知床エクスペディション

これは知床の海をカヤックで漕ぐ「知床エクスペディション」の日程など詳細を載せるブログです。ガイドは新谷暁生です。

2022知床エクスペディション日程

2022-08-11 19:09:58 | 日記


2022知床エクスペディション日程

1回目 4月29日(金)ー5月7日(土) 終了しました
2回目 6月4日(土)ー6月11日(土) 終了しました
3回目 終了しました
4回目 終了しました  
5回目 終了しました
6回目
7回目

◎お問合せの際は必ず氏名・年齢・カヤックの経験・野外経験など記載の上ご連絡ください。
◎お申し込みには氏名、年齢・西暦の生年月日・身長、体重・住所・電話番号が必要です。

・返信までに時間がかかることがあります。
・出発の前日からメールでのご連絡はできません。

ガイド新谷暁生


知床日誌㊲

2022-08-08 21:14:27 | 日記

今年5度目の知床が終わった。今回は波と風に痛めつけられた。回数を増やせば悪天候に遭う可能性も高まる。それにしても天気が悪い。雨も多い。そして寒い。以前は夏の知床の常風は南東だった。太平洋高気圧が強いからだ。しかし今は違う。千島に高気圧が居座り、津軽海峡を繰り返し通る低気圧との気圧傾度が緩まない。波は風が起こし風は気圧の傾きでできる。気圧差が大きければ風は強まる。北東の風には特に注意が必要だ。その風に潮が合わさると始末が悪い。今回岬の通過は危険だった。知床岬は潮が速い。潮と強い風がぶつかると大きく不規則な波を作る。高さは電信柱ほどもある。一度沖に出ると戻るに戻れない。漕ぎ続けるしかない。岬手前は風が強く水場もない。それで風裏のオホーツク側、文吉湾近くまで行こうとした。しかし失敗だった。私の判断の誤りだ。水は10リッター積んでいた。しかし貴重な飲料水だったので欲張って流木と沢水のあるところまで行こうとした。風が弱まるのを待つべきだった。アリュートのことわざにあるように「風は川ではない」のだ。防氷堤を越えて爆発する巨大な波に呑み込まれれば生死は運でしかない。運を期待してはならない。転ばぬよう励まし続けるしかなかった。危険だった。久しぶりに口の中がベトベトに乾いた。オホーツクに回り込んでも風は強い。その後も風の合間を縫って漕ぎ、ルシャのだし風に一度追い返され、3日間しぶとく漕いでなんとかウトロの圓子さんの浜に上がることができた。久しぶりに予備日を使った。良いチーム、良い旅だった。
知床を漕ぐようになって30年が過ぎた。正確には34年だ。ずいぶんと月日が経ったものだ。多くの人々に出会い、迷惑をかけ、世話になって今日まで漕ぎ続けてきた。知床と出会わなければパタゴニアもアリューシャンにも行くことはなかったろう。何よりカヤックを続けることもなかったと思う。人には色々な生き方がある。後悔もするが今さら反省しても遅い。漕げなくなる日が来るまで迷惑をかけず人生を全うしたいものだ。それにしても体のあちこちが痛い。両手は不自由なままだし春に痛めた左足首の捻挫は、少しは良くなったが今もゴロタ石の浜で水を運んだり流木をかついだりするのはきつい。腰も痛い。しかしまだ動ける。それにしてもそう長くは続けられないだろう。75歳なのだ。今の願いは15年前に動かなくなった左の小指を治してまた音楽家に戻ることだ。人生は思い通りにならない。だれもが老いる。夢は夢として今は手抜きせず目の前の仕事を続けようと思う。終わりはそのうち勝手に向こうからやってくるだろう。
観光船の事故以来、知床の観光客は明らかに減った。小型観光船も以前のように鈴なりの客を乗せるほどの賑わいはない。知床観光を通過型から滞在型にするために、環境省は知床五胡を整備して入り口に立派な施設を作った。それは集客につながっただろうか。現状の変更を嫌い目先の利益を追い求めた結果が観光船の事故につながった、という認識は相変わらず地元にはない。
知床は可能性を秘めた土地だ。しかしそれを言っているだけでは何も変わらない。地域を活性化させたいなら林野庁も環境省も北海道も地元も、続けてきた従来の考えを転換する時期に来ている。知床の自然に触れたい人は多いが、現状では選択肢が少なすぎる。ここには登山とカヤック、トレッキング、それに観光船による奥地の遊覧しかない。硫黄山からカムイワッカへの登山道も今は通れるが、長く通行止めだった。世界遺産に便乗して北海道が道路整備を始めたためだ。その時に道の役人が言った「たかが登山者のために道は開けられない」という言葉は今も語り草になっている。
若いころ北海道の冬山で修練を積み、羅臼岳の暴風雪をイグルーを造って凌ぎ、カラコルムのトレーニングとしてモイルスからカムイワッカまでの海岸を2日で歩いた者として、私は知床への思い入れが強い。そしてこれほど優れた野生の土地は他にないと思っている。だからこそ大勢がそれに接する機会を作るべきと思う。私はこの国の観光政策に賛成しない。客を金としか見ず、一部の利益の追求しか考えていないからだ。世界遺産も良い。国立公園も良い。しかしそれを守ることが目的となってはならない。現状では全てが自らの権益を守ることに汲々としている。その結果誰もが排他的自己満足に陥っている。発想を変えるべきだ。たとえば特定の人しか知床林道を使えないのは公平ではない。それは文吉湾避難港にも当てはまる。これらの道路や施設は大きな自然破壊の下に作られた。アメリカオニアザミもこの時代に工事の客土に混じり半島先端まで拡がった。
現在ごく一部にしか使われていないこれらの道や施設は、今後はより大きな目的のために使うべきと思う。日本の国立公園のより良い利用のかたちを示すためにも、知床の人たちに知恵を出してほしいと思う。ただ漁業と観光の利害を調整するだけではなく、この素晴らしい自然をより多くの人たちに見てもらう仕組みを作ってほしいと思う。私はそれが将来の知床国立公園に明るい未来をもたらすと確信している。知床の観光は岐路に立っている。
晴れていれば半島羅臼側から30キロへだてて国後島が長く横たわるのが見える。島はあまりにも近い。9月にかけてここではロシア軍の演習が行われると言う。当然中国軍も参加する。日本は台湾や尖閣の動きに神経質になっている。しかし台湾有事でなく北海道有事の可能性はないのだろうか。安倍晋三氏の事件のように背後の警戒が弱すぎはしないか。台湾や尖閣への中国の挑発が本音を隠した陽動作戦だとしたら、恐ろしい話しだ。しかし国もメディアもほとんどこれに触れない。何か理由があるのだろうか。それとも誰かが私たちが身の回りのことしか関心を持たないよう仕向けているのだろうか。
春から秋まで1年の半分を知床で暮らし、漁師や町の人たちと話していると色々考える。ロシアと中国の指導者は崇高な共産主義の名のもとに自由社会の資本主義経済を徹底的に利用して懐を肥やしてきた。私たちは覇権国家、専制主義国家そしてその指導者たちの野望にそろそろ気づくべきだ。ロシアはソ連邦の復活を望んでいる。中国は漢民族の繁栄のためにチベットやウイグルなど周辺民族の民族浄化、漢化(同化)政策を推し進めている。ハンバーガーを食べるモスクワ市民や見てくれだけを求める中国の富裕層、そしてプーチンのロシア連邦や中華人民共和国の指導者の顔色を窺いその抑圧政策に目をつぶれば、そのつけは必ず私たちに回ってくる。
14億の中国人民のうち12億は未だに貧困だ。私は80年代に中国北部を訪れたことがある。その当時、人々は貧しくも幸せだった。その後50年、中国では14億のうち2億がマンションや車を買い贅沢を享受する可能性のある人たちになっている。14億中2億のために日本もヨーロッパもアメリカも中国に投資する。2億のマーケットは確かに大きい。だが残りの12億がその恩恵を受けることはない。物質的豊かさは果たして幸せの指標だろうか。そこに自由がなければ、住む家が泥レンガからコンクリートの集合住宅に変わっても幸せになったとは到底言えないのではないだろうか。中国共産党は人々をすべて檻の中に閉じ込めようとするのだろうか。
私は冬のニセコで仕事をしている。そこでは様々な人に出会う。多くは決まりを守って新雪滑走を楽しむ。しかし守らない人もいる。その人たちに共通するのは権威に媚び、他人を見下す体質だ。権威主義に染まった一部日本人も同じような体質を持っている。ニセコルールが必要から生まれたものであり、人種国籍年齢宗教を問わず公平だと説明しても彼らは聞かない。そして否定する。このような人はなぜ生まれるのだろうか。育った環境だろうか。教育だろうか。私も無知だがこのような人たちの無知を気の毒に思う。1974年以降に生まれた中国人にも似たようなところがある。強い反日教育のもとで成長した彼らは、日本人が決めたルールは守る必要がないと公言する。彼らはチベットやウイグル問題を中国の内政問題だと言い切る。それは香港の民主活動家であっても同じだ。私は郷に入らば郷に従えなどと言っているのではない。自分の言葉も考えもなく何かに盲従して他人を否定するのは良くないと言っているのだ。見下さず、一度は尊重したほうが良いと言っているのだ。その上で意見を言えば良い。国境の海を漕いでいると色々考える。自由は尊い。この海はそれを実感させる。

知床水路誌2022

2022-08-05 20:29:01 | 知床水路誌



知床日誌㊱

2022-07-27 17:21:36 | 日記

知床を終えるたびに色々と考える。漕いでいる時はその時々のことしか考えない。家に帰ってから久しぶりに探検について考えてみた。古くて新しいテーマだ。探検とはいったい何だろうか。多くの探検家は新たな領土と富を求めて未知の世界へと旅立った。その後の南極や北極、ヒマラヤなど第3の極地への冒険的探検にも国の威信や権威が見え隠れしていた。探検家の多くはそのような人たちだった。それは日本も例外ではない。しかしそうでない人もいた。知床日誌を遺した松浦武四郎やキャプテン・ジェ-ムス・クックがそうだった。
松浦武四郎やクックは探検家として異質だった。多くの探検家や宣教師が行く先の「非文明」を劣ったものとして征服し教化しようとする一方で、武四郎やクックはその「遅れた」文化を尊重した。異なる文化が互いを認め合うことは難しい。部族の長や王様は常に自分が世界で一番偉いと信じている。銃を持つ人が優越感を抱くように石器人も自分の武器が一番強いと思っている。しかし異文化に接する交易の民は初対面の知恵を時間をかけて習得した。直接の接触を避ける沈黙交易や、目を合わさない初対面の挨拶も、異文化接触の知恵なのだろう。武四郎やクックはその知恵を自然に身に着けていた。彼らは人一倍人間性に富んでいたのだろうか。他人は自分とは違う。他者に配慮することが自分を守る。それが無用な争いを避ける。松浦武四郎もキャプテン・クックも自分と他者という人間の本質を理解した人だったのだろう。
武四郎は滅びゆく蝦夷地先住民の生き方と生活圏を尊重し、明治政府の方針に異議を唱えた。そしてここがアイヌ民族の土地であることを記憶に残すために北のカイの国、ホッカイドウと名付けて伊勢に去った。カイは大陸を支配した元の記録によれば、13世紀元朝モンゴルと戦ったアイヌ民族と蝦夷地先住民を指す言葉だ。元はそれを骨鬼と記してクイと呼んだ。クックは18世紀、世界航海史に偉大な業績を残した。キャプテン・ジェームス・クックはロシアに征服されたアリューシャンのアリュート民族の悲惨な運命、ロシアコサックの残虐な殺戮、そしてその優れた海洋狩猟文化と知性豊かなアリュートの姿を後世に伝えた。クックはその後ハワイ諸島で不慮の死をとげた。ちなみにピーターパンのフック船長はジェームス・クックとは何の関係もない。
探検についてはこれくらいにして知床エクスペディションについて書こう。探検史については伊勢の柴田丈広がものすごく詳しい。時間がないのでここでは焚火と飯炊き、雨具について書く。その前にしつこいようだが書き足すことがある。帝国主義は自国民にも害を及ぼす。全体主義に移行するからだ。市民がその兆候を知って黙認し放置すれば暗黒の時代はすぐに来る。来てからでは遅い。全体主義は個人の意思と自由を認めない。ヒトラーがそうだったようにプーチンも確実にその道をたどっている。プーチン史観は一見真理を含んでいるように見える。しかし民族の優劣思想を根底に隠し持つ邪悪な歴史観だ。プーチンはピョートル大帝にはなれない。この5か月、ウラルや極東、モンゴル国境などロシア辺境の若者がウクライナで大勢死んでいる。ハンバーガーを食べて浮かれているモスクワの若者たちは、いつそれに気づくだろうか。世界は再び凡庸の悪がはびこる時代になるのだろうか。
まず焚火だが、木なら何でも燃える。雨に濡れても水に漬かっていても生木でも燃える。石は燃えない。だから石でかまどを作ってはならない。火は燃える条件を作らないと燃えない。少し太めの木を2本風に平行に並べ、その間で焚き付けの細木に火をつける。そして徐々に大きくする。空気の流れを一方向にして、並べた2本の木の間に火を閉じ込める。そうすればやがて両側に燃え移る。対流が起きれば火力が上がる。火事で階段に火が走るのと同じ理屈だ。火は閉じ込めると空気を求める。そして空気の流れに沿って高速で走る。結果を想像できない無知が招いた京都の悲惨な事故もこの条件下で起きた。これは雨の多い土地の焚火法だ。この方法は人類の拡散に合わせて東ネパールのアルン川流域から東南アジアの山岳地帯を経て日本にまで伝わった。しかしすでに日本にこの文化はない。これらの土地では木自体をかまどにする。石を3つ置いて木を燃やす方法は、砂漠などの乾燥地帯の方法だ。また井桁に組むのは荼毘やキャンプフアィヤーの焚火法だ。実用的ではない。
薄いアルミ鍋でも米は炊ける。この方法を知っていれば災害時でもおにぎりが食べられる。鍋はどこにでもあるし米もどこかにある。水も濁っているかもしれないが必ずある。燃やすものは倒壊した家屋の廃材だ。洪水で流木もたくさん引っかかっているかもしれない。東日本大震災後に流行った「レスキューキッチン」がなくても米は炊ける。レスキューキッチンは灯油と発電機を回すガソリンが要るが、焚火ができれば誰でも米が炊ける。それにレスキューキッチンは高すぎる。具体的な米炊き法だがまず米に水を入れて直火にかける。そして時々ふたを開けて沸騰前から混ぜる。それを繰り返して米粒の固まりを常に崩す。やがてさらに米が煮えて本格的沸騰が始まる。さらに混ぜる。やがて鍋の中が地獄の窯状態になる。そこで直火からおろし熾火(おきび)を作ってその上に鍋を乗せる。13秒に一度鍋を回す。熾の熱が均等ではないからだ。5-6分それを繰り返す。この時ふたは開けない。そして蒸らす。そうすれば米は炊ける。赤子泣いてもふたとるなというのは料理下手な主婦の俗説だ。直火から良い「おき」を作るにはきゅうりサイズの雑木(広葉樹)の皮なしの枝が15本要る。飯炊きは重労働だ。
知床で生活する上で漁師合羽を越える雨具はない。使ってみればわかる。雨具に求められる機能は防水性や通気性ではない。防寒性だ。軽いナイロン雨具はそれがゴアテックスであっても冷たい雨の中で体に張り付き体温を奪う。知床ではウレタン素材の漁師合羽を強く勧める。ゴム系より2割軽い。サイズは大きめが良い。これがあれば雨の中で地面に座って酒が飲める。そしてどんな嵐にも耐えられる。漁師ガッパは無敵だ。今回も海岸には目立った痕跡や漂流物はなかった。それにしても保安庁や警察は半島ウトロ側の陸上捜索をやるべきと思う。現状では海岸を見ているのはこの3か月私たちだけだ。統一教会と勝共連合が巷をにぎわしている。何を今さらと思う。これが宗教と言うなら一つくらい心に響く言葉を語ってほしいものだ。他人をとやかくは言えないが、恥ずかしい限りだ。私は目の前の仕事を続けるだけだ。次の知床がすぐに始まる。

追記 もう一人優れた探検家を思い出した。ウラジミール・アルセーニエフだ。デルスウ・ウザーラを書いた人だ。

知床日誌㉟

2022-07-06 18:01:04 | 日記



遥かなる国後
6月25日からの知床エクスペディションは無事終了した。今回は今年はじめてカシュニを越えてウトロまで漕いだ。漕ぎながら海岸を注意深く見たが、特に変わった動きはなかった。ヒグマは相変わらず多い。20頭近く見た。冬眠中に生まれた子供が母親にまとわりつき、親を真似て動く姿は可愛くおかしい。新しい食べ物を見つけたのだろうか。栄養状態は良いようだ。ヒグマは賢い。彼らは雑食と用心深さ、環境適応の知恵を身に着けて有史以前から生きてきた。
知床エクスペディションの参加者は多種多様だ。私の知らない世界の話を聞けるので楽しい。今回は富山県魚津の佐伯夫妻が参加してくれた。佐伯さんは有名な立山ガイドの一人だ。また高橋庄太郎君が仲間とともに参加してくれた。彼らはツアー終了後に岬まで海岸を歩く予定だ。来年は徒歩での半島一周を目指すという。高橋庄太郎は20年近く知床エクスペディションに参加し続けている。
参加者が一様に驚くのはロシアが実効支配する対岸の国後島の近さだ。晴れていれば海岸の崖まで良く見える。しかしはっきりと見える後は必ず嵐になる。今回は霧と雨が多かったが、それでも島の最高峰チャチャヌプリがたまに見えた。ここはもう日本ではない。ロシアだ。羅臼の漁師は戦後80年近く、この国境の海で拿捕や銃撃の危険に怯えながら漁を続けてきた。島がこれほど近くにあることを、政治家だけでなく多くの日本人は知らない。モスクワのロシア人も知らない。尖閣や竹島は見えない。しかしクナシリとハボマイはすぐそこにある。私たちが北方領土と呼ぶこれらの島々が日本に帰ることはあるのだろうか。
水温は10度近くまで上がったが相変わらず冷たい。ウリクラゲが無数にいる。雨が多かったのでみんな体を濡らし、寒そうだった。テントもシュラフも湿って重い。たまの晴れ間には防水バッグから寝袋を出して乾かした。知床では完全防水の漁師ガッパが欠かせない。これを着ればどんな嵐にも耐えられる。雨具に必要な機能は防水性ではない。防寒性だ。ナイロン雨具はたとえそれがゴアテックスであっても、冷たい雨の水圧で体に張り付き体温を奪う。高価なゴアテックス雨具を使うなら、それが直接肌に触れないよう空気層を持つものを下に着なければならない。私はウールセーターを奨めている。薄いクルーネックのカシミヤやメリノウールが良い。毛は濡れても必ず身を守る。北海道の遭難事故は雨具の不備によるものが多い。近年のトムラウシや知床岳、羊蹄山なとガイド登山中の事故は、直接的にはガイドの判断の誤りによるものだ。しかしその背景にはゴアテックス雨具と速乾性をうたう化繊肌着への過信がある。事故をただ悪天候のせいにしてはならない。
知床羅臼では過去に2度の大きな海難事故が起きている。1954年5月10日には「5・10海難」が起き10数隻50数人が失われている。この時は根室海峡と太平洋でも多くの船が沈み、数百人の犠牲者がでている。1959年4月6日には「4・6突風」により15隻85人が遭難している。低気圧は知床付近で急激に発達する。西のウトロ側では朝が凪でも低気圧通過後すぐに風が強まる。羅臼側では時を置いて山越えの暴風、いわゆる「ダシ」が突然吹き出す。時にその強さは岸壁に駐車したトラックを海に落とすほど強い。これらの海難は知床特有のこのような気象条件下で起きている。当時の漁船は焼玉エンジンで馬力も小さい。突然の大時化で無理に港に戻ろうとした船は横倒しにされて転覆し、風波に逆らわず必死で国後まで逃げた船だけが助かった。KAZU1もそのような中で遭難したのだろう。
知床半島はオホーツク海に突き出た海上の山脈だ。古来ここはオホーツク人とその後のアイヌ民族の生活の場所だった。往時の暮らしの痕跡は岬やイダシュベ、ポロモイなど海岸近くの僅かな平坦地に竪穴住居跡として残っている。人々は流氷原の空気孔に顔を出すアザラシを獲り、夏には遡上するサケマスを捕獲し、ヒグマを獲っていた。アイヌは北海道の先住民だが、狩猟だけで生きてきたわけではない。彼らは日本海から朝鮮、大陸までを縦横に行き来する交易民族であり、その活動範囲はカムチャッカからベーリング海にまで及んだ。しかし16世紀以降、徳川幕府と松前藩の圧政で徐々に力を失い、場所請負制の下で和人商人に従属して漁業労働者となり、やがて日本に同化させられていった。
今日、日本ではアイヌを国内の少数民族と位置付けている。しかし先住民族とはしていない。それ故、その権利の回復、土地の返還や伝統的狩猟などの復活を認めていない。文化の復興とはウポポイなど箱ものの建設や歌や踊り、或いは言語や道具の復活だけを言うのではない。サケマスの自由な捕獲、狩猟など本来の生活に根差した「技術伝統」を甦らせなければ真の復興とは言えない。先住民族としてのアイヌの人権の復権は果たされていない。
2018年、ロシア議会はアイヌをロシア国内の先住民族と認めた。これを根拠にロシアが北海道に侵攻する可能性は荒唐無稽な話ではない。プーチンの歴史観によれば北海道はアイヌの国だからだ。それならウクライナと同じようにアイヌ民族の解放を謳って北海道に侵攻することができる。戦後ソビエトは占領地の日本人を長くシベリアに抑留し重労働に当たらせた。現在ウクライナでは160万人のウクライナ人をロシア国内に強制移住させているという。スターリンが死んで初めて日本人抑留者の帰還事業が進んだように、プーチンが生きている限りこれからもこの蛮行は続くのだろう。日本はアイヌ民族の実質的な権利回復を行うへきだ。そして国連決議に従って明確に先住民族と認めるべきだ。日本が民主国家と言うならこの問題を解決済みとして曖昧にしてはならない。それにしてもロシアが先にアイヌの先住権を認めたというのは悪い冗談のような話だ。自由主義社会の体裁を装い、体よく資本主義の恩恵を享受する覇権国家にとって、環境や人権は専制独裁を続けるための方便でしかない。
1945年、第2次大戦終結後、旧ソビエト連邦はサハリンと千島全島を手に入れた。アメリカは沖縄と日本を占領した。択捉以南を含む千島のソビエト領有は大戦の帰結なのだ。批判を承知で言うが北方領土返還交渉が上手く進まなかったのは、日本が頑なに「固有の領土」論にこだわったためではないだろうか。大戦の結果を受け入れた上で、あらためてこの父祖の地を何とか返してもらえないかという交渉はできなかったのだろうか。せめて目の前に見える、あまりにも近くにあるクナシリとハボマイの2島だけでも返してもらえないかという交渉はできなかったのだろうか。シコタンとエトロフは見えないから返してくれなくても良い。ただとは言わない。条件次第ではロシア軍の駐留も認める。そのような交渉はできなかったものだろうか。
アラスカはアメリカがロシアから買った土地だ。当時の帝政ロシアはクリミア戦争の戦費がかさみ、金に困っていた。1867年、アメリカ合衆国はロシア帝国からアラスカ及びアリューシャン列島、そしてプリビロフ島を720万ドルで購入した。今日のウクライナ戦争という暴挙に、ロシアはやがて疲弊する。もし自由社会が本気で現在のロシアを干上がらせ暴走を止めることが出来れば、ひょっとして日本の領土交渉の突破口が開けるきっかけになるかもしれない。しかしプーチンの野望はこれからも消えない。何よりもロシアと対等に渡り合い、真剣にこの問題に取り組もうとする政治家は日本にはいない。政治的思惑だけで4島を勝手に2島に決め、個人の政治的野心と利権を追うだけの政治家にこの問題の解決はできない。安倍晋三がプーチンと取り決めた2島とはハボマイとシコタンだ。2島合わせてもその面積は国後の5分の1もない。プーチンはほくそ笑んだに違いない。これをまとめれば日本に恩を売るだけではなく、更に大きな利益を日本から引き出す足がかりになる。妥協してはならない。プーチンの野望を打ち砕く努力を、恐れずに続けなければならない。しかしその勇気がこの国の指導者にあるだろうか。何よりも今日の日本の政治家は、そもそも底辺の人々や辺境の人たちに関心がない。
国後はすぐそこにある。羅臼や標津の漁師はこの海で漁をしている。国境を越えれば拿捕され、時には銃撃される。羅臼の公園に「4・6突風」で息子を失くした老人の像が建っている。戸川幸夫原作の「オホーツク老人」の映画化を記念して建てられたものだ。この映画は「地の涯に生きるもの」として1960年に公開された。像は主演の森繁久弥そのままの姿で寂しげな笑顔を浮かべて佇んでいる。老人はマニラ麻の魚網をネズミから守るため、半島奥地の氷に閉ざされた番屋に一人で暮らした。ネズミを捕る飼いネコにエサをやるためだ。6月28日、KAZU1の乗船者とみられる方の遺体がサハリン、コルサコフ付近の海岸で発見された。遺体は岬から北西に流され、20マイル以上の沖合を北に流れる反流に乗ってサハリン西岸にまで達したのだろう。着用していたという赤いPFDが他のものより浮力があったためだろうか。そのため違う潮に乗ったのかもしれない。亡くなられた方の冥福を祈るとともに、多くの人がこの辺境の土地に関心を持ってくれることを願っている。