赤羽記 付録
付録には、興味深い記述が多くある。
伝聞では、藤沢に移住したのは正則公である。弟の与次郎一同は、長いこと春近という所に5つの村を領有して住んでいたが、藤沢の台に一緒に移住した。後に、与次郎殿は北村家の先祖となった。与次郎の息子は保科三左衛門に、三左衛門の息子は保科十郎右衛門(会津)に、十郎右衛門の息子は北村十右衛門と北村権蔵と言う系譜である。・・保科家は藤沢の前は春近に住んでいたのか?
弾正公の攻め滅ぼした伊奈(伊那)の万才(阪西)は、信長記に伴西(阪西)星名(保科)と連書(署)していた。・・飯田城の阪西家と保科が戦った記録はあるのだろうか。知久家と阪西家と戦った記録はある。又武田家の下伊那攻めの時は知久家以外に武田に抵抗した家があったのか。武田の秋山配下の阪西が松尾小笠原の領土に進出して、松尾小笠原と武田連合軍が年1564年に阪西を攻めたときの武田方に保科正俊はいたのか。信長公記の信長記に伴西(阪西)星名(保科)は信長の信濃武田攻めのこと。この時の弾正は正直。
以下の文は、以前の文は悪文だったので、意訳を入れて書き直したものです。
高遠城の後詰めとして、渡辺金太夫、畑源左衛門が派遣されてきた時に、(飯田城、大島城から落ちて高遠城に入城した)飯島民部がいたので、弾正公を繋ぎ止めるため、民部を質としてに使った。金太夫は警備の兵の受け持ちを巡回して本丸に戻ったが、弾正公(正直)がいなかったのに腹を立て、飯島民部を長刀で掛け倒した。そのうえで、弾正公の盟友の民部からの目を離すなと命令した。・・正直はこの時余り信頼されていなかったらしい。(松尾小笠原は先に織田に下り、織田の高遠城攻めに案内役として織田方で参戦)。少し前(=先達)簾中(れんちゅう、貴婦人のこと・・誰かは不明)のご自害に付き添いをした重臣達は、弾正公が出て行ったきりで帰ってこないのを不審に思い始めていた。皆が、お互い顔を見合って、密かに行状を知っている人を調べると、上着を裏返して、病気の下女を装って素振りをして南曲輪へいく。また春日戸左衛門は胴服を脱いで頭から被った。いま、甲斐国は敗れて、(攻め手の)包囲網の薄い所から出て(囲一重・・城を取り巻く一重の土塁・ともとれる)廊下と櫓(やぐら)の下を隠れて進んだ(葬進=密かに進む)。以後の様子は本書にあるとうり、です。
ただし、(城主や奥方達の)御生害は3月朔日(ついたち)、葬(儀)は同6日の暮れのこと。
かつ新府(韮崎)より後詰に来た畑源左衛門は、で弾正公(正直)とは従兄弟に当たり、山田源左衛門ともいう。山田伯耆守は筑前守正俊公、井原淡路守、小原美濃守、金子某、山田伯耆守は婿という。
滝川は上方に軍を帰すとき、人質のため内藤家より亀千代を、筑前守より甚四郎殿を同道するとき、三河殿より九十郎を出させた。後の(飯島)民部のことである。人質を取り返したところは、この本文には和田ということになっているが、自分は一宮と言うところで一宮の神社の神官が協力してくれて、亀千代と九十郎の両人を一宮で取り返した。翌日の夜に小田井というところで、茂右衛門が甚四郎(正直)を救い出した。
小笠原貞慶の復活の部分 略
小笠原貞慶が高遠の保科を攻撃したが敗北する。この時何者かが、松本の大手に、高札を書いて立てた。
その高札の一首の歌は
高遠の二ぶの(三峰川?)の川風はげしくて、破れて北る小笠原かな
兵部殿討ち死にの時 以下略
付録には、興味深い記述が多くある。
伝聞では、藤沢に移住したのは正則公である。弟の与次郎一同は、長いこと春近という所に5つの村を領有して住んでいたが、藤沢の台に一緒に移住した。後に、与次郎殿は北村家の先祖となった。与次郎の息子は保科三左衛門に、三左衛門の息子は保科十郎右衛門(会津)に、十郎右衛門の息子は北村十右衛門と北村権蔵と言う系譜である。・・保科家は藤沢の前は春近に住んでいたのか?
弾正公の攻め滅ぼした伊奈(伊那)の万才(阪西)は、信長記に伴西(阪西)星名(保科)と連書(署)していた。・・飯田城の阪西家と保科が戦った記録はあるのだろうか。知久家と阪西家と戦った記録はある。又武田家の下伊那攻めの時は知久家以外に武田に抵抗した家があったのか。武田の秋山配下の阪西が松尾小笠原の領土に進出して、松尾小笠原と武田連合軍が年1564年に阪西を攻めたときの武田方に保科正俊はいたのか。信長公記の信長記に伴西(阪西)星名(保科)は信長の信濃武田攻めのこと。この時の弾正は正直。
以下の文は、以前の文は悪文だったので、意訳を入れて書き直したものです。
高遠城の後詰めとして、渡辺金太夫、畑源左衛門が派遣されてきた時に、(飯田城、大島城から落ちて高遠城に入城した)飯島民部がいたので、弾正公を繋ぎ止めるため、民部を質としてに使った。金太夫は警備の兵の受け持ちを巡回して本丸に戻ったが、弾正公(正直)がいなかったのに腹を立て、飯島民部を長刀で掛け倒した。そのうえで、弾正公の盟友の民部からの目を離すなと命令した。・・正直はこの時余り信頼されていなかったらしい。(松尾小笠原は先に織田に下り、織田の高遠城攻めに案内役として織田方で参戦)。少し前(=先達)簾中(れんちゅう、貴婦人のこと・・誰かは不明)のご自害に付き添いをした重臣達は、弾正公が出て行ったきりで帰ってこないのを不審に思い始めていた。皆が、お互い顔を見合って、密かに行状を知っている人を調べると、上着を裏返して、病気の下女を装って素振りをして南曲輪へいく。また春日戸左衛門は胴服を脱いで頭から被った。いま、甲斐国は敗れて、(攻め手の)包囲網の薄い所から出て(囲一重・・城を取り巻く一重の土塁・ともとれる)廊下と櫓(やぐら)の下を隠れて進んだ(葬進=密かに進む)。以後の様子は本書にあるとうり、です。
ただし、(城主や奥方達の)御生害は3月朔日(ついたち)、葬(儀)は同6日の暮れのこと。
かつ新府(韮崎)より後詰に来た畑源左衛門は、で弾正公(正直)とは従兄弟に当たり、山田源左衛門ともいう。山田伯耆守は筑前守正俊公、井原淡路守、小原美濃守、金子某、山田伯耆守は婿という。
滝川は上方に軍を帰すとき、人質のため内藤家より亀千代を、筑前守より甚四郎殿を同道するとき、三河殿より九十郎を出させた。後の(飯島)民部のことである。人質を取り返したところは、この本文には和田ということになっているが、自分は一宮と言うところで一宮の神社の神官が協力してくれて、亀千代と九十郎の両人を一宮で取り返した。翌日の夜に小田井というところで、茂右衛門が甚四郎(正直)を救い出した。
小笠原貞慶の復活の部分 略
小笠原貞慶が高遠の保科を攻撃したが敗北する。この時何者かが、松本の大手に、高札を書いて立てた。
その高札の一首の歌は
高遠の二ぶの(三峰川?)の川風はげしくて、破れて北る小笠原かな
兵部殿討ち死にの時 以下略
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