知床エクスペディション

これは知床の海をカヤックで漕ぐ「知床エクスペディション」の日程など詳細を載せるブログです。ガイドは新谷暁生です。

知床日誌45

2023-11-29 20:22:27 | 日記
                                    
日誌45を書くにあたり、北海道で生まれこの土地の自然とその厳しさを知ったひとりの北海道人として、その道標となった先人、松浦武四郎に心からの敬意と謝意を表したい。
モイルス近くの入江に私たちがカヤック爺さんと呼ぶ岩がある。遠目から皮舟を漕ぐ年寄りに見えるその岩は、いつも昔を懐かしむように国後を見ながら浮かんでいる。きっと松浦武四郎も旅の途中でこの岩を見たことだろう。長い間、私も爺さんに挨拶してその入江通り過ぎた。そしていつのまにか私も爺さんになってしまっていた。

明治2年(1869年)、明治政府の開拓判官となった松浦武四郎は、蝦夷地経営の意見の対立から故郷の伊勢松坂に帰り、二度と北海道に来ることはなかった。武四郎は明治政府の求めで蝦夷地を「北加伊道 」と名付けた。武四郎は若い頃からアイヌの道案内で蝦夷地を縦横に旅した。そして膨大な記録を残した。そのひとつが知床日誌だ。また北の宗谷でアイヌの古老から「カイ」が北方アイヌの自称であることを教えられた。それが後の「北海道」命名へとつながった。
「北かい道」、つまり北のカイの国とは松浦武四郎のアイヌ民族への深い思いからつけられた名だ。武四郎はアイヌを迫害する日本人と蝦夷地を収奪の場としか見ない和人商人、そして明治政府の政策に憤り、職を辞した。
伊勢に帰った武四郎はその後、三重の大台ケ原山の山道開削や山小屋の建設に没頭した。武四郎は常に自然の中にあった。明治21年(1881年)、松浦武四郎は東京神田で没した。七十一歳だった。晩年、武四郎は旅した土地の木材などで畳一畳の小屋を建て、思索の場とした。しかしその庵に北海道を記憶するものは何一つなかった。
最近、老朽化した北海道開拓百年記念塔の解体と存続をめぐる議論があった。ある地方議員は選挙公約でその保存を訴えた。開拓の偉業を忘れるなという主張だ。また近年、国の肝いりでウポポイという記念館が建てられた。明治開拓期から百数十年がたった。私たち日本人はこの問題を乗り越えることができただろうか。記念館の名にあるようにアイヌ民族と共成してきただろうか。
昭和の歴史書には「北海道開拓はアイヌには成し得ず、それが出来るのは日本人のみ」と明記されている。それが私たち日本人の中に埋め込まれた意識だ。しかし蝦夷地はけっして未開の地ではなかった。石狩や十勝、天塩などの川を中心に暮らしたアイヌ民族は流域に村を作り、狩猟や漁撈、畑作をおこない、交易をした。その範囲は内地日本だけではなくアムール川やカラフト、千島、朝鮮にまで及んだ。彼らは稲作文化圏の人たちではない。狩猟文化圏の人だ。そして和人、つまり当時の日本人と変わらぬ豊かな暮らしをしていた。
アイヌは十世紀から十三世紀頃には北方圏交易の中心的役割を果たしていた。それは当時の中国の歴史書、元朝秘史にも書かれている。たびたびアムール川に現れるアイヌを元は骨嵬(クイ)と呼んで恐れた。フビライが統治するこの時代、アイヌは元にとって厄介な存在だった。松浦武四郎はそれを古老のユーカラで聞いたのだろう。そしてあらためてアイヌへの親近感を深めていったのだと思う。
最近、先住者としてのアイヌ民族をことさら否定しようとする人たちの言動が目立つ。彼らは鎌倉時代以降の日本史や人類史、果ては最新の遺伝学まで持ち出してアイヌの民族としての正当性を揶揄し婉曲に否定する。国連決議でさえ矮小化しようとする。メディアへの露出が多いこれら国会議員や評論家の影響力は無視できない。凡庸な私たちはそれを信じる。人は流言飛語に惑わされて迎合する。そして自分より劣るものを探す。松浦武四郎も開拓判官として同じような問題に悩んだのではないだろうか。 
私は松浦武四郎の知床日誌を知り、私なりの日誌を書いてきた。武四郎には遠く及ばないがこの五十年、私は辺境を旅し海を漕いだ。人々は出自が何であっても私に人として接してくれた。人は他者への敬意がなければ生きられない。松浦武四郎もきっとそうだったのだろう。知識を経験と勘違いする人たちにそれがわかるだろうか。
私は懲りもせずに日誌を書いている。自分の思いを伝えたいからだ。私は27の時にここニセコモイワに来た。もう50年になる。そして森を切り開き宿屋を始めた。当時はスキーブームの時代でモイワは競技スキーの山だった。私は雪やヒマラヤに憧れる若者だったが、夢の実現には生業(なりわい)が必要だった。学生向けの民宿はそんな理由で始めた。しかし楽ではなかった。当時も今も生きるのに精一杯だ。
私は登山もスキーもスポーツだと思っている。1972年の冬季札幌オリンピックで記録映画の裏方をした私は、アルペン競技に登山と同様の価値を見た。冬山やヒマラヤと同じ厳しさが競技スキーにはある。少しの失敗が命に直結する登山と同様に、スタートからゴールまでを全力で滑るアルペン競技は素晴らしいスポーツだ。いずれも手抜きはできない。私は練習に来る子供や学生たちの世話をした。スポーツは見るものではない。自分でするものだ。だから私も滑るようになった。
当時は三浦雄一郎のエベレスト滑降の影響か、冒険スキーと新雪滑走が盛んだった。もともとニセコはリフトを使ってスキー場外の新雪を滑る山だ。スキー場境界のロープの外には未踏の新雪斜面が拡がっている。雪は素晴らしく良い。ここでは苦労せずに小さな冒険が味わえる。コース外滑走は禁じられていた。しかし誰も守らなかった。だからみんながロープをくぐった。リフトが標高千メートルから千百五十メートルまで延長されたことで更に新雪滑走の範囲が広がった。そして事故が増え始めた。
登山家を目指していた私は多少なりとも雪崩の危険を知っていた。自分も雪崩で死にかけている。定山渓天狗岳では表層雪崩に飛ばされた。カラコルムでは二度雪崩に遭った。バツーラの表層雪崩は夜間登攀中の雪崩だった。私は鯉の滝登りよろしく重い湿雪の雪崩に翻弄され、ハーネス(安全ベルト)で負傷した。フィックスロープが切れたら、すぐ下の深いクレバスに放り込まれていただろう。ラカポシでは氷河雪崩に遭った。時速200キロ以上で落差3000メートルを走る雪崩の到達まで20秒とはかからない。私と李家(りのいえ)は氷河を必死で走り、ベルグ・シュルンド(山側のクレバス)に飛び込んだ。直後に雪崩が襲ってきた。氷河雪崩の凄まじさは言葉では表現できない。吹雪の中で新幹線の屋根にしがみついているようなものだ。雪崩が去り、ともかく私たちは生きていた。その日は家ほどもある落石にも襲われた。生きるか死ぬかは運だ。私は運が強かった。
30年前、ニセコは国内でもっとも雪崩死亡者の多い山だった。1970年代後半から90年代にかけて、ここではスキー場とその周辺で十人あまりが雪崩の犠牲になった。遺体を家族に渡すのは辛いものだ。後年私は家族を失くした。そして悲しみの真の意味を知った。
ニセコでは今年(2023年)3月12日に一人が亡くなった。立ち入り禁止区域の事故だった。遭難者はロシアの富裕層の若者だった。遺体の発見は6月中旬まで待たねばならなかった。デブリが硬く厚すぎたためだ。
冬の表層雪崩でも停止した雪はすぐに固まる。ましてや全層雪崩のデブリにアルミショベルは役に立たない。チェンソーか土木用の剣先スコップ、或いは重機でもなければあの土砂混じりの硬い雪には歯が立たない。
科学的に確立されているはずの雪崩理論とそれに沿った事故対策だが、観察に主観的要素が強すぎないだろうか。本当に弱層から雪崩を予測できるのか。私には雪崩研究が木を見て森を見ていないように思えてならない。事故後に原因がわかっても後の祭りなのだ。事故後の調査で見つかる弱層が、はたして雪崩の原因だったのだろうか。雪崩研究と教育に誤りはないだろうか。
昨年(2022年)4月、知床で海難事故が起きた。観光船の乗客乗員26人が死亡または行方不明となった。今も6名の方々の安否が不明だ。知床は私の仕事場でもある。事故直後から私も知り合いの漁師とともに捜索に加わり、その後も沿岸の捜索を続けた。私はガイドとして40年近くこの海を漕いでいる。もともと山しか知らなかった私は山の経験だけで知床の海を漕いだ。その後もアラスカやアリューシャン、南米ホーン岬を漕いだ。
わかったことは海も山も同じということだ。どちらも失敗に手厳しい。自然は人を区別しない。私は山と同様に、海でも知恵だけが身を守ることを学んだ。しかし知恵はなかなか身につかない。だから失敗する。私は毎回、無い知恵を絞って準備して海に出る。そして過信や希望的観測が失敗の理由だということをあらためて思い知らされる。私は用心深く謙虚にならざるを得なかった。 
低水温の海で私たちは生きられない。ましてや嵐の海に放り出されればやがて恐怖で溺れる。それはPFD(ライフベスト)を着ていても同じだ。知床の事故で思うのは遭難の原因が何であるにせよ水温に無知すぎることだ。岸近くなら零度の海でも何人かは泳ぎ着けただろう。そのうち何人かは助かったかもしれない。しかし沖合千メートルでは無理だ。泳いで動けば五分以内に体温が三十度以下に下がり筋肉が動かなくなる。そして意識を失う。せめてドライスーツを着ていたらと思う。着ていれば生存時間を延ばせる。助かる可能性も高まる。「濡れずに乗り込める救命筏」の開発とその義務化よりも、私は低水温の海ではドライスーツの着用を強く奨める。荒れる海で濡れずに救命いかだに乗り込むというのは、あまりにも想像力に欠けた非現実的な考えだ。タイタニックが沈んだ海とは違うのだ。
ところで事故は船の整備不良や悪天候、事故を起こした観光船の利益優先の体質だけが原因だろうか。私は背景に知床特有の強い環境保護意識があるように思えてならない。知床は古くから日本の環境保護活動の先進地だ。誰もが認めるように知床の自然は素晴らしい。ヒグマの生息密度も高い。だから国と地元は自然破壊を心配し、外来者の入域を制限してきた。
しかしそれはなかなか守られない。春グマ猟が禁じられた2000年以降もカラフトマスやヒグマの密漁は横行した。ハンターがゴムボートの上陸に失敗して命を落とす事故もあった。岬近くのオキッチウシ川などで、腹からイクラを抜かれたマスが大量に捨てられているのも見た。これはヒグマの仕業ではない。
規制は必要だ。それがなければ乱獲や密漁が増える。環境破壊も進む。しかし善良な観光客と自然愛好家は知床奥地の自然を見たいのだ。知床世界遺産の有効な利用形態と認められたシーカヤックと海岸トレッキング、登山ではそれが可能だ。しかし誰もが行けるわけではない。多くの人々は知床の自然をテレビでしか見られないのだ。
その中で盛んになったのが海岸を遊覧して岸に近づき、ヒグマを観察する小型観光船ツアーだ。観光客にとってはそれが知床の自然を満喫する唯一の方法だった。人気は高まり観光船の数は増えた。そして知床でもっとも人気あるアクティビティとなった。船は常に満員だ。デッキには舳先まで人があふれていた。しかし十年ほど前から座礁や衝突事故などの小さな事故が起こり始めた。そして今回の事故が起きた。
問題の背景には観光船でしか奥地を見られない状況を作り、そのままそれをよしとして放置してきた知床特有の体質があるのではないだろうか。観光船事業者は海に大きな商機を見出した。ホテルも増えた。しかしやがて安全への投資を怠る人が出始めた。
それを危惧していた人はいた。しかし事故が起こるまで誰も口を開かなかった。私は観光事業者だけではなく自然保護関係者にもそれを感じる。観光船や釣り人がヒグマの人への警戒感を失わせる可能性があることから、彼らも漠然とした危機感は持っていた。しかしそれを放置してきた。他人事だったのかもしれない。自分たちが知床を守っているというプライドがそうさせたのだろうか。観光船利用客は大幅に減ったと思う。海を漕いでいるとそう感じる。知床に来る人も減ったように思う。人々はそれをコロナのせいにする。そしてコロナ後の観光の回復を待ち望んでいる。事故の後遺症は大きいと思う。
奥地へとつながる知床林道は一般車両の立ち入りが出来ない。利用できるのは一部漁業者と環境省、林野庁、北海道などの関係者、そして特別許可を得たメディアだけだ。先端の文吉湾避難港もそうだ。この港も関係者しか利用できない。林道や港の解放による自然へのダメージや事故を危惧すると言うのが彼らの意見だ。しかしそれなら林道と港こそがその破壊の最たるものではないだろうか。
半島の山腹には大きな傷跡を残す知床林道がある。岬には文吉湾避難港と巨大な防氷堤がある。林道はルシャ川の森林開発のため林野庁が作り、港は海難事故防止のために当時の建設省が作った。だからどちらもここには利権がある。北海道もカムイワッカ大橋に通じる道道に権利を持っている。これらは誰が見ても自然景観にそぐわない人工物だが、一般の立ち入りを規制しているのであまり目立たない。
今回、文吉湾は避難港としての役目を果たせなかった。この港の出入りは経験がない船乗りには難しい。そして観光船はその経験が少ない。観光目的での利用を制限しているからだ。また仮に避難しようにも入り口の沖には2か所の暗礁があって潮も速い。潮は時に三ノットを越える。西や北東の強風時には五メートルの防氷堤を越えるほどの波が立つ。この港は老練な船頭でさえ荒天時の出入りを躊躇するところだ。
船を壊しても岸に乗り上げれば良かったのにと考えるのは私だけではない。船頭は皆それを言う。文吉が駄目でもポロモイやアウンモイ、そしてカムイワッカにでも突っ込めば良かったのにと言う。しかし宇登呂に舳先を向け続けたことで、その機会は失われた。
知床は日本では稀な原始の半島だ。そしてオホーツク海に矢尻のように突き出た海上の山脈でもある。その地形的特徴が海と山に厳しい自然環境を造り出している。林道や港の不用意な利用は危険だ。しかしこの半島の素晴らしさを伝えるためにも、現実にそこにある知床林道と文吉湾避難港の二つを、新たなルールの下で利用する仕組みを作るべきだ。林道にはルシャまでシャトルバスを走らせ、文吉湾では観光船を使った知床岬先端のトレッキングツアーをガイド付きで行う。あるものは使ったほうが良い。これらを利用するほうが逆に保全につながる。
現状は公平でない。もし関係者が知床林道や文吉湾避難港を「自分だけは利用できるからこのままで良い」と考えているならそれは間違っている。それは国民の財産の私物化と変わらない。知床は正倉院の宝物殿と同じく国民の宝でもあるのだ。拝観料を取ってもよい。見たい人には見せる仕組みを作るべきだ。私は役所間の利害の障壁を乗り越え、熱意を持ってこの問題に取り組む人が出ることを願っている。

12月が近づき遅い雪が降り始めた。今年もまた冬が始まる。秋の知床をやめて時間ができたので築50年のボロ家を直している。窓も入れ替えた。そのせいか暖かい。これまではこの時期が一番寒かった。我が家の暖房はお客の体温に依存していたのかもしれない。人は暖かいものだ。
冬には雪崩情報を毎朝書く。そのため朝4時から圧雪車で山に上がる。情報は速報性が大事だ。みんなが滑り出す前に出さなければ意味がない。圧雪車オペレータの大場は私の喧嘩相手だ。情報は彼と馬鹿を言いながら作りあげる。今年は息子の春樹も仲間に加わった。彼は真面目なのでゲレンデ圧雪の仕上がりが良い。丁寧に車を走らせるからだ。圧雪が良ければ滑りやすく事故も起こりにくい。
新雪滑走は手間がかからない。ニセコのスキー場は新雪滑走の恩恵を受けている。しかしそこには迷子や立ち木衝突、雪崩や沢への転落など、ゲレンデとは違う危険がある。またスキー場によっては通常の営業前にリフトを回して特別に滑らせるところもある。ファーストトラックと呼ばれる特権的な仕組みだ。これは時に一般利用者の反発を招く。小さな山ではすぐに新雪が滑られてしまう。パウダーは無限にはないからだ。
スキー場には様々な人が来る。新雪を求める人もいればグルーミング(圧雪)された斜面を好む人もいる。スキーやスノーボードは体ひとつで雪上を滑走する危険なスポーツだ。暴走や衝突は時に大事故になる。しかし人々は滑走に喜びを見出してスキー場に来る。スキー場経営者は利用者の安全のためにも燃料と人件費を惜しまず、ゲレンデの圧雪に費用と時間をかけてほしいと思う。新雪に飽きた人はやがてゲレンデに戻ってくる。
ニセコルールと雪崩情報は倶知安、ニセコ、蘭越地域の関係者の理解のもとで出されている。捜索を数多く経験している片山町長をはじめ、ニセコ町役場と地域住民の応援がそれを支えている。コース外滑走のルールと雪崩情報は必要から生まれたものだ。この取り組みは事故を減らし、それは地域活性化にもつながった。英語でも出されているニセコ雪崩情報は今日、国内だけではなく世界中で愛読されている。

国後島と北方領土、その他もろもろのことを書いてみたい。知床羅臼から国後島までは20数キロの距離だ。歯舞、色丹、国後、択捉など南千島の島々は、1945年の終戦後に上陸してきたソ連軍に占領され現在に至っている。漁民は拿捕や銃撃の危険に怯えながら戦後80年近く、この海で漁を続けてきた。晴れた日には対岸の国後島西海岸の材木岩の崖や羅臼山の噴煙までよく見える。私は長くこの海を漕いできた。そんな中で私が体験したこと、考えたことを書いてみようと思う。これは択捉島の引揚者が多い羅臼の友人たちの声でもある。
引揚者の多くはすでにいない。その子供たちももう80近い。そして寂しそうに墓参で訪れた島のことを話す。みんなビザなし渡航で島を訪れている。島が返ってくるとは誰も思っていない。諦めているのだ。漁さえ出来ればそれで良い、撃たれず捕まらず漁がしたいと言う。誰も国に期待はしていないのだ。彼らにとっては海上保安庁さえ味方ではない。規則をたてに僅かな違反を厳しく突いてくるからだ。
中間ラインの向こうは棚があって魚が多い。しかしこちら側は深くて魚が少ない。それで漁師たちは危険を冒してむこうまで行く。見つかれば時には撃たれる。拿捕されて船が没収され抑留されることもある。罰金も払わされる。それでも彼らは漁に出る。それが80年続いている。その中では様々なことがあった。
30年前、羅臼に仲の良い若い夫婦がいた。彼らは二人で昆布やマスの刺し網漁をしていた。私は海でよく夫婦にカラフトマスをもらった。陽気で親切な人たちだった。ある時夫婦はタラバを獲るために境界を越えてエトロフまで出かけた。海は時化ていた。カニが獲れすぎた。小さな船はバランスを崩して転覆した。SOSを聞いたモイルスの綱義丸が全速で現場に向かった。ひっくり返った船には奥さんだけがしがみついて死んでいた。旦那は見つからない。綱義丸は600馬力19トンの定置漁の船だ。力があり波に強い。それでそのまま転覆した船を曳いて羅臼に戻った。
漁師たちは陸で迎え火を焚いた。15日目に浜にドラム缶が流れ着いた。それで迎え火をやめて葬式を出した。夫婦には小学生をかしらに乳飲み子まで4人の子供がいた。隣の家の老夫婦がその子たちを引き取った。「隣には昔から世話になった。今度は自分たちが子供の世話をする。」夫婦はそう言って孫のような子供たちを育てた。幼かった子供たちは成長して立派な大人になったことだろう。
知床の海は厳しい。羅臼では4・6突風と5・10海難という町史にも載る2度の大きな海難事故が起き、大勢の漁師が命を落とした。それでも彼らは生きるために漁に出る。あるいは熊を獲る。しかし魚は獲れなくなり春グマ猟も禁止された。30年前、冬のスケソウ漁が減船の対象になり、保証を受けるために船を手放す人が増えた。
政治家は選挙のたびに漁民に寄り添う素振りを見せる。しかし零細漁民の願いを聞き、それを果たそうとする人はいない。漁師たちは魚が減った前浜に網を入れ、昆布を養殖し、定置網漁の船で働き、あるいは遊漁船を営んでつつましく暮らしている。
私は目の前の国後島だけでも返してもらえないかと思う。そうすればどれだけみんなが喜ぶことか。そこは羅臼からあまりにも近い。尖閣や竹島は日本からは見えない。択捉と色丹も見えない。しかし国後はすぐ目の前にあるのだ。残念ながら日本人はそれを知らない。もちろんモスクワのロシア人が知るはずもない。
人々の心情に寄り添い、事情を多少なりとも知っていれば、ハボマイ、シコタンの2島返還で済むわけがない。4島のうちの2島といっても面積的には国後島の5分の1にもならない。何も知らない国民は喜ぶだろう。支持率も上がったかもしれない。しかしそれはチェチェンの弾圧やジョージアへの侵攻、政敵の投獄や暗殺を画策し、さらにウクライナ戦争をひき起こした独裁国家の指導者との口約束なのだ。その指導者とファーストネームで呼び合えることをこの国の指導者は自慢していた。恥ずかしい話だと私は思う。
領土交渉は国後に的を絞って進めるほうが私には現実的に思える。近いからだ。近すぎるという理由には十分な説得力がある。私は今後のロシアの体制変化を見据え、あらゆる手を使ってでも領土交渉を続けるべきだと思う。羅臼の子供たちに作文を書かせてもよい。ロシアの芸術文化を褒めたたえても良い。金で解決できるならそうすればよい。
昔、帝政ロシアは金に困ってアラスカとアリューシャンを720万ドルでアメリカに売り渡した。だから前例はある。これからも日本が日本であろうとするなら、政治家が本当に国民のことを考え、自分の利益ではなく国民のために知恵を絞り、粘り強く交渉に当たってくれることを願っている。それが真の政治家の役目なのではないのか。
1945年に日ソ不可侵条約が反故にされたように、ロシア人は相手の足許を見て動く。人は弱いものを探す。ゲルマン人やアーリア人に抑圧され、イスラム教徒に迫害されて時には奴隷化されたスラブ民族もまた、弱者を探そうとする。彼らはそうやって広大なユーラシア大陸を手に入れた。ヤルタの密約とポツダム宣言がある以上、従来の手法で島を返してもらう可能性は限りなく低い。しかし返してもらうべきなのだ。そこには徳川時代後半の高田屋嘉兵衛 をはじめとする日本人と千島アイヌの歴史がある。更に1875年に明治政府がロシア帝国と結んだ樺太千島交換条約もある。ロシア人を納得させる策はあるだろうか。相手が聴く耳を持つまで正論を言い続ける他に道はないのだろう。 
1945年、スターリンは北海道占領を目論んだがマッカーサーに阻止された。2014年、クリミア併合と前後してロシアはアイヌを自国の先住民と定めた。プーチンの歴史観では北海道はアイヌの国なのだ。だから日本軍国主義から自国民であるアイヌを保護するという名目で、ロシアが北海道に侵攻するのは荒唐無稽な話しではない。ウクライナはそうやって侵略された。また領土化を目指すなら稚内から南下して旭川、あるいは網走から西に旭川を目指すよりも、日本海から直接石狩湾に上陸して首都札幌を抑えるほうが理に適っている。海岸にはJR函館本線と国道5号線がある。北朝鮮も泊原発沖の日本海に、弾道ミサイルの飽和攻撃を行うことで、それに呼応するだろう。
私は銭函に住む新井場隆雄が心配になってきた。最近、彼の家に立ててあったウクライナの旗が何者かに倒されたという。私たちの知らないところで様々なことが動き始めている。杞憂であることを願っている。

いつか、また知床の海を漕ぎたいものだ。また、若い頃に歩いたネパールヒマラヤの古い交易路を歩きたいものだ。クンブーから家畜ヤクをソルに移動させるためのその古い道は、50年前ですらすでに忘れ去られようとしていた。途中のルムディン・コーラの激流にかかる危なっかしい橋を渡った日のことを思い出す。
平和だったからこそ私は辺境の旅ができた。そして自由にものを言えた。雪が降り始めた。今年はどんな冬になるだろうか。

(2023年11月29日)