goo blog サービス終了のお知らせ 

知床エクスペディション

これは知床の海をカヤックで漕ぐ「知床エクスペディション」の日程など詳細を載せるブログです。ガイドは新谷暁生です。

知床日誌㊱

2022-07-27 17:21:36 | 日記

知床を終えるたびに色々と考える。漕いでいる時はその時々のことしか考えない。家に帰ってから久しぶりに探検について考えてみた。古くて新しいテーマだ。探検とはいったい何だろうか。多くの探検家は新たな領土と富を求めて未知の世界へと旅立った。その後の南極や北極、ヒマラヤなど第3の極地への冒険的探検にも国の威信や権威が見え隠れしていた。探検家の多くはそのような人たちだった。それは日本も例外ではない。しかしそうでない人もいた。知床日誌を遺した松浦武四郎やキャプテン・ジェ-ムス・クックがそうだった。
松浦武四郎やクックは探検家として異質だった。多くの探検家や宣教師が行く先の「非文明」を劣ったものとして征服し教化しようとする一方で、武四郎やクックはその「遅れた」文化を尊重した。異なる文化が互いを認め合うことは難しい。部族の長や王様は常に自分が世界で一番偉いと信じている。銃を持つ人が優越感を抱くように石器人も自分の武器が一番強いと思っている。しかし異文化に接する交易の民は初対面の知恵を時間をかけて習得した。直接の接触を避ける沈黙交易や、目を合わさない初対面の挨拶も、異文化接触の知恵なのだろう。武四郎やクックはその知恵を自然に身に着けていた。彼らは人一倍人間性に富んでいたのだろうか。他人は自分とは違う。他者に配慮することが自分を守る。それが無用な争いを避ける。松浦武四郎もキャプテン・クックも自分と他者という人間の本質を理解した人だったのだろう。
武四郎は滅びゆく蝦夷地先住民の生き方と生活圏を尊重し、明治政府の方針に異議を唱えた。そしてここがアイヌ民族の土地であることを記憶に残すために北のカイの国、ホッカイドウと名付けて伊勢に去った。カイは大陸を支配した元の記録によれば、13世紀元朝モンゴルと戦ったアイヌ民族と蝦夷地先住民を指す言葉だ。元はそれを骨鬼と記してクイと呼んだ。クックは18世紀、世界航海史に偉大な業績を残した。キャプテン・ジェームス・クックはロシアに征服されたアリューシャンのアリュート民族の悲惨な運命、ロシアコサックの残虐な殺戮、そしてその優れた海洋狩猟文化と知性豊かなアリュートの姿を後世に伝えた。クックはその後ハワイ諸島で不慮の死をとげた。ちなみにピーターパンのフック船長はジェームス・クックとは何の関係もない。
探検についてはこれくらいにして知床エクスペディションについて書こう。探検史については伊勢の柴田丈広がものすごく詳しい。時間がないのでここでは焚火と飯炊き、雨具について書く。その前にしつこいようだが書き足すことがある。帝国主義は自国民にも害を及ぼす。全体主義に移行するからだ。市民がその兆候を知って黙認し放置すれば暗黒の時代はすぐに来る。来てからでは遅い。全体主義は個人の意思と自由を認めない。ヒトラーがそうだったようにプーチンも確実にその道をたどっている。プーチン史観は一見真理を含んでいるように見える。しかし民族の優劣思想を根底に隠し持つ邪悪な歴史観だ。プーチンはピョートル大帝にはなれない。この5か月、ウラルや極東、モンゴル国境などロシア辺境の若者がウクライナで大勢死んでいる。ハンバーガーを食べて浮かれているモスクワの若者たちは、いつそれに気づくだろうか。世界は再び凡庸の悪がはびこる時代になるのだろうか。
まず焚火だが、木なら何でも燃える。雨に濡れても水に漬かっていても生木でも燃える。石は燃えない。だから石でかまどを作ってはならない。火は燃える条件を作らないと燃えない。少し太めの木を2本風に平行に並べ、その間で焚き付けの細木に火をつける。そして徐々に大きくする。空気の流れを一方向にして、並べた2本の木の間に火を閉じ込める。そうすればやがて両側に燃え移る。対流が起きれば火力が上がる。火事で階段に火が走るのと同じ理屈だ。火は閉じ込めると空気を求める。そして空気の流れに沿って高速で走る。結果を想像できない無知が招いた京都の悲惨な事故もこの条件下で起きた。これは雨の多い土地の焚火法だ。この方法は人類の拡散に合わせて東ネパールのアルン川流域から東南アジアの山岳地帯を経て日本にまで伝わった。しかしすでに日本にこの文化はない。これらの土地では木自体をかまどにする。石を3つ置いて木を燃やす方法は、砂漠などの乾燥地帯の方法だ。また井桁に組むのは荼毘やキャンプフアィヤーの焚火法だ。実用的ではない。
薄いアルミ鍋でも米は炊ける。この方法を知っていれば災害時でもおにぎりが食べられる。鍋はどこにでもあるし米もどこかにある。水も濁っているかもしれないが必ずある。燃やすものは倒壊した家屋の廃材だ。洪水で流木もたくさん引っかかっているかもしれない。東日本大震災後に流行った「レスキューキッチン」がなくても米は炊ける。レスキューキッチンは灯油と発電機を回すガソリンが要るが、焚火ができれば誰でも米が炊ける。それにレスキューキッチンは高すぎる。具体的な米炊き法だがまず米に水を入れて直火にかける。そして時々ふたを開けて沸騰前から混ぜる。それを繰り返して米粒の固まりを常に崩す。やがてさらに米が煮えて本格的沸騰が始まる。さらに混ぜる。やがて鍋の中が地獄の窯状態になる。そこで直火からおろし熾火(おきび)を作ってその上に鍋を乗せる。13秒に一度鍋を回す。熾の熱が均等ではないからだ。5-6分それを繰り返す。この時ふたは開けない。そして蒸らす。そうすれば米は炊ける。赤子泣いてもふたとるなというのは料理下手な主婦の俗説だ。直火から良い「おき」を作るにはきゅうりサイズの雑木(広葉樹)の皮なしの枝が15本要る。飯炊きは重労働だ。
知床で生活する上で漁師合羽を越える雨具はない。使ってみればわかる。雨具に求められる機能は防水性や通気性ではない。防寒性だ。軽いナイロン雨具はそれがゴアテックスであっても冷たい雨の中で体に張り付き体温を奪う。知床ではウレタン素材の漁師合羽を強く勧める。ゴム系より2割軽い。サイズは大きめが良い。これがあれば雨の中で地面に座って酒が飲める。そしてどんな嵐にも耐えられる。漁師ガッパは無敵だ。今回も海岸には目立った痕跡や漂流物はなかった。それにしても保安庁や警察は半島ウトロ側の陸上捜索をやるべきと思う。現状では海岸を見ているのはこの3か月私たちだけだ。統一教会と勝共連合が巷をにぎわしている。何を今さらと思う。これが宗教と言うなら一つくらい心に響く言葉を語ってほしいものだ。他人をとやかくは言えないが、恥ずかしい限りだ。私は目の前の仕事を続けるだけだ。次の知床がすぐに始まる。

追記 もう一人優れた探検家を思い出した。ウラジミール・アルセーニエフだ。デルスウ・ウザーラを書いた人だ。

知床日誌㉟

2022-07-06 18:01:04 | 日記



遥かなる国後
6月25日からの知床エクスペディションは無事終了した。今回は今年はじめてカシュニを越えてウトロまで漕いだ。漕ぎながら海岸を注意深く見たが、特に変わった動きはなかった。ヒグマは相変わらず多い。20頭近く見た。冬眠中に生まれた子供が母親にまとわりつき、親を真似て動く姿は可愛くおかしい。新しい食べ物を見つけたのだろうか。栄養状態は良いようだ。ヒグマは賢い。彼らは雑食と用心深さ、環境適応の知恵を身に着けて有史以前から生きてきた。
知床エクスペディションの参加者は多種多様だ。私の知らない世界の話を聞けるので楽しい。今回は富山県魚津の佐伯夫妻が参加してくれた。佐伯さんは有名な立山ガイドの一人だ。また高橋庄太郎君が仲間とともに参加してくれた。彼らはツアー終了後に岬まで海岸を歩く予定だ。来年は徒歩での半島一周を目指すという。高橋庄太郎は20年近く知床エクスペディションに参加し続けている。
参加者が一様に驚くのはロシアが実効支配する対岸の国後島の近さだ。晴れていれば海岸の崖まで良く見える。しかしはっきりと見える後は必ず嵐になる。今回は霧と雨が多かったが、それでも島の最高峰チャチャヌプリがたまに見えた。ここはもう日本ではない。ロシアだ。羅臼の漁師は戦後80年近く、この国境の海で拿捕や銃撃の危険に怯えながら漁を続けてきた。島がこれほど近くにあることを、政治家だけでなく多くの日本人は知らない。モスクワのロシア人も知らない。尖閣や竹島は見えない。しかしクナシリとハボマイはすぐそこにある。私たちが北方領土と呼ぶこれらの島々が日本に帰ることはあるのだろうか。
水温は10度近くまで上がったが相変わらず冷たい。ウリクラゲが無数にいる。雨が多かったのでみんな体を濡らし、寒そうだった。テントもシュラフも湿って重い。たまの晴れ間には防水バッグから寝袋を出して乾かした。知床では完全防水の漁師ガッパが欠かせない。これを着ればどんな嵐にも耐えられる。雨具に必要な機能は防水性ではない。防寒性だ。ナイロン雨具はたとえそれがゴアテックスであっても、冷たい雨の水圧で体に張り付き体温を奪う。高価なゴアテックス雨具を使うなら、それが直接肌に触れないよう空気層を持つものを下に着なければならない。私はウールセーターを奨めている。薄いクルーネックのカシミヤやメリノウールが良い。毛は濡れても必ず身を守る。北海道の遭難事故は雨具の不備によるものが多い。近年のトムラウシや知床岳、羊蹄山なとガイド登山中の事故は、直接的にはガイドの判断の誤りによるものだ。しかしその背景にはゴアテックス雨具と速乾性をうたう化繊肌着への過信がある。事故をただ悪天候のせいにしてはならない。
知床羅臼では過去に2度の大きな海難事故が起きている。1954年5月10日には「5・10海難」が起き10数隻50数人が失われている。この時は根室海峡と太平洋でも多くの船が沈み、数百人の犠牲者がでている。1959年4月6日には「4・6突風」により15隻85人が遭難している。低気圧は知床付近で急激に発達する。西のウトロ側では朝が凪でも低気圧通過後すぐに風が強まる。羅臼側では時を置いて山越えの暴風、いわゆる「ダシ」が突然吹き出す。時にその強さは岸壁に駐車したトラックを海に落とすほど強い。これらの海難は知床特有のこのような気象条件下で起きている。当時の漁船は焼玉エンジンで馬力も小さい。突然の大時化で無理に港に戻ろうとした船は横倒しにされて転覆し、風波に逆らわず必死で国後まで逃げた船だけが助かった。KAZU1もそのような中で遭難したのだろう。
知床半島はオホーツク海に突き出た海上の山脈だ。古来ここはオホーツク人とその後のアイヌ民族の生活の場所だった。往時の暮らしの痕跡は岬やイダシュベ、ポロモイなど海岸近くの僅かな平坦地に竪穴住居跡として残っている。人々は流氷原の空気孔に顔を出すアザラシを獲り、夏には遡上するサケマスを捕獲し、ヒグマを獲っていた。アイヌは北海道の先住民だが、狩猟だけで生きてきたわけではない。彼らは日本海から朝鮮、大陸までを縦横に行き来する交易民族であり、その活動範囲はカムチャッカからベーリング海にまで及んだ。しかし16世紀以降、徳川幕府と松前藩の圧政で徐々に力を失い、場所請負制の下で和人商人に従属して漁業労働者となり、やがて日本に同化させられていった。
今日、日本ではアイヌを国内の少数民族と位置付けている。しかし先住民族とはしていない。それ故、その権利の回復、土地の返還や伝統的狩猟などの復活を認めていない。文化の復興とはウポポイなど箱ものの建設や歌や踊り、或いは言語や道具の復活だけを言うのではない。サケマスの自由な捕獲、狩猟など本来の生活に根差した「技術伝統」を甦らせなければ真の復興とは言えない。先住民族としてのアイヌの人権の復権は果たされていない。
2018年、ロシア議会はアイヌをロシア国内の先住民族と認めた。これを根拠にロシアが北海道に侵攻する可能性は荒唐無稽な話ではない。プーチンの歴史観によれば北海道はアイヌの国だからだ。それならウクライナと同じようにアイヌ民族の解放を謳って北海道に侵攻することができる。戦後ソビエトは占領地の日本人を長くシベリアに抑留し重労働に当たらせた。現在ウクライナでは160万人のウクライナ人をロシア国内に強制移住させているという。スターリンが死んで初めて日本人抑留者の帰還事業が進んだように、プーチンが生きている限りこれからもこの蛮行は続くのだろう。日本はアイヌ民族の実質的な権利回復を行うへきだ。そして国連決議に従って明確に先住民族と認めるべきだ。日本が民主国家と言うならこの問題を解決済みとして曖昧にしてはならない。それにしてもロシアが先にアイヌの先住権を認めたというのは悪い冗談のような話だ。自由主義社会の体裁を装い、体よく資本主義の恩恵を享受する覇権国家にとって、環境や人権は専制独裁を続けるための方便でしかない。
1945年、第2次大戦終結後、旧ソビエト連邦はサハリンと千島全島を手に入れた。アメリカは沖縄と日本を占領した。択捉以南を含む千島のソビエト領有は大戦の帰結なのだ。批判を承知で言うが北方領土返還交渉が上手く進まなかったのは、日本が頑なに「固有の領土」論にこだわったためではないだろうか。大戦の結果を受け入れた上で、あらためてこの父祖の地を何とか返してもらえないかという交渉はできなかったのだろうか。せめて目の前に見える、あまりにも近くにあるクナシリとハボマイの2島だけでも返してもらえないかという交渉はできなかったのだろうか。シコタンとエトロフは見えないから返してくれなくても良い。ただとは言わない。条件次第ではロシア軍の駐留も認める。そのような交渉はできなかったものだろうか。
アラスカはアメリカがロシアから買った土地だ。当時の帝政ロシアはクリミア戦争の戦費がかさみ、金に困っていた。1867年、アメリカ合衆国はロシア帝国からアラスカ及びアリューシャン列島、そしてプリビロフ島を720万ドルで購入した。今日のウクライナ戦争という暴挙に、ロシアはやがて疲弊する。もし自由社会が本気で現在のロシアを干上がらせ暴走を止めることが出来れば、ひょっとして日本の領土交渉の突破口が開けるきっかけになるかもしれない。しかしプーチンの野望はこれからも消えない。何よりもロシアと対等に渡り合い、真剣にこの問題に取り組もうとする政治家は日本にはいない。政治的思惑だけで4島を勝手に2島に決め、個人の政治的野心と利権を追うだけの政治家にこの問題の解決はできない。安倍晋三がプーチンと取り決めた2島とはハボマイとシコタンだ。2島合わせてもその面積は国後の5分の1もない。プーチンはほくそ笑んだに違いない。これをまとめれば日本に恩を売るだけではなく、更に大きな利益を日本から引き出す足がかりになる。妥協してはならない。プーチンの野望を打ち砕く努力を、恐れずに続けなければならない。しかしその勇気がこの国の指導者にあるだろうか。何よりも今日の日本の政治家は、そもそも底辺の人々や辺境の人たちに関心がない。
国後はすぐそこにある。羅臼や標津の漁師はこの海で漁をしている。国境を越えれば拿捕され、時には銃撃される。羅臼の公園に「4・6突風」で息子を失くした老人の像が建っている。戸川幸夫原作の「オホーツク老人」の映画化を記念して建てられたものだ。この映画は「地の涯に生きるもの」として1960年に公開された。像は主演の森繁久弥そのままの姿で寂しげな笑顔を浮かべて佇んでいる。老人はマニラ麻の魚網をネズミから守るため、半島奥地の氷に閉ざされた番屋に一人で暮らした。ネズミを捕る飼いネコにエサをやるためだ。6月28日、KAZU1の乗船者とみられる方の遺体がサハリン、コルサコフ付近の海岸で発見された。遺体は岬から北西に流され、20マイル以上の沖合を北に流れる反流に乗ってサハリン西岸にまで達したのだろう。着用していたという赤いPFDが他のものより浮力があったためだろうか。そのため違う潮に乗ったのかもしれない。亡くなられた方の冥福を祈るとともに、多くの人がこの辺境の土地に関心を持ってくれることを願っている。


知床日誌㉞

2022-06-20 19:32:29 | 日記

知床から戻り、森の中で艇を直している。私の舟はロシアか北朝鮮の船のようだと良く言われる。岩場での上陸と出艇を繰り返す艇は壊れやすい。パフィンのようなポリ艇でも時にパウが割れる。凪の良い時は浮かべて乗り、舳が陸に着いたらすぐに舟から出てくれと頼むが無理だ。海が静かなことは少ない。浜も砂浜ではない。壊れたら直す。直さなければ前に進めない。昔参加した人に「これぞフィールドメンテナンスの極意と」褒められたことがあった。わが社でも現場で直す、彼はそう言って修理を手伝ってくれた。彼は自衛隊で戦車を直している人だった。
今修理しているのは30年前のシースケープだ。公庫の融資を受けて購入したのを覚えている。それにしても水漏れがひどい。10分に一度アカ汲みをしなければ尻まで水につかる。応急修理では無理なのでニセコまで運ぶことにした。フネに水を入れて浸水箇所を探した。以前の修理箇所が大きく剥離し、フレックステープがそれを隠していた。徹底的に直すことにしてサンダーでゲルコートを削り、破損個所に薄くクロスとマットを重ね張りした。触媒の量にも注意した。多すぎると硬化が早まる。それは仕事を雑にする。ダメージは中央右のチャインだった。舟は壊れる。しかし直せば良い。昨年6月にはロープで縛った艇が風で飛ばされ、岩場に叩きつけられてフネが折れた。ウォーターフィールド、水野さんの「新艇」だった。現場で応急修理をしたが今回、同じ場所から再び水が入った。飯作りと並行して舟を直すのは大変だ。しかし怠けてはいけない。ともかく直さなければ前に進めない。
今回も一周はせずアイドマリから岬を目指した。昆布漁師の村田さんには小屋を使わさせてもらい、元役人のマンさんにはホッケの一夜干しとニシンの切り込み、トドの刺身をもらった。根室海峡から岬をオホーツクへと回り込んでカシュニまで漕ぎ、岸近くをゆっくりと漕ぎながら再びアイドマリへと引き返した。岬を2度通るのは苦労だ。事故からひと月余り、北からの時化が断続的に続いていた。水温もまだ5度以下だ。陸では焚火から離れられず、漁師合羽が役立った。暖かい。急な崖の草地では子連れのクマが無心に草を食べていた。ヒグマは基本的に草食動物だ。単独の大きなオスと子連れの家族をいくつも見た。交尾しているクマたちもいた。海岸には無数の流木や漁具、ロシア文字やハングルの書かれたボトルなどがあがっていた。途中、ポロモイの先で定置の船頭と話した。網を入れれば何か見つかるかもしれない、水温が低いので沈んだ人はなかなか浮いてこないと言っていた。この海では何年も後に遭難者が見つかることがある。
文吉湾のことを話すと船頭も同じことを言った。そしてエンジンが動いているうちに文吉湾なりポロモイやアウンモイの湾に逃げ込めば良かったのにと残念がった。船を壊しても陸に乗り上げれば良かった。しかし後悔先にたたず、事故後に原因がわかっても後の祭りだ。3mの波は小さくはない。しかし岬ではもっと波が立ち風を伴う。風の危険を指摘する専門家は少い。知床では浜の浮石さえ風で飛ぶ。海は竜巻が走り目も開けられない豪雨が突然襲う。そんな中では動力船の操船すら困難だ。
事故原因は明らかだ。船底の穴は文吉湾北西の暗礁によるものかもしれず、隔壁の穴が浸水の原因かもしれないが、そんな中で船を走らせたことが誤りなのだ。海では判断5秒が生死をわける。不可抗力の事故はない。老いた漁師は「フネに片足乗せたら用心しろ」と言う。しかし今や用心という言葉さえ死語だ。そして責任のなすりあいが始まり、議論がすり替えられようとしている。義務化される救命ラフトがあれば遭難者を救えたろうか。結論から言うと巨大な波と風の中で濡れずにラフトに乗り移ることはできない。事故は静かな海で起こるのではない。だから知床のような海では使えない。波に翻弄されながら冷たい水の中を必死で泳いだ人がいたはずだ。海底で見つかったGパンがそれを示しているように思う。ズボンを脱ぎPFDを捨てて必死で泳いだのだろう。せめて沖合300mだったらと思う。しかし1000mでは無理だ。心が痛む。
アメリカのコーストガードは冬のベーリング海に出動する。波高6m以上の大時化の中でもだ。彼らは常にウナラスカやコディアック、アトカやプリビロフに船とヘリを待機させている。一方で日本はどうだろうか。事故後に態勢の強化が叫ばれている。海上保安庁の対策、特に沿岸捜索の態勢は充分だろうか。海岸の多くはまだ充分に捜されていない。保安庁には羅臼の「巡視船れぶん」にも搭載されているウォータージェットの救命艇があるのではないだろうか。これなら海岸の岩場をくまなく捜索できる。またUS-2が使えれば良かったのにと思う。海上自衛隊のUS-2は波高3mでも離着水できる救難飛行艇だ。US-2はかって伸坊次郎氏を太平洋上で救助し、外洋で多くの遭難者を救ってきた。
このひと月に起きたことを見て思うのは、同様の事故を起こさないための議論がほとんど成されていないことだ。運行計画の順守や尊重、無線や救命いかだの義務化やその徹底が本当に事故防止につながるのだろうか。それはただ責任回避の体裁ではないのか。責任の所在などどうでも良い。そんなものはどこかにあるに決まっている。今後2度とこのようなことが起きないための現実的、具体的な議論が今は必要なのだ。それは行われているだろうか。
事故は起こるべくして起きた。そしてその背景には自然保護に名を借りた、奥地を人々に見せようとしない知床全体の閉鎖的、排他的体質があるように思う。もし廃道寸前の知床林道を整備してシャトルバスを走らせ、岬の文吉湾避難港を解放すれば、人々の選択肢は大きく増える。それがないから人々は小型観光船に集中し、あるいは知床五胡の散策でお茶を濁し、海岸トレッキングで波にさらわれて死ぬ。この状態が30年以上続いている。タガが緩み危機意識が薄れるのも当然だ。私はそれが事故の遠因と思う。むろん林野庁、環境省の知床国立公園と世界自然遺産の基本方針は正しい。それがあるからこそ知床の自然環境は守られてきた。
私は知床林道を修復してアラスカのデナリ国立公園のような、管理された上での解放を行うべきと思う。また文吉湾避難港を積極的に活用すべきと思う。林道終点のルシャ、テッパンベツではサケマスの遡上やそれを追うヒグマの生態が見られる。現在それは特別許可を得た特定の人以外できない。文吉湾避難港では岬の草原台地のすぐれた景観や知床灯台を観察できる。
現状、知床林道は大瀬船頭の19号番屋が道の補修を続けている。しかしやがて番屋がなくなれば道は荒れるに任される。その後国が積極的に関与するのか、廃道を前提に放置するのかはわからない。今後の方針はそれぞれの立場により考えが異なるのだろう。文吉湾避難港はオコツク丸の番屋が長く守ってきた。しかし番屋が宇登呂に引き上げれば利用する人はいなくなる。この港の存在が今回の事故の生死を分ける鍵だったと思う。
知床奥地を解放すべきと思う。これ以上自然が壊されることはない。50年前に避難港を作り、ルシャの森林伐採のために林道を開いたことですでに自然は充分に壊されている。これ以上の破壊を防ぐためにも奥地を解放すべきと思う。地元や関係する諸官庁が眼前の利益と権限、面子にこだわらず、将来の知床像を描いてほしいと思う。日本の自然公園法はその保護とともに適切な利用を謳っている。知床の価値は限りなくある。そして人々はそれにもっと触れたいと思っている。知床100平方メートル運動の歴史が今日の宇登呂の高い環境意識の礎となっている。また国境の海での過酷な漁業が今日の羅臼の暖かな風土を形作っている。未来に向けての様々な議論が巻き起こることを願っている。


シーカヤックジャンボリー

2022-05-19 18:54:25 | 日記
日本唯一のカヤック専門誌『kayak~海を旅する本~』誌主催の交流イベントです。 


知床日誌㉝

2022-05-07 16:06:52 | 日記


羅臼はまだ桜が咲かず海岸に雪が残る。流氷が去ったこの時期の知床は水温が極端に低い。また北と南、どちらの風も突然吹き海は一瞬で変化する。静かな海はない。そんな中で私は毎年漕いできた。ドライスーツは必須だ。しかし着ていても荒れる岩礁帯に放り出されて波に翻弄されれば助かる可能性は低い。突然巨大なブーマーが現れ、潮と風が強い知床岬一帯はルートファインディングが特別難しい。それでも岸近くを漕ぐ。まだ助かる可能性があるからだ。沖では瞬時に致命的事態を招く。沖は潮が速く不規則な波が常に上下している。風が吹き出せば波が一気に高まって動力船でも操船が困難だ。私は凪が良くてもこの場所の通過は口が渇く。緊張と恐怖からだ。そんな中で観光船KAZU I の事故は起こった。4月24日、この海で尊い26人もの命が奪われた。私たちは今回、遭難者の捜索のため半島羅臼側をアイドマリから知床岬まで往復した。寒気が強く残る今年は陸波が危険なほど大きかった。いつものように複数のヒグマが海岸近にいた。かれらの様子からこの海岸に遭難者はいないようだった。

雪崩事故もそうだが後に原因がわかっても死者は還らない。事故には理由がある。それを防ぐには事故の要因を取り除き、過信せず用心するしかない。長く知床沿岸を漕ぎ、多くの事故を見聞きし、自分でも何度か事故を起こしかけた者として、今回の事故を考察してみようと思う。報道にあるような議論に終始すれば、再び同様の事故が起こるからだ。

観光船は知床観光の花形だ。半島への交通手段が船しかない知床では、奥地を見ようとすれば船に乗るしかない。その結果、小型観光船が一気に増えた。特に自然遺産指定のあとでそれは顕著だ。人々は雄大な景色とヒグマを求めて船に乗る。観光船ビジネスは遊漁船とともに知床の経済を支えている。観光を国の基幹産業と捉える国は、規制緩和に現されるように、これらの自由な民間の経済活動を後押ししてきた。私はそこに何か大きな見落とし、慣れや過信などがあるように思える。それは主に経験値の軽視に現れるような効率優先の考え方かもしれない。この国ではすでに時間をかけて得られる地道な経験の蓄積や技術の習得は必要ない。歴史や先人の声に耳を傾ける人も少ない。学校や講習会で知識を得て資格を取得すれば、経験がなくてもガイドにさえなれる。

誰も言わないので指摘するが経験ある船頭なら天候急変時に文吉湾避難港に逃げ込むことを考えたはずだ。国交省が造ったこの港は、本来そのためのものだからだ。しかし5mの防氷堤を乗り越える波の中で、仮にそれを考えても港口の浅瀬の波を突破して避難するのは容易ではない。老練な船乗りなら可能だが躊躇して迷えば彼らでも出来ない。しかし船を壊してでも港に逃げ込めば助かる。ブリッジに座る船長には防氷堤が見えていたはずだ。しかし港口の波にひるんだか、或いは文吉湾北西の瀬に乗り上げるかして危険を感じ、宇登呂に舵を戻したのだろう。ひよっとして港があることを知らなかったのかもしれない。突風と波の連続で舳から数発の波を食らえば船は水船になる。ハッチの閉鎖が不十分ならエンジンルームにも浸水する。この時、船を壊しても岸を目指せば助かる可能性はあった。しかしKAZU Iは宇登呂に針路を取った。水船になってもまだ走れたのだろう。だから西の波を右舷側に受けながらも走れた。しかし左前方にカシュニの滝が見え始める頃、沖合1kmで吸気から水を吸い込んでエンジンが止まった。そして沈んだ。せめて岸に近ければ、まだ生きる望みはあったかもしれない。

報道を見ていると疑問がわく。電子機器の不備が言われているが、それがなくても経験豊富な船頭なら船を走らせられる。機械を過信しすぎている。国は8億円かけて船を引き揚げると言う。何のためか。政治家と国の威信のためか。奄美沖で沈んだ北朝鮮の工作船を引き揚げるのとは訳が違う。業務上過失致死罪の罰金は最高100万円だ。わずかな懲役刑と罰金のために金をかけるべきではない。それよりも今後、このような事故が2度と起こらないよう考えるべきだ。知床だけでなく今回のような事故が起こる可能性はこれからも続く。だから具体的な対策を考えるべきだ。何よりも低水温対策をもっと真剣に考えるべきだ。少なくともライフジャケットだけでこの海では助からない。自動膨張筏もブーマーや繋いだ本船により破壊される。また海に浮かんでも複雑な波の中では乗り込みが困難だ。

私は知床の小型観光船では夏を除きライフベスト(PFD)だけではなくドライスーツの着用を義務づけるべきと思う。ネオプレンガスケットの簡易型のもので良い。国が現在の観光政策を変えないなら、せめて具体的な安全対策に補助金なりの費用を回すべきだ。ドライを着ていれば落水しても生存率は飛躍的に高まる。ライフジャケットだけが義務というのは漁師ならいざ知らず、観光客の安全を真面目に考えるならあまりにも無知だ。GPSなどの電子機器は便利だ。その義務化も必要だろう。しかし機械は必ず壊れる。そしてそのバックアップにはやはり経験豊富な人材の育成が必要だ。カヤックもそうだが、知床で動力船を走らせるなら海岸地形に熟知していなければならない。しかしそんな講習が行われているだろうか。何よりもそこまで海に明るい船頭が何人いるだろうか。だから岸に寄りすぎて毎年のように事故を起こす。KAZU I の失敗を非難しても何も生まれない。また自分だけは大丈夫というのはもっと始末が悪い。批判するのではなくこのような事故が2度と起こらぬよう考えるべきなのだ。

今年も知床エクスペディションを続ける。知識は経験に置き換えられない。後進にそれを伝えなければならない。地道な経験の積み重ねと用心深さだけが事故を防ぐと私は信じるからだ。それにしても気が重い。齢のせいだろうか。自戒と哀悼の念をこめてこの原稿を書いた。26人の冥福を祈りたいと思う。それぞれの故郷ではすでに桜も散り初夏の装いだろう。本当に気の毒なことだ。 合掌