今年の知床エクスペディションも終わった。体力的不安が常に頭の中にある一年だった。そんな中で大勢を無事に案内することが出来た。すべてに感謝したい。私はもともとそう強くはなかった。山を登っていた時代、右手が不自由だったので岩登りが苦手だった。また神経が切れているので凍傷にもなりやすかった。しかし登り続けた。そんな私が海のガイドを続けてきた。私は山の経験で海を漕いだ。どちらも同じ冒険のフィールドだ。そしてどちらもやるに値することだった。
強かった時代を思い出す。厳冬の日高、カムエク南西稜や西川尾根の果てしないラッセル、真冬の十勝岳からトムラウシ山を経てイグルーを作りながら黒岳まで16日間かけて歩いたこと。そしてチャムランやラカポシ、バツーラなどヒマラヤの思い出。ホーン岬やアリューシャンにも行った。平和だったからこそこんなことをする自由があった。ありがたいことだ。
最近、国後島から知床半島まで泳いできたロシア人がいると言う。20時間以上泳ぎ続けたそうだ。亡命を望む彼は現在、札幌の出入国管理事務所に収容されている。願いがかなうよう祈っている。以前もゴムボートを漕いで知床にビールを買いに来たロシア人がいた。羅臼の漁師は親切にビールを買い与えて再び海に送り出した。しかし保安庁に見つかり中間ラインでロシアの監視船に引き渡された。国境の海では色々なことが起こる。若い漁師がジンギスカン鍋をしに国後島に上陸し、ロシア兵に撃たれたこともあった。
知床と国後の間は30キロもない。晴れれば海岸の崖が手にとるように見える。この距離感は実際に見ないとわからない。そしてそれは日本人だけでなくロシア人も同じだ。知床はすぐ眼の前にある。瀬戸内海のように目の前に国後はある。だからビールを求めて漕ぎ、亡命しようとして泳ぐ。間違って国後まで漕ぐカヤッカーも出る。この海峡に自由は来るのだろうか。戦後75年、知床の人々は拿捕や流氷の危険に怯えながらこの海で漁を続けている。
鈴木宗男という代議士がいた。彼は北方領土の海の安全操業に力を尽くし、地元でも対岸の島でも「宗男ちゃん」と呼ばれて愛された。鈴木の優れたところは日本だけではなくロシア人にも力を貸したことだ。鈴木の時代、海は安全だった。官民ともに日ロ間の交流が盛んだった。彼が失脚しなければ日本とロシアの諸問題とその交渉は、今とは違ったものになっていたかもしれない。少なくとも今日の日本の政治家にはないロシア人からの「個人的な信用」が鈴木宗男にはあった。
鈴木宗男失脚のきっかけは彼が関わった国有林の「不法」伐採事件だ。そしてそのきっかけを作ったのは自然保護を掲げる環境活動家だ。しかしその後の30年を見るとこの事件が日ロの外交だけではなく、特に国内の観光や環境問題に新たな外来の力が強まるきっかけになったことは否定できない。鈴木宗男と佐藤優はこの時代、国と官僚、そしてメディアによって粛清された。そしてこれが弱者を見ない今日の日本の政策につながって行った。
現場の人間は無知と見做される。ローカリズムもアウトドアもそこに身を置かない人が考えだした言葉だ。そのような人たちにとって「ローカルな人たち」の意見は利用され軽んじられる。しかし時間をかけて身に着けた借り物ではない知恵と直感が「ローカル」にはある。知床の人たちが鈴木宗男を支持した理由はこの現実的感覚からだ。無知は罪だ。しかし経験を積むことでそれは埋められる。そうして得たものはメディアやネットから得た知識とは違う。知恵は生きる上での必須要件なのだ。経験さえ役に立たないことを知れば、人は謙虚にならざるを得ない。私たちは借り物ではない知識と自らの意見を持つべきなのだ。
知床を漕いでいると色々考える。ヒグマは1990年の北海道の春熊駆除事業の中止で2010年頃から一気に増えた。そして強い個体の獲物の独占で子連れや弱いクマが市街地に現れるようになった。しかし近年、サケマスの遡上減少で海岸に現れるクマは減り始めている。増え過ぎたクマを自然が黙って調整しているように見える。自然とは人間の概念だが、自然の摂理は人の知恵をはるかに越えているように思う。
1990年以前には海岸に現れるクマが今ほど多くはなかった。昔ながらの伝統的狩猟が続いていたからだ。春熊駆除が自然界のバランスを保っていたとも言える。間引きが野生を守っていたのだ。私は市街地に迷い込む個体は情けをかけずに駆除すべきと思う。殺さず奥地放獣しても必ず他の場所で問題を起こす。一昨年から今年にかけて羅臼の犬を狙ったクマはそんな個体だと思う。クマもヒトも過信すれはどちらも命を落とす。
昔ヒマラヤを一緒に歩いた友人は、ネパール奥地のライ族の猟師に出会って考えが変わったと言う。彼は知床に長く住み農業や民宿業の傍ら狩猟をしている。ちなみに宿の名は万月堂と言う。1985年に東ネパールのグーデルという村でライ族の猟師に出会ってから、狩猟とはそもそも生活の手段であり欧米のゲームハンティングとは違うということに気付いたのだろう。その猟師は自らを「シカリ」だと名乗った。ちなみにシカリという言葉はマタギも使う。この言葉は有史以前からアジアの森に生きた人たちに共通する言葉なのだろう。私は植物学者、中尾佐助がその著書で著した「照葉樹林文化」の指標として、シカリという言葉とそれを使う人々の焚火法に目を向ける。ヒマラヤ山麓のアルン川流域から日本列島東北の秋田山形まで、大昔は同じ人たちが暮らしていたのかもしれない。友人は今も護衛やガイドとして山に入る。しかし銃を持たない。そして肉を食べたくなった時、畑に現れたシカを至近距離から撃つ。
盆を過ぎて海は変わった。北寄りの風が強まり半島の両側で時化が続く。海はベタ凪と強風を繰り返す。私は風が吹かないことを願い祈るように漕ぎ続けた。ガイドの仕事は忙しい。上陸すればすぐに火を焚き沢から水を汲んで湯を沸かす。そして料理の下準備を始める。また生水を飲んではならないことを伝える。雨が降っても木が濡れていても火を燃やす。風が強い時は炎とナベ底との距離を考える。かまどは風に平行に低く組む。かまどは木で作る。石でかまどを作ってはならない。燃えないからだ。飯は多めに作る。味は二の次だ。ただし塩加減には注意しなければならない。また食べ物の均等配分にこだわってはならない。度が過ぎれば1912年の英国南極探検隊の二の舞になる。スコットは軍隊式の平等にこだわるあまり、食欲旺盛な若い隊員に必要量を与えなかった。それがあの悲劇のきっかけになった。私は参加者が空腹を感じないよう、飢餓感を持たせないよう料理を作る。その殆どが無国籍料理だが最近は南アジアがブームだ。
私は知床でゴロタ石の浜に建てた雨漏りのするタープの下で寝ている。もちろん食糧も一緒だ。クマが来るのではとよく聞かれる。しかし知床のヒグマは個体にもよるが人と食べ物の関係を知らない。だから食べ物目当てに人を襲うことはない。ベアープルーフの考えや開発されたフードコンテナなどの道具は、クマの餌付けで収拾がつかなくなったアメリカの国立公園で考えられた方法だ。クマは一度味を覚えるとそれに執着する。普段彼らは殆ど植物性のものを食べる。だから糞はウシと似ている。時期によっては遡上するサケマスやクジラやトドなど海獣の死肉を食べる。生き物を捕殺することはあまりないが、15年ほど前から生きたシカを襲うようになった。また10年前にはある個体がカモメのコロニーで卵とヒナを食い尽くしてしまったこともある。その結果カモメが減りウミウが増えた。ウの巣はクマが登攀困難な岩壁にあるため被害を免れた。
コディアック島に近いアリューシャン列島ウニマック島のヒグマはいわゆるグリズリーだ。私たちが出会ったそのクマは海に潜ってサケを追っていた。しかし声をかけると慌てて背後の山に逃げた。500キロを超える巨体だったが明らかに人を恐れていた。この島のクマは警戒心が強い。それは長い狩猟の歴史と現代のゲームハンティングのせいなのだろう。キツネはこの島でもたちが悪い。石を投げて追い払ったらカヤックの布製の腹に穴をあけられた。彼らはすぐに盗む。靴や干しているパンツまでくわえて逃げる。いずれにせよ食べ物や残飯が動物を近づける。野生動物は豹変する。動物の気持ちがわかると勘違いすると、それがチンパンジーであっても指を食いちぎられる。ヒグマは本来大人しい動物だが猛獣だ。だからクマスプレーは持ったほうが良い。使い方を間違えなければ銃より役に立つ。香港でこれを市民に使う映像を見た。銃を使わなければ良いというものではない。動物も人も出来ればこんな恐ろしいものを使われたくはないのだ。
ヒトや動物が本来求める自由という価値観が失われようとしている。私たちは自分の殻に閉じこもらず、周りで起きていることに関心を持つべきだと思う。この国には中村哲のような人が生まれる土壌がある一方で石原莞爾のような人も生まれる。思想信条はともかく、いつか智慧を求める人が多数を占める世界に変わってほしいものだと思う。観念的感傷的になりすぎた。とりあえず自分の悪行を胸に手を当てて考えてみる。一生は短い。来年も漕げるだろうか。
強かった時代を思い出す。厳冬の日高、カムエク南西稜や西川尾根の果てしないラッセル、真冬の十勝岳からトムラウシ山を経てイグルーを作りながら黒岳まで16日間かけて歩いたこと。そしてチャムランやラカポシ、バツーラなどヒマラヤの思い出。ホーン岬やアリューシャンにも行った。平和だったからこそこんなことをする自由があった。ありがたいことだ。
最近、国後島から知床半島まで泳いできたロシア人がいると言う。20時間以上泳ぎ続けたそうだ。亡命を望む彼は現在、札幌の出入国管理事務所に収容されている。願いがかなうよう祈っている。以前もゴムボートを漕いで知床にビールを買いに来たロシア人がいた。羅臼の漁師は親切にビールを買い与えて再び海に送り出した。しかし保安庁に見つかり中間ラインでロシアの監視船に引き渡された。国境の海では色々なことが起こる。若い漁師がジンギスカン鍋をしに国後島に上陸し、ロシア兵に撃たれたこともあった。
知床と国後の間は30キロもない。晴れれば海岸の崖が手にとるように見える。この距離感は実際に見ないとわからない。そしてそれは日本人だけでなくロシア人も同じだ。知床はすぐ眼の前にある。瀬戸内海のように目の前に国後はある。だからビールを求めて漕ぎ、亡命しようとして泳ぐ。間違って国後まで漕ぐカヤッカーも出る。この海峡に自由は来るのだろうか。戦後75年、知床の人々は拿捕や流氷の危険に怯えながらこの海で漁を続けている。
鈴木宗男という代議士がいた。彼は北方領土の海の安全操業に力を尽くし、地元でも対岸の島でも「宗男ちゃん」と呼ばれて愛された。鈴木の優れたところは日本だけではなくロシア人にも力を貸したことだ。鈴木の時代、海は安全だった。官民ともに日ロ間の交流が盛んだった。彼が失脚しなければ日本とロシアの諸問題とその交渉は、今とは違ったものになっていたかもしれない。少なくとも今日の日本の政治家にはないロシア人からの「個人的な信用」が鈴木宗男にはあった。
鈴木宗男失脚のきっかけは彼が関わった国有林の「不法」伐採事件だ。そしてそのきっかけを作ったのは自然保護を掲げる環境活動家だ。しかしその後の30年を見るとこの事件が日ロの外交だけではなく、特に国内の観光や環境問題に新たな外来の力が強まるきっかけになったことは否定できない。鈴木宗男と佐藤優はこの時代、国と官僚、そしてメディアによって粛清された。そしてこれが弱者を見ない今日の日本の政策につながって行った。
現場の人間は無知と見做される。ローカリズムもアウトドアもそこに身を置かない人が考えだした言葉だ。そのような人たちにとって「ローカルな人たち」の意見は利用され軽んじられる。しかし時間をかけて身に着けた借り物ではない知恵と直感が「ローカル」にはある。知床の人たちが鈴木宗男を支持した理由はこの現実的感覚からだ。無知は罪だ。しかし経験を積むことでそれは埋められる。そうして得たものはメディアやネットから得た知識とは違う。知恵は生きる上での必須要件なのだ。経験さえ役に立たないことを知れば、人は謙虚にならざるを得ない。私たちは借り物ではない知識と自らの意見を持つべきなのだ。
知床を漕いでいると色々考える。ヒグマは1990年の北海道の春熊駆除事業の中止で2010年頃から一気に増えた。そして強い個体の獲物の独占で子連れや弱いクマが市街地に現れるようになった。しかし近年、サケマスの遡上減少で海岸に現れるクマは減り始めている。増え過ぎたクマを自然が黙って調整しているように見える。自然とは人間の概念だが、自然の摂理は人の知恵をはるかに越えているように思う。
1990年以前には海岸に現れるクマが今ほど多くはなかった。昔ながらの伝統的狩猟が続いていたからだ。春熊駆除が自然界のバランスを保っていたとも言える。間引きが野生を守っていたのだ。私は市街地に迷い込む個体は情けをかけずに駆除すべきと思う。殺さず奥地放獣しても必ず他の場所で問題を起こす。一昨年から今年にかけて羅臼の犬を狙ったクマはそんな個体だと思う。クマもヒトも過信すれはどちらも命を落とす。
昔ヒマラヤを一緒に歩いた友人は、ネパール奥地のライ族の猟師に出会って考えが変わったと言う。彼は知床に長く住み農業や民宿業の傍ら狩猟をしている。ちなみに宿の名は万月堂と言う。1985年に東ネパールのグーデルという村でライ族の猟師に出会ってから、狩猟とはそもそも生活の手段であり欧米のゲームハンティングとは違うということに気付いたのだろう。その猟師は自らを「シカリ」だと名乗った。ちなみにシカリという言葉はマタギも使う。この言葉は有史以前からアジアの森に生きた人たちに共通する言葉なのだろう。私は植物学者、中尾佐助がその著書で著した「照葉樹林文化」の指標として、シカリという言葉とそれを使う人々の焚火法に目を向ける。ヒマラヤ山麓のアルン川流域から日本列島東北の秋田山形まで、大昔は同じ人たちが暮らしていたのかもしれない。友人は今も護衛やガイドとして山に入る。しかし銃を持たない。そして肉を食べたくなった時、畑に現れたシカを至近距離から撃つ。
盆を過ぎて海は変わった。北寄りの風が強まり半島の両側で時化が続く。海はベタ凪と強風を繰り返す。私は風が吹かないことを願い祈るように漕ぎ続けた。ガイドの仕事は忙しい。上陸すればすぐに火を焚き沢から水を汲んで湯を沸かす。そして料理の下準備を始める。また生水を飲んではならないことを伝える。雨が降っても木が濡れていても火を燃やす。風が強い時は炎とナベ底との距離を考える。かまどは風に平行に低く組む。かまどは木で作る。石でかまどを作ってはならない。燃えないからだ。飯は多めに作る。味は二の次だ。ただし塩加減には注意しなければならない。また食べ物の均等配分にこだわってはならない。度が過ぎれば1912年の英国南極探検隊の二の舞になる。スコットは軍隊式の平等にこだわるあまり、食欲旺盛な若い隊員に必要量を与えなかった。それがあの悲劇のきっかけになった。私は参加者が空腹を感じないよう、飢餓感を持たせないよう料理を作る。その殆どが無国籍料理だが最近は南アジアがブームだ。
私は知床でゴロタ石の浜に建てた雨漏りのするタープの下で寝ている。もちろん食糧も一緒だ。クマが来るのではとよく聞かれる。しかし知床のヒグマは個体にもよるが人と食べ物の関係を知らない。だから食べ物目当てに人を襲うことはない。ベアープルーフの考えや開発されたフードコンテナなどの道具は、クマの餌付けで収拾がつかなくなったアメリカの国立公園で考えられた方法だ。クマは一度味を覚えるとそれに執着する。普段彼らは殆ど植物性のものを食べる。だから糞はウシと似ている。時期によっては遡上するサケマスやクジラやトドなど海獣の死肉を食べる。生き物を捕殺することはあまりないが、15年ほど前から生きたシカを襲うようになった。また10年前にはある個体がカモメのコロニーで卵とヒナを食い尽くしてしまったこともある。その結果カモメが減りウミウが増えた。ウの巣はクマが登攀困難な岩壁にあるため被害を免れた。
コディアック島に近いアリューシャン列島ウニマック島のヒグマはいわゆるグリズリーだ。私たちが出会ったそのクマは海に潜ってサケを追っていた。しかし声をかけると慌てて背後の山に逃げた。500キロを超える巨体だったが明らかに人を恐れていた。この島のクマは警戒心が強い。それは長い狩猟の歴史と現代のゲームハンティングのせいなのだろう。キツネはこの島でもたちが悪い。石を投げて追い払ったらカヤックの布製の腹に穴をあけられた。彼らはすぐに盗む。靴や干しているパンツまでくわえて逃げる。いずれにせよ食べ物や残飯が動物を近づける。野生動物は豹変する。動物の気持ちがわかると勘違いすると、それがチンパンジーであっても指を食いちぎられる。ヒグマは本来大人しい動物だが猛獣だ。だからクマスプレーは持ったほうが良い。使い方を間違えなければ銃より役に立つ。香港でこれを市民に使う映像を見た。銃を使わなければ良いというものではない。動物も人も出来ればこんな恐ろしいものを使われたくはないのだ。
ヒトや動物が本来求める自由という価値観が失われようとしている。私たちは自分の殻に閉じこもらず、周りで起きていることに関心を持つべきだと思う。この国には中村哲のような人が生まれる土壌がある一方で石原莞爾のような人も生まれる。思想信条はともかく、いつか智慧を求める人が多数を占める世界に変わってほしいものだと思う。観念的感傷的になりすぎた。とりあえず自分の悪行を胸に手を当てて考えてみる。一生は短い。来年も漕げるだろうか。
新谷暁生