそのままにして、戻っていきました。高遠の人達は死人をそのまま放っておけば社殿の中の穢れを忌み嫌う勤めをなさないと思っていました。その後高遠城の者が検死すると、脇の下を貫いて傷口が変だと思ってみると、怪しいものが少し見えました。詳しく見ると傷口に一巻の書があって、これが諏訪家惣領の系図である事が解り、これが以来高遠家の宝物となり、この僧侶の着ていた血の付いた袈裟衣も、高遠家の代々の重宝と言うことにしました。後に仁科五郎が高遠城に籠城した時に、高遠家の二つの宝をを亡失してしまったと言うことです。
これよりしばらくして、保科氏は上牧の郷の野底という所に70石の知行の領地を貰ったという。
頼次(継)の親(満継)は、かなり傲慢で、かつ無礼な人で、人心を掌握できず、直参や旗本は、彼を嫌い、軽蔑し、皆自分勝手になり、この為か、勢力が衰えて、瞬く間に領土が2万石に減ってしまった。この時、高遠と伊那を高遠家と保科家は取り合って争いました。・・ここでは高遠家と保科家は満継の時代に争ったことになっている。・・かつ、高遠家と争った保科は、保科貞親でなく、弾正と言うことになる。貞親と弾正の関係は?
この戦いで保科氏は筑後と呼ばれていた、弾正の親父さん(=正則?OR秀貞?)が討ち死にした。討ち死にの場所は、伊那の駒場と言うところである。この時から保科の子孫は取り立てられて、筑前守を名乗り、高遠頼継の家老として1000石の領地の知行を貰うことになる。高遠頼継は時に勢力を拡大していた武田信玄の旗本になる。
確認事項1
時代・1530年代は、小笠原長棟(府中)と小笠原貞基(松尾)の身内の戦いがあり、1533年(天文2年)は長棟が伊那に出兵して下伊那で戦いがあった。松尾小笠原は知久頼元や高遠頼継が味方したが、敗れた。
確認事項2
その時筑後と呼ばれたのは保科正則か?正則は頼継の名代家老として松尾小笠原に協力したのだろうか?正則はこの戦いで戦死したのだろうか?弾正と呼ばれたのは正俊か?
頼継は妾がいたが、正妻は嫉妬深くて城内に妾を置いておけなかった。そこで城下の武家屋敷に妾を置き、佐野清左衛門という侍を警護に就けた。頼継の正妻は、諏訪頼重の妹であった。奥方は妾のことを知り、兄の頼重に頼んで手勢を借りて妾を謀殺しようとする。諏訪より50人の手勢がある夜の夜更けに妾宅に討ち入った。清左衛門は枕元に置いてあった3尺あまりの刀を抜いて、手勢に斬りかかった。
諏訪の手勢を8,9人切り伏せ尚も大勢にキズを負わせたが、自らも右の腕を切り落とされて、刀を左に持ち替えて、妾を肩に背負い、この屋敷を立ち退いて、その後、月岡庄兵衛の宅へ逃げ込んだ。月岡は若年の頃よりの知り合いである。その後、佐野清左衛門は、取り立てを断り、片輪になってしまったので在郷に引き込み田地を作ったという。大男で、キズなどですさまじき面だったという。
右のこれまでは、高遠城主の大筋と保科氏の加増の様子のことである。
頼継の家臣は、上林上野入道と保科筑前守の両人である。筑前守は、宮田に700石と野底に500石併せて1200石を領有していた。上林は信玄に、高遠頼継は謀反の気持ちがあることを伝えた。この為に頼継は信玄から甲府に呼び出され、咎め殺された。上林が頼継を讒言したのは、主人を廃し、自分が取って代わって領主たらんと欲したためである。<筑前守殿ハ上林ト相ヤケナリ>上野入道の子は彦三郎という。彼は筑前殿の聟(婿)でもある。この讒言を筑前殿は毛頭聞かされてなかった。これ故に筑前殿へ信玄より不審をもたれた。上野入道は忠義で謀反を報告してくれたが、筑前は報告がなかった。そこで筑前は、仏法寺の禅寺で1年間を過ごすが、事実が段々露見していき、筑前守は信玄の信頼を取り戻していった。上林へのお咎めはなかった。
信州佐久郡に志賀と言うところがあります。そこの領主に志賀平六左衛門という者が居りました。信玄に背いたので信玄は保科筑前を招集して、先導させて、彼を討つべしと志賀の町に討ち入りました。角屋の蔀の蔭に潜んで居った家来の北原彦右衛門が打って出ました。平六左衛門は栗毛の馬に乗り、大勢を引き連れて、町中を乗り回しておりました。北原彦右衛門は、志賀平六左衛門の馬の太っ腹に長刀を突きだすと、馬は倒れて平六左衛門を降り立ったところへ筑前殿は走り寄って首を打ち落とす。首を打ち落とすところに大髭があったが髭もごっそりそぎ落としてしまった。そして信玄の御前へ平六左衛門の首を持参した。信玄は上ノ山よりこの筑前の働きをご覧になっており、御前に出たときにご褒美としてその刀は髭切りと名付けられ、、刀の作者を尋ねられたので、基重だと答えた。また保科家の重代の宝とせよと申し、感状も与えられた。また、盛景という長刀を使った家来の北原彦右衛門の働きにも感状を下された。これより筑前殿は信玄の直参に召し抱えられた。
以後、信玄時代、勝頼時代と続く・・・歴史書に記述が多いので、後日に回す。
不確定部分、不明箇所判明次第改訂要。
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