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【吉備真備】=7700字=英語・日本語
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この項目では、歴史上の人物について記述しています。井原鉄道の駅については「吉備真備駅」をご覧ください。
吉備真備像(倉敷市真備支所)
吉備 真備(きび の まきび、持統天皇9年(695年) - 宝亀6年10月2日(775年11月3日))は、日本の奈良時代の学者、政治家(公卿)。正二位・勲二等・右大臣。
備中国下道郡(後の岡山県吉備郡真備町、現在の倉敷市真備町)出身。父は右衛士少尉下道圀勝(しもつみちのくにかつ)。母は楊貴氏(大和国(後の奈良県)の氏族と覚しき八木氏の女性)とされるが[1]、疑わしい[2]。下道氏は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族。異説として加茂氏系図に、吉備彦之孫・(鴨の)吉備麻呂・右大臣という記載があり[3]、この人物が吉備真備であるという説がある。また賀茂保憲や賀茂光栄は吉備真備の末裔とする文献もある[4]。
目次 [非表示]
1 略伝
2 経歴
3 伝説
4 系譜
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
略伝 [編集]
霊亀2年(716年)、下道真備は22歳のときに遣唐留学生(遣唐使)となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂、玄らと共に入唐した。帰路では種子島に漂着するが、天平7年(735年)に多くの典籍を携えて帰朝した。唐では儒学のほか、天文学や音楽、兵学などを学び、帰朝時には、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管、鉄如方響、写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓、馬上飲水漆角弓、露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し、『東観漢記』を持ち来たした。
帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、天平9年に従五位に列せられた。翌10年に橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、同時に帰国した僧玄とともに重用され、真備は右衛士督の役職を兼ねた。同11年8月母を葬るとされる[1]。天平12年(740年)には、真備と玄を除かんとした藤原広嗣が大宰府で反乱を起こす。翌13年に東宮学士として皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇・称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。その後、天平15年には従四位下、春宮大夫兼皇太子学士、同18年には吉備朝臣の姓を賜り、同19年に右京大夫に転じて天平勝宝元年(749年)には従四位上に昇った。孝謙天皇即位後の翌2年には、藤原仲麻呂が専権し、筑前守、肥前守に左遷される。同3年には遣唐副使となり、翌4年に入唐、阿倍仲麻呂と再会するが、その翌年には帰朝する。この折に屋久島に漂着するが、鑑真を伴って無事に帰朝する。
天平勝宝6年(754年)には大宰少弐に昇任、翌々8年に新羅に対する防衛のため筑前に怡土城を築き、天平宝字2年(758年)に大宰府で唐での安禄山の乱に備えるよう勅を受け、翌3年に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。その後、暦学が認められ、儀鳳暦に替えて大衍暦が採用された。天平宝字8年(764年)には造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こした際には、従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げ(藤原仲麻呂の乱)、天平神護元年(765年)には勲二等を授けられた。翌2年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となり、藤原真楯の薨逝で大納言となった後、右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執った。地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。
宝亀元年(770年)、称徳天皇が崩じた際には妹の由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した。
『水鏡』など後世の史書や物語では、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この即位をめぐる話は『続日本紀』には認められず、この際の藤原百川の暗躍を含めて後世の誤伝あるいは作り話とする説が強い(河内祥輔、瀧浪貞子など)。光仁天皇即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの解任を許し、右大臣の職は慰留した。宝亀2年に再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何も伝わっておらず、宝亀6年に薨去する。
奈良市内にある奈良教育大学の構内には真備の墓と伝えられる『吉備塚(吉備塚古墳)』がある。職務の傍ら孔子をはじめとする儒教の聖人を祭る朝廷儀礼釈奠の整備にも当たった。著書に『私教類聚』『道弱和上纂』『刪定律令』などがあるとされている。在唐中、書は張旭に学び、帰朝後、晋唐の書道を弘めた。古筆中に、虫喰切、南部の焼切が現存する。
経歴 [編集]
日付は旧暦。
持統天皇9年(695年)備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる[5]。
霊亀2年(716年)8月20日、遣唐使に付随し、留学生となる。翌年3月、難波を発す。
天平7年(735年)3月、帰朝。時に、従八位下。同年、正六位下に昇叙。さらに、大学助に任官。
天平8年(736年)正月21日、外従五位下に昇叙。月日不詳。中宮亮に任官。
天平9年(737年)2月14日、従五位下に昇叙。同年(738年)12月27日、従五位上に昇叙。その後、月日不明、右衛士督を兼任。
天平12年(740年)11月21日、正五位下に昇叙。
天平13年(741年)7月3日、東宮学士に任官。
天平15年(743年)5月5日、従四位下に昇叙。6月30日、春宮大夫に転任。東宮学士元の如し。
天平18年(746年)10月19日、下道(臣、朝臣)真備。吉備の氏と朝臣の姓を給い、吉備朝臣真備と変わる。以後、吉備真備と称す。
天平19年(747年)3月、春宮大夫・東宮学士退任。11月4日、右京大夫に任官。
天平勝宝元年(749年)7月2日、従四位上に昇叙。
天平勝宝2年(750年)正月10日、筑前守に遷任。後に肥前守に遷任。
天平勝宝3年(751年)11月7日、遣唐副使に補任。
天平勝宝4年(752年)閏3月3日、遣唐使出発。
天平勝宝6年(754年)3月、遣唐使帰朝。4月5日、大宰大弐に転任。4月7日、正四位下に昇叙。大宰大弐元の如し。
天平宝字5年(761年)11月17日、西海道節度使兼帯。
天平宝字8年(764年)正月21日、造東大寺長官に異動。9月11日、従三位に昇叙し、勲二等に叙勲、また、参議に補任。中衛大将を兼帯。
天平神護2年(766年)正月8日、中納言に転任。3月12日、大納言に転任。10月20日、従二位に昇叙し、右大臣に転任。中衛大将元の如し。備中国下道郡大領を兼任。
神護景雲3年(769年)2月、正二位に昇叙。右大臣・中衛大将元の如し。
神護景雲4年(770年)10月8日、中衛大将を辞す。
宝亀2年(771年)3月、右大臣辞任。
宝亀6年(775年)10月2日、薨去。
伝説 [編集]
吉備真備・『前賢故実』より『江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』などによれば、真備は、殺害を企てた唐人によって、鬼が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備とともに遣唐使として入唐した阿倍仲麻呂の霊(生霊)であったため、難なく救われた。また、難解な「野馬台の詩」の解読や、囲碁の勝負などを課せられたが、これも阿倍仲麻呂の霊の援助により解決した。唐人は挙句の果てには食事を断って真備を殺そうとするが、真備が双六の道具によって日月を封じたため、驚いた唐人は真備を釈放した。
真備が長期間にわたって唐に留まることになったのは、玄宗がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる。真備は、袁晋卿(後の浄村宿禰)という音韻学に長けた少年を連れて帰朝したが、藤原長親によれば、この浄村宿禰という人物は、呉音だった漢字の読み方を漢音に改めようと努め、片仮名を作ったとされる。また、帰路では当時の日本で神獣とされていた九尾の狐も同船していたといわれる。
中世の兵法書などでは、張良が持っていたという『六韜三略』の兵法を持ち来たらしたとして、真備を日本の兵法の祖とした。
また、吉備真備は、陰陽道の聖典『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという。金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表す。安倍晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが、『金烏玉兎集』は晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている。伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた。このときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書『文殊結集仏暦経』を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』であるという。その他、『今昔物語集』では、玄を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとし、『刃辛抄』では、陰陽書『刃辛内伝』を持ち来たらしたとして、真備を日本の陰陽道の祖としている。
『宇治拾遺物語』では、他人の夢を盗んで自分のものとし、そのために右大臣まで登ったという説話もある。
系譜 [編集]
父:下道圀勝
母:楊貴氏(存疑)
伯父:下道圀依
姉妹:由利
妻:不詳
男子:吉備泉(天平12年 - 弘仁5年(740 - 814年))
男子:吉備与智麻呂
男子:吉備書足
男子:吉備稲万呂
男子:吉備真勝
脚注 [編集]
^ a b 「楊貴氏墓誌」。
^ 岸俊男「楊貴氏の墓誌」(『日本古代政治史研究』、塙書房、昭和41年所収)、近江昌司「楊貴氏墓誌の研究」(日本歴史学会編『日本歴史』第211号、吉川弘文館、昭和40年所収)。
^ 『群書系図部集』第一 編著続群書類従完成会
^ (「右大臣吉備公傳」 『岡山県通史』上編374頁 著者永山卯三郎)、(『古戦場備中府志』巻の五 著者平川親忠)
^ (『吉備之志多道』・『古川反古』 著者古川古松軒)、(『吉備大臣聖廟旧跡録』(吉備寺蔵)享和3年)、(『右大臣吉備公傳纂釈』下巻 著者 文学博士 重野安繹 明治35年)。
参考文献 [編集]
木村卜堂編著『日本と中国の書史』社団法人日本書作家協会
『群書系図部集』第一 編著 続群書類従完成会
『岡山県通史』上編374頁「右大臣吉備公傳」 著者永山卯三郎
『古戦場備中府志』巻の五 著者 平川親忠
『吉備之志多道』・『古川反古』 著者 古川古松軒
『吉備大臣聖廟旧跡録』(吉備寺蔵)享和3年
『右大臣吉備公傳纂釈』下巻 著者 文学博士 重野安繹 明治35年
関連項目 [編集]
矢掛町(やかげ) - 真備の故郷で、吉備真備公園、右大臣眞吉備公の墓、産湯の井戸がある。
真備町(まび、旧町) - 町名の由来は真備である。真備の故郷で、まきび公園、吉備真備公墳墓、吉備公館址、吉備真備公産湯の井戸がある。
吉備真備駅
日本の書家一覧
楊貴氏墓誌 - 母とされる女性(楊貴氏)の墓誌。
吉備公墓碑 - 岡山県倉敷市真備町箭田(やた)の吉備公廟所に建立されている墓碑、建碑者は岡田藩主八代目伊東長寛。
琴弾岩 - 倉敷市真備町妹(せ)にある岩で、晩年この岩の上で琴を奏で、漢詩を吟じたと伝えられている。
吉備寺 - 倉敷市真備町にある吉備真備公の菩提寺。
吉備大臣入唐絵巻
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カテゴリ: 奈良時代の人物 | 吉備氏 | 日本の学者 | 陰陽道 | 日本の神 (人物神) | 岡山県の歴史 | 倉敷市の歴史 | 695年生 | 775年没
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最終更新 2010年4月27日 (火) 02:40
Kibi Makibi
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Kibi Makibi in a book illustration by Kikuchi Yōsai.Kibi no Makibi (吉備真備 695–775) was a Japanese scholar and noble during the Nara period. Also known as Kibi Daijin. Born in Bitchu Province (present-day Kurashiki, Okayama Prefecture) as Shimotsumichi Asomi, he came from a line of local elites. Kibi was the name of the town or area he came from.
In 716, he traveled to China to study, and is supposed to have brought back a number of things, introducing to Japan for the first time the game of go, the art of embroidery, and the biwa (a kind of lute). He became famous for these journeys in China with Abe no Nakamaro and the monk Genbō.
In 737, he received promotion to the junior fifth rank. In 751, at the senior fourth rank (upper grade), he received an appointment as vice-ambassador to the T'ang Dynasty and traveled to China the following year, returning to Japan in 753.
After spending some years in Kyūshū as the assistant administrator of Dazaifu (the principal governmental post on that island), he returned to Nara for appointment in 764 to the leadership of the project to construct Tōdai-ji. Promotion to the junior third rank followed, as well as appointment to head an army to put down the uprising by Fujiwara no Nakamaro. Reaching the second rank in 765, he took the offices of Major Councillor, then Minister of the Right. In 770, he supported a losing candidate for the throne and submitted his resignation from office, but the court accepted only his resignation from military office, and retained him as Minister of the Right. He finally resigned in 771, devoting himself to the study of Confucian principles and their applications in Japanese administration. Kibi died in 775.
Kibi has sometimes been credited with inventing the katakana phonetic syllabary and writing system.
A late 12th century narrative handscroll in the collection of the Museum of Fine Arts, Boston depicting Kibi's journey to China is one of the earliest of all Japanese narrative pictorial handscrolls (e-maki) known to be extant. It is believed to have been commissioned to help support the prestige of a school of divination which claimed connections to Kibi. Its purchase by the museum in 1932 directly led to the strengthening of Japanese laws against the removal of cultural properties of particular importance from the country[1].
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1 See also
2 Notes
3 References
4 External links
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吉備真備像(倉敷市真備支所)
吉備 真備(きび の まきび、持統天皇9年(695年) - 宝亀6年10月2日(775年11月3日))は、日本の奈良時代の学者、政治家(公卿)。正二位・勲二等・右大臣。
備中国下道郡(後の岡山県吉備郡真備町、現在の倉敷市真備町)出身。父は右衛士少尉下道圀勝(しもつみちのくにかつ)。母は楊貴氏(大和国(後の奈良県)の氏族と覚しき八木氏の女性)とされるが[1]、疑わしい[2]。下道氏は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族。異説として加茂氏系図に、吉備彦之孫・(鴨の)吉備麻呂・右大臣という記載があり[3]、この人物が吉備真備であるという説がある。また賀茂保憲や賀茂光栄は吉備真備の末裔とする文献もある[4]。
目次 [非表示]
1 略伝
2 経歴
3 伝説
4 系譜
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
略伝 [編集]
霊亀2年(716年)、下道真備は22歳のときに遣唐留学生(遣唐使)となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂、玄らと共に入唐した。帰路では種子島に漂着するが、天平7年(735年)に多くの典籍を携えて帰朝した。唐では儒学のほか、天文学や音楽、兵学などを学び、帰朝時には、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管、鉄如方響、写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓、馬上飲水漆角弓、露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し、『東観漢記』を持ち来たした。
帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、天平9年に従五位に列せられた。翌10年に橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、同時に帰国した僧玄とともに重用され、真備は右衛士督の役職を兼ねた。同11年8月母を葬るとされる[1]。天平12年(740年)には、真備と玄を除かんとした藤原広嗣が大宰府で反乱を起こす。翌13年に東宮学士として皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇・称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。その後、天平15年には従四位下、春宮大夫兼皇太子学士、同18年には吉備朝臣の姓を賜り、同19年に右京大夫に転じて天平勝宝元年(749年)には従四位上に昇った。孝謙天皇即位後の翌2年には、藤原仲麻呂が専権し、筑前守、肥前守に左遷される。同3年には遣唐副使となり、翌4年に入唐、阿倍仲麻呂と再会するが、その翌年には帰朝する。この折に屋久島に漂着するが、鑑真を伴って無事に帰朝する。
天平勝宝6年(754年)には大宰少弐に昇任、翌々8年に新羅に対する防衛のため筑前に怡土城を築き、天平宝字2年(758年)に大宰府で唐での安禄山の乱に備えるよう勅を受け、翌3年に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。その後、暦学が認められ、儀鳳暦に替えて大衍暦が採用された。天平宝字8年(764年)には造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こした際には、従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げ(藤原仲麻呂の乱)、天平神護元年(765年)には勲二等を授けられた。翌2年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となり、藤原真楯の薨逝で大納言となった後、右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執った。地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。
宝亀元年(770年)、称徳天皇が崩じた際には妹の由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した。
『水鏡』など後世の史書や物語では、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この即位をめぐる話は『続日本紀』には認められず、この際の藤原百川の暗躍を含めて後世の誤伝あるいは作り話とする説が強い(河内祥輔、瀧浪貞子など)。光仁天皇即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの解任を許し、右大臣の職は慰留した。宝亀2年に再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何も伝わっておらず、宝亀6年に薨去する。
奈良市内にある奈良教育大学の構内には真備の墓と伝えられる『吉備塚(吉備塚古墳)』がある。職務の傍ら孔子をはじめとする儒教の聖人を祭る朝廷儀礼釈奠の整備にも当たった。著書に『私教類聚』『道弱和上纂』『刪定律令』などがあるとされている。在唐中、書は張旭に学び、帰朝後、晋唐の書道を弘めた。古筆中に、虫喰切、南部の焼切が現存する。
経歴 [編集]
日付は旧暦。
持統天皇9年(695年)備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる[5]。
霊亀2年(716年)8月20日、遣唐使に付随し、留学生となる。翌年3月、難波を発す。
天平7年(735年)3月、帰朝。時に、従八位下。同年、正六位下に昇叙。さらに、大学助に任官。
天平8年(736年)正月21日、外従五位下に昇叙。月日不詳。中宮亮に任官。
天平9年(737年)2月14日、従五位下に昇叙。同年(738年)12月27日、従五位上に昇叙。その後、月日不明、右衛士督を兼任。
天平12年(740年)11月21日、正五位下に昇叙。
天平13年(741年)7月3日、東宮学士に任官。
天平15年(743年)5月5日、従四位下に昇叙。6月30日、春宮大夫に転任。東宮学士元の如し。
天平18年(746年)10月19日、下道(臣、朝臣)真備。吉備の氏と朝臣の姓を給い、吉備朝臣真備と変わる。以後、吉備真備と称す。
天平19年(747年)3月、春宮大夫・東宮学士退任。11月4日、右京大夫に任官。
天平勝宝元年(749年)7月2日、従四位上に昇叙。
天平勝宝2年(750年)正月10日、筑前守に遷任。後に肥前守に遷任。
天平勝宝3年(751年)11月7日、遣唐副使に補任。
天平勝宝4年(752年)閏3月3日、遣唐使出発。
天平勝宝6年(754年)3月、遣唐使帰朝。4月5日、大宰大弐に転任。4月7日、正四位下に昇叙。大宰大弐元の如し。
天平宝字5年(761年)11月17日、西海道節度使兼帯。
天平宝字8年(764年)正月21日、造東大寺長官に異動。9月11日、従三位に昇叙し、勲二等に叙勲、また、参議に補任。中衛大将を兼帯。
天平神護2年(766年)正月8日、中納言に転任。3月12日、大納言に転任。10月20日、従二位に昇叙し、右大臣に転任。中衛大将元の如し。備中国下道郡大領を兼任。
神護景雲3年(769年)2月、正二位に昇叙。右大臣・中衛大将元の如し。
神護景雲4年(770年)10月8日、中衛大将を辞す。
宝亀2年(771年)3月、右大臣辞任。
宝亀6年(775年)10月2日、薨去。
伝説 [編集]
吉備真備・『前賢故実』より『江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』などによれば、真備は、殺害を企てた唐人によって、鬼が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備とともに遣唐使として入唐した阿倍仲麻呂の霊(生霊)であったため、難なく救われた。また、難解な「野馬台の詩」の解読や、囲碁の勝負などを課せられたが、これも阿倍仲麻呂の霊の援助により解決した。唐人は挙句の果てには食事を断って真備を殺そうとするが、真備が双六の道具によって日月を封じたため、驚いた唐人は真備を釈放した。
真備が長期間にわたって唐に留まることになったのは、玄宗がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる。真備は、袁晋卿(後の浄村宿禰)という音韻学に長けた少年を連れて帰朝したが、藤原長親によれば、この浄村宿禰という人物は、呉音だった漢字の読み方を漢音に改めようと努め、片仮名を作ったとされる。また、帰路では当時の日本で神獣とされていた九尾の狐も同船していたといわれる。
中世の兵法書などでは、張良が持っていたという『六韜三略』の兵法を持ち来たらしたとして、真備を日本の兵法の祖とした。
また、吉備真備は、陰陽道の聖典『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという。金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表す。安倍晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが、『金烏玉兎集』は晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている。伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた。このときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書『文殊結集仏暦経』を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』であるという。その他、『今昔物語集』では、玄を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとし、『刃辛抄』では、陰陽書『刃辛内伝』を持ち来たらしたとして、真備を日本の陰陽道の祖としている。
『宇治拾遺物語』では、他人の夢を盗んで自分のものとし、そのために右大臣まで登ったという説話もある。
系譜 [編集]
父:下道圀勝
母:楊貴氏(存疑)
伯父:下道圀依
姉妹:由利
妻:不詳
男子:吉備泉(天平12年 - 弘仁5年(740 - 814年))
男子:吉備与智麻呂
男子:吉備書足
男子:吉備稲万呂
男子:吉備真勝
脚注 [編集]
^ a b 「楊貴氏墓誌」。
^ 岸俊男「楊貴氏の墓誌」(『日本古代政治史研究』、塙書房、昭和41年所収)、近江昌司「楊貴氏墓誌の研究」(日本歴史学会編『日本歴史』第211号、吉川弘文館、昭和40年所収)。
^ 『群書系図部集』第一 編著続群書類従完成会
^ (「右大臣吉備公傳」 『岡山県通史』上編374頁 著者永山卯三郎)、(『古戦場備中府志』巻の五 著者平川親忠)
^ (『吉備之志多道』・『古川反古』 著者古川古松軒)、(『吉備大臣聖廟旧跡録』(吉備寺蔵)享和3年)、(『右大臣吉備公傳纂釈』下巻 著者 文学博士 重野安繹 明治35年)。
参考文献 [編集]
木村卜堂編著『日本と中国の書史』社団法人日本書作家協会
『群書系図部集』第一 編著 続群書類従完成会
『岡山県通史』上編374頁「右大臣吉備公傳」 著者永山卯三郎
『古戦場備中府志』巻の五 著者 平川親忠
『吉備之志多道』・『古川反古』 著者 古川古松軒
『吉備大臣聖廟旧跡録』(吉備寺蔵)享和3年
『右大臣吉備公傳纂釈』下巻 著者 文学博士 重野安繹 明治35年
関連項目 [編集]
矢掛町(やかげ) - 真備の故郷で、吉備真備公園、右大臣眞吉備公の墓、産湯の井戸がある。
真備町(まび、旧町) - 町名の由来は真備である。真備の故郷で、まきび公園、吉備真備公墳墓、吉備公館址、吉備真備公産湯の井戸がある。
吉備真備駅
日本の書家一覧
楊貴氏墓誌 - 母とされる女性(楊貴氏)の墓誌。
吉備公墓碑 - 岡山県倉敷市真備町箭田(やた)の吉備公廟所に建立されている墓碑、建碑者は岡田藩主八代目伊東長寛。
琴弾岩 - 倉敷市真備町妹(せ)にある岩で、晩年この岩の上で琴を奏で、漢詩を吟じたと伝えられている。
吉備寺 - 倉敷市真備町にある吉備真備公の菩提寺。
吉備大臣入唐絵巻
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カテゴリ: 奈良時代の人物 | 吉備氏 | 日本の学者 | 陰陽道 | 日本の神 (人物神) | 岡山県の歴史 | 倉敷市の歴史 | 695年生 | 775年没
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最終更新 2010年4月27日 (火) 02:40
Kibi Makibi
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Kibi Makibi in a book illustration by Kikuchi Yōsai.Kibi no Makibi (吉備真備 695–775) was a Japanese scholar and noble during the Nara period. Also known as Kibi Daijin. Born in Bitchu Province (present-day Kurashiki, Okayama Prefecture) as Shimotsumichi Asomi, he came from a line of local elites. Kibi was the name of the town or area he came from.
In 716, he traveled to China to study, and is supposed to have brought back a number of things, introducing to Japan for the first time the game of go, the art of embroidery, and the biwa (a kind of lute). He became famous for these journeys in China with Abe no Nakamaro and the monk Genbō.
In 737, he received promotion to the junior fifth rank. In 751, at the senior fourth rank (upper grade), he received an appointment as vice-ambassador to the T'ang Dynasty and traveled to China the following year, returning to Japan in 753.
After spending some years in Kyūshū as the assistant administrator of Dazaifu (the principal governmental post on that island), he returned to Nara for appointment in 764 to the leadership of the project to construct Tōdai-ji. Promotion to the junior third rank followed, as well as appointment to head an army to put down the uprising by Fujiwara no Nakamaro. Reaching the second rank in 765, he took the offices of Major Councillor, then Minister of the Right. In 770, he supported a losing candidate for the throne and submitted his resignation from office, but the court accepted only his resignation from military office, and retained him as Minister of the Right. He finally resigned in 771, devoting himself to the study of Confucian principles and their applications in Japanese administration. Kibi died in 775.
Kibi has sometimes been credited with inventing the katakana phonetic syllabary and writing system.
A late 12th century narrative handscroll in the collection of the Museum of Fine Arts, Boston depicting Kibi's journey to China is one of the earliest of all Japanese narrative pictorial handscrolls (e-maki) known to be extant. It is believed to have been commissioned to help support the prestige of a school of divination which claimed connections to Kibi. Its purchase by the museum in 1932 directly led to the strengthening of Japanese laws against the removal of cultural properties of particular importance from the country[1].
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1 See also
2 Notes
3 References
4 External links