知床エクスペディション

これは知床の海をカヤックで漕ぐ「知床エクスペディション」の日程など詳細を載せるブログです。ガイドは新谷暁生です。

知床日誌44

2023-09-06 15:24:10 | 日記
三浦雄一郎さんの富士登山に同行した。90歳の三浦先生は頸椎硬膜外血種破裂で体が不自由だ。しかし気持ちは変わらずに強い。今回は先生の乗る車椅子を弟子たちが曳き、頂上を目指すという計画だった。大勢の登山家やプロスキーヤーなど、三浦先生に縁のある人たちが集まった。自信はなかったが私も参加した。私は1970年のエベレスト滑降時にカトマンズのトリビュバーン空港に先生を出迎えて以来、先生とお付き合いがある。同じ飛行機でネパール国王の戴冠式のために日本から常陸宮ご夫妻が見えた。私たち在留日本人は旗を振って一行をお迎えした。当時私は東京農大の農業実習生だった。
三浦雄一郎はイタリヤのキロメータランセで172キロの世界記録を樹立し、その後、富士山を直滑降するなど、当時すでに過激な冒険スキーの先駆者として知られていた。次はエベレスト、サウスコルからの滑降だ。この型破りな人間に冒険好きな欧米の評価は高かった。計画は成功した。三浦は転倒したが生還した。そして異論はあるだろうがそれが今に続く日本のアウトドアブームのきっかけにもなった。
日本人の底流には縄文の昔から続く自然崇拝の血が流れている。その血が宗教登山を生み、修験者や、更には海賊と呼ばれる海に生きる人たちを生んだ。三浦雄一郎はそのような原日本人の末裔なのだろう。もちろんそれに対する反発もある。70年前、三浦さんは当時のスキー連盟から破門された。権威を重んじ組織を優先する弥生人の末裔が力を持つ日本社会で、それは当然だっただろう。出る杭は打たれる。しかし三浦雄一郎は知恵とユーモア、そして行動でそれを乗り越え、その後も冒険の領域を広げていった。今回集まった人たちは皆それを知っている。私たちは真面目な顔で突然、思いがけない冗談を言う三浦雄一郎に惹きつけられた。だから尊敬と敬愛の思いからみんなが三浦先生と呼ぶ。三浦雄一郎は私たちのユーモアの先生なのだ。
それにしても怠け者の私に今回の富士登山は過酷だった。下山してから太ももの筋肉が悲鳴をあげ、歩くのもままならない。私は手稲山の藪漕ぎで両足がつった遠い昔を思い出した。中学2年のころだった。根曲がり笹の藪で用足しでしゃがんだ途端に両足がつり七転八倒した。翌日は這って学校に行った。そして先生に説教された。それでも私は憑りつかれたように毎週山に向かった。それ以上に楽しいことがなかったからだ。富士の雲海はそのころに空沼岳山頂で見た光景を思い出させた。そして大海原のような雲海に浮かぶ恵庭岳の光景が、その後の私の生き方を方向づけたことに気づいた。
高校に入り山で大けがをして死にかけた。誤って右手首を鉈で切ってしまったのだ。定山渓天狗岳岩魚沢でのことだった。沢を駆け下りて林道に出た私は偶然通りかかった造材トラックの運転手さんに助けられた。運転手さんは私を病院まで運んでくれた。私は3か月入院したがそれ以来、右手が不自由だ。静脈とともに尺骨神経という太い神経と指3本の腱を切った手は、今も感覚がなく動かない。しかしその後も山に登り続けた。この時の名前も知らない運転手さんと、カラコルムの砂漠で死にかけている私にリンゴをくれた女の子は私の命の恩人だ。バツーラ2峰登山隊に参加した私は高山病で隊を離れ、灼熱のオールドフンザロードをひとりギルギットに向かっていた。衰弱した私はやがて歩けなくなった。そしてとあるオアシスのアンズの木の根元に横たわった。遠巻きに見ていた人たちは私の死を確信していた。はるか眼下にインダスの激流が見える。息が絶えたらそこに投げ落とされるのだろう。そんなことを考えていた。その時一人の女の子が恐る恐る近寄り、しなびたリンゴをくれた。私はそれをなめるように食べ続けた。蟻が体をはい回っていた。やがて朝になった。私は生きていた。今も鮮明に思い出す。あの子はきっと観世音菩薩の化身だったに違いない。
人は一人で生きているのではない。まわりに生かされている。80歳というエベレストの世界最高齢登頂の後、カトマンズで記者会見した時の三浦先生を思い出す。先生は会見の中でシェルパのおかげで無事に登頂できたという言葉を3度繰り返した。隊員もシェルパたちもそれを聞いて感動した。今回の登山ではみんなが先生を支え、その夢を叶えようとした。私たちは三浦雄一郎の生き様に励まされた。今度は私たちが励ます番だ。今回の富士登山の素晴らしさはそこにある。
利用が制限されているブル道を使うことへの批判もある。しかし道路管理者もブルドーザのオペレータもそれを許し、温かく見守ってくれている。そして山小屋の人たちも大勢の登山者も三浦雄一郎を応援してくれた。現場はみんなわかってくれていた。
貫田宗男さんは山頂の砂塵嵐の中で次のように話した。「どんな登り方があっても良い。今まで三浦さんが果たしてきた役割を知っていれば、狭量な原理主義で登山を語るのは愚かなことだ。もちろんそれも自由だが。」
貫田さんは経験豊富な登山家だ。エベレストには2度登っている。そしてたくさんの人々に登山の素晴らしさを伝え続けている。登山は一部の人たちだけのものではない。そしてどんな登り方があっても良い。それが貫田宗男の信条なのだろう。私はそこに貫田さんの強い意思と優しさを感じる。自然は時に人の命を奪う。それでも山は素晴らしい。人々にそれを伝えるのが貫田さんの役割なのだろう。
それにしても30年以上山から離れていた私にとっての富士山は厳しかった。昔を思い出しながら水を飲み、ゆっくりと歩いた。考えてみれば最後に登山したのは1992年のラカポシ遠征だ。それ以来山には登っていない。90年代に入り私は海のカヤックを始めた。海は私に合っていた。まず空気が濃い。それに荷物を担がずにすむ。私は登山に疲れていた。それから30年、私はホーン岬やアリューシャンへと遠征を繰り返した。そして知床の海を漕ぎ続けた。私は山の経験で海を漕いだ。過信は時に命に関わる。用心だけが身を守る。海もまた山と同様に地道な修練が求められるところだ。どちらもそれを求める者にはやるに値する冒険のフィールドなのだ。
私は怪我が多い。左足の捻挫は慢性化して常に痛い。アキレス腱も切り半月板の手術もした。その時の麻酔の後遺症が今も尻に残っている。馬尾神経が麻痺しているのだ。腰のヘルニヤは使っているうちにすり減ったのかあまり痛まなくなった。しかし左足は今もしびれている。15年前に今度は左手指の腱を3本切った。小指は直角に曲がったままで癒着した。そのため顔を洗えない。鼻の穴に指が入ってしまう。しかしそれでも海は漕げる。失われた機能を他が補う。体はうまく出来ているものだ。残念なことに今はもう楽器が弾けない。パキスタンのフンザや南米チリのプンタアレナスで流しをしていた時のことを思い出す。私は遠征時の小遣いを下手なバイオリンで稼いでいた。
三浦先生の障害は私よりはるかに重篤だ。脊髄の機能不全は運動機能を大きく損ねる。しかし先生は不可能を可能へと変えようとしている。傍で見ていると運動範囲が明らかに広がっているのがわかる。強い意思がそうさせているのだ。もちろんとてもつらいことだと思う。歯がゆいと思う。しかし失われた機能は使い続けることでやがて他が代替する。私はそう信じて不自由な体を使い続けてきた。先生にそれができないはずがない。
下山したあとで三浦雄一郎は99歳でのモンブラン、バレ・ブランシュの滑走を宣言した。みんな驚いた。そして喜んだ。私は可能と思う。大事なのは夢を持ち続けることだ。私たちは先生が再び山に向かう日が来ることを祈っている。無理をすることはない。わずかであっても少しずつ可能性を拡げて行けば良い。
それにしても三浦雄一郎は強かった。空しか見えない単調な登りと砂塵嵐の下降は楽ではなかったはずだ。私の足は悲鳴をあげたが、先生も背中と尻が痛かったに違いない。忘れないうちにこの日誌を書いている。また日常が始まる。私も先生を見習って怠けずに努力しようと思う。それにしても体が痛い。わたしの参加を許してくれた三浦家の皆さんと大勢の人たちに感謝する。素晴らしいチームだった。