千村内匠守城付保科正俊逆心 現代語訳 蕗原拾葉11より
千邨(=村)内匠
時が過ぎて、義久が引退しても、高遠は木曽家の影響下にあった。高遠城は木曽からわずかに10里(40Km)余りだが、その間には険しい山や大きな砕岩だらけの場所があって、荷車などの往来は難しい道であった。諏訪家と小笠原家は領地を接しており、犬牙のように反目して領地を覗っていた。当時は両家が和睦し平穏を臨む思いも無くはなかったが、この時代の人の心は信用はできない。そこで、この城の要になる大将を選んでみた時、(木曽一族の)千村内匠を郡代として高遠の地方豪族を支配し、その中から武に強いもの選んで、溝口(右馬介)氏友(恩知集では溝口の祖は氏長で、氏友ではないという)、保科(弾正)正俊をして加増し、介副(・代理、家老職のことか)とし、隣郡に出陣がある時は、千村は城を守り、溝口、保科は配下の豪族を武装させて率いて出陣することと定めた。
その頃、甲州守護は武田(大膳太夫)晴信という。彼は武略、戦略にたけ賢者を尊び、譜代の家臣に、情をかよい腹心させ、父の(左衛門慰)信虎を追放して甲斐の一国を掌握する。
信濃国の強将は村上(左衛門慰)義清(・埴科郡葛尾城主)、小笠原(大膳太夫)長時(・筑摩郡深志城主)、諏訪(刑部太夫)頼茂(・重)(・諏訪郡小條城主)、木曽(左京太夫)義康(・筑摩郡木曽谷福島城、王滝巣穴住)であり、信濃のまとまって、晴信に対抗し討伐することを合議した。
武田が五逆の罪人で、見せしめをすることを標榜して、まず諏訪と小笠原の両家の軍で、天文7年(1538)7月教来石を過ぎ武田八幡を馬手(・右手、馬の手綱をとる手から)に見て、釜無川に沿って韮崎に入り、ついに同月19日甲州勢と一戦に及んだ。甲州勢を追撃して勝利を目前に成った時、、原加賀守は、近くの百姓を勝山に5,6000人かり集めて見せ軍と、後方の撹乱を試みた。その多勢を見て狼狽した信濃の両軍は崩れて敗北し、この一戦は武田の勝利になってしまった。晴信が両軍を追撃していったが、自軍も疲労して士気が落ち、馬も疲れて喘ぎだし、とうとう馬は動かなくなってしまった。そこで敵軍を見渡すと、信濃勢は白旗(・降伏の印)を掲げて5,600人が戦列を離脱し、甲州から退却を始めていたという。武田軍は、8,9町(・1町=109m、・・1Km弱)離れて追撃していたが、勝負のつかない戦いが、百姓を使った奇計で、あわよくも勝利してしまったが兵や馬は疲れ果てていた。もし少数ではあるが新手が加わった敵が逆襲を掛けたら、心許ない一戦になっていただろう。諏訪と小笠原の両軍はここで多少盛り返したが、勝利の形はあるし負けるのもいやだと思い、軍勢を纏(・まとめて)台より上に引き返すことを全軍に伝達しようとしていた。
この敵の部隊の一部の戦線離脱に、晴信は自軍の面々を招集して、この情勢分析を皆に聞いてみると敵は足並みを乱しているので追討して、いま一苦労して、攻撃があっても良い、との思いがあった。、軍律も命令もなく、敵軍がほとんど敗走している中で、一軍だけは踏み留まっているのを不審に思い、誰かを使いにやり思うところを聞き、その返答次第では対応するとして、窪田介之丞に命じた。窪田は先頭に立って馬で行き、この手勢は誰であるのか、合戦をするなら軍を寄せなさい、もう夕暮れなので合戦はやるもやらぬも良い、と大声で叫んでみたら、敵陣より武者が一人馬で乗り出して、
この一軍は信州伊那の者であり、信州の諸侯の合戦と聞き、双方の名門の戦いだから見物に出軍したが、ゆめゆめ武田軍と弓矢を交えるつもりはなく、もう一戦が終わったので本国に帰国するのだ、と言ったので、窪田は信玄の許に飛んで帰り、このことを告げた。晴信は本陣を引いて様子を見ていると、伊那勢は備えを二分して退却を重ねていく。それで晴信も甲府へ凱旋帰国する。
ある日ある時、保科正俊が手勢を一カ所に集め、晴信の本陣を襲い、追っては急に引き、また襲って、本格的に攻撃しようと思っていたら、味方が切り崩されたので、少し離れた所に屯し、様子を覗いていたが、武田の陣は厳重であり、これでは本陣を崩すことはできず、正俊は自分たちの勝利は無理だと思った。ある日は天文8年(1539)6月23日、台ケ原の合戦の時のことで、伊那郡への帰りは瀬沢山に入り芝平谷を通り退却したという。
それより、年々の合戦は武田勢が勝利して、諏訪頼茂も和睦して、天文14年(1545)に頼茂は騙されて殺され、その跡(諏訪頼茂の領地と城)に板垣(駿河守)信形を郡代として置いた。武田(左馬守)信繁と秋山(伯耆守)晴近などは諏訪に在陣し、伊那と筑摩の両郡を押領しようと機会を覗い、時々藤沢や有賀の口より乱入して小競り合いを数回した。
高遠には、溝口右馬介、保科弾正、黒河内小八郎、同権平、非持春日、市瀬主水入道、同左兵衛、小原、山田の一党を集め、敵が寄せてくれば、青柳、杖突の嶺を固めて、藤沢の谷筋を通らせて、寄せくる敵を右に襲い左に槍を突いて苦戦させる作戦をとれば、過去に、攻めてくる敵に一度も負けたことはなかった。
だが、武田信繁と秋山晴近は別道の有賀口より乱入してきた。また馬場(民部少輔)信房を軍監(・監軍)にして4000人ぐらいが福与城を攻撃し、近在の小城は落とされた。(この時福与城には藤沢(治郎)頼親を大将にして近在の士族が立て籠もったという)。この天文16年(1547)2月の事である。この知らせで、木曽は3000人を桜沢に進軍させ、小笠原長時は7000人を塩尻に陣地し、松尾の民部太夫信定、下伊那の知久と阪西は3000人を宮田に進軍させ、番をさせたが、武田軍は総数で及ばないと思い早々に引き上げてしまった。
同17年(1548)5月も、晴信自ら出陣して有賀と岡庭より進入して樋口や竜ヶ崎の砦を取って、今度は是非上伊那を押領したいと準備してきたので、上伊那豪族は高遠、箕輪の両城に籠もり、各地の援軍を要請したが、櫛の歯が欠けるように援軍は減っていた。越後の国主の上杉(喜平冶)景虎は早速小県郡に進軍して内山城を攻めたので、武田勢は引き返して小県に向かった。数多い戦いで勝敗はそれぞれであるが、互いに攻め取った城や砦は、軍が引くと、たちまちに元の領主に戻った。いまだ、伊那では一城も(武田に)従わないので、計略を立てて回文を諸氏に回して木曽や小笠原の連合に反旗して当家に従えば、その従心の浅深に関わらず倍の加増をするので味方せよ、として、まず高遠を手に入れようとし、合戦の時裏切ってくれれば10倍の加増をすると持ちかけ、さらに色々の手を使い調略したが、元来伊那の者は律儀であって心は金鉄のように堅いので、少しも心変わりする者がいなかった。しかし噂が入り乱れるのは世の習わしで、如何なる日本人も奸智に負け、また武田反感の謀言もあり、松島(対馬守)は実は武田に通じて逆心の策謀がありそうだと伝聞があったので、木曽義康は大いに怒り、、諸氏の前でこの是非を究明して懲らしめようと、千村に命令した。千村内匠は、義康を畏れて、丸山久左衛門を使いとして松島の館に遣わし、松島は何の疑いもなく翌朝の夜明けに宿所を出て、従者を14,5人だけ連れて高遠に出向き、二の丸に入ろうとするところを、白木道喜斉、丸山九左衛門が武者だまりで待ち受け、左右より斬り殺す。松島の従者はこれに驚き、抜刀して防戦したが、前からの準備で討ち手が多く、包囲して一人残さず切り倒した。(松島の従兄弟に松島左内という者がおり、彼は比類無いくらい働き、城兵の多くを切り倒すがかなわず、丸山久左衛門に突き殺されたという。)殺害した松島と郎党の首は集められ木曽福島へ送ったところ、義康は笑って機嫌が良かった。逆心への懲らしめはこれで出来たと限りなく喜んでいたという。
心ある者は、これを聞いて、家臣への扱いに信義のない木曽殿の振る舞いで、さしも忠はあるが私の心情がない、松島への疑念が一度湧いたら、真実を糾すことなく誅殺によってしまう。他人事だが辛いことである。今は他人事だが明日は我が身にくるか、と郡中の心は木曽殿から離れた。このことで武田の与力(家来)になっても良いと思うものが少なくなかった。
御堂垣外の保科正俊は幾度となく武功を揚げ、槍弾正と異名を持つ強者の勇士で、居館に砦を築いて諏訪口を押さえていたが、この様子を踏まえて、深く熟慮し思案して、武田の勢いは日々に強大になり、更にこの頃の木曽殿の振る舞いを見れば、今後の展望に一つとしていいことが無く、悪い流れに乗って、武士道までが蔑ろにされる。この乱世では、時に家が無くなるのは疑いもないことだけれど、この人に従っていたら確実に家も全ても無くなってしまうので、所詮、武田勢を引き入れて高遠を乗っ取り、一族が後々栄えることを計画した方がいいのではないかと、時に城番に来ていた非持(三郎)春日、淡路、小原某を呼んで密かに相談に及んだ。三人とも異議が無く了承し、我々は木曽の譜代ではないし、木曽が高遠を押領したので仕方なく従って軍役を勤めたまでで、いずれ家を興し、かつ子孫のため、逆心した方が先祖の孝養にもなると四人は心を一致し、時節の到来を待った。
・・・概要と疑問点
木曽義久が引退した後の、高遠の統治について、ここでは木曽家の意向に沿った、高遠郡代が千村内匠に決まった経緯の記述である。そもそも木曽の高遠支配は、定説にない内容で、違和感を感じる。
ここには、諏訪信定の名前もないし、高遠頼継の名前も出てこない。そこには家臣の、溝口や保科の名前もあり、千村内匠の存在も他書で担保されることから、人物の実在は確からしい。高遠頼継との関係は別書で深掘りして証左を求めている。そして、当時の武田、諏訪、小笠原、木曽の状況と、武田対小笠原・諏訪の戦いの、緩い様相が書かれている。その中で、松島対馬守が木曽を裏切り武田へつくという間違った噂で、木曽家の対応のまずさがあり、伊那の団結の崩壊、とりわけ高遠の人心の離反が語られて、武田の侵攻に繋がっていく。確か千村内匠に殺されたのは松島対馬で、定説では伊那孤島の八人塚伝承で殺された中に松島がいたが、松島豊前守信友と言ったか、年代が違い、人名も違うが、松島家は他にない。おかしい。前節の高遠郡代小笠原信定もそれを証する書の確認がとれなかった。それもそうだが、高遠満継も証左が難しく、諏訪信定が高遠を名乗ったかも確認が取れず、保科正俊の主はいったい誰かは、未だに謎で、整合性は更に険しい。・・感想
千邨(=村)内匠
時が過ぎて、義久が引退しても、高遠は木曽家の影響下にあった。高遠城は木曽からわずかに10里(40Km)余りだが、その間には険しい山や大きな砕岩だらけの場所があって、荷車などの往来は難しい道であった。諏訪家と小笠原家は領地を接しており、犬牙のように反目して領地を覗っていた。当時は両家が和睦し平穏を臨む思いも無くはなかったが、この時代の人の心は信用はできない。そこで、この城の要になる大将を選んでみた時、(木曽一族の)千村内匠を郡代として高遠の地方豪族を支配し、その中から武に強いもの選んで、溝口(右馬介)氏友(恩知集では溝口の祖は氏長で、氏友ではないという)、保科(弾正)正俊をして加増し、介副(・代理、家老職のことか)とし、隣郡に出陣がある時は、千村は城を守り、溝口、保科は配下の豪族を武装させて率いて出陣することと定めた。
その頃、甲州守護は武田(大膳太夫)晴信という。彼は武略、戦略にたけ賢者を尊び、譜代の家臣に、情をかよい腹心させ、父の(左衛門慰)信虎を追放して甲斐の一国を掌握する。
信濃国の強将は村上(左衛門慰)義清(・埴科郡葛尾城主)、小笠原(大膳太夫)長時(・筑摩郡深志城主)、諏訪(刑部太夫)頼茂(・重)(・諏訪郡小條城主)、木曽(左京太夫)義康(・筑摩郡木曽谷福島城、王滝巣穴住)であり、信濃のまとまって、晴信に対抗し討伐することを合議した。
武田が五逆の罪人で、見せしめをすることを標榜して、まず諏訪と小笠原の両家の軍で、天文7年(1538)7月教来石を過ぎ武田八幡を馬手(・右手、馬の手綱をとる手から)に見て、釜無川に沿って韮崎に入り、ついに同月19日甲州勢と一戦に及んだ。甲州勢を追撃して勝利を目前に成った時、、原加賀守は、近くの百姓を勝山に5,6000人かり集めて見せ軍と、後方の撹乱を試みた。その多勢を見て狼狽した信濃の両軍は崩れて敗北し、この一戦は武田の勝利になってしまった。晴信が両軍を追撃していったが、自軍も疲労して士気が落ち、馬も疲れて喘ぎだし、とうとう馬は動かなくなってしまった。そこで敵軍を見渡すと、信濃勢は白旗(・降伏の印)を掲げて5,600人が戦列を離脱し、甲州から退却を始めていたという。武田軍は、8,9町(・1町=109m、・・1Km弱)離れて追撃していたが、勝負のつかない戦いが、百姓を使った奇計で、あわよくも勝利してしまったが兵や馬は疲れ果てていた。もし少数ではあるが新手が加わった敵が逆襲を掛けたら、心許ない一戦になっていただろう。諏訪と小笠原の両軍はここで多少盛り返したが、勝利の形はあるし負けるのもいやだと思い、軍勢を纏(・まとめて)台より上に引き返すことを全軍に伝達しようとしていた。
この敵の部隊の一部の戦線離脱に、晴信は自軍の面々を招集して、この情勢分析を皆に聞いてみると敵は足並みを乱しているので追討して、いま一苦労して、攻撃があっても良い、との思いがあった。、軍律も命令もなく、敵軍がほとんど敗走している中で、一軍だけは踏み留まっているのを不審に思い、誰かを使いにやり思うところを聞き、その返答次第では対応するとして、窪田介之丞に命じた。窪田は先頭に立って馬で行き、この手勢は誰であるのか、合戦をするなら軍を寄せなさい、もう夕暮れなので合戦はやるもやらぬも良い、と大声で叫んでみたら、敵陣より武者が一人馬で乗り出して、
この一軍は信州伊那の者であり、信州の諸侯の合戦と聞き、双方の名門の戦いだから見物に出軍したが、ゆめゆめ武田軍と弓矢を交えるつもりはなく、もう一戦が終わったので本国に帰国するのだ、と言ったので、窪田は信玄の許に飛んで帰り、このことを告げた。晴信は本陣を引いて様子を見ていると、伊那勢は備えを二分して退却を重ねていく。それで晴信も甲府へ凱旋帰国する。
ある日ある時、保科正俊が手勢を一カ所に集め、晴信の本陣を襲い、追っては急に引き、また襲って、本格的に攻撃しようと思っていたら、味方が切り崩されたので、少し離れた所に屯し、様子を覗いていたが、武田の陣は厳重であり、これでは本陣を崩すことはできず、正俊は自分たちの勝利は無理だと思った。ある日は天文8年(1539)6月23日、台ケ原の合戦の時のことで、伊那郡への帰りは瀬沢山に入り芝平谷を通り退却したという。
それより、年々の合戦は武田勢が勝利して、諏訪頼茂も和睦して、天文14年(1545)に頼茂は騙されて殺され、その跡(諏訪頼茂の領地と城)に板垣(駿河守)信形を郡代として置いた。武田(左馬守)信繁と秋山(伯耆守)晴近などは諏訪に在陣し、伊那と筑摩の両郡を押領しようと機会を覗い、時々藤沢や有賀の口より乱入して小競り合いを数回した。
高遠には、溝口右馬介、保科弾正、黒河内小八郎、同権平、非持春日、市瀬主水入道、同左兵衛、小原、山田の一党を集め、敵が寄せてくれば、青柳、杖突の嶺を固めて、藤沢の谷筋を通らせて、寄せくる敵を右に襲い左に槍を突いて苦戦させる作戦をとれば、過去に、攻めてくる敵に一度も負けたことはなかった。
だが、武田信繁と秋山晴近は別道の有賀口より乱入してきた。また馬場(民部少輔)信房を軍監(・監軍)にして4000人ぐらいが福与城を攻撃し、近在の小城は落とされた。(この時福与城には藤沢(治郎)頼親を大将にして近在の士族が立て籠もったという)。この天文16年(1547)2月の事である。この知らせで、木曽は3000人を桜沢に進軍させ、小笠原長時は7000人を塩尻に陣地し、松尾の民部太夫信定、下伊那の知久と阪西は3000人を宮田に進軍させ、番をさせたが、武田軍は総数で及ばないと思い早々に引き上げてしまった。
同17年(1548)5月も、晴信自ら出陣して有賀と岡庭より進入して樋口や竜ヶ崎の砦を取って、今度は是非上伊那を押領したいと準備してきたので、上伊那豪族は高遠、箕輪の両城に籠もり、各地の援軍を要請したが、櫛の歯が欠けるように援軍は減っていた。越後の国主の上杉(喜平冶)景虎は早速小県郡に進軍して内山城を攻めたので、武田勢は引き返して小県に向かった。数多い戦いで勝敗はそれぞれであるが、互いに攻め取った城や砦は、軍が引くと、たちまちに元の領主に戻った。いまだ、伊那では一城も(武田に)従わないので、計略を立てて回文を諸氏に回して木曽や小笠原の連合に反旗して当家に従えば、その従心の浅深に関わらず倍の加増をするので味方せよ、として、まず高遠を手に入れようとし、合戦の時裏切ってくれれば10倍の加増をすると持ちかけ、さらに色々の手を使い調略したが、元来伊那の者は律儀であって心は金鉄のように堅いので、少しも心変わりする者がいなかった。しかし噂が入り乱れるのは世の習わしで、如何なる日本人も奸智に負け、また武田反感の謀言もあり、松島(対馬守)は実は武田に通じて逆心の策謀がありそうだと伝聞があったので、木曽義康は大いに怒り、、諸氏の前でこの是非を究明して懲らしめようと、千村に命令した。千村内匠は、義康を畏れて、丸山久左衛門を使いとして松島の館に遣わし、松島は何の疑いもなく翌朝の夜明けに宿所を出て、従者を14,5人だけ連れて高遠に出向き、二の丸に入ろうとするところを、白木道喜斉、丸山九左衛門が武者だまりで待ち受け、左右より斬り殺す。松島の従者はこれに驚き、抜刀して防戦したが、前からの準備で討ち手が多く、包囲して一人残さず切り倒した。(松島の従兄弟に松島左内という者がおり、彼は比類無いくらい働き、城兵の多くを切り倒すがかなわず、丸山久左衛門に突き殺されたという。)殺害した松島と郎党の首は集められ木曽福島へ送ったところ、義康は笑って機嫌が良かった。逆心への懲らしめはこれで出来たと限りなく喜んでいたという。
心ある者は、これを聞いて、家臣への扱いに信義のない木曽殿の振る舞いで、さしも忠はあるが私の心情がない、松島への疑念が一度湧いたら、真実を糾すことなく誅殺によってしまう。他人事だが辛いことである。今は他人事だが明日は我が身にくるか、と郡中の心は木曽殿から離れた。このことで武田の与力(家来)になっても良いと思うものが少なくなかった。
御堂垣外の保科正俊は幾度となく武功を揚げ、槍弾正と異名を持つ強者の勇士で、居館に砦を築いて諏訪口を押さえていたが、この様子を踏まえて、深く熟慮し思案して、武田の勢いは日々に強大になり、更にこの頃の木曽殿の振る舞いを見れば、今後の展望に一つとしていいことが無く、悪い流れに乗って、武士道までが蔑ろにされる。この乱世では、時に家が無くなるのは疑いもないことだけれど、この人に従っていたら確実に家も全ても無くなってしまうので、所詮、武田勢を引き入れて高遠を乗っ取り、一族が後々栄えることを計画した方がいいのではないかと、時に城番に来ていた非持(三郎)春日、淡路、小原某を呼んで密かに相談に及んだ。三人とも異議が無く了承し、我々は木曽の譜代ではないし、木曽が高遠を押領したので仕方なく従って軍役を勤めたまでで、いずれ家を興し、かつ子孫のため、逆心した方が先祖の孝養にもなると四人は心を一致し、時節の到来を待った。
・・・概要と疑問点
木曽義久が引退した後の、高遠の統治について、ここでは木曽家の意向に沿った、高遠郡代が千村内匠に決まった経緯の記述である。そもそも木曽の高遠支配は、定説にない内容で、違和感を感じる。
ここには、諏訪信定の名前もないし、高遠頼継の名前も出てこない。そこには家臣の、溝口や保科の名前もあり、千村内匠の存在も他書で担保されることから、人物の実在は確からしい。高遠頼継との関係は別書で深掘りして証左を求めている。そして、当時の武田、諏訪、小笠原、木曽の状況と、武田対小笠原・諏訪の戦いの、緩い様相が書かれている。その中で、松島対馬守が木曽を裏切り武田へつくという間違った噂で、木曽家の対応のまずさがあり、伊那の団結の崩壊、とりわけ高遠の人心の離反が語られて、武田の侵攻に繋がっていく。確か千村内匠に殺されたのは松島対馬で、定説では伊那孤島の八人塚伝承で殺された中に松島がいたが、松島豊前守信友と言ったか、年代が違い、人名も違うが、松島家は他にない。おかしい。前節の高遠郡代小笠原信定もそれを証する書の確認がとれなかった。それもそうだが、高遠満継も証左が難しく、諏訪信定が高遠を名乗ったかも確認が取れず、保科正俊の主はいったい誰かは、未だに謎で、整合性は更に険しい。・・感想