知床エクスペディション

これは知床の海をカヤックで漕ぐ「知床エクスペディション」の日程など詳細を載せるブログです。ガイドは新谷暁生です。

知床エクスペディションのコロナ対策

2021-08-02 20:50:21 | 日記
知床EXPではコロナ感染症に配慮していますが万全ではありません。外部からの感染とその拡大を恐れる知床の人たちのためにコロナ対策にご協力ください。空港到着後、抗原検査を行います。抗原検査はPCR検査と比較して確実性が劣ります。しかし発熱などの症状がなく検査で陰性であれば他への感染リスクを抑えられます。私たちにできる対策は限られています。コロナに罹らぬよう注意すること、出発前の抗原検査は市街地でのマスク着用とともにそのひとつです。

出発までの健康管理に留意してください。人ごみの狭い空間に長時間とどまることを避けてください。手指の消毒とうがいを行ってください。
現在の感染爆発は「私たちのような」人の移動による感染拡大とウィルス株の変異、そして季節性要因が関わっています。
家庭内感染に注意してください。発熱などの症状があれば必ず受診してください。またコロナが疑われるようであれば知床への参加をとりやめてください。

ワクチンの効果は限定的です。重症化は防げますが感染の可能性は残ります。コロナがリスクに加わったことで知床エクスペディションは新たな局面を迎えています。私は状況に合わせた積極的な対応をしようと思います。それがこの状況下で知床の海を漕ぐ者の責任です。

ガイド 新谷暁生

(この稿は感染症専門医 矢島知巳博士の助言に基づくものです)

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知床日誌㉚

2021-08-01 16:38:05 | 日記

チャムラン(7319m)遠征
西稜から望むローツェ・エベレスト山群と隊員たち、中央青ヘルが中村。1986年10月

追悼 中村孝君

中村孝が亡くなった。残念で悲しい。ここに中村君の記憶を思い出すまま書き冥福を祈りたい。彼は1986年のチャムラン遠征に参加し、その後1992年のラカポシ遠征では副隊長を務めた。
40年前のあの時代、私たちはヒマラヤの高峰登山に憧れていた。それを目標に北海道の冬山を登った。そして夢を語っていた。アウトドアという言葉がなかったこの時代、山だけが私たちにとってやるに値することに思えた。チャムラン遠征には多くの隊員が仕事を辞めて参加した。中村もそんな一人だった。酸素を使う8000m峰登山は組織力も金もかかる。登山許可の取得には先ず地方と全国の山岳連盟の推薦状が必要だ。大変面倒だった。私たちは手探りで計画を進めた。
私たちは酸素を持たない7000m級の困難な山を目指した。ライトエクスペディション(軽量遠征)が私たちのプライドだ。金がないからだ。だから国内登山と同じく普段着での遠征を目指した。装備は別送せず隊員の手荷物として飛行機に載せ、食糧の多くは現地調達、食事はシェルパやポーターと基本的に同じにすることにした。缶詰類は殆どなかった。
時代は先鋭的登山家が8000mの未踏ルートを目指す、いわゆる「ヒマラヤ鉄の時代」だ。チャムランはアプローチの困難さと未踏ルートからの登頂という、当時の私たちの意欲をかきたてる山だった。私たちはこの遠征を「鉄の時代」に対して私たちの主食である雑炊から「ヒマラヤおじやの時代」の登山と位置付けた。シェルパは名のあるクンブーのシェルパではなくカトマンズの町中で偶然出会ったシェルパの若者を雇った。彼らとの付き合いは今も続いている。
カトマンズを出発した私たちはネパールを東に向かって横断するキャラバンを始めた。モンスーンの雨が降り続くヒルだらけの16日間のキャラバンだった。ヒルにかまれて血だらけになり、戦意喪失し不満を言う隊員の中で、中村は黙々と仕事をしていた。日が暮れると雨のテントで酒好きの川村ドクターと苗木副隊長と楽しそうに酒を飲んでいた。私もウシの糞だらけの沼のような放牧地に胡坐をかいて座り、チャンを飲んだ。漁師合羽とゴム長靴はヒマラヤでも無敵だった。
中村とは前年の偵察時にカトマンズで偶然出会った。彼は酪農学園大学の獣医科を出ていたる。しかし獣医にはならず日本を飛び出して南アジアを放浪していた。タメールのチベット料理屋で、私はヒッピーも悪くないがヒマラヤも良いぞと翌年のチャムラン遠征に彼を誘った。意外だったのは彼がすぐにそれを了承したことだ。中村には強い意志がある。彼はきっと獣医師という仕事に夢を持てなかったのだろう。未知に憧れる気持ちが人一倍強かったのだろうと思う。タイ語を初めとする語学力はそんな中で身に着けたものなのだろう。
チャムラン(7319m)の初登頂は1962年北大隊によって行われている。南の氷河からの初登ルートは隊長で南極探検の医師でもあった中野征紀のあだ名から長髪ルートと呼ばれた。私たちはその左の西稜を登った。このルートは1954年にエドモンド・ヒラリーによって試登されて以来、手つかずのままだった。
ポストモンスーン、つまり雨期明けのヒマラヤは天候が比較的安定しており登山に適している。しかし私たちは9月初めからのモンスーンのキャラバンに消耗し、ある隊員の足はヒルの傷が化膿して登山靴が履けないほど腫れ上がっていた。隊長への不満は大きかった。何しろ食事に肉がなく酒もないのだ。私はキッチンボーイに金を持たせ、メラ・ラを越えてクンブーまで買い出しに行かせた。シェルパの足でも往復1週間はかかる。彼らは肉とともにチャンやロキシーなどの酒と、毛糸の手袋を買って帰ってきた。やはり手袋靴下はウールが良い。そして宿や食事代などの費用とともにネパール語で書かれた明細とおつりを私に渡した。1ルピーのごまかしもなかった。その後ルート開拓は順調に進み10月に入ると頂上アタックが視野に入ってきた。
第一次アタックが失敗した後、私は第二次アタックに櫛見と中村、オンギャルとひげダワを指名した。一次隊の失敗は距離感と斜度の錯覚によるルート選択のミスだ。私は彼らに氷河台地から頂上直下に突き上げるクーロワールを登るようアドバイスした。そこが弱点に思えた。出発前日、中村がズボンを貸してくれと言ってきた。かれはそれまで綿パン1本で通してきた。聞けばズボンはこれしかないのだと言う。それで私は自分のズボンを脱いで彼に貸した。彼らは予定通り進み、台地の最終キャンプの位置を更に上に上げでアタックに備えた。1986年10月16日、櫛見とオンギャルは未踏のチャムラン西稜からの登頂に成功した。中村とダワはクーロワール途中までアタック隊をサポートし、最終キャンプで登頂を見守った。
もう40年になる。私は今もあの時代を鮮明に思い出す。オンギャルはその後ダウラギリの雪崩の犠牲になり櫛見も昨年亡くなった。チャムランとラカポシ、2度の遠征に参加した川村ドクターも今はない。遠征をきっかけにガイドビジネスで成功したコックのダワも亡くなった。そして今、中村の訃報を聞いた。
中村は1992年、チームが再び取り組んだパキスタン、カラコルムのラカポシ遠征で副隊長を務めた。登頂はできなかったが私たちはフンザで命がけの登山を楽しんだ。ラカポシは手に負える山ではなかった。巨大な氷河雪崩と側壁からの家の屋根ほどの落石、ビルの爆破解体のような氷河崩壊、7883mの山の6000mまでしか到達できなかった悔しさ、それらは一本の映像として残されている。その中にインダスの谷をイスラマバードからフンザへと向かう車中の映像がある。ビン・ラディンが暗殺されたアボッタバードで、私たちはバスの窓越しにコブラ使いに笛を吹かせて芸をさせた。しかしバスが走りだした。金を取損なったコブラ使いは蛇を籠にしまいもせずに拳を振り上げてバスを追いかけてきた。大笑いする中村の笑顔が印象的だ。彼は若い隊員たちの兄貴のような存在だった。
今日の画一的なアウトドア文化の時代、私たちは迎合せず自分の道を歩んできた。時流に流されることを嫌い、かといって声を荒だてることもしなかった。私たちは普通の市民として社会の片隅で生き、己の人生を受け入れてきた。中村は達観していた。
中村孝のご家族と彼の親しかった友人に深く哀悼の意を捧げたい。中村が私を友人と思っていたかはわからない。しかしまたいつか、共にヒマラヤを目指したいものだと思う。長い間の厚情に深く感謝したい。

合掌
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知床エクスペディションに参加されるみなさんへ

2021-07-30 19:01:32 | 日記


★知床エクスペディションの開催にあたって

集合時にコロナ対策として抗原検査を行います。この検査は検温と同じであり、マスクの着用、手洗いとともに私たちが行える唯一の自衛策であり感染症対策です。
37.5℃以上の発熱がなく抗原検査で陰性であれば、仮にウィルスを持っていても他への感染リスクは最小限に抑えられます。出発まで厳重な体調管理を行ってください。
行く先の不安の払しょくは私たちの責任です。以前は海とヒグマ、時に人間が主なリスクでしたがそれにコロナが加わりました。私はそれも条件として受け入れようと思います。知床エクスペディションの感染予防対策はWHOの指針に準拠したものであり、感染症専門医の指導の下に行われています。
参加費用は14万5千円です。内訳は食費、装備費、保険費、抗原検査費用、送迎及びガイド費用です。個人装備は各自で用意してください。足りないものがあればご相談ください。

★送迎 往路 女満別空港13時到着までの便でお越しください
    復路 女満別空港13時頃解散予定
(天候により日時かかわる事があるので変更可能なチケットを用意してください)
    
◎個人で準備するもの
・カヤックの際着るもの(アンダーウェアはウールが良)・防水バック・ヘッドランプ(予備電池)・寝袋・マット(ウレタンの折りたためるものは便利です。)・着替え1組・防寒着(中綿入りのジャケット・パンツ)・パドリングシューズ(スニーカーでOK)・上陸靴(スニーカー・長靴など)・丈夫な雨合羽・飲み水用ボトル・常備薬・歯ブラシ・軽量の1人用テント(ペグ不要)・個人用酒・嗜好品・コロナ対策(マスク・除菌など)・防虫対策品

 ◎準備しているもの
カヤック装備一式・炊事道具・食器・食料・熊対策用品

◎個人装備は最小限に抑えてください。装備食糧を各艇に分けて積み込むため容量に限りがあります。防水ドライバッグは濡らしてはならないものだけを入れます。個人装備は30リットルくらいを目安にしてください。(10リットル1つ+20リットル1つor10リットル3つ)

◎寝袋はつぶして小さくなる羽毛がおすすめです。

◎食事は集合日夕食から解散日朝食まで用意します。

◎装備は現地でチェックします。貴重品以外はデポできます。

◎知床エクスペディションは参加者全員がチームとして協力しながら知床半島を一周する旅です。ガイドに従ってください。また水汲みや薪集め、食器洗いなどお手伝いください。

◎生水はエキノコックス症予防のため飲まないでください。
単独行動は控えてください。ヒグマが潜んでいる場合があります。ヒグマは臆病な動物ですが猛獣です。

ガイド新谷暁生

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2021知床エクスペディション日程

2021-07-27 19:39:35 | 日記


2021知床エクスペディション日程

1回目 5/1(土)ー5/8(土)終了しました

2回目 6/1(火)-6/8(火) 終了しました

3回目 7/18(日)ー7/25(日)終了しました

4回目 8/3(火)ー8/10(火) 締め切りました

5回目 8/15(日)ー8/22(日) 締め切りました

6回目 9/1(水)ー9/9(木)募集を停止しています


・集合場所・時間
 往路 女満別空港13時到着便までにお越しください。
 復路 女満別空港13時頃予定。(変更可能なチケットご用意ください)
・日程は調整、変更されることがあります。

・最小催行人数5名。

・返信までに時間がかかることがあります。

・出発の前日からメールでのご連絡はできません。 

◎お問合せの際は必ずお名前・年齢・カヤックの経験・野外経験など記載の上ご連絡ください。
◎申し込みには氏名、年齢・西暦の生年月日・身長、体重・ご住所・連絡先、電話番号が必要です。フライトナンバー(前泊など)お知らせください。

ガイド新谷暁生

shiretokoexpnext@yahoo.co.jp

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知床日誌㉙

2021-07-27 19:38:45 | 日記

久しぶりに知床日誌を書くことにした。コロナ危機の中での知床エクスペディションは苦労が多い。私は昨年から参加者にPCR検査をお願いし、抗原検査を集合時に行うことで感染症への不安を少しでも減らそうとしている。自由に行動したいなら行く先の負荷に配慮しなければならない。しかし冷静に物事を進めるのは難しいことだ。
海は良くない。それでも前回はなんとか回ることができた。知床の人々はいつもながらに暖かく迎えてくれる。しかし当然ながらウィルスの侵入に神経質になっている。私は彼らとの無用な接触を避けるための努力を続ける。それは昔の沈黙交易のようだ。千島アイヌはこの方法で伝染病を防いでいたという。それは長い交易の歴史の中で学んだ知恵だったのだろう。私はまんさんの家の前に野菜を置く。まんさんはその後手ぬぐいでほっかむりして海岸のキャンプ地の私に魚を届けてくれる。ニセコから野菜を届け、知床から魚を運ぶ。ここではこんな冗談のような付き合いが未だに出来る。ありがたいことだ。 
コロナは終息しない。おかげで柴田丈広の言う「ぼくたちのオリンピック2020」、アリューシャン遠征も当分できそうにない。私たちはオリンピックに合わせて日本を脱出し、2001年から続けてきたアリューシャンのカヤックに再び取り組もうとしていた。そもそも私は昔からオリンピックに興味がない。スポーツは見るものではなくするものだ。1964年の東京オリンピックの時は授業をさぼって近郊の山によく行った。右手が不自由になったのもその頃だ。
1972年の冬季札幌オリンピックにはたまたま関わった。アルペン競技に興味があったからだ。そしてオーストリアのカール・シュランツがアマチュア規定違反で失格させられるのを見た。私は山の経験を買われて記録映画のチームに雇われ、アルペン会場の手稲山や恵庭岳でアイゼンを履き、カメラマンの助手としてピッケルとザイルを持って競技コースを走りまわっていた。恵庭岳のゴンドラでカール・シュランツや他の選手と一緒になった。オーストリアチームはヨーデルが上手い。さすがチロルの選手だなと思った。
アルペン競技はヨーロッパの伝統的スポーツだ。滑降競技の勇者、カール・シュランツはクナイスルの広告塔として目立ちすぎていた。それがミスターアマチュアリズム、IOC会長のブランデージの怒りをかった。そして本番前の公開練習のあとで札幌から追放された。シュランツはプロ、アマを超えたオーストリアの国民的英雄だ。しかしIOCはこの時代、アマチュアリズムに頑なにこだわっていた。そこにはまだ1934年、ナチスドイツによって開催されたベルリンオリンピックの苦い記億と反省があったのだろうか。カール・シュランツはその犠牲になった。
1984年のロサンゼルス大会からオリンピックは変わった。ロス五輪はプロアマを問わず参加できる国際イベントになった。しかしメディアをはじめとする巨大企業やそこに群がる人たちの利潤追求の場にもなった。人種差別や様々な対立が浮き彫りにされた大会でもあった。国威発揚と市民の熱狂をうしろだてに、覇権主義が再び力を持ち始めた時代の到来だった。
今日、日本では世界的感染拡大危機の中でオリンピックに反対する人が国民の8割を越えている。しかしこの国は五輪を強行する。NTTや電通などの巨大企業、スポンサーでもある有力新聞と一部の特権的富裕層、IOCやJOC、そして国や官僚の利権と面子を守るためだ。また政権の腐敗を市民の熱狂で隠すためでもある。アスリートファースト、安心安全、復興五輪、人類がコロナに打ち勝った証し、国民に向けたこれらの言葉はどれもむなしく胡散臭い。これはもはやベルリンオリンピックと同様、スポーツに名を借りたイベントでしかない。アスリートはローマのコロッセオで戦う奴隷戦士ではないはずだ。
私はオリンピックをやめるべきだと思う。そしてパラリンピックだけを開催すべきと思う。とりあえずパラリンピックはオリンピック精神を具現化していると思うからだ。しかし無理だ。オリンピックは儲かるがパラリンピックは金にならない。国民が熱狂しないからだ。ただでさえ弱者に冷淡な現代、コロナを言い訳にパラリンピックを中止することはあっても、オリンピックをやめることはないだろう。
北海道は20年前に破綻した公的ガイド資格制度に再びテコ入れを始めるという。私はアウトドアを観光資源にしても失敗すると常々言ってきた。しかしこの分野の市場としての可能性に期待する人は変わらずに多い。20年前は資格制度に組み込まれなかったシーカヤックも、今度はいよいよ含まれるらしい。当時シーカヤックは公的資格制度になじまないとして制度の外に置かれた。ヨットと同じ海洋スポーツだからだ。海は狭い意味での技術が通用するところではない。多岐にわたる知識とともに経験を積まなければならない。座学や短時間の講習で簡単に資格を与えるのは、シーカヤックだけではなく登山など他のスポーツにとっても危険なことだ。
ところでこのような制度を作ることで得をするのは誰なのだろうか。講習の義務化は主催者に利益をもたらし監督官庁の力を強める。雪崩講習を例にとってもそれは明らかだ。問題は金さえ積めば誰でも資格が手に入ることだ。これらの制度には必ず学識経験者とその権威を有難がる人たちの姿が見え隠れしている。
役に立つことを教えるのならまだ許せる。しかし実際は中学の理科程度の基本知識を教えることで、誤った自信を持たせるだけだ。だから事故が無くならない。問題なのはこれらの講習がより大きな資格制度の必須要件になっていることだ。すでにこれはネズミ講だ。このような仕組みをあらためない限り、資格を与えても事故は続く。
3年前、軽井沢に住むアメリカのシールズを名乗る人物が知床に来た。仲間の2人は米海軍のパイロットだった。しかしその自称シールズは日本人蔑視のかたまりのような人だった。毎日トラブルが続いた揚句、最後に彼はツアー代金を踏み倒そうとした。思い通りにならず不愉快だったというのがその理由だ。私は参加者全員の安全に責任を負う。しかし限度を越えた迷惑を許すわけにはいかない。2人の同行者の名誉のために詳しくは書かないが、私はあらゆる手を使って最終的に金を払ってもらった。仲間の2人も彼には手を焼いていた。聞けばあこがれの知床を案内してくれると聞いてアメリカから飛行機に乗り、今回はじめて東京で会ったのだと言う。彼らは合衆国海軍の情報収集能力の不足を後悔していた。
私は多くのヨーロッパ人に出会った。知り合いも多い。確かにニセコにも似たような人はいる。しかしここまでひどいのは初めてだ。彼が語る経験はすぐに嘘とわかる。ビンラディン暗殺まで自分のチームがしたのだそうだ。こんな人が軽井沢に住み、防衛省に出入りしてホラを吹いているのだ。霞が関や軽井沢にはそれを信じる日本人が大勢いるのだろう。アメリカ海軍の名誉のために言うが彼は米国人ではなく北欧人だ。もっともこんな詐欺師のような人は国籍を問わずどこにでもいる。
ガイドの仕事は多岐にわたる。それは安全を守ることだけではない。時にはゲストを叱らなければならないこともある。特に他に迷惑をかけるようなことがあれば尚更だ。ゲストに信頼されることは大切だがそれはお客に迎合することではない。毅然たる態度が時には重要だ。ゲストと寝食を共にする知床では、自然のリスクとともに人間のリスクが大きい。
ところでコロナ対策に見られるようにこの国はなぜ国民の命をこれほどまでに軽視するのだろう。PCR検査、ワクチンの確保。厚労省と国の対策は常に後手に回っている。なぜなのだろうか。菅内閣のブレーンとしては竹中平蔵氏がよく知られている。彼らがこの国の方向を決めているのだろうか。デービット・アトキンソンという英国人もブレーンの一人だ。この人は京都の美術工芸修復を専門とする会社の社長であり、菅総理と安倍前総理に観光政策などをアドバイスしてきた。竹中氏と同じく中小企業はいらないという考えの持ち主だという。この会社は日光東照宮の修復も手掛けたというから実績のある会社なのだろう。しかし復元された国宝は今ではカビと剥離で目も当てられない状況だという。なぜだろうか。自社の利益を取りすぎて見てくれだけの修理で済ましたとしたら、カビも剥離も説明がつく。しかしそんなことがあるだろうか。私はそこに日本人とその歴史、日本文化を見下す無知の体質を感じる。そしてこのいい加減な修復工事は当時の安倍総理の後ろ盾がなければ出来なかったのではないだろうか。文化庁も問題はわかっているのだろう。しかし時の権力に忖度するしかなかったのだろう。
日本の政治家はいつのまにか国民を見なくなっている。私たち庶民はそれに合わせて生きるしかない。これはなにも菅氏や安倍氏に限ったことではない。外人との交流を自慢し有難がる町村長は多い。さすがにファーストネームで呼び合うことを自慢するような恥ずかしい人はいないだろうが。
驚いたのは、この英国人が経営する美術工芸修復会社の社主が、なんとあの知床に現れた自称シールズの妻だったことだ。私はこれでうなずけた。軽井沢でも東京でも、彼のまわりの日本人は庶民を見下すことを当然とする同じ体質の人たちなのだ。彼らは自分が特別な人間であり、平民は黙って従い、利用するものだと本気で思っている。だから知床でも私を従わせようとした。こんな人たちの言うことに耳を傾け、それが政策に反映されれば東照宮だけでなく国民もえらい目に遭うのは目に見えている。今起こっていることを見ればそれが良くわかる。
私たちは物言わぬ国民だ。しかしまわりで起きていることを考えるべきだ。哲学者ハンナ・アーレントは言う。市民が思考を停止し、周りに迎合して多数が同調すれば、やがて人間誰もが本質的に持つ「凡庸の悪」が姿を現す。そしてそれが全体主義を生むきっかけとなる。ハンナ・アーレントは自身のユダヤ人としての体験と戦後のアイヒマン裁判をきっかけに、終生ファシズムの起源を研究した。この国も再び危険な国家主義に傾き始めているのではないだろうか。
アリュートは初対面の人と目を合わせない。アクタン島で私は実際にそれを体験した。これは冒頭に書いた沈黙交易にも通じる知恵なのだろう。値踏みはするが見下さない。先ず相手に敬意を払う。私はそうやって海を漕いできた。知床の人たちとの沈黙交易は今年も続く。
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