遥かなる国後
6月25日からの知床エクスペディションは無事終了した。今回は今年はじめてカシュニを越えてウトロまで漕いだ。漕ぎながら海岸を注意深く見たが、特に変わった動きはなかった。ヒグマは相変わらず多い。20頭近く見た。冬眠中に生まれた子供が母親にまとわりつき、親を真似て動く姿は可愛くおかしい。新しい食べ物を見つけたのだろうか。栄養状態は良いようだ。ヒグマは賢い。彼らは雑食と用心深さ、環境適応の知恵を身に着けて有史以前から生きてきた。
知床エクスペディションの参加者は多種多様だ。私の知らない世界の話を聞けるので楽しい。今回は富山県魚津の佐伯夫妻が参加してくれた。佐伯さんは有名な立山ガイドの一人だ。また高橋庄太郎君が仲間とともに参加してくれた。彼らはツアー終了後に岬まで海岸を歩く予定だ。来年は徒歩での半島一周を目指すという。高橋庄太郎は20年近く知床エクスペディションに参加し続けている。
参加者が一様に驚くのはロシアが実効支配する対岸の国後島の近さだ。晴れていれば海岸の崖まで良く見える。しかしはっきりと見える後は必ず嵐になる。今回は霧と雨が多かったが、それでも島の最高峰チャチャヌプリがたまに見えた。ここはもう日本ではない。ロシアだ。羅臼の漁師は戦後80年近く、この国境の海で拿捕や銃撃の危険に怯えながら漁を続けてきた。島がこれほど近くにあることを、政治家だけでなく多くの日本人は知らない。モスクワのロシア人も知らない。尖閣や竹島は見えない。しかしクナシリとハボマイはすぐそこにある。私たちが北方領土と呼ぶこれらの島々が日本に帰ることはあるのだろうか。
水温は10度近くまで上がったが相変わらず冷たい。ウリクラゲが無数にいる。雨が多かったのでみんな体を濡らし、寒そうだった。テントもシュラフも湿って重い。たまの晴れ間には防水バッグから寝袋を出して乾かした。知床では完全防水の漁師ガッパが欠かせない。これを着ればどんな嵐にも耐えられる。雨具に必要な機能は防水性ではない。防寒性だ。ナイロン雨具はたとえそれがゴアテックスであっても、冷たい雨の水圧で体に張り付き体温を奪う。高価なゴアテックス雨具を使うなら、それが直接肌に触れないよう空気層を持つものを下に着なければならない。私はウールセーターを奨めている。薄いクルーネックのカシミヤやメリノウールが良い。毛は濡れても必ず身を守る。北海道の遭難事故は雨具の不備によるものが多い。近年のトムラウシや知床岳、羊蹄山なとガイド登山中の事故は、直接的にはガイドの判断の誤りによるものだ。しかしその背景にはゴアテックス雨具と速乾性をうたう化繊肌着への過信がある。事故をただ悪天候のせいにしてはならない。
知床羅臼では過去に2度の大きな海難事故が起きている。1954年5月10日には「5・10海難」が起き10数隻50数人が失われている。この時は根室海峡と太平洋でも多くの船が沈み、数百人の犠牲者がでている。1959年4月6日には「4・6突風」により15隻85人が遭難している。低気圧は知床付近で急激に発達する。西のウトロ側では朝が凪でも低気圧通過後すぐに風が強まる。羅臼側では時を置いて山越えの暴風、いわゆる「ダシ」が突然吹き出す。時にその強さは岸壁に駐車したトラックを海に落とすほど強い。これらの海難は知床特有のこのような気象条件下で起きている。当時の漁船は焼玉エンジンで馬力も小さい。突然の大時化で無理に港に戻ろうとした船は横倒しにされて転覆し、風波に逆らわず必死で国後まで逃げた船だけが助かった。KAZU1もそのような中で遭難したのだろう。
知床半島はオホーツク海に突き出た海上の山脈だ。古来ここはオホーツク人とその後のアイヌ民族の生活の場所だった。往時の暮らしの痕跡は岬やイダシュベ、ポロモイなど海岸近くの僅かな平坦地に竪穴住居跡として残っている。人々は流氷原の空気孔に顔を出すアザラシを獲り、夏には遡上するサケマスを捕獲し、ヒグマを獲っていた。アイヌは北海道の先住民だが、狩猟だけで生きてきたわけではない。彼らは日本海から朝鮮、大陸までを縦横に行き来する交易民族であり、その活動範囲はカムチャッカからベーリング海にまで及んだ。しかし16世紀以降、徳川幕府と松前藩の圧政で徐々に力を失い、場所請負制の下で和人商人に従属して漁業労働者となり、やがて日本に同化させられていった。
今日、日本ではアイヌを国内の少数民族と位置付けている。しかし先住民族とはしていない。それ故、その権利の回復、土地の返還や伝統的狩猟などの復活を認めていない。文化の復興とはウポポイなど箱ものの建設や歌や踊り、或いは言語や道具の復活だけを言うのではない。サケマスの自由な捕獲、狩猟など本来の生活に根差した「技術伝統」を甦らせなければ真の復興とは言えない。先住民族としてのアイヌの人権の復権は果たされていない。
2018年、ロシア議会はアイヌをロシア国内の先住民族と認めた。これを根拠にロシアが北海道に侵攻する可能性は荒唐無稽な話ではない。プーチンの歴史観によれば北海道はアイヌの国だからだ。それならウクライナと同じようにアイヌ民族の解放を謳って北海道に侵攻することができる。戦後ソビエトは占領地の日本人を長くシベリアに抑留し重労働に当たらせた。現在ウクライナでは160万人のウクライナ人をロシア国内に強制移住させているという。スターリンが死んで初めて日本人抑留者の帰還事業が進んだように、プーチンが生きている限りこれからもこの蛮行は続くのだろう。日本はアイヌ民族の実質的な権利回復を行うへきだ。そして国連決議に従って明確に先住民族と認めるべきだ。日本が民主国家と言うならこの問題を解決済みとして曖昧にしてはならない。それにしてもロシアが先にアイヌの先住権を認めたというのは悪い冗談のような話だ。自由主義社会の体裁を装い、体よく資本主義の恩恵を享受する覇権国家にとって、環境や人権は専制独裁を続けるための方便でしかない。
1945年、第2次大戦終結後、旧ソビエト連邦はサハリンと千島全島を手に入れた。アメリカは沖縄と日本を占領した。択捉以南を含む千島のソビエト領有は大戦の帰結なのだ。批判を承知で言うが北方領土返還交渉が上手く進まなかったのは、日本が頑なに「固有の領土」論にこだわったためではないだろうか。大戦の結果を受け入れた上で、あらためてこの父祖の地を何とか返してもらえないかという交渉はできなかったのだろうか。せめて目の前に見える、あまりにも近くにあるクナシリとハボマイの2島だけでも返してもらえないかという交渉はできなかったのだろうか。シコタンとエトロフは見えないから返してくれなくても良い。ただとは言わない。条件次第ではロシア軍の駐留も認める。そのような交渉はできなかったものだろうか。
アラスカはアメリカがロシアから買った土地だ。当時の帝政ロシアはクリミア戦争の戦費がかさみ、金に困っていた。1867年、アメリカ合衆国はロシア帝国からアラスカ及びアリューシャン列島、そしてプリビロフ島を720万ドルで購入した。今日のウクライナ戦争という暴挙に、ロシアはやがて疲弊する。もし自由社会が本気で現在のロシアを干上がらせ暴走を止めることが出来れば、ひょっとして日本の領土交渉の突破口が開けるきっかけになるかもしれない。しかしプーチンの野望はこれからも消えない。何よりもロシアと対等に渡り合い、真剣にこの問題に取り組もうとする政治家は日本にはいない。政治的思惑だけで4島を勝手に2島に決め、個人の政治的野心と利権を追うだけの政治家にこの問題の解決はできない。安倍晋三がプーチンと取り決めた2島とはハボマイとシコタンだ。2島合わせてもその面積は国後の5分の1もない。プーチンはほくそ笑んだに違いない。これをまとめれば日本に恩を売るだけではなく、更に大きな利益を日本から引き出す足がかりになる。妥協してはならない。プーチンの野望を打ち砕く努力を、恐れずに続けなければならない。しかしその勇気がこの国の指導者にあるだろうか。何よりも今日の日本の政治家は、そもそも底辺の人々や辺境の人たちに関心がない。
国後はすぐそこにある。羅臼や標津の漁師はこの海で漁をしている。国境を越えれば拿捕され、時には銃撃される。羅臼の公園に「4・6突風」で息子を失くした老人の像が建っている。戸川幸夫原作の「オホーツク老人」の映画化を記念して建てられたものだ。この映画は「地の涯に生きるもの」として1960年に公開された。像は主演の森繁久弥そのままの姿で寂しげな笑顔を浮かべて佇んでいる。老人はマニラ麻の魚網をネズミから守るため、半島奥地の氷に閉ざされた番屋に一人で暮らした。ネズミを捕る飼いネコにエサをやるためだ。6月28日、KAZU1の乗船者とみられる方の遺体がサハリン、コルサコフ付近の海岸で発見された。遺体は岬から北西に流され、20マイル以上の沖合を北に流れる反流に乗ってサハリン西岸にまで達したのだろう。着用していたという赤いPFDが他のものより浮力があったためだろうか。そのため違う潮に乗ったのかもしれない。亡くなられた方の冥福を祈るとともに、多くの人がこの辺境の土地に関心を持ってくれることを願っている。
6月25日からの知床エクスペディションは無事終了した。今回は今年はじめてカシュニを越えてウトロまで漕いだ。漕ぎながら海岸を注意深く見たが、特に変わった動きはなかった。ヒグマは相変わらず多い。20頭近く見た。冬眠中に生まれた子供が母親にまとわりつき、親を真似て動く姿は可愛くおかしい。新しい食べ物を見つけたのだろうか。栄養状態は良いようだ。ヒグマは賢い。彼らは雑食と用心深さ、環境適応の知恵を身に着けて有史以前から生きてきた。
知床エクスペディションの参加者は多種多様だ。私の知らない世界の話を聞けるので楽しい。今回は富山県魚津の佐伯夫妻が参加してくれた。佐伯さんは有名な立山ガイドの一人だ。また高橋庄太郎君が仲間とともに参加してくれた。彼らはツアー終了後に岬まで海岸を歩く予定だ。来年は徒歩での半島一周を目指すという。高橋庄太郎は20年近く知床エクスペディションに参加し続けている。
参加者が一様に驚くのはロシアが実効支配する対岸の国後島の近さだ。晴れていれば海岸の崖まで良く見える。しかしはっきりと見える後は必ず嵐になる。今回は霧と雨が多かったが、それでも島の最高峰チャチャヌプリがたまに見えた。ここはもう日本ではない。ロシアだ。羅臼の漁師は戦後80年近く、この国境の海で拿捕や銃撃の危険に怯えながら漁を続けてきた。島がこれほど近くにあることを、政治家だけでなく多くの日本人は知らない。モスクワのロシア人も知らない。尖閣や竹島は見えない。しかしクナシリとハボマイはすぐそこにある。私たちが北方領土と呼ぶこれらの島々が日本に帰ることはあるのだろうか。
水温は10度近くまで上がったが相変わらず冷たい。ウリクラゲが無数にいる。雨が多かったのでみんな体を濡らし、寒そうだった。テントもシュラフも湿って重い。たまの晴れ間には防水バッグから寝袋を出して乾かした。知床では完全防水の漁師ガッパが欠かせない。これを着ればどんな嵐にも耐えられる。雨具に必要な機能は防水性ではない。防寒性だ。ナイロン雨具はたとえそれがゴアテックスであっても、冷たい雨の水圧で体に張り付き体温を奪う。高価なゴアテックス雨具を使うなら、それが直接肌に触れないよう空気層を持つものを下に着なければならない。私はウールセーターを奨めている。薄いクルーネックのカシミヤやメリノウールが良い。毛は濡れても必ず身を守る。北海道の遭難事故は雨具の不備によるものが多い。近年のトムラウシや知床岳、羊蹄山なとガイド登山中の事故は、直接的にはガイドの判断の誤りによるものだ。しかしその背景にはゴアテックス雨具と速乾性をうたう化繊肌着への過信がある。事故をただ悪天候のせいにしてはならない。
知床羅臼では過去に2度の大きな海難事故が起きている。1954年5月10日には「5・10海難」が起き10数隻50数人が失われている。この時は根室海峡と太平洋でも多くの船が沈み、数百人の犠牲者がでている。1959年4月6日には「4・6突風」により15隻85人が遭難している。低気圧は知床付近で急激に発達する。西のウトロ側では朝が凪でも低気圧通過後すぐに風が強まる。羅臼側では時を置いて山越えの暴風、いわゆる「ダシ」が突然吹き出す。時にその強さは岸壁に駐車したトラックを海に落とすほど強い。これらの海難は知床特有のこのような気象条件下で起きている。当時の漁船は焼玉エンジンで馬力も小さい。突然の大時化で無理に港に戻ろうとした船は横倒しにされて転覆し、風波に逆らわず必死で国後まで逃げた船だけが助かった。KAZU1もそのような中で遭難したのだろう。
知床半島はオホーツク海に突き出た海上の山脈だ。古来ここはオホーツク人とその後のアイヌ民族の生活の場所だった。往時の暮らしの痕跡は岬やイダシュベ、ポロモイなど海岸近くの僅かな平坦地に竪穴住居跡として残っている。人々は流氷原の空気孔に顔を出すアザラシを獲り、夏には遡上するサケマスを捕獲し、ヒグマを獲っていた。アイヌは北海道の先住民だが、狩猟だけで生きてきたわけではない。彼らは日本海から朝鮮、大陸までを縦横に行き来する交易民族であり、その活動範囲はカムチャッカからベーリング海にまで及んだ。しかし16世紀以降、徳川幕府と松前藩の圧政で徐々に力を失い、場所請負制の下で和人商人に従属して漁業労働者となり、やがて日本に同化させられていった。
今日、日本ではアイヌを国内の少数民族と位置付けている。しかし先住民族とはしていない。それ故、その権利の回復、土地の返還や伝統的狩猟などの復活を認めていない。文化の復興とはウポポイなど箱ものの建設や歌や踊り、或いは言語や道具の復活だけを言うのではない。サケマスの自由な捕獲、狩猟など本来の生活に根差した「技術伝統」を甦らせなければ真の復興とは言えない。先住民族としてのアイヌの人権の復権は果たされていない。
2018年、ロシア議会はアイヌをロシア国内の先住民族と認めた。これを根拠にロシアが北海道に侵攻する可能性は荒唐無稽な話ではない。プーチンの歴史観によれば北海道はアイヌの国だからだ。それならウクライナと同じようにアイヌ民族の解放を謳って北海道に侵攻することができる。戦後ソビエトは占領地の日本人を長くシベリアに抑留し重労働に当たらせた。現在ウクライナでは160万人のウクライナ人をロシア国内に強制移住させているという。スターリンが死んで初めて日本人抑留者の帰還事業が進んだように、プーチンが生きている限りこれからもこの蛮行は続くのだろう。日本はアイヌ民族の実質的な権利回復を行うへきだ。そして国連決議に従って明確に先住民族と認めるべきだ。日本が民主国家と言うならこの問題を解決済みとして曖昧にしてはならない。それにしてもロシアが先にアイヌの先住権を認めたというのは悪い冗談のような話だ。自由主義社会の体裁を装い、体よく資本主義の恩恵を享受する覇権国家にとって、環境や人権は専制独裁を続けるための方便でしかない。
1945年、第2次大戦終結後、旧ソビエト連邦はサハリンと千島全島を手に入れた。アメリカは沖縄と日本を占領した。択捉以南を含む千島のソビエト領有は大戦の帰結なのだ。批判を承知で言うが北方領土返還交渉が上手く進まなかったのは、日本が頑なに「固有の領土」論にこだわったためではないだろうか。大戦の結果を受け入れた上で、あらためてこの父祖の地を何とか返してもらえないかという交渉はできなかったのだろうか。せめて目の前に見える、あまりにも近くにあるクナシリとハボマイの2島だけでも返してもらえないかという交渉はできなかったのだろうか。シコタンとエトロフは見えないから返してくれなくても良い。ただとは言わない。条件次第ではロシア軍の駐留も認める。そのような交渉はできなかったものだろうか。
アラスカはアメリカがロシアから買った土地だ。当時の帝政ロシアはクリミア戦争の戦費がかさみ、金に困っていた。1867年、アメリカ合衆国はロシア帝国からアラスカ及びアリューシャン列島、そしてプリビロフ島を720万ドルで購入した。今日のウクライナ戦争という暴挙に、ロシアはやがて疲弊する。もし自由社会が本気で現在のロシアを干上がらせ暴走を止めることが出来れば、ひょっとして日本の領土交渉の突破口が開けるきっかけになるかもしれない。しかしプーチンの野望はこれからも消えない。何よりもロシアと対等に渡り合い、真剣にこの問題に取り組もうとする政治家は日本にはいない。政治的思惑だけで4島を勝手に2島に決め、個人の政治的野心と利権を追うだけの政治家にこの問題の解決はできない。安倍晋三がプーチンと取り決めた2島とはハボマイとシコタンだ。2島合わせてもその面積は国後の5分の1もない。プーチンはほくそ笑んだに違いない。これをまとめれば日本に恩を売るだけではなく、更に大きな利益を日本から引き出す足がかりになる。妥協してはならない。プーチンの野望を打ち砕く努力を、恐れずに続けなければならない。しかしその勇気がこの国の指導者にあるだろうか。何よりも今日の日本の政治家は、そもそも底辺の人々や辺境の人たちに関心がない。
国後はすぐそこにある。羅臼や標津の漁師はこの海で漁をしている。国境を越えれば拿捕され、時には銃撃される。羅臼の公園に「4・6突風」で息子を失くした老人の像が建っている。戸川幸夫原作の「オホーツク老人」の映画化を記念して建てられたものだ。この映画は「地の涯に生きるもの」として1960年に公開された。像は主演の森繁久弥そのままの姿で寂しげな笑顔を浮かべて佇んでいる。老人はマニラ麻の魚網をネズミから守るため、半島奥地の氷に閉ざされた番屋に一人で暮らした。ネズミを捕る飼いネコにエサをやるためだ。6月28日、KAZU1の乗船者とみられる方の遺体がサハリン、コルサコフ付近の海岸で発見された。遺体は岬から北西に流され、20マイル以上の沖合を北に流れる反流に乗ってサハリン西岸にまで達したのだろう。着用していたという赤いPFDが他のものより浮力があったためだろうか。そのため違う潮に乗ったのかもしれない。亡くなられた方の冥福を祈るとともに、多くの人がこの辺境の土地に関心を持ってくれることを願っている。
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