今年最後の知床も終わった。今回はペキンノ鼻の鳥居の補強と塗装、たまに私も使う浜田小屋の補修が目的だった。浜田さんは海でよく行き会う顔見知りの漁師だ。彼は5月の漁期になると気合を入れて金髪に染める。彼が管理する小さな釣り小屋もいつ壊れるかわからない。今回私は一人で大工道具を持って出かけた。北東の波に耐えられるよう廃材で補強し戸も直した。隣の石村番屋は4年前に土台が波にさらわれて傾き、今年の春に屋根が飛んで全壊した。石村さんが生きていればつぶれなかったのにと思う。亡くなってもう10年近くなる。鳥居のペンキ塗りも終わった。風で土台が緩んでいたので杭で補強した。この鳥居は10年ほど前、海岸から流木や廃材を担ぎ上げて作りなおしたものだ。
半島には昔多くの番屋があった。しかし今は殆どない。大規模な定置網の番屋も近年は使われなくなった。これは船の能力の向上にもよるが、魚が岸近くに寄らなくなったことも大きい。海水温の上昇でサケマスは陸寄りの浅場を避け沖の深場を回遊している。今ではブリが鮭に混じって定置網に多く入る。シイラやマグロも入る。マンボウやマンタまで最近は獲れると漁師は嘆く。市場はこれらの魚に値段の付けようがない。10月に入りサケの浜値はキロ1500円を超えた。9月は700円だった。私は越冬用にウトロの赤澤さんに魚を世話してもらっているが今年はさすがの彼もお手上げだ。だから無理を言って分けてもらった今年のサケは貴重だ。大事に使わなければならない。今回羅臼のまんさんはトキシャケの切り身とチカの干物を旅のお供にと持たせてくれた。
今年も知床では色々なことがあった。幌別川ではウトロの赤澤さんの努力で5年にわたって釣り人とヒグマとのトラブルが防がれてきた。しかし7月に入り斜里町など行政が釣りを禁止した。釣った魚を狙うクマが居ついて危険だというのが理由だ。釣り人の自主ルール、幌別川ルールは人とヒグマとの共存に配慮した優れたルールだ。毎朝3時前から河口に行く赤澤さんの努力で、多くの釣り人が安心して竿を振った。みんなルールを守るようになった。しかし行政は民間主導のためかルールに冷ややかだ。ルールに難癖をつけるごく少数の人々とともにこれが赤澤さんの今年の悩みだった。
国後島など北方領土の膠着状態は今も続いている。政権が変わるたびに大臣がここを訪れる。最近は河野太郎氏がここを訪れた。しかし何も進まない。尖閣や竹島は日本から見えない。北方領土はエトロフを除けばすぐそこに見える。残念ながら多くの日本人はその事実を知らない。そしてそれはロシア人も同じだ。竹島は韓国に実効支配され、尖閣も今や中国の覇権拡大を前に風前のともしびた。だからこそクナシリだけでも返してもらえないかと持ちかければ良いのにと思う。同じ覇権国家のロシアは中国の海洋進出をこころよくは思っていない。そこに領土交渉の鍵があるように思う。
世界に拡がるコロナ禍に私たちは何もできない。今年私は感染症専門医の助言と協力を得てツアー参加者が札幌でPCR検査を受ける仕組みを作った。私も検査を4回受けた。陰性が確認できれば陸の孤島のような知床の人たちが安心する。国がもっと簡単に検査を受けられる態勢を作れば良いのにと思う。そうすれば地方は安心する。コロナで問題なのは都会の医療崩壊ではない。地方の不安だ。これが地方を委縮させている。検査を受けたくても受けられない状況の中で情報だけが氾濫する。そして罹るまでは他人事だ。大勢が情報を得たことで安心し、錯覚して用心しない。そして感染が拡がる。だから罹った人を村八分にするようなことが起こる。GoToやマスクにあれほど金を使うならニューヨークのようなPCR検査を駅でも空港でも徹底的にすれば良いのにと思う。陰性なら更に用心しそれ以降罹らないよう注意する。陽性なら隔離して治療する。このほうが無駄な観光振興策よりよほどためになる経済対策と思うのだが。
台風崩れの強い南風の中、ペキンノ鼻に着いた私は小屋をベースに仕事に取りかかった。ペキンノ鼻はアイヌ語のペケレノではなくペレケノが正しいとする意見がある。意味は「裂けた岬」だと言う。ペキンノ鼻には先端近くに深く切れこむ鞍部があり、確かに裂けて見える。しかし松浦武四郎は知床日誌にここをペケレノと記している。ペケレノは「明るい岬」の意味だが、音がペキンノに近い。武四郎の時代、ここは実際にペケレノと呼ばれていたのかもしれない。それを青森の出稼ぎ漁師が東北弁でペキンノと呼んだと考えれば納得できる。ペレケノではペキンノとはならない気がする。鳥居は岬の草原に国後の古釜布村を向いて建っている。岬に陽が射せば、ここだけが遠くから明るく見える。ペケレノだ。この鳥居は戦後、島からの引揚者が望郷の思いを込めて建てたものなのだろうか。半島には私の知らない歴史が多くある。
昭和18年12月、ペキンノ鼻の沖で一隻の船が吹雪の中でエンジンが止まり遭難した。6人が上陸後に亡くなり、ただ一人船長だけが生きて帰還した。船長は人肉を食べて生き延びた。事件が明るみになった後、船長は死体損壊罪に問われて服役した。これは武田泰淳の小説「ひかりごけ」のテーマになった話だ。この事件は合田一道の「裂けた岬」「知床に今も吹く風」に船長のその後の人生を含めて記されている。厳冬の海難は死を意味する。そこから生還した人がいたのだ。陸にも生きる術はない。食べるものもなく水もない。雪だけだ。そんな中で船長は生きるために乗組員の肉を食べる。それを赦す人はいない。船長は全てを一人で背負いその後の人生を生きるしかなかったのだろう。
現在ペキンノ鼻に一体の観音像が祀られている。長い間私はこの像が何のためのものかわからなかった。今もわからない。ただ今回気付いたことがある。それは像の横にモルタルで固められ、まるで墓石のように立っている石だ。何故ここにあるのだろうか。私は一枚の写真を見た。それは昭和19年5月、流氷が去った後の現場検証時に撮影された写真だ。骨が納められたリンゴ箱の上に法華経の卒塔婆と石が写っている。観音像の横に立つ石はこの時の石ではないだろうか。像を建てたのは石村さんだとワクさんが教えてくれた。石村さんはすでに亡い。海洋アイヌの血を引く石村さんはこの辺境で様々なものを見てきたのだろう。私は生前石村さんと話した時のことを思い出す。寡黙で親切な人だった。石村さんは私の仕事の良き理解者だった。今は多くのものに合掌したい。
追記
PCR検査について書いたが抗原検査の方が実用的かもしれないという意見を矢島ドクターから頂いた。抗原検査キットの開発が進み短時間で結果がでること、費用も低く抑えられること、PCR検査の弱点である「過敏さ」つまり偽陽性の問題が抗原検査では必要な範囲の感度による現実的結果が得られること、これらが抗原検査の利点だそうだ。最新のキットではPCR検査のように検査センターに出さなくても約15分で、つまりその場で結果が出るとのことだ。
半島には昔多くの番屋があった。しかし今は殆どない。大規模な定置網の番屋も近年は使われなくなった。これは船の能力の向上にもよるが、魚が岸近くに寄らなくなったことも大きい。海水温の上昇でサケマスは陸寄りの浅場を避け沖の深場を回遊している。今ではブリが鮭に混じって定置網に多く入る。シイラやマグロも入る。マンボウやマンタまで最近は獲れると漁師は嘆く。市場はこれらの魚に値段の付けようがない。10月に入りサケの浜値はキロ1500円を超えた。9月は700円だった。私は越冬用にウトロの赤澤さんに魚を世話してもらっているが今年はさすがの彼もお手上げだ。だから無理を言って分けてもらった今年のサケは貴重だ。大事に使わなければならない。今回羅臼のまんさんはトキシャケの切り身とチカの干物を旅のお供にと持たせてくれた。
今年も知床では色々なことがあった。幌別川ではウトロの赤澤さんの努力で5年にわたって釣り人とヒグマとのトラブルが防がれてきた。しかし7月に入り斜里町など行政が釣りを禁止した。釣った魚を狙うクマが居ついて危険だというのが理由だ。釣り人の自主ルール、幌別川ルールは人とヒグマとの共存に配慮した優れたルールだ。毎朝3時前から河口に行く赤澤さんの努力で、多くの釣り人が安心して竿を振った。みんなルールを守るようになった。しかし行政は民間主導のためかルールに冷ややかだ。ルールに難癖をつけるごく少数の人々とともにこれが赤澤さんの今年の悩みだった。
国後島など北方領土の膠着状態は今も続いている。政権が変わるたびに大臣がここを訪れる。最近は河野太郎氏がここを訪れた。しかし何も進まない。尖閣や竹島は日本から見えない。北方領土はエトロフを除けばすぐそこに見える。残念ながら多くの日本人はその事実を知らない。そしてそれはロシア人も同じだ。竹島は韓国に実効支配され、尖閣も今や中国の覇権拡大を前に風前のともしびた。だからこそクナシリだけでも返してもらえないかと持ちかければ良いのにと思う。同じ覇権国家のロシアは中国の海洋進出をこころよくは思っていない。そこに領土交渉の鍵があるように思う。
世界に拡がるコロナ禍に私たちは何もできない。今年私は感染症専門医の助言と協力を得てツアー参加者が札幌でPCR検査を受ける仕組みを作った。私も検査を4回受けた。陰性が確認できれば陸の孤島のような知床の人たちが安心する。国がもっと簡単に検査を受けられる態勢を作れば良いのにと思う。そうすれば地方は安心する。コロナで問題なのは都会の医療崩壊ではない。地方の不安だ。これが地方を委縮させている。検査を受けたくても受けられない状況の中で情報だけが氾濫する。そして罹るまでは他人事だ。大勢が情報を得たことで安心し、錯覚して用心しない。そして感染が拡がる。だから罹った人を村八分にするようなことが起こる。GoToやマスクにあれほど金を使うならニューヨークのようなPCR検査を駅でも空港でも徹底的にすれば良いのにと思う。陰性なら更に用心しそれ以降罹らないよう注意する。陽性なら隔離して治療する。このほうが無駄な観光振興策よりよほどためになる経済対策と思うのだが。
台風崩れの強い南風の中、ペキンノ鼻に着いた私は小屋をベースに仕事に取りかかった。ペキンノ鼻はアイヌ語のペケレノではなくペレケノが正しいとする意見がある。意味は「裂けた岬」だと言う。ペキンノ鼻には先端近くに深く切れこむ鞍部があり、確かに裂けて見える。しかし松浦武四郎は知床日誌にここをペケレノと記している。ペケレノは「明るい岬」の意味だが、音がペキンノに近い。武四郎の時代、ここは実際にペケレノと呼ばれていたのかもしれない。それを青森の出稼ぎ漁師が東北弁でペキンノと呼んだと考えれば納得できる。ペレケノではペキンノとはならない気がする。鳥居は岬の草原に国後の古釜布村を向いて建っている。岬に陽が射せば、ここだけが遠くから明るく見える。ペケレノだ。この鳥居は戦後、島からの引揚者が望郷の思いを込めて建てたものなのだろうか。半島には私の知らない歴史が多くある。
昭和18年12月、ペキンノ鼻の沖で一隻の船が吹雪の中でエンジンが止まり遭難した。6人が上陸後に亡くなり、ただ一人船長だけが生きて帰還した。船長は人肉を食べて生き延びた。事件が明るみになった後、船長は死体損壊罪に問われて服役した。これは武田泰淳の小説「ひかりごけ」のテーマになった話だ。この事件は合田一道の「裂けた岬」「知床に今も吹く風」に船長のその後の人生を含めて記されている。厳冬の海難は死を意味する。そこから生還した人がいたのだ。陸にも生きる術はない。食べるものもなく水もない。雪だけだ。そんな中で船長は生きるために乗組員の肉を食べる。それを赦す人はいない。船長は全てを一人で背負いその後の人生を生きるしかなかったのだろう。
現在ペキンノ鼻に一体の観音像が祀られている。長い間私はこの像が何のためのものかわからなかった。今もわからない。ただ今回気付いたことがある。それは像の横にモルタルで固められ、まるで墓石のように立っている石だ。何故ここにあるのだろうか。私は一枚の写真を見た。それは昭和19年5月、流氷が去った後の現場検証時に撮影された写真だ。骨が納められたリンゴ箱の上に法華経の卒塔婆と石が写っている。観音像の横に立つ石はこの時の石ではないだろうか。像を建てたのは石村さんだとワクさんが教えてくれた。石村さんはすでに亡い。海洋アイヌの血を引く石村さんはこの辺境で様々なものを見てきたのだろう。私は生前石村さんと話した時のことを思い出す。寡黙で親切な人だった。石村さんは私の仕事の良き理解者だった。今は多くのものに合掌したい。
追記
PCR検査について書いたが抗原検査の方が実用的かもしれないという意見を矢島ドクターから頂いた。抗原検査キットの開発が進み短時間で結果がでること、費用も低く抑えられること、PCR検査の弱点である「過敏さ」つまり偽陽性の問題が抗原検査では必要な範囲の感度による現実的結果が得られること、これらが抗原検査の利点だそうだ。最新のキットではPCR検査のように検査センターに出さなくても約15分で、つまりその場で結果が出るとのことだ。
新谷暁生