保科正則の謎 2 正則の生きた時代の背景
昭和に、保科姓の地域別の戸数調査がある(長野県版)。
○長野県
北佐久郡北御牧村十七戸、立科町十三戸、上伊那郡高遠町三十戸、長谷村十四戸、宮田村二十九戸、中野市四十戸、茅野市三十七戸、塩尻市五十四戸。
参考・・・○新潟県中蒲原郡小須戸町四十五戸、栃尾市四十二戸
たぶん・・北御牧と立科は隣接なのでグループ(東御市)、高遠と長谷も隣接でグループ(伊那市)ひよっとして、茅野市も歴史背景からグループかも、参考の新潟の小須戸と栃尾は若穂保科から別れて上杉臣になった、保科分流の可能性。
若穂は綿内、川田、保科が昭和に合併して出来た町で、現在は長野市に属す。但し、江戸時代は綿内は須坂藩、川田、保科は松代藩に属す・・・参考。
保科氏発祥地
奈良・平安の昔は信濃国高井郡穂科郷であった。穂科と言う地名が保科と変わり、さらにこの地に土着した諏訪氏支族の姓に転じたのである。
初めて保科姓を名のったのは平清盛と同時代の保科行遠、治承四年(1180)九月に源義仲が平家追討のため信濃に挙兵したころ、保科党と呼ばれたこの一族は騎馬武者三百余騎を擁し、義仲についた清和源氏の井上氏に属した。この時の保科党の居住地は不詳。
行遠のせがれ行信は源氏合戦に討死。保科氏は井上出身の忠長を迎えて再興されることになる。保科氏は忠長のせがれ長直の時代から角九曜の紋を使いはじめ、長時ー光利ー正知ー正利ー正則の代まで保科郷に居住していた。
永享年間(1429-41)以後、北信の豪族村上氏が強大化した時期に村上氏に追われて全国に散らばったと思われる。・・・ (中村彰彦『保科家その発祥の地を訪ねて』)
若穂保科の郷の保科一族の通巻はかなり疑わしい。築城年は不明だが、地元に勢力を持っていた保科氏が築城した。若穂保科にある広徳寺の場所が保科氏の居館跡と伝えられている。寺歴によると、平安時代、川田一帯を治めていた保科氏が絶え、後に井上氏から分かれた忠長が保科氏を再興したという。北信濃に、存在の跡を確実に残している保科一族は、名前由来の地に拠点の跡地痕跡を長時ー光利ー正知ー正利ー正則の時代以外残していない。ただ、高遠に移った保科の本流はこの地であったことが、「正」を継ぐ名前の継承性と、霜台城の霜台と意味を同じくする「弾正」を子孫が名乗った経緯から、ほぼ断定していいと思う。更に、家紋の表紋を角九曜(平方九曜)、替え紋を諏訪神族の梶紋とする。会津松平(保科)は、初代の正之と二代までを角九曜と梶紋とし、松平になってから、三つ葉葵変形と梶紋にしたが、明治維新まで、若穂保科の広徳寺との音信を絶やさなかったという。保科出自の源流としての認知もあり、証左もあったのだろうと思われる。
以下は、小坂城の現地説明板・・
保科氏は清和天皇の後?、井上掃部介頼房の子孫である。井上忠正始めて保科に居す依って保科氏を称した。忠正より六世を保科弾正正利と云い、其子正則、*永享年中、村上顕国と戦い、破れて本国伊那郡高遠に走る。其子正俊也。正則の弟保科左近尉(左近将監)永禄の初め武田氏に降る、天正10年7月武田氏亡び上杉景勝大挙して本軍を侵す、保科左近上杉氏に降り、小坂城上杉氏に帰す。保科弾正義昌とは保科左近尉をいうか不明。*永享年間(1429-41)はたぶん誤記(『桑原振興会・現地説明板』)。
・・ここで注意すべきは、保科正則は、長享年中(1487~89)、村上顕国と戦い、破れて本国伊那郡高遠に走る。とあるが、保科正利は高遠に行ったとは言っていないこと。延徳年間(1489~92)保科正利は、霜台城を築城。・・・ここにも、時折の解説文で、時代逆子の混乱を散見する。ただし正利が、ここを居城として領地を統治したという歴史は見いだせない。村上一族に降りた保科も、上杉に合力した保科も、若穂保科を長く統治した歴史事実を見つけられない。たが、頼朝に陰謀を悟られた井上光盛の殺害後には、その侍保科太郎は赦されて、井上光盛の領土を北信濃に安堵されて頼朝の御家人と成る。若穂保科を流れる保科川は菅平に源流をもち、川に随行する保科道は、別名を鎌倉道と称し北御牧や立科を経て鎌倉に通じる。戦乱の世に、拡大する村上一族の圧力から保科の一族を避難する場所としては、隣接する中野市や東御市あたりは理にかなう場所であっただろう。
また、北条得宗家に御身内人として接近し権力を拡大する諏訪一族と御家人として奉公する保科一族は、諏訪神党として同族である。このように経過する時代に建武の新政が起こり、この際に時行(幼名亀寿丸)は得宗被官諏訪盛高に連れられ鎌倉を脱出。幕府滅亡後に、時行は北条氏の守護国であった信濃に移り、諏訪氏などに迎えられた。北条時行の幼児から元服までを秘匿し養育したのが諏訪盛高であり、その実務に当たったのが保科一族であったとは考えられないだろうか。
保科の名は、鎌倉期を通じて北信濃の戦いに散見されるが、後醍醐天皇の建武の新政あたりから、北条残党として黒河内・藤沢郷に名の痕跡を見るようになる。保科は、諏訪上社との関係から藤沢・黒河内そして茅野を中心に、主として「相模次郎」(北条時行)のサポーターとして、後に南朝の「宗良親王」のサポーターとして存在し、保科の居住する地は北条時行秘匿の地と重複するのも、裏付けとして可能性が高い。
保科一族が、北条残党としてまた南朝側として、諏訪上社とどのような関係にあったのか、ということを考えるに至ったきっかけを記述してみる。
・・・文明十四年、高遠継宗は高遠氏に代官として仕えていた保科貞親と荘園経営をめぐって対立し、大祝らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず調停は不調に終わった。継宗は笠原氏らの支援を得て、千野氏・藤沢氏らの支援を得る保科氏と戦ったが高遠氏の劣勢に終わった。以後も保科氏との対立は続き、保科方は府中小笠原氏らの支援を得て高遠氏の属城である山田城を攻撃したが、双方決定的な勝敗はつかなかった。・・・
この文章の不自然さは異常である。繰り返し読み返し、その時代の他の歴史書を読み返しても、「保科貞親と荘園経営をめぐって対立」の引用のみを記してあり、何故に対立したかの意味の示唆を与えてくれない。そこで登場する人物の野望や思いや立場をそれぞれ分解し、記述されている言葉の意味を再考して、さらに歴史の流れに意味を見いだそうとした作業がしばらく続く。まず高遠継宗は大徳王寺の戦いを主導した諏訪頼継の子信員を祖とする。諏訪上社大祝の嫡流で諏訪惣領の意識が高いし野望もある。保科貞親は継宗の家老でなく、なぜ代官なのか。荘園経営の代官は何を意味するのか。黒河内・藤沢は諏訪神社の神領の荘園である。高遠継宗に味方したのは誰で何故か。又、保科貞親に味方したのは誰で何故か。特に、諏訪社の大祝や千野氏や藤沢氏は北条残党や南朝の主力メンバーであった。そうして、中先代の乱、或いは大徳王寺の乱から約150年の後の出来事に、「保科貞親と荘園経営をめぐって対立」が起こった。
この対立構造の歴史的な意味合いは以下のように解釈すると辻褄が合う。
まず、諏訪上社は、北条時行や宗良親王を援助する経済的基盤として、黒河内・藤沢荘園の一部を時行、宗良に割譲し、あるいは彼らに経済的援助の役割を保科一族に任官した。高遠城は、諏訪上社の一族の隠居城の性格もあり、保科一族は高遠城の経済的基盤も代行した。保科貞親はその代官の系譜の中にある。高遠継宗は諏訪家惣領の自覚もあり野心もあるために、諏訪神領の荘園の自国化を企てた戦いであり、諏訪上社側としては、防衛戦でもあった。この様に結論すると、代官や荘園経営などの言葉の使い方と歴史背景から辻褄が合う。
こうして、保科一族は1340年あたりから、諏訪一族の協力者として、北条残党として、また南朝側として、一定の役割と使命感をもって、藤沢谷を中心に、長谷や茅野に移住してくる。
さて、保科正則に戻る。
正則、ママ永享(長享)年中(ママ1429-1441年(1478-1488))、村上顕国と戦い、破れて本国伊那郡高遠に走る。・・これは保科一族が領有した若穂保科の近くの古城、小坂城の説明文である。
保科氏が長享年間(1487-1488年)に坂城の村上顕国に侵略され、藤沢郷へ移住した・・上高井郡誌。
この二つの文に、違いがある。永享といい、長享という約50年の年代の差がある。また、前文に本国伊那郡高遠という表現がある。この部分は地もと贔屓からか、本国を分国と逆の意味の言葉に置き換えている説明文もある。とにかく、この頃の北信濃の保科一族や村上一族に関する史料はかなり乱暴で雑なものが多い。
村上顕国の活躍した時期を複数の史料から確定すると、保科氏が長享年間(1487-1488年)に村上顕国に侵略され、藤沢郷へ移住した、という長享年間(1487-1488年)が正しそうである。
藤沢郷に移住した保科正則の、その後、を少ない史料から拾いながら記述してみる。
*高遠保科氏郷(藤沢郷)から誠訪(諏訪)に逃れ、一時誠訪(諏訪)頼重のもとに身を寄せた
*保科親子は、諏訪頼重の元に一時身を寄せた。
**高遠頼継の配下となって
・・保科正則は藤沢郷の保科貞親の子孫の一族に寄生したと考えられるが、その頃の高遠城は、諏訪から隠棲した諏訪継満か高遠満継の時代に、満継など能力や性格に問題があって、満継配下が次々と高遠家を離れていった。その流れで、代官職の保科家と新規に寄生した保科正則は藤沢郷を離れ諏訪惣領家(諏訪頼重)の元に身を寄せた。満継から高遠頼継の時代になると、保科正則と子の保科正俊は高遠頼継に家老として復帰している。この間に、保科正則は二代目正則として跡目相続している可能性有り。・・保科正則(<1489>-1533)・前正則。二代目正則・後正則・・
この間の高遠家(高遠城主)の系譜
高遠義光 諏訪頼貞子?信貞子? 官名;信濃守 法名;義海
法名;太源 官名;信濃守 永享頃 1421-1449
法名;悦山 官名;信濃守
高遠継宗(別名;諏訪次郎;継家)官名信濃守 法名;商山 通称;「藤沢殿」
文明長享頃 1469-1486
(?諏訪継満 1486- 諏訪大祝から高遠城に逃れている)
高遠満継 継宗子 官名;信濃守 永正頃 1504-1520
高遠頼継 満継子 官名;信濃守・紀伊守 1513-1552
・・・・上記系譜は、諏訪神社神官長守屋文書からと思われるが、生存年はまだ検証していない。
諏訪頼重(1516-1542)
諏訪頼隆の嫡男。武田晴信の妹を娶る。1542年、高遠頼継と共謀した武田軍に攻められ降伏。甲府に送られた後毒殺された。 ここに諏訪惣領家は滅亡する。なお頼重の娘は晴信の側室となり、生れた子が武田勝頼である。なお、諏訪頼重(南北朝期)は同姓同名の先祖。
若穂保科:保科
・・・・・長時-光利-正知-正利-1正則
合流 1正則=2正則-正俊-正直-正光-正之(会津藩)
・・・・・家親-貞親-正秀=易正-2正則
藤沢保科:保科
解説;若穂保科の正利・1正則が村上顕国に保科を追われたのは1488年頃で高遠・藤沢・諏訪に逃避していたのは1530年代までで、1506年には保科正利は亡くなっている。
藤沢;保科は正秀の時、諏訪家の文明の内訌で没落し、時期を同じくして、荒川易氏の次男の易正を保科の里に養子に送り、家督を継いだと思われる。更に、正利没時に易正が、1正則没時に(2正則)が保科惣領家の名跡を継いだ可能性がある。時まさに、諏訪家の内訌の時で、名家保科家の一族存亡の危機を救い、高遠家の没落寸前に、歴代の代官職として高遠頼継をもり立てて再興に尽力した、という流れに読める。この保科家の存亡の危機と高遠家没落の危機を救った易正を、人は「神助易正」の尊称で呼んだ。
なお、保科惣領家は歴代の嫡流に「正」の名を継承し、「弾正」の自称官名を継承し、諏訪神党の「甚四郎」を自称し、高遠地区の領土知行の官名の「筑前守」を公称したようである。保科家は歴史的に諏訪神領(荘園)の代官であったことから、諏訪惣領家への忠誠心が強く、高遠家の家老であっても意識は独立していたようである。ちなみに、諏訪家惣領家の歴代の嫡流は「頼」の名を継承している。
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