知床エクスペディション

これは知床の海をカヤックで漕ぐ「知床エクスペディション」の日程など詳細を載せるブログです。ガイドは新谷暁生です。

知床日誌③

2020-05-31 20:31:38 | 日記

知床日誌③
 
ペキンノ鼻は半島羅臼側の先端に近い岬だ。ここには昔から小さな鳥居が立っている。鳥居は伊勢神宮ではなく対岸の国後島を向いて立っている。きっと千島からの引揚者が望郷の念をこめて建てたものなのだろう。
鳥居は風雪に晒されて腐り、土に還ろうとしていた。私は上陸するたびに倒れた鳥居を起こしていたが、ある時一念発起して再建することにした。それで大工道具を持って当時一緒に漕いでいた油小路とアイドマリを漕ぎ出しペキンノ鼻を目指した。10月で海は荒れていた。それから3日間、私たちは海岸の廃屋番屋の柱や流木を担ぎ上げて新しい鳥居を立てた。その時太すぎて使えなかった材料が、今でも岬の乗越し近くに転がっている。
 
以前の鳥居が倒壊した理由はコンクリートの中に柱を差し込んだためだ。木はコンクリの中で腐る。穴を掘って柱を立て、掘立にしたほうが木の寿命は続く。それで古い鳥居の後に穴を掘って柱を立て、担ぎ上げた木をノミノコゲンノウで細工して鳥居を組み上げた。水平器は水平線、鉛直はそれぞれの下げ振り。鳥居は完成した。そして色を塗った。色は環境省に忖度して目立たぬよう茶色くした。国立公園特別保護区の中だからだ。
 
しばらく経って漁師の間に噂が広まった。ペキンの鳥居が無くなったと言う話だ。漁師は鳥居を目印に海に出ていたという。そしてせっかくだから目立つ色に塗り替えてくれと言う。環境省は宗教ものは管轄外だから勝手にやってくれというので塗り替えることにした。朱色だ。それから私は毎年ペンキとハケを持って岬に上がり、もともとの氏子に変わって鳥居を守っている。
 
知床には人の生活がある。そして漁師の理解がなければこの海は漕げない。毎年出会う若い船頭が、「本当は俺たちがしなければならないのにすまない」とある時私に言った。その漁師は春になると気合を入れて短髪を金色に染める。彼らはいつも危なっかしいカヤックで海を行く私たちを心配げに見ている。30年漕いでも彼らにとってカヤッカーは部外者だ。しかし私は彼らに敬意を払いこの海を漕いでいる。知床の海には長い人間の歴史がある。
 
ガイド新谷暁生

知床日誌②

2020-05-30 18:03:37 | 日記

知床日誌②
 
火はその気にさせないと燃えない。雨の中で火を燃やす時、木を井桁に組むと空気が入りすぎて熱が逃げる。だから燃えない。
火を燃やすには熱を閉じ込め、空気の道を作らなければならない。乾燥した土地では木も乾いているのでそう苦労はないが、湿った土地では油でもかけない限り燃えない。
そもそも火を燃やす理由は飯を炊くためだ。キャンブファイヤーで米は焚けない。それは宴会の火だ。
 
私は許可された土地ならどこでも火を焚いてきた。ホーン岬でもアリューシャンでもカナダでも火を焚いた。アメリカはガイドやレンジャーが焚火を嫌うので燃やさない。
 
木なら生木でも腐っていても必ず燃える。しかし石は燃えない。だからかまどを石で築くのは賢くない。かまども木で作る。平行に二本の木を置き、熱を閉じ込めて流れを作り、対流を起こせば豪雨の中でも火は焚ける。
私の家には30年ものの割れて壊れかかった鋳物ストーブがある。生木や雪まみれの木はストーブには悪いが、私は毎朝いろいろな木でストーブに火をつける。安心するし、なにより私は寒がりだ。
 
火は繊細で危険なものだ。だから焚火には責任が伴う。私は鍋の中を想像しながら火を燃やす。私にカヤックの技術はないが豪雨の中、アルミの薄い鍋で米を焚く技術はある。
何年か前、台風の直撃で100mm/h、50m/sの風が吹く嵐の中、米を焚き麻婆豆腐を作ったことがある。
 
ビル火災は階段や吹き抜けを火が走ることで起こる。トレンチ効果というそうだ。バックドラフトという言葉もある。熱が発火点に達し、そこに空気が入ることで火は爆発的に燃える。
現代人はあまりにも火に無知だ。自分の行為の結果が想像できないのはそもそも罪だ。無知が罪なのだ。しかし社会全体がそうならその責任はどこにあるのだろうか。
今やそれを論ずること自体が無意味なのだろう。ともかく火は危険なものだ。私は京都の悲惨な事件を考える。断っておくが私も無知だ。しかし用心することは知っている。それでも足りないのだ。

知床日誌①

2020-05-28 19:49:13 | 日記

5月から6月断崖にいるケイマフリ

知床日誌①
松浦武四郎はかってアイヌと半島を周り、詳細な地図を残している。その地名は現在でも通用する。当時は半島先端にアイヌの小集落があったという。
私たちが知っている文吉湾や恵吉湾などの地名は、和人に日本名を持たされた人たちの名前なのだろう。
知床が開拓されなかった理由は、そこが和人にとって役に立たない土地だったからだ。過酷な環境は和人の侵入を制限した。だから道も出来なかった。
羅臼の先のアイドマリまで道がひらかれたのは戦後しばらくしてからのことだ。それまで道はチエンベツまでにしか通じていなかった。
知円別は小説「ひかりごけ」の舞台となった村だ。主人公の青山船長は死んだ仲間の肉を食べて生き、流氷伝いに生還した。
 
知床は昔となにも変わっていない。海も山も変わらずに人を拒む。戦後長く知床は漁業で栄えてきた。千島からの引揚者や東北の漁師がそれを支えた。
根室海峡をはさんで30キロ先には国後島が長く連なる。しかしもうそこは日本ではない。そんな国境の海で私たちはカヤックを漕いでいる。
知床の海を漕ぐと色々なことを考える。私にカヤックの技術はないが、今更そんなことはどうでも良い。私は知床でかって情熱を傾けたヒマラヤを想い、アラカルフやアリュートの辿った道のことを考える。誰もが精一杯生きたのだろうと思う。手抜きすれば命を失くすのは今も昔も変わらない。
 
誰かの役にたつとは思えないが、何かのヒントにはなるかもしれない。
 
ガイド新谷暁生