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千村内匠守城付保科正俊逆心 現代語訳 蕗原拾葉11より

2013-04-23 01:33:03 | 歴史
千村内匠守城付保科正俊逆心 現代語訳 蕗原拾葉11より

千邨(=村)内匠

時が過ぎて、義久が引退しても、高遠は木曽家の影響下にあった。高遠城は木曽からわずかに10里(40Km)余りだが、その間には険しい山や大きな砕岩だらけの場所があって、荷車などの往来は難しい道であった。諏訪家と小笠原家は領地を接しており、犬牙のように反目して領地を覗っていた。当時は両家が和睦し平穏を臨む思いも無くはなかったが、この時代の人の心は信用はできない。そこで、この城の要になる大将を選んでみた時、(木曽一族の)千村内匠を郡代として高遠の地方豪族を支配し、その中から武に強いもの選んで、溝口(右馬介)氏友(恩知集では溝口の祖は氏長で、氏友ではないという)、保科(弾正)正俊をして加増し、介副(・代理、家老職のことか)とし、隣郡に出陣がある時は、千村は城を守り、溝口、保科は配下の豪族を武装させて率いて出陣することと定めた。
その頃、甲州守護は武田(大膳太夫)晴信という。彼は武略、戦略にたけ賢者を尊び、譜代の家臣に、情をかよい腹心させ、父の(左衛門慰)信虎を追放して甲斐の一国を掌握する。
信濃国の強将は村上(左衛門慰)義清(・埴科郡葛尾城主)、小笠原(大膳太夫)長時(・筑摩郡深志城主)、諏訪(刑部太夫)頼茂(・重)(・諏訪郡小條城主)、木曽(左京太夫)義康(・筑摩郡木曽谷福島城、王滝巣穴住)であり、信濃のまとまって、晴信に対抗し討伐することを合議した。
武田が五逆の罪人で、見せしめをすることを標榜して、まず諏訪と小笠原の両家の軍で、天文7年(1538)7月教来石を過ぎ武田八幡を馬手(・右手、馬の手綱をとる手から)に見て、釜無川に沿って韮崎に入り、ついに同月19日甲州勢と一戦に及んだ。甲州勢を追撃して勝利を目前に成った時、、原加賀守は、近くの百姓を勝山に5,6000人かり集めて見せ軍と、後方の撹乱を試みた。その多勢を見て狼狽した信濃の両軍は崩れて敗北し、この一戦は武田の勝利になってしまった。晴信が両軍を追撃していったが、自軍も疲労して士気が落ち、馬も疲れて喘ぎだし、とうとう馬は動かなくなってしまった。そこで敵軍を見渡すと、信濃勢は白旗(・降伏の印)を掲げて5,600人が戦列を離脱し、甲州から退却を始めていたという。武田軍は、8,9町(・1町=109m、・・1Km弱)離れて追撃していたが、勝負のつかない戦いが、百姓を使った奇計で、あわよくも勝利してしまったが兵や馬は疲れ果てていた。もし少数ではあるが新手が加わった敵が逆襲を掛けたら、心許ない一戦になっていただろう。諏訪と小笠原の両軍はここで多少盛り返したが、勝利の形はあるし負けるのもいやだと思い、軍勢を纏(・まとめて)台より上に引き返すことを全軍に伝達しようとしていた。
この敵の部隊の一部の戦線離脱に、晴信は自軍の面々を招集して、この情勢分析を皆に聞いてみると敵は足並みを乱しているので追討して、いま一苦労して、攻撃があっても良い、との思いがあった。、軍律も命令もなく、敵軍がほとんど敗走している中で、一軍だけは踏み留まっているのを不審に思い、誰かを使いにやり思うところを聞き、その返答次第では対応するとして、窪田介之丞に命じた。窪田は先頭に立って馬で行き、この手勢は誰であるのか、合戦をするなら軍を寄せなさい、もう夕暮れなので合戦はやるもやらぬも良い、と大声で叫んでみたら、敵陣より武者が一人馬で乗り出して、
この一軍は信州伊那の者であり、信州の諸侯の合戦と聞き、双方の名門の戦いだから見物に出軍したが、ゆめゆめ武田軍と弓矢を交えるつもりはなく、もう一戦が終わったので本国に帰国するのだ、と言ったので、窪田は信玄の許に飛んで帰り、このことを告げた。晴信は本陣を引いて様子を見ていると、伊那勢は備えを二分して退却を重ねていく。それで晴信も甲府へ凱旋帰国する。

ある日ある時、保科正俊が手勢を一カ所に集め、晴信の本陣を襲い、追っては急に引き、また襲って、本格的に攻撃しようと思っていたら、味方が切り崩されたので、少し離れた所に屯し、様子を覗いていたが、武田の陣は厳重であり、これでは本陣を崩すことはできず、正俊は自分たちの勝利は無理だと思った。ある日は天文8年(1539)6月23日、台ケ原の合戦の時のことで、伊那郡への帰りは瀬沢山に入り芝平谷を通り退却したという。

それより、年々の合戦は武田勢が勝利して、諏訪頼茂も和睦して、天文14年(1545)に頼茂は騙されて殺され、その跡(諏訪頼茂の領地と城)に板垣(駿河守)信形を郡代として置いた。武田(左馬守)信繁と秋山(伯耆守)晴近などは諏訪に在陣し、伊那と筑摩の両郡を押領しようと機会を覗い、時々藤沢や有賀の口より乱入して小競り合いを数回した。
高遠には、溝口右馬介、保科弾正、黒河内小八郎、同権平、非持春日、市瀬主水入道、同左兵衛、小原、山田の一党を集め、敵が寄せてくれば、青柳、杖突の嶺を固めて、藤沢の谷筋を通らせて、寄せくる敵を右に襲い左に槍を突いて苦戦させる作戦をとれば、過去に、攻めてくる敵に一度も負けたことはなかった。
だが、武田信繁と秋山晴近は別道の有賀口より乱入してきた。また馬場(民部少輔)信房を軍監(・監軍)にして4000人ぐらいが福与城を攻撃し、近在の小城は落とされた。(この時福与城には藤沢(治郎)頼親を大将にして近在の士族が立て籠もったという)。この天文16年(1547)2月の事である。この知らせで、木曽は3000人を桜沢に進軍させ、小笠原長時は7000人を塩尻に陣地し、松尾の民部太夫信定、下伊那の知久と阪西は3000人を宮田に進軍させ、番をさせたが、武田軍は総数で及ばないと思い早々に引き上げてしまった。
同17年(1548)5月も、晴信自ら出陣して有賀と岡庭より進入して樋口や竜ヶ崎の砦を取って、今度は是非上伊那を押領したいと準備してきたので、上伊那豪族は高遠、箕輪の両城に籠もり、各地の援軍を要請したが、櫛の歯が欠けるように援軍は減っていた。越後の国主の上杉(喜平冶)景虎は早速小県郡に進軍して内山城を攻めたので、武田勢は引き返して小県に向かった。数多い戦いで勝敗はそれぞれであるが、互いに攻め取った城や砦は、軍が引くと、たちまちに元の領主に戻った。いまだ、伊那では一城も(武田に)従わないので、計略を立てて回文を諸氏に回して木曽や小笠原の連合に反旗して当家に従えば、その従心の浅深に関わらず倍の加増をするので味方せよ、として、まず高遠を手に入れようとし、合戦の時裏切ってくれれば10倍の加増をすると持ちかけ、さらに色々の手を使い調略したが、元来伊那の者は律儀であって心は金鉄のように堅いので、少しも心変わりする者がいなかった。しかし噂が入り乱れるのは世の習わしで、如何なる日本人も奸智に負け、また武田反感の謀言もあり、松島(対馬守)は実は武田に通じて逆心の策謀がありそうだと伝聞があったので、木曽義康は大いに怒り、、諸氏の前でこの是非を究明して懲らしめようと、千村に命令した。千村内匠は、義康を畏れて、丸山久左衛門を使いとして松島の館に遣わし、松島は何の疑いもなく翌朝の夜明けに宿所を出て、従者を14,5人だけ連れて高遠に出向き、二の丸に入ろうとするところを、白木道喜斉、丸山九左衛門が武者だまりで待ち受け、左右より斬り殺す。松島の従者はこれに驚き、抜刀して防戦したが、前からの準備で討ち手が多く、包囲して一人残さず切り倒した。(松島の従兄弟に松島左内という者がおり、彼は比類無いくらい働き、城兵の多くを切り倒すがかなわず、丸山久左衛門に突き殺されたという。)殺害した松島と郎党の首は集められ木曽福島へ送ったところ、義康は笑って機嫌が良かった。逆心への懲らしめはこれで出来たと限りなく喜んでいたという。
心ある者は、これを聞いて、家臣への扱いに信義のない木曽殿の振る舞いで、さしも忠はあるが私の心情がない、松島への疑念が一度湧いたら、真実を糾すことなく誅殺によってしまう。他人事だが辛いことである。今は他人事だが明日は我が身にくるか、と郡中の心は木曽殿から離れた。このことで武田の与力(家来)になっても良いと思うものが少なくなかった。
御堂垣外の保科正俊は幾度となく武功を揚げ、槍弾正と異名を持つ強者の勇士で、居館に砦を築いて諏訪口を押さえていたが、この様子を踏まえて、深く熟慮し思案して、武田の勢いは日々に強大になり、更にこの頃の木曽殿の振る舞いを見れば、今後の展望に一つとしていいことが無く、悪い流れに乗って、武士道までが蔑ろにされる。この乱世では、時に家が無くなるのは疑いもないことだけれど、この人に従っていたら確実に家も全ても無くなってしまうので、所詮、武田勢を引き入れて高遠を乗っ取り、一族が後々栄えることを計画した方がいいのではないかと、時に城番に来ていた非持(三郎)春日、淡路、小原某を呼んで密かに相談に及んだ。三人とも異議が無く了承し、我々は木曽の譜代ではないし、木曽が高遠を押領したので仕方なく従って軍役を勤めたまでで、いずれ家を興し、かつ子孫のため、逆心した方が先祖の孝養にもなると四人は心を一致し、時節の到来を待った。


・・・概要と疑問点

木曽義久が引退した後の、高遠の統治について、ここでは木曽家の意向に沿った、高遠郡代が千村内匠に決まった経緯の記述である。そもそも木曽の高遠支配は、定説にない内容で、違和感を感じる。
ここには、諏訪信定の名前もないし、高遠頼継の名前も出てこない。そこには家臣の、溝口や保科の名前もあり、千村内匠の存在も他書で担保されることから、人物の実在は確からしい。高遠頼継との関係は別書で深掘りして証左を求めている。そして、当時の武田、諏訪、小笠原、木曽の状況と、武田対小笠原・諏訪の戦いの、緩い様相が書かれている。その中で、松島対馬守が木曽を裏切り武田へつくという間違った噂で、木曽家の対応のまずさがあり、伊那の団結の崩壊、とりわけ高遠の人心の離反が語られて、武田の侵攻に繋がっていく。確か千村内匠に殺されたのは松島対馬で、定説では伊那孤島の八人塚伝承で殺された中に松島がいたが、松島豊前守信友と言ったか、年代が違い、人名も違うが、松島家は他にない。おかしい。前節の高遠郡代小笠原信定もそれを証する書の確認がとれなかった。それもそうだが、高遠満継も証左が難しく、諏訪信定が高遠を名乗ったかも確認が取れず、保科正俊の主はいったい誰かは、未だに謎で、整合性は更に険しい。・・感想

木曽家親移住付高遠家廃興 現代語訳 蕗原拾葉11より

2013-04-20 15:37:52 | 歴史
木曽家親移住付高遠家廃興 現代語訳 蕗原拾葉11より

その後、何年か経て九十五代の帝を後醍醐天皇と呼んでいたが、帝が鎌倉の執権北条(相模守・平の)高時を誅殺でき、ようやく北条一族の過去の悪政(一統の業)に報いができたが、しばらくしたら、高時の次男の(相模次郎)時行が信濃の諏訪郡の諏訪(三河守)頼重の許に隠れて生き残り、自分と同志の北条残党を集め(=余類を催し)鎌倉へ反撃して復権する事を計画する。旭将軍木曾義仲の六代目の後胤の木曽(又太郎)家村(・太平記大全には木曽源七と名乗らせている)は出征し、時行軍と戦うが、木曽軍は少数なので敗北させられ、ついに時行は鎌倉へ乱入する。足利(治部大輔)尊氏は、応戦するが時行に反撃される。要所の鎌倉で幕府に反目するので、尊氏は新田(左兵衛督)義貞を節度使(=地方の軍政官、この時は鎌倉の鎮圧軍)に任命して鎌倉へ出向かせた。義貞の軍勢は各所の北条残党を攻撃した。箱根の一戦でも、少し前、足利直義を打ち破り勝ちを誇って搦手に向かうが、(一宮の)尊良親王に箱根の竹ノ下の戦いで敗北を喫したのを聞いて、義貞は力及ばずと思い帰京する。尊氏は東国の幕府軍を率いて北条残党に攻め向かっていった。木曽家村はその前から尊氏に追随し、大渡の戦いから山門の攻撃、京中の合戦、豊島河原難戦、また西国落ちの湊川の戦いに至るまで、度々の粉骨(骨身を惜しまずに苦労すること)を尽くしていた。その功績で、暦応元年(1338)9月7日讃岐守に任官され、木曽谷とともに伊那郡高遠と筑摩郡洗馬を与えられ、帰国して長男を高遠に住まわせた。長男の名を高遠(太郎)家親といい、これが高遠家の始祖となった。

以下、木曽家の家系図・・・(因・接続詞・それに関連して、と解釈?)
(箇条書き、に書き直して)
木曽義仲には四人の男児がいた。
・長男は、志水((・清水)冠者)義隆、頼朝の虜になり元暦元年(1184)4月21日武州・入間河原で殺害される。・次男は、原(・治郎(次郎))義重。・三男は、木曽(三郎)義基。
・季(末)子は、木曽(四郎)義宗。・・母は、上州の住人の沼田家国の娘であった。
・・原義重、義仲が討たれた後、祖父の家国に育てられ沼田荘に隠れ住んだ。その子を(刑部少輔)義茂という。義茂は義重のことか?。・源(三郎)基家は、原義重の子。鎌倉五代頼嗣将軍(摂家将軍藤原頼嗣)から名香山荘を貰う。鎌倉に出仕。・安養野(兵部少輔)家昌は基家の子。上野家の始祖。・熱川(刑部少輔)家満は、系譜。熱川家の始祖。・千村(五郎)家重は系譜。上州に住んで、そこが千村荘になる。・・六郎は早世。
*・木曽(七郎・伊予守)家道は系譜。木曽須原に住す。義仲以後絶えた木曽家を再興し祖となる。
・木曽(佐馬頭)義昌は、系譜。この時、南北朝が分かれて天下(四海・天下の意味)に動乱が起こり、休むことなく騒乱が続いた。その中でも(就中<ナカンズク>接続詞、とりわけ、そのなかでも)当高遠郡は南朝の皇子(一品征夷大将軍)宗良親王は大河原の香阪高宗の城郭を御所に見立てて、朝敵の追討の計画を怠慢無く遂行していた。当信濃国の宮方には、上杉民部太輔、仁科弾正少弼、井上、高梨、海野、望月、知久、村上の一族が勢力を誇ってあり、近隣の敵に対して優勢であった。将軍側は個々の城が孤立に陥り、防戦するがかなわず、反旗を降ろして宮方に従う。
*・木曽家親は義昌の子。やむを得ず木曽家親も降参して、大河原に長年のわたり出仕していたが、やがて死去する。・・その年月は不詳。
*・その子の(太郎)義信が後を継ぎ、応安2年(1369)10月に、上杉(弾正少弼)朝房と畠山(右衛門佐)基国入道、徳本?が両大将として大河原の御所を襲った。これに対し宮方の諸将は塩尻の青柳の嶺嶺を守って防戦する。折しも、連日の大雪で双方の戦いが膠着していた時に、12月21日、伊那の諸将は青柳の畠山入道の陣に夜襲を掛けて追い払うに至った。上杉陣も勢いが衰え、同23日、和田まで退却し、それから武州の本田へ帰った。それで、伊那の郡中が平穏になった。だが、長引いて宮方の気運がだんだんと衰え、信濃国の諸将がほとんど宮に反旗を翻していった。康暦2年(1380)宗良親王は大河原を引き払って河内国にお帰りになった。
*・木曽義信も、信濃国守護の小笠原長基に臣下していたが、やがて明徳年中(1390-1394)に死去した。・その子の(右馬助)義房が家を継いでいたが、応永28年(1421)に死んだ。
*・その子の(上野介)義雄の代になって、南朝の宮の(一品兵部郷征夷大将軍)尹良親王(宗良親王の第2皇子、吉野で元服して正二位大納言、元年(1386)8月に源氏姓を貰う)は、千野(六郎)頼憲の諏訪島崎城には入った。(疑問・一品や二品は天台宗僧侶の最高位位階であり、宗門経験のない尹良には、これはおかしい、かつ、尹良に征夷大将軍が任命されたという事実は根拠がない。)
伊那の松尾小笠原(兵庫介)政秀と神ノ峰城の知久(左衛門慰)祐矯と大河原の香阪入道を始めとする諸将は、守護臣下から変心して、守護の背いて尹良についた。
*・木曽義雄も宮方についたが将軍側にも属して日和見して、孤立の難を逃れ家を失わなかった。文安2年(1445)3月16日死去。法名義雄殿寺○宗と号す。・その子(左衛門慰)義建、文明(1469-1487)の頃没す。
*・その子を(兵庫助)義俊という。武名は父祖より優れ、近隣の地士(小豪族)を従え、諏訪(刑部大輔)頼隣(ヨリチカ)を討って諏訪郡を手に入れようと野望し小條では接戦でいったんは勝利したが、大将の義俊が流れ矢に当たって討たれ、味方は崩れて敗北して退去するのを頼隣に追いかけられ、高遠城に逃げたが囲まれ何度も攻められられる。味方は突然の籠城なので準備無く、兵糧は欠乏し兵は飢えに苦しみ、やむなく降参を乞うて、いったんの延命を図る。諏訪頼隣はこれを許して、
*・義俊の幼稚なる一子の義嶺に本領を与えて、かつ義俊の旗本の地士を諏訪家に従うように定めて、代官として頼隣の次男(右兵衛慰)信定を天神山の城主に据えて諏訪へ帰る。信定は義嶺が幼少をいいことに侮り、牧を横領して義嶺に与えなかった。義嶺が成長してこの不正を時の信濃守信有に訴訟すること度々だが、言を濁し遅らせた。挙げ句に、義嶺を追い出してその跡地を信定の任せるという下心が見えたので、とうとう深く憤慨して、この不正を許さんと、信定を討ち取って多年の鬱憤を晴らさんと思っていた時、好機が到来してきた。信濃守政満(頼隣の孫、信有の子)が大祝高家に殺され、諏訪郡、諏訪家が二つに割れて争乱が起こった。義嶺はこの時とばかり与力の兵を集め、天神山に夜襲を掛ける。信定は、諏訪の騒乱を鎮める事もあり、郎党を双方に分けて派兵してきた。信定軍は少数だったので支えきれず、囲みの一方を破り、笠原山に逃げ登り、黒沢を峰伝いに諏訪へ退却する。これで、義嶺は両方の領土を取り戻し、地士を支配するに至った。・その子(豊後守)義里。
*・その子(左衛門慰)義久に相続して繁栄する。天文(1532-1555)のはじめ、信濃高遠の郡司小笠原(孫六郎)信定と不和になり小競り合いをするに及んで、隣の木曽谷の領主の(左京太夫)義康(・家村から八代あと、甲斐軍艦に(左衛門佐)義高としている)は、義久の軍が孤立し援軍がないのを確かめて、兵を潜めながら来て高遠を襲う。義久は、突然のことで防御の時間と対策がとれず、城を明け渡して落ちていった.哀れであった。これで、高遠九代190年の年月が続いた木曽高遠が絶えた。木曽が木曽に攻略されたのである。

高遠治乱記では、永正年中(1504-1520)諏訪信定が天神山に城を構えて付近を領有していた。天神山城には信定の子息を城主にして高遠一揆衆を治めた。諏訪一族の統治に抵抗する貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部)は、天神山城に夜襲をかけたが、天神山の信定に、保科が夜襲があることを知らせたので、信定の郎党は諏訪の黒沢山の峰伝いに諏訪に逃れた。この夜襲に怒っていた諏訪信定は(陣を立て直し)諏訪から藤沢谷を通り高遠に入って、貝沼と春日を討ち果たし、その両人の領地を、夜襲の知らせの礼として保科の与え、城に戻った。これより保科氏は、高遠一揆衆のなかで一番の大身になった。
・・この保科は誰であるのか、不明。藤沢谷の保科、若穂保科から流れた保科正則の可能性。
・・この時の高遠城は不明。天神山城が諏訪一族の城であった。
諏訪家の家系に拠れば、諏訪信定は、諏訪頼隣(刑部太夫)の次男で、信有(信濃守)の弟である。
諏訪家の財力と武力は、かなり裕福だったので、他を軽んじて自身を信じすぎて、子孫などの力を信用しなかった。ことに保科家は、従来からの諏訪家の家来ではなく、保科(正則?正俊??)の父は高井郡保科の領主であり、保科(筑前守)正則とその子の甚四郎正俊の代・・疑問・・に、伊那郡に移り、正俊は文永二年83歳で卒する、と保科家系に記録がある。逆に辿れば、正俊の出生は永正8年になる。このことを推測すると、永正年中に「高遠治乱」が起きたとすると、永正17年の永正末年でも正俊10歳の小児となり、10歳の正俊が武功を挙げて一家を興すというのは、無理がある。

一説には、木曽高遠家は木曽に負けて所領は少なくなったが、なお高遠に住んでいたが、まもなく病死する。子が無くて家系は断絶したともいう。
箕輪系図といって、伊那恩知集に記載された内容を見てみると、高遠家親の孫の(右馬助)義房になって、はじめて高遠と箕輪の両城を持ち、箕輪を家号とする。子孫に(大膳)義成というものが、天正(1573-1593)小笠原貞慶に従って青柳合戦で討死する。その系図はすべて高遠と同じであり、ただ義嶺と義里の間に刑部左衛門某が記載されておるが、これは何故なのか説明できない。これを記して後世に考察を乞う。

矛盾と疑問点
諏訪信定を攻撃したのは誰か、春日氏と貝沼氏なのか、木曽(高遠)義嶺なのか、また木曽氏と春日氏と貝沼氏の関係は?
天神山城の攻撃(最初)は木曽氏伝承でも高遠治乱記でも記載有り、名前のみ違う。
木曽伝承には二度目の信定の反攻の記載がない。その後の保科氏の活躍の前提や、高遠頼継の各書の存在をみると、木曽のその後の存続は疑問が残る。
定説としてある、諏訪高遠家の系譜も満継以前に疑問が残る。
高遠家は、鎌倉時代は笠原高遠家、室町前期は木曽高遠家、文明以降室町時代は諏訪高遠家、戦国期は武田(高遠)、森(高遠)、京極(代官岩崎重次・高遠)、保科(高遠)、幕藩の藩主と続いたのか。木曽と諏訪の繋ぎが不明?特に諏訪高遠の頼継以前が不鮮明

笠原頼直略伝付高遠築城 現代語訳 蕗原拾葉11より 

2013-04-15 22:36:42 | 歴史
高遠記集成 蕗原拾葉11より

笠原頼直略伝付高遠築城 現代語訳

さて、信州伊那郡笠原荘の高遠城は、元暦年中(1184-1185)に造られた城である。笠原平吾頼直というものが築城したという。頼直は、桓武天皇の末裔で信濃守維茂の曽孫にあたる。
笠原家の始祖は高井郡に住んでいたが、当笠原荘に移住し牧監(牧場の監督役)に任命され、天神山に居城を構えたという。
・・異説、年代は不明だが、(笠原)が高井郡に住んだという地を笠原村と呼んでいたというのは誤りで、笠原という村名は、(彼らの活躍した時代より)後世に付けられたものである。牧監は別当と同意の言葉である。
治承年中(1177-1181)(笠原頼直が)大番(御所などの守衛の役の意味か)で京都にいたとき、一院(法王=後白河法皇)の第2皇子の高倉宮が以仁王と謀って、平家を誅殺して皇威を復興したいとの強い志で、源(正三位)頼政(入道)を頼りにして、勅旨を下した。むかし、六条判官(源)為義に命令して東国の源氏に令旨を出した。新宮氏と領民はすぐさま呼応して行動したが、その計画は露見してしまい、検非違使などの役人が宮殿に直ちに向かったので、(平家打倒に呼応したものは)円城寺に逃げ、なお南都(平安以降、奈良を南都と呼んだ)の七つの大寺院の僧達に都の守護を依頼し、治承四年(1180)5月25日、頼政(入道)の家来衆と(園城寺の)寺法師とともに300人以上のものが南都に守衛兵として集結した。これに対して(左衛門督)知盛と(右近衛少将)重衡と(前薩摩守)忠度を大将にして御所守衛の武士を招集して2万8000人で追いかけるが、思っているよりも早く宇治の郷で追いついてしまった(無端・・思いも掛けず、思いの寄らず?)。(宇治)平等院にて、一戦に及んで、(平家打倒側は)頼政(入道)を始め、ことごとく討たれてしまい、(以仁王?)宮も光明山で流れ矢にあたり殺害されてしまう。(笠原)頼直はここに来て、粉骨を惜しまずに戦を終結していく。頼政(入道)の郎党を集め、(以仁王)宮は、意味のない謀反をやって死んでしまい、戦いは終結して周辺は静かになったという。・・・治承の乱?
だが、東国に平家追討の命令を出し、挙兵を促したので、何様にも、諸国で麒尾(優れた英傑のあと)を頼って謀反の挙兵をする一族もいるかもしれないから、ここにいる平家守衛の人達は、それぞれ自分の領国に戻り、適切な行動を起こして反乱を鎮圧せよ、と御所の護衛の役目を暇を貰って解かれる。これで、頼直は6月下旬に領国(笠原荘)に帰る。そして隣国の同志と連絡を取りながら、事変の起こっているところを見ていると、同年8月に伊豆国で流人であった(前右兵衛佐・源)頼朝は一院(後白河法皇)の院宣を奉って、蛭ヶ小島で挙兵し、目代(国司の第四等官の代理)の平兼隆の山本郷の館を襲って石橋山に登って(与力)加勢の連中を待って平兼隆を討ち取ったことを宣告した。
東国の(平家打倒の)挙兵の勢いは下火にならず、ますます燃え広がる。
かって(往・かって、ここに)久寿二年(1155)8月12日武蔵国で悪源太義平に討たれた(源)義賢がいたが、父の討ち死にの時わずか二歳であった木曽(冠者)義仲は木曽山中で成長していた。そして、さる5月に叔父の(蔵人)行家の勧めに応じて令旨を賜った。叔父の行家は、元の名を義盛と言うが、令旨を伝達する使いに任命されるとき、蔵人を官名され、その時に行家と改名した。木曾義仲が挙兵の旗を揚げようとするとき、高倉宮の平家追討の計画がばれて、頼政(入道)をはじめ、兄の蔵人仲家を討たれてしまったと聞いて、行家は力を落とし落胆していたが、頼朝の挙兵を聞いて大変喜び、義仲とともに吉日を選んで9月7日に、急遽信濃国木曽谷で旗を揚げ、信濃国の源氏を招集する。
この日、笠原頼直は熟考していた。木曽義仲は源氏の正当な嫡流を任じる者だから、頼朝の挙兵を耳にすればそれに呼応して挙兵するのは必定で、天下の命令を遂行する人(制人)になろうとするであろう。ならば、勢力の小さいうちに誅殺した方がいいと、甥の穂科権八と笠原平四郎を始めとする300人余が下伊那へ出陣するこになった。(ある説では、桜沢や平沢等の道はまだ未開発であった。その上で兼遠の妻子はこの時妻籠に住んでいたという。兼遠一作任?)
栗田寺別当である大法師覚範は源氏に縁がある者なので、このことを聞いて、急遽木曽(義仲)へ注進に赴き、木曽周辺の郷民を集めて、村上(七郎)義直とともに、総勢500人余りで市原に出向いて一戦を交えた。日が西山に傾く頃にも初戦は決着がつかなかった。だが事態が急を要したのは、村上義直軍の矢種が無くなり、再起を期して隠れて好機を待っていたが、夜半に片桐(小八郎)為安が軍勢を率いて義直の陣に加勢してくれたので、たちまち勢いを取り戻し気力も復活して、翌日の8日の明け方に笠原の陣に攻め入り、鬨の声をあげるなどして入り乱れて戦う。笠原頼直は真っ先に馬を戦いの中に乗り入れて、笠原軍を鼓舞て戦うと、源氏方はたちまちに崩れだして一里ほど後退させられた。平家側は勝ちに乗じて追いかけ、散々に躍りかかる。源氏方は、昨夜より加勢した片桐軍を伏せておき、時を見計らって立ち回り、白旗や白印を靡かせて、鏃を敵に向けて、散々に矢を放つ。思いがけない敵の出現に、平家側はどっと崩れ立ち往生してしまい、弓などを投げ捨てて雷が落ちるがごとく、隊列を抜け出す。その乱れに、前後より攻め込めば、平家方は大崩れを起こした。
管(冠者)友則は急遽旧領の大田切に逃げて隠れた。源氏側は残党を集めて再起の協議をする。それは、覚範が木曽越えの健脚で援軍にくる木曽を待って戦うか、すぐに戦った方が有利か、評議は分かれた。やがて、やってきた義仲が言うには凡軍は不意をつけば崩れるだろう。笠原軍は長征して正規の道を来ているので、味方は間道を通って笠原の根城を襲って焼き討ちにしよう、そうすれば当面の敵は逃げ場を失い、敗北することは疑いの余地なし、と急遽決まって、殿原から木樵を捕まえて案内させ、駒ヶ岳を南に回り道のない獣道を、岩石をよじ登り、葛や蔦のつるを頼って、険しい崖などを乗り越えて、苦労して伊那郡に討ち入りする。(現在この道は木曽殿越えという、かなり険しい)馬はみな乗り捨てて、歩行にて行進し、家に火を掛け、笠原の館辺りは、灰燼となり、馬も数100匹を解き放ち、そのあと木曽を目指して帰った。
笠原頼直は、(笠原郷と自分の館が)木曽軍に荒らされたのを聞いた。その時、笠原は多くの手勢が手元のあり、笠原荘の館を守る兵は少ししか残してこなかったので、負け戦は仕方のないことで、大田切が奪われなかったのは勝ちに等しい、と負け惜しみを思ったが、怒りを抑えて、館が焼け落ちるのを悔しそうに遠くから見ていた。
・・・鉾持神社の伝承に、治承4年(1180)高遠・板町30町の地頭石田刑部が鎌倉勢との戦いで敗北した、・・・とある。
同年11月、甲斐源氏の武田(太郎)信義と一条(冶=次郎)忠頼の両勢は有賀口より攻め込んで大田切を攻撃する。伊那郡の源氏側の人達は挙兵して、後ろより矢を放って城軍の管冠者を殺害したが、笠原頼直は囲みの一方を破って、城(四郎)資永を頼って、越後を目指して逃げていった。
・・・鉾持神社の家伝では、養和元年(1181)より鎌倉郡代として日野(喜太夫)宗滋は30町を賜り、板町に住む。その子は(源吾)宗忠という。
養和元年(1181)6月、越後国の城資永兄弟が(千曲川の近くの)権田河原で陣を置き木曽勢と戦うが、(笠原平吾頼直は)城軍に加勢した。しかし、城軍は木曽軍に敗れて、頼直は高井郡に逃げ、片山の目立たぬ所に潜んで住んだという。(現在もその村は存在していて笠原村という。穂科権八も高井郡に隠れて住み、今の保科の祖になったという。)
元歴元年(1184)、反目した木曾義仲を頼朝が成敗すると聞いて、頼直は大変喜び、鎌倉に出向き、同5月に小山、宇都宮の軍に属して、清水(冠者)義高の軍を追討するとき功績があって、同6月に頼朝より本領安堵され、やがて(不日=やがて、そのうち)故郷に帰り、各地に逃げ散らばっていた一族郎党を呼び返して、天神山では狭いので、東月蔵山の尾崎が好適地と決め、城郭を築き、高遠と名付けた。この城は南側は岩石が急峻(俄我=ガガ、急勾配の様)にそびえ、下方には三峰川の急流に臨み、西山側は山が険しく、松林が枝を張り密集して生い茂り、その下方は苔の生えた滑りやすい場所で、藤沢川も堀として通用する。東側は月蔵山の麓に連なっており、幾分平坦なところに塀と堀を幾層にして周りを囲み、柵も設けて、守りの堅固な城に適した場所であった。その形は兜釜に似ているところから甲山とも言った。
(一説に、山の鞍の部分を甲山というのは、築城の前より呼ばれていた名前であったという。)
頼直はここに移住し、子孫は代々相続したと言うが、年代は不明である。
暦応(1338-1432)の頃まで(笠原家は)連綿と続いたという。いま、笠原村の丑寅に蟻塚城という城趾があり、応永(1394-1428)の頃、笠原中務というものが住んだという。高遠が木曽に変わったときから子孫はここに移り住んだと言うが、文献が乏しく残念に思う。・・完

概略・・・
笠原頼直は笠原荘(今の高遠・範囲は不明)に牧監として、平安時代末期に住んでいたらしい。
笠原頼直は系譜が桓武天皇に繋がるらしい。そして治承の乱の時平家側の武将として活躍する。
笠原頼直は、木曾義仲の平家打倒の挙兵に抵抗し、幾つかの戦いをするが、結局破れて、高井郡に隠棲する.時を経て頼朝(鎌倉)に臣下し、反乱の鎮圧に貢献して、旧領を安堵され笠原郷に帰り、高遠城を築城する。この時から、笠原郷を含めたこの地が高遠と呼ばれる。
笠原家は1330年代に、支配を木曽家に替わられて、蟻塚城に移住。この時の木曽家は?
笠原家は1520年代に、その頃勢力を拡大する諏訪家と戦い破れる。この時の諏訪家は諏訪信定で以後高遠城は高遠(諏訪)家の支配となる。
・・傍証は、鉾持神社伝承。まず鉾持神社は鎌倉期前後政府の官舎か官舎と神社の併設所らしい。そして笠原家と縁を持つらしい。そこの伝承は笠原氏の存在確認の第2の証拠となり得るので、笠原氏の牧監と木曽氏との抗争と敗北は信憑性を深めそうだ。・・・感想

「怒る富士」を読んで

2013-04-07 12:40:33 | 歴史
「怒る富士」を読んで

「怒る富士」の作者は新田次郎という。「強力伝」小説でデビュー、その後「山」を扱った小説を数多く書く。「怒る富士」もその一つだが、少し異質。世間的には「武田信玄」の小説で有名かも。書評は僕など及ばないものが数種あるので書かない。数学者の息子も有名だが、僕の中では奥さんの方が強烈な印象を持ち続けている、あるいは新田次郎以上に。・・藤原てい。
再びなので、演劇の前進座「「怒る富士」の方と思ったがかなわず、脚本も図書館で調べたが見つからず、全集の方で読む。
内容は、関東郡代7代目の伊奈忠順が、富士山の大噴火の降り積もった降灰で、生産不能となった富士山麓の農民を励ましながら、命を繋げるように援助し復興に奔走する生き様を書いた小説。そこには地元に残る史料を発掘精査しながら、何があったのかを手探りで探していく歴史の証人のような「語り部」としての姿勢が際立つ。そこが彼の他の小説との異質に見える。
「3.11」があり、悲惨さに多くの義援金など援助や復興予算が他に流用されている現実をこの小説にも見ると、何とも情けない気分になる。伊奈忠次を初めとする伊奈家の「こころ」は、もとよりこのブログのモチーフでもある。
この小説を通して、当時の老中や勘定奉行のやり方を見て、農民に対する姿勢を見てみると、徳川幕藩体制の一貫した農民への租税に対する姿勢を垣間見ることが出来る。いわゆる「生かさず殺さず」という姿勢で、この様な大惨事に対しても、自分たちは彼岸にいて、最低限にも及ばない救民援助しかしない、そして集めた義援金を体裁やその他に流用する官僚主義を、この小説に見る。

ついでだが、「生かさず殺さず」は家康の参謀の本多正信の言葉として知られる。が、調べてみると本多正信の書物では『百姓は財の余らぬように、不足になきように治むる事道也』とあり(本佐録)、「生かさず殺さず」とは意味が違うように思える

保科家の概略 今までを整理して

2013-04-01 19:53:42 | 歴史
保科家の概略

諸説乱れて定説のない保科家系図の、発祥から高遠家家老となった保科正俊までを、整理して辿ってみることにする。
ここには、保科正俊の時代に、血流の正統性と継続性のために、最も乱れた正利、正則、正俊を整理し、不都合な正則以前を切り捨てた、家系系譜の整理の所以がありそうだ。

まず、保科が歴史上に名を残すのは、北信濃にある長田御厨の荘官としてである。現在、長野の若穂保科地区に長田という地名はないが、名残として「長田神社」が現存している。御厨の意味は、神社の所有する荘園の意味であるから、当初の神官で荘官の保科氏は、伊勢神宮への租税の徴収と送付を行っていたのかもしれない。長田は他田とも書き、他田目古の系統であった。他田目古は諏訪下社の金崎舎人直金弓が祖でもあり、諏訪一族と言うことになる。そしてやがて、源季を祖とする井上満実が本貫として、須坂の井上の地に任官してくるとこれを助けた。特に源平合戦の時、井上光盛は木曾義仲に味方し、川中島の近くの権田河原の戦いで、平家に味方する越後の城一族との戦いに勝利する。この時すでに神兵化していた保科の一族郎党と氏子衆は200騎で井上光盛の旗下にあった。おそらく、長田御厨の隣接に牧も所有していたのであろう。時を経て頼朝の時代が確定すると、井上光盛と保科太郎は頼朝の旗下に入るが、井上光盛と甲斐の武田一族の一条忠と共謀して、頼朝反旗を計画したことがばれて、頼朝に誅殺される。そこで同罪として保科太郎も捕まるが、頼朝に忠誠を誓って赦されると頼朝から三代にわたって鎌倉の御家人になって仕えた。それから、井上光盛の一族をも統轄して井上領も相続していった。この頃より長田御厨の記録が乏しく、かつ保科の城の記録も無いことから、井上一族と保科一族は、いまの若穂保科付近と須坂、中野周辺に館を持ち、散っていったと考えて良い。と同時に、両族は混合し、同族意識を持つようになったのではないか、と考える。建武の新政後の中先代の乱の時保科弥三郎が相模次郎(北条時行)に味方し、足利・小笠原の幕府と戦っているが、保科に城があったという記録はない。
ここでは、一端保科の血流は途絶えたのではないだろうか。
再び、保科の名が登場してくるのは保科忠長の時からである。
しばらく領主の不在だった保科の地に、井上一族の桑洞(井上)忠長が保科忠長と名前を変えて、入領してくる。この保科忠長こそが保科家の祖と言うことになる。それから五代後が保科正利であり、その子が正則と言うことになる。保科家の正当な嫡流を意味する「正」の字は、正知、正利、正則として続き、また以後の通称の弾正はこの時から始まる。ここまでの保科家は、一気通貫に継承したのではなく、途中途切れて、傍流らしき家系から家名と土地を相続して、繋いで再興したことが覗われる。
さて、ここまでが北信濃における保科家経緯であるが、保科忠長以降の時代は、不幸にも近在の村上一族の勃興・勢力拡大の時代と重なり、村上に圧迫され続ける。この頃より保科一族が高遠近在への移動が史料に見えてくる。その代表格が保科正満で、彼は藤沢谷で邑主になったという記録がある。

北信濃の保科を離れるときの保科家にも幾つかの異説が存在する。保科正則のみが高遠藤沢に逃れた説、保科正利と正則両人が高遠藤沢に逃れた説、また逃れた時期においても、長享年間(1487-1488)と言う説と1500年代前半という説もある。保科寺と呼ばれる広徳寺は、縁起によれば、1489年に保科正利により創建されたとあり、この事実を基にすれば、一度逃げたのを舞い戻って寺を創建するのは考えぬくいので、正利は保科左近正保とともに村上顕国の旗下に下り、保科正則のみが長享年間に、高遠藤沢に逃げた、とみるのが合理的であろう。ただし決定的な確証はない。

次ぎに、保科正則が歴史書に登場するのが高遠治乱記で、永世年中(1504-1520)になる。北信濃を出て、延徳(1489-91)、明応(1492-1501)、文亀(1501-1503)、そして永正(1504-1520)の時代、保科正則は何処にいて何をしていたのだろうか。
まず、この時代以前に保科の名の領主が住んでいた場所を列挙すると
 藤沢谷 ・・保科正満(藤沢正満・藤沢邑主)
 北沢 ・・富県、北沢地区・赤羽記
 春近 ・・伊那市、東春近5村を有していた
 天神山付近・・天神山城は諏訪信定の持ち城
 貝沼 ・・富県、貝沼地区
また、若穂保科を出た正則は、一時諏訪重の元に身を寄せ・・とあり、諏訪家に寄生していた痕跡もある。
この頃か、保科正則は保科七騎を持ち武田軍にあった、との伝承もあるが確認が取れていない。
この期の高遠城は、現在の高遠城と違う場所にあった可能性もある。
そして、高遠治乱記によれば、保科は、永正年間に、天神山城の諏訪信定に味方することにより、高遠地区での存在感を急激に増大させ、現在有る場所の高遠城主の、高遠頼継の家老となって頼継を支えていくことになった。120騎の兵をもち、約4000石の所領を持つ小豪族に至った経緯がここにある。計算はしてないが、上記の地区を総合すると4000石になりそうである。
この、諏訪信定なるものは、諏訪家の系譜上に名前を見つけることができない。だが、高遠家の系譜の上で、この同時代に存在を確認されているものは、高遠満継である。ひょっとして、この両人は別名を名乗った同一人物ではないのだろうか。高遠治乱記の他に裏付けの傍証資料が出てくれば確定なのだが、信定と満継を同一人物と見なすと、高遠家の歴史は繋がり、辻褄も合い、整合性も整うのだが、そして保科正則、正俊が保科家に仕え、高遠家から知行地をもらい、やがて、高遠頼継の家老となった経緯も明確になる。裏付けは少し薄いが、このストーリーに確信に近い物がある。

そして、諏訪上社に頼んで、空白になった高遠の城主に迎入れたのが諏訪満継であり、名を改めて彼を高遠満継と呼んだ。その時の高遠城は、天神山城ではなく今の高遠城であろうと思われる。だが、高遠満継は生まれつき愚かで・・(赤羽記)とあるように、領国経営がうまくゆかず、衰退してしまう。そこで継が高遠家を相続すると、保科家は家老として実質の領国経営に参画して、高遠家は従来の勢力を取り戻していくことになる。。興味深いのは、同じく家老として参加している千村家のことである。この千村家は、木曾義仲を祖とする木曽家の重臣で、木曽の山林の管理運営を得意とした一族で、同様の木曽家の重臣に山村家があり、両家とも徳川幕藩体制の中で樽木(ソンギ)奉行(米の代わりに材木を税として徴収する役目)として重宝された一族である。高遠の笠原は木曽家と縁が深い土地で、かつ高遠家は背後に山林を多く持つ地形のためと思われる。
そして、この頃に入り乱れた保科家家系を整理したらしい。

ここで系譜について、次の参考の文書を掲載する。

次代の保科正則の系譜についても同様に混乱が多く見え、その父を正利とするもの(『蕗原拾葉』)のほか、正利の別名を正尚としたり、上記とは別系の正秀としたり(保科家親の子の筑前守貞親-正秀-正則)、易正(弾正左衛門、神助)であってこの者が荒川四郎神易氏の二男から保科の養子に入ったとする(『百家系図稿』巻6、保科系図)、というように所伝が多い。なお、この荒川氏は三河の伊奈熊蔵忠次の家につながるという系譜所伝があって、易氏は忠次の六代の祖といわれる。
(正倍ママ信と読み替えるのは疑問が残る。正倍=正信?。生存した年月に100年ぐらいの差がでる。)

・・・年齢と時代を鑑みると、保科正秀のところに荒川易正が養子に入り、正尚を名乗ったとすることが整合性がある。また易正の子が 途中変名し、正則の名を継いだとすれば辻褄が合う。その時、易正は正利の名をかたった、あるいは正利を継承した可能性もある。
そして、筑前守(高遠地方の知行)の保科家親の系譜と弾正(=霜台城、若穂保科の城主)の保科正知の系譜が合流し、保科正則以後、筑前守弾正正則と双方の通称を継承した、と思われる。彼以前は、通称の使われ方は単独であるようにみえる。
保科正則が若穂保科を1488年に壮年(恐らく20歳前後)の時に高遠に逃げ、千葉の多古城で1591年に132歳で生涯を閉じたという、信じられない高齢の疑惑は解けた気がする。
また、高遠付近に、幾つか散在する保科家を、一家に束ね、一族として高遠頼継のもとに結集していった礎は保科易正の気がする。その困難は、諏訪家の内部対立や小笠原家の内部対立の抗争の時に乗じて一族をまとめたのであろう。故に、易正は「神助」と呼ばれた。神助は天佑神助の神助で、一族をまとめ、束ね、一気にこの地方の大身に躍り出させた、易正の神がかり的なあだ名でもあろう。

赤羽記も蕗原拾葉も興味深い書である。繰り返し読んで、同様の疑問を持ち考えあぐねた人がいたことを知った。
荒川易氏、荒川易正の名前に接すると、彼らの子孫と言われる関東郡代伊奈家のことを小説にした、新田次郎の「怒る富士」を再び読んでみたい気になった。