知床エクスペディション

これは知床の海をカヤックで漕ぐ「知床エクスペディション」の日程など詳細を載せるブログです。ガイドは新谷暁生です。

知床日誌㉒

2020-07-29 17:53:40 | 日記

知床日誌㉒

装備の軽量化、食糧の簡素化は旅の重要な課題だ。余計なものを持たず何も忘れないことが計画を左右する。何も足さない。何も引かない。なんだかウィスキーの広告のようだがこれは真理だ。人はものを持ちすぎる。
私はリストを持たず食糧や装備を頭で考える。米の量やテントの数、修理道具やロープなど安全装備、医薬品や酒の量、自分の個人装備などだ。だからよく忘れ物をする。出発すれば何も手に入らない。だから準備は注意深くしなければならない。しかし必ず何か忘れる。これは私の基本的資質、杜撰さやいい加減さのせいだろう。用心深く臆病な性格が私を生き続けさせた。しかしこれも運と確率の問題だ。いつか破綻するだろう。醤油やゴマ油を忘れるくらいならまだ良い。前回はノコを忘れた。ゴムボーイは必需品だ。私の装備リストの中では常に上位にある。しかしそれを忘れた。流木を適度な長さに切って焚火の土台を作ることが米焚きの基本なのに、なければ木を切れないのだ。

ゴムボーイは私にとって個人装備のようなものだ。風や雨の中で火を焚くにはそれなりの準備がいる。着火剤をいくら使っても木組みが悪ければ燃えない。石は燃えない。だからかまどは木で作る。風を制御して対流を起こせば雨の中でも火は燃える。火事の原因となる煙突効果だ。キャンプフアィヤーで米は炊けない。だから調理に適した良いかまどを作るためにノコは欠かせない。知床では大量の米や汁を作る。上陸後最初の仕事は焚火だ。それから水をくむ。身の周りのことは一番最後だ。着替えもしない。大抵はそのうちに乾く。雨の時は面倒がらず雨具を着る。漁師ガッパは濡れて冷えた体を速やかに温めてくれる。

知床羅臼側で最近2件のトレッカーの水難事故が起きた。いずれも岩場のトラバースで引き波にさらわれたのが原因だ。場所はトッカリ瀬(トッカリムイ)というところで、石浜が急に岩場になるところだ。2年前の事故は東京から自転車で来た2人の学生が起こした。一人は助かったがもう一人は2か月後に海岸で見つかった。私は彼らに自転車の置き場所を教え出発を見送った。私たちも出艇したがすぐ先の崩れ浜で北風が強まったのでアイドマリに戻った。風は竜巻が起きるほど強く波も急激に高まった。彼らは運悪く引き波にさらわれてしまったのだろう。

いつも思うのだが海岸トレッカーの装備は多すぎる。昔モイレウシからウトロまで二日で歩いたことがある。わずかな食糧と装備はエコバックのような小型ザックにすべて収まった。それを背負い浜に落ちていたロープで編んだ草鞋と地下足袋で飛ぶように岩浜を走った。ツエルトは持ったが寝袋は持たなかった。1977年の盆明けだった。一緒だった石川裕二は翌年のカラコルム・バツーラ2峰への遠征が決まっていた。石川は北海道山岳ガイド協会の会長を長くしているが昔も北海道を代表する登山家だった。彼はヒマラヤのみならず斉藤燦(あきら)とともにグランドジョラスのウォーカーバットレスも登攀している。私たちは二日でウトロに着いた。途中タコ岩のトラバースで溺れかけた。石川は利尻出身で河童だ。しかし私は泳ぎが苦手だ。暑い日で股ずれが出来た。それで半ズボンを脱ぎねじり鉢巻きに全裸でナップサックという変な類人猿のような恰好で浜を歩いた。当時はまだ番屋がたくさんあり、そのたびにズボンをはき賄いのおばさんに挨拶をして通りすぎた。おばちゃんも汚い裸の男の突然の出現にさぞ驚いたことだろう。その後私も石川とともに翌年のカラコルム遠征に隊員として加わった。しかし荷揚げにつぶれ高山病で死にかけた。

軽量化は安全性を高める。プラス気温の夏の知床で道具は最少で良い。しかし今日のトレッカーはまるでそれが当然のように大型ザックにテントからザイルまで持ち、ヘルメットを被り重い靴で海岸を歩く。腰にはハーネスを着け熊ガスもぶら下がっている。これが今の知床海岸トレッキングの定番的スタイルだ。知床財団はクマスプレーをレンタルしている。しかしそれなら首に巻きつける旅行用枕型の浮き袋も一緒に貸したほうが良い。頭も保護する。知床ではクマよりも海のリスクのほうがはるかに高い。浮いていれば助かる可能性がある。引き波にさらわれると溺れてもがく。そして沈む。海岸トレックの装備は極力減らしたほうが良い。軽い荷は行動半径を広げる。身軽さは安全につながる。それはカヤッカーにも言える。私はカヤックにも発想の転換が必要と思う。

防水バッグにテントからマット、靴まで入れることはない。どうせ濡れる。また寝袋をスタッフバックに入れたまま詰めると容積を大きくする。なによりもスタッフバックの多用はパッキングに手間取りそれだけ他の準備が遅れる。私は濡らしてはならないものを除き防水バッグには入れない。だから寝袋に着替えやセーターを入れても10リッターのバッグに半分ほどの容積で収まる。個人装備が少なければそれだけ他のものを持てる。行動も早い。ミニマリズムは遠征の重要な要素であり真剣に取り組むべきことなのだ。

前回の知床に別府さんという人が参加した。彼はマラソンを2時間30分代で走る若いアスリートだ。装備はシンプルで少なくそのため準備も早い。また雨の中でも常に薄着だ。薄いと乾きも早い。そんな彼でも漁師合羽は重宝していたようだ。カヤックの経験はほぼないが終わる頃にはシングル艇を体で漕ぐようになっていた。水くみから薪集めまで率先して手伝ってくれた。有難かった。結局のところ道具が何であっても漕ぐのは自分だ。必要なのは馬力と意志だ。道具ではない。楽な漕ぎはない。昔は知床を12時間半で回り冬山では重荷を背負って延々とラッセル出来た。しかし私にそんな馬力はもうない。今は艇の乗り降りにも手間取り時々転ぶ。昔を懐かしんでも始まらない。この先も漕げるものなら漕ぎ続けたいものだ。そしていつか再びヒマラヤを見たいものだと最近はよく思う。

新谷暁生


知床日誌㉑

2020-07-17 18:31:27 | 日記

知床日誌㉑

知床の海岸には土がない。だからペグは使えない。今年は感染症予防のため個人用テントの持参をお願いしている。しかしテントの数が増えるとそれだけトラブルも増える。風でポールが折れて生地を突き破ったり外に荷物を放置してキツネに持って行かれたりもするし、そもそも浜が狭く石浜なのでテントを張る場所がない。クマは普通に現れる。ヒグマはそこが通り道だから現れるのであって人に興味があるわけではない。多くの場合は放っておけば立ち去る。10メートルも離れていないところを歩くヒグマを見て恐怖を覚えない人はいない。私も怖いが立派なものだ。これが知床だ。

ヒグマ対応には毅然たる態度が要る。多くの場合、クマは突然の遭遇以外、人を襲わない。だから用を足すときは声掛けしたほうが良い。キャンプを離れる時は複数で行動したほうが良い。ヒグマは臆病な動物だが猛獣だ。そして何を考えているかわからない。昔は遠くに現れたら怒鳴ったり爆音弾を鳴らした。しかし今はあまり怒鳴らない。こちらの存在を知らせるだけだ。普通のクマならそれで山に消える。トウガラシ成分のクマガスは有効だが風向きや距離を考えないと自分や仲間がひどい目に遭う。しかし銃より役に立つ。鉄砲は外れれば意味がないがクマガスは5メートル以内で風を背にすれば有効だ。運が良ければクマを追い払える。

熊ガスは危険だ。香港では警察が使っているらしい。私は人にこれを使う状況に言葉がない。私もやむを得ず使ったことがある。距離は3メートルもなかった。しかし出来れば使いたくないしそんな状況を招いてはならない。怒り狂ったクマには勝てない。興味を持たせないこと。興奮させないこと。無暗に騒ぎ立てないこと。甘く見ないこと。物や食べ物を放置しないこと。私たちが知床で守るべきことは多い。人の行動の誤りが結局は駆除につながる。世界一クマ密度が高い知床で人とヒグマが共存するのは容易なことではない。そんな知床でカヤックを漕げることに私は感謝している。

知床で厄介なのはクマよりもキツネだ。キツネは靴を盗みテントを荒らしカヤックに小便をかける。その臭いは耐えられないほど臭い。だから艇は裏向けに置かなければならない。糞はエキノコックス症の原因となる。北海道では沢水を飲んではならない。水は必ず沸かして飲む。罹る確率は交通事故よりも低いというが、もし罹れば致命的だ。10年以上の時間をかけて肝臓に寄生し体を蝕む。石灰化して中がドロドロに融けた肝臓は末期の肝臓癌よりもたちが悪いと医者は言う。薬はあるが日本型のエキノコッサクスには効果がないという。虫下しによるキツネの無害化で発症例は減ってきている。しかし用心するに越したことはない。動物は寄生虫で寿命を縮める。私にとってキツネはクマ以上に厄介な動物だ。しかし私がもっとも恐れるのは海だ。年をとって私はますます臆病になってきた。海ではどんな経験も時に役に立たない。経験ある漁師でもあっけなく命を落とす。海は常に知恵を試す。素晴らしいところだが怖いところだ。私は知床の過酷な海が好きだ。私たちは数千年続いてきた手漕ぎ舟の漕ぎ手の末裔だ。知床の海はそんなことが実感できるところだ。

昨日は地元で雪崩の会議があった。私の冬の仕事は宿屋だがニセコの雪崩事故防止も仕事だ。この土地に46年住む私は30年以上前から必要に迫られてこれを続けてきた。当時ニセコは日本でもっとも雪崩事故の多い山で80年から1990年代の10年間で8人が死んだ。理由は山が簡単なこととリフトの延長でコース外の新雪が滑りやすくなったためだ。それでやむを得ず役場とコース外滑走のルールを作った。昨日の会議ではビーコンとヘルメットの義務化が話し合われた。しかし昨年決めたにも関わらず有力スキー場はこれに消極的だ。なによりも困ったのは30年前と同じように法律論と責任を言う人が再び出たことだ。これらの正論に人は反論できない。結局私しか反対意見を言わなかった。考えてみればこの30年それの繰り返しだ。しかし今更法律論を持ち出すほど愚かとは思わなかった。これはもうだめだ。

ニセコルールは必要から行われているもので日本の法体系が正式に認めたものではない。いわば地域と利用者の紳士協定のようなものだ。それが定着して事故防止に役立ち観光振興にもつながってきた。国の政策にも役立っているから日本国政府はこれを容認している。しかし現場の監督官庁が必ずしも認めているわけではない。だから公的な予算もつかない。何よりもニセコの方法が学問的に証明されていないことによる批判が今も根強い。そしてこれがあらゆる点でルールの障害になっている。さてこの先はどうなるのだろう。ともかく今は目の前の知床に真面目に取り組まなければならない。私はすこし怒っている。

新谷暁生

知床日誌⑳

2020-07-13 05:24:32 | 日記


知床日誌⑳

昆布漁が始まっておらず最終人家の村田さんの作業場を借りて準備し、出発。総勢6人。海に浮かぶとほっとする。今回もシースケープに乗った。水漏れする古いダブル艇。関野さんと漕いだビーグル水道を思い出した。
海は有難いことに平穏で、岬を回りイダシュベに二日泊まった。ここには縄文期から続く古い竪穴住居跡がある。カシュニのあたりで三匹の小熊を連れた家族に行き会った。母親は私たちを見ると子供に逃げるよう促す。
ルシャにも二匹連れがいた。いずれも体格の良い母熊だった。子供たちのの無事の成長を祈った。沖では定置網漁の準備が進んでいる。カラフトマスは来るだろうか。

羅臼のわくさんまんさん村田さんもそうだが知床には頭を刺激する人が多い。今回もまたわくさんと骨鬼の戦いについて議論した。私もわくさんもすっかり酒が弱くなった。13世紀の骨嵬の戦いを主導したのは誰だったのか。キジ湖を越えたのは木船だったのか、皮舟だったのか。オホーツク文化からアイヌ期への移行とこの戦いは何か関係があるのだろうか。わくさんは考古学者の見地から実証的な説を唱え、私は勝手な想像でものを言う。

帰りにみんなで白滝の松原さんの家に立ち寄った。白滝は数少ない黒曜石の産地として知られているところだ。松原さんは廃校になった立派な小学校に工房を作ってバイダルカを復元しパドルを削り、ソリ犬を100頭近く飼って冬の犬橇ツアーを行っている。もう死んでしまったが以前はオオカミもいた。ハリーという名のオオカミは松原さん以外にはけっしてなつかなかった。この犬は子供の頃、亡くなった真下さんが動物検疫を通してアラスカから連れてきた犬だ。

私のパドルは松原さんが作ったものだ。20世紀初めのロシア・アメリカ会社の時代のアリュートパドルを正確に復元したもので、今では多くの愛好家の家に美術品として飾られている。松原パドルは優れた道具だ。19世紀末から20世紀にかけてロシア人に従ったアリュートは、このパドルでラッコを追い遠くカリフォルニアまで旅した。私は先人に敬意を払いアリューシャンだけではなく知床でも日常的にこのパドルを使ってきた。

白滝で函館のバイダルカの話になった。このアリュートカヤックは1875年の千島樺太交換条約批准時に開拓使黒田清隆一行がシムシル島で入手したもので、現在は函館市博物館に展示されている。私はこれが20世紀初めにウナラスカ島で撮影されたものと同じかたちであることから当時のシムシル島の最新の狩猟船と考えた。しかし松原意見によればこれは日本人の要望に応えた急ごしらえの舟なのではないかということだ。何よりも骨組みに傷みがなく3人乗りだが真ん中の穴は取ってつけたように後から作ったものだと言う。実際のところは解らない。おそらく珍し者好きの日本人が欲しがってうるさく、彼らもロシア人のように真ん中に乗りたがったから急遽3人艇に作りなおしたのかもしれない。しかし私は当時の狩猟形態から、想像だが、やはり実用の3人乗りの狩猟艇だと思う。まず展示されているパドルが細く軽い狩猟用のものだ。この形は岩場や昆布ワラでラッコを獲るのに適した振り回しやすいものだ。当時はシムシル島でもロシア人に連れてこられたアリュートによってラッコ猟が行われていた。露米会社の本拠地はコディアック島であり、そこから来ているから彼らはアリュートではないとする意見もあるが、自らの意志に関わらず彼らはあちこちに移民させられている。アメリカはオットセイ猟のために多数のアリュートをプリビロフに移住させた。

この皮舟はやはり狩猟用だと思う。先頭に投鎗器を持つ射手、真ん中が若く強い漕ぎ手、後尾が老練な漕ぎ手だ。彼らはケルプの海を音もなく進み、忍び寄ってラッコを狩ったのだろう。私は函館の舟の経緯が何であったにせよ、これは当時のシムシル島で実際に使われていた狩猟船と思う。ボリュームはないが昆布わらの海で小回りが効く。フネはその目的で形が変わる。後世広く知られるようになったバイダルカはロシア人によって生産させられたことを忘れてはならない。それが結局は優れた海洋狩猟文化であるアリュート文化を滅ぼしていった。歴史の必然といえばそれまでだが少なくとも私はバイダルカがロシア語であることを忘れない。

アリュート文化は文明社会に有益だったからこそ徹底的に利用されて滅んだ。網走の北方民族博物館にはアリュートの展示が驚くほど少ない。そもそも博物館とは先住文化の墓場のようなものだが、アリュート遺物の少なさが意味するものは大きい。そして現代は文化の記憶さえなくすほど過去を都合よく解釈している。文化の復興とは歌や踊りを復活させることではない。生活とその技術伝統をよみがえらせることだ。しかし失われた文化はけっして甦らない。今回の知床は意義深い旅だった。

新谷暁生


知床日誌⑲

2020-07-02 18:15:39 | 日記

知床日誌⑲

関野吉晴さんは今、地球永住計画という、火星移住計画の対局のようなことを考えているという。昨日朝、私を訪ねてくれた松永さんという人がそれを教えてくれた。地球が住めなくなった時、火星に移住することは現代科学で不可能ではない。しかし人類すべてが住めるわけではない。そもそも人が住む環境を作る費用は膨大すぎて計算できない。もし可能でもそこにはノアの方舟以上の選択が伴う。方舟の選択は神が行った。しかし火星への移住はそうではない。一握りの人々、つまり0.0001パーセント以下の富裕層とそれに結託する人々が考える。それはおかしい、それよりも運命共同体として今ある地球に住み続ける知恵を出し合おう、というのが関野さんの考えのようだ。松永さんの電話で久しぶりに関野さんと話をした。

関野吉晴は探検家として人類の拡散の旅、グレート・ジャーニーを自らの体で検証した人だ。1993年、南米最南の南極海への出口、ビーグル水道のナバリノ島のヤーガンの墓地から漕ぎ出した関野さんは、足かけ10年をかけてアフリカ、タンザニアのラエトリまで人力で旅した。ラエトリは7万年前に人類が生まれた土地だ。ナバリノ島はその後数万年かけて地球に拡散した人類の終着地だ。私はダーウィン山脈を越えてマゼラン海峡に至る旅の最初を手伝った。それまで関野さんと面識はなく、初めて会ったのは成田出発の時だ。それから約2か月、関野さんと旅を共にした。出発して間もなく吹き始めたビーグル水道の風、腰まで浸かる湿地帯で馬の飼葉を担いだこと、氷河伝いのダーウィン山脈越え、南極ブナに寄生するキッタリアの実、獲物を狙い旋回するコンドル、人力にこだわる関野さんの気持ちに気づいて急流に吸い込まれそうになりながら2人で必死にゴムボートを漕いだこと、サポート船の沈没、そんな様々な光景が突然浮かんでくる。旅の中で私は関野吉晴を玄奘三蔵のような人だと思うようになった。あれから20年、関野さんは変わらずに未知を求め、私は目の前の仕事に追われる日々が続いている。

関野さんの地球永住計画を夢に終わらせないためにはどうすれば良いだろうか。私は関野吉晴のように人類の行く末を考える人間ではない。しかし関野さんの新たな課題を真面目に考えるなら、ある時期まで時間を遡ることが出来るならそれは可能と思う。文明の発展で急激に数を増やした人間は、便利さや快楽を得た代わりに自らの精神や数多くの貴重な資質を知らぬ間に滅ぼしてきた。今更、春秋戦国時代や大航海時代以前に戻れというのではない。産業革命がすべての元凶だと言うつもりもない。この気の遠くなるような課題を克服するためには、関野さんの地球永住計画の具体化以外にないような気がしてきた。しかしそれには今ある人類の叡智の結集が必要だ。人類史の初期、黄河文明は数多くの発明を成し遂げ、破壊と快楽を求め続けた、その過程でチベット人やウイグル人を滅ぼしてきた。それは他の文明も同じだ。先住民と呼ばれる多くの民族、無数の民族も同様にこれらの覇権国家に滅ぼされてきた。中国大陸の覇権国家の凄いところは、僅か数千人の人たちによって16億人が支配されていることだ。この方法なら地球の全人口も支配できる。そして火星に行くこともできる。しかしそれが人類の行き着く未来なのだろうか。

私はインターネットに疎い。便利と思ったスマホは電話するのもままならないほど不便で捨てたいくらいだ。しかしそんなものはなくても良いことに今更ながら気づいた。必要なものがあれば良い。そしてそれは大して多くない。自ら汗をかいて得た知識や情報は量は少なくてもそれに勝るものはない。地球永住計画は具体的にはネットが普及し始めポケベルが仕事の道具だった30年か40年前まで時代を巻き戻せば、たったそれくらいの時間なら、そしてその気になりさえすれば、更に関野さんの思想から学んで今を危機と捉える人が増えれば、その可能性はゼロではない。しかしそれすらも不可能に近い。関野吉晴が存在する意義はそこにあると思う。しかし関野さんのように人を全て水平な目線で見ることは簡単なことではない。刷り込まれた無意識の差別意識をなくすことは出来ない。ヒグマがそのDNAに人への恐怖を刷り込む以上に、人間は長い時間をかけて差別意識を刷り込んできた。そしてそれは簡単に消せない。さて知床に行かねばならない。それが私の目の前の仕事だ。中途半端な内容で大変申し訳ない。

新谷暁生