
2008年、東京でC40(世界大都市気候先導グループ:The Large Cities Climate Leadership Groupの略)の会議が開催された。この会合では、気候変動の適応策がテーマになり、東京都としても適応策の方向性を考える必要があり、私も適応策に関する少しの調査の委託を受けて、関係者へのヒアリング等を実施したことがある。
C40の会合では、参加都市による共同行動を宣言するわけであるが、この共同行動として何をとりあげたらいいのかが課題となっていた。東京都の担当者と、つくばエクスプレスにのって、ヒアリングのために移動する際、「いい適応策は、緩和策(温室効果ガスの排出削減)につながる」という議論をしたことがなつかしい。
この議論においては、いい適応策とは、都市内緑地の整備や、過度な冷房使用による排熱の抑制等をさしていた。緩和策と両立する適応策を、”いい”適応策とみていたことになる。
その後、緩和策にも、いい緩和策と悪い緩和策があることが現実問題として露呈する、大きな出来事があった。東北大震災その後の原子力発電の稼働停止である。原子力発電は温室効果ガスを減らす電源として、その推進を位置づけられてきたが、自然災害に対する脆さと事故時の被害の深刻さを考えると、原子力は”いい”緩和策ではなかったのである(これは事故がなくてもわかっていたはずであるが)。
この場合のいい緩和策と悪い緩和策の違いは、安全・安心への配慮を基準としているが、いい・悪いの基準はそれだけでないだろう。適応策のいい・悪いも同様で、緩和策との両立といった狭い基準で判断するものではない。いい・悪いの基準は、持続可能性という観点に包含される、将来世代や他生物といった他者への配慮、 弱者への配慮・公平性、主体の幸福等であろう。
気候被害が深刻化してきている今日、適応策の必要性の認識が高まってきているが、気候被害を防げればいいとして、目的短絡的な適応策を採用すると、失敗を後悔することになるだろう。適応策にも、持続可能性という観点からみれば、いい適応策と悪い適応策があるからである。過剰な投資によって整備する堤防は、行財政コストを増大させるとともに、他の対策をなおざりにしてしまう恐れがある。住民の主体的な取組みや自助や互助の取組みこそ、持続可能な社会にとって重要な要素であるはずであるのに。
さらにいえば、いい適応策の基準として、社会変革的であることが大事である。社会変革的であることとは、大規模開発や技術主導、経済至上主義できたこれまでの道の踏襲ではなく、新しい技術を使いこなしつつ、小規模分散、多様性・多面性、参加と協働、自律と自立、同化と学習等を重視する新たな道の開拓の方向にあるかどうかということである。
いい適応策と悪い適応策の違いを議論する際、持続可能性という観点を持ち出すと、適応策の受容性が低くなってしまう可能性がある。また、適応策には社会変革性が重要等というと、立場によっては受け入れがたいと判断されることもあるだろう。しかし、気候変動の影響は、気候という外力の変化だけでなく、社会の内力の低下によってももたらされる。その内力の低下とは、少子高齢化、経済の縮小、行財政制約等だけでになく、社会経済システムやその基盤となる都市システム、そこの暮らす人々の意識等の側面にあるとすれば、それらの変革抜きの適応策は小手先に過ぎない。
適応策とは、これまでの都市や経済・生活様式を守ることではなく、それらを変えることである。社会を変える適応策こそ、いい適応策である。