岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

新宿リタルダント 4

2019年07月19日 12時52分00秒 | 新宿リタルダンド

 

 

新宿リタルダント 3 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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 隣の一室は問題児部屋と呼ばれていた。
 通常では留置の中に入ると、みんな仲良くしようとするものである。何故ならつまらない事で喧嘩をしたりイザコザを起こしたりすると、留置所だけじゃなく刑務所に送られる可能性が大になるからだ。
 だからみんな暇つぶしも兼ね、とにかく話をするか昼寝をする。
 横が何故問題児部屋と呼ばれるかは、その名の通り問題児で困ったちゃんだからだ。現在は一名しか一室にはいない。
 こいつは公務執行妨害で捕まったらしいが、馬鹿なので一ヶ月以上もここにいる。三度の飯を食べ終わると元気になるのか、いつも大声で叫びだす。
「俺の家族に連絡しろー、警察! 俺の家庭を壊す気か~、警察! どういう事だ、警察!」
 こんな感じで十五分はずっと鉄格子越しに吠えている。
 始まるとまたかと俺たちは大笑いした。
 一日に食事後、三回。これが彼の日課になっている。
 ある日、隣の一室にもう一人の奴が入ってきた。
 一室に入るなんて、一体どんな奴だろう?
 俺とヤクザ者は、色々好き勝手に想像をして話し合った。
 そんな中、声が聞こえてきた。
「担当さん、座ってればいいんでしょ?」
「ん?」
「俺、ここに座っていればいいんだよね?」
「ああ、中で大人しく座ってろ」
「うん、うん…。俺、ここに座ってればいいんでしょ? だ、駄目?」
「駄目じゃない。そのまま、座ってろ」
「担当さん、立っちゃ駄目なんでしょ?」
「うるさいぞ、おまえ。五番、大人しく座ってろ!」
「うん、うん…。座ってればいいんだよね? だ、駄目?」
「うるせえって言ってんだろ! 少しは黙ってろ!」
「座ってればいいんでしょ? 駄目?」
 俺とヤクザ者は、お互い顔を見合わせて大笑いした。
 中にいるとほぼ自由がないので退屈だった。でも、ちょっとは退屈しのぎになりそうだ。おかしな奴が入ってきたものである。
 五番……。
 この日、新たな要注意人物が俺たちの仲間に加わった。



 同室の若い自衛官は年を聞くと、まだ二十歳だった。
 いつも両膝を抱えてうずくまり、会話に参加しようともしない。
「何をして、ここに来たの?」
 そう優しく聞いても、一切答えようとしなかった。
 ある日、その自衛官に面会があった。面会時間は十分。しかし、彼は五分もしない内に戻ってきた。
「どうしたの? 妙に早かったじゃん」
 暗い表情の自衛官に声を掛けると、泣きそうな顔になり少しずつ話し出した。
「お袋が面会に来て、おいおい泣かれまして……」
「捕まっちゃったもんはしょうがねえじゃんよ」
「いえ…、そうじゃなくて…。ああ……、もう…、自分は終わりです……」
「何を大袈裟な…。何があったんだよ?」
「実は、初めての外出で浮かれていたんです……」
 彼の浮かれる気持ちは非常によく理解できた。入ったばかりの新人自衛官はすぐ教育隊へ配属される。そこで自衛隊の基本的な訓練や勉強などをする訳であるが、当然教育期間という名目なので規律はうるさい。一ヶ月間駐屯地の中だけでの生活を強要され、休みなのに外へ一度も出られないなんて事もざらにあるのだ。
「うん、それで?」
「酒を飲んで池袋の駅でフラフラしながら、携帯の写メで女のスカートの中をパシャッて撮って『エヘヘ……』って笑っていると、気付いたら駅員に両脇を抱えられて、ここにいました……」
「当たり前だろ! 馬鹿か、おまえは?」
「でも、パンツは写ってなかったんですよ? スカートの中で真っ暗で……」
「そういう問題じゃねえよ!」
「隊の誰一人も僕のところに来てくれません…。もう終わりです…。ああ、人生、真っ暗です……」
 本当にどうしょうもない奴である。こんな馬鹿に国は税金を払っているのだ。
「神威ちゃんよ~」
 ヤクザ者が声を掛けてくる。
「どうしました?」
「自衛隊ってよ。普段は連帯だ責任だってギャーギャー騒いでいるけどさ。結局こういう時になると、本性って見えるよな」
「……と言うと?」
「俺の場合、傷害でここに入った訳よ。酔っ払って相手殴って訴えられてさ。で、周りの仲間はさ、弁護士は当たり前だけど、色々動き回って出来る限り早く俺を出そうとする訳ね。もちろん面会だって毎日誰かしら来るし、差し入れもたくさん持ってくるしね」
 確かにそうだ。本当の窮地の時に知らんぷりをする連中なんて仲間でも何でもないし、日頃の連帯責任の意味がまるでない。
「いいっすねえ…。俺なんて検事に目をつけられちゃってるから、一切接見禁止ですよ。誰か面会に来たって一人も会わせてもらえませんから」
「だって神威ちゃんはアルバイトだって言い張ってんだろ?」
「まあ、形式上は……」
「神威ちゃん見てバイトだって思う奴はいねえよ」
 そう言ってヤクザ者は大笑いした。
「まあ、そりゃそうですけどね…。でも叩いても誇りを出さなきゃ、俺は不起訴になりますからね」
「そうだな。それにしても僕ちゃん、元気ねえよな」
 二十歳の自衛官の事をヤクザ者は『僕ちゃん』といつも呼んでいた。
「まあ、自衛隊って偉そうな事を言ってても口先だけの奴ら多いですからね」
 過去自衛隊に所属していた俺は、嫌ってほどあそこの実態を知っている。
「ほんと自衛隊なんかよりヤクザ者のほうが、断然生き方が格好いいよ」
 哀れみの眼差しを向けながら、ヤクザ者は言った。
 それに関しては本当に同感だと思った。同室のヤクザ者は一日数名もの面会に来てくれる人間がいる。彼を何とかしようと同じ組員が色々と動き回り、元気づけに来るのだ。それに引きかえ自衛官の子には先ほどのお袋さんが一度来ただけである。臭いものにはフタをする自衛隊。臭かろうが仲間の為に動くヤクザ。ヤクザ自体は嫌いであるが、格好良く生きているという点ではどちらがそうかといえば明白だ。
 そんな若い自衛官の男は、十日もせず釈放が決まる。結局面会に来てくれたのは、お袋さんだけだった。

「おい、十五番」
 寝転びながら漫画を読んでいた俺に、留置の担当が声を掛けてくる。
「何すか?」
「出ろ、取調べだ」
 やった。心の中で大きくガッツポーズをとる。俺は刑事に呼ばれ、取調べを受けに行く。これが何を意味するかというと、毎日朝に二本しか吸えないタバコが好きなだけ吸えるのだ。俺はウキウキしながら檻の扉をくぐる。
 留置所を出る際、手錠を掛けられ、さらに縄で縛られる。その状態で生活安全課の取調室に向かう。二室を出て、一室を通り過ぎる途中、俺は新参者の変な奴をチェックした。
「おい、余所見すんな。真っ直ぐ歩け、十五番!」
 堅い性格の担当は、真面目な顔で言ってくる。
「いいじゃねえの、堅い事抜かしてんじゃねえって」
 さっきの変な奴はいるかな? 一室を見て、俺は驚いた。
 パッと見、ただの乞食にしか見えなかったからである。
 髪の毛はすっかり禿げ上がり、耳の上の部分しか残っていない。その部分もずっと風呂に入っていないせいか、サリーちゃんのパパのようにボサボサに逆立っていた。
「ほら、さっさと歩け」
 まだ若い担当は乱暴に押してくる。俺は一瞬立ち止まり、ゆっくり睨みつけた。
「おいおい、担当さんよ。大人しく俺が笑顔でいるんだから、あんまそういう真似すんなよ。娑婆に出たらよ…。おまえなんぞ……」
「な、何だ、キサマ……」
 若い担当の顔が青ざめる。さすがにここで暴れるのはマズいよな。俺はすぐ百万ドルに値する作り笑顔をした。
「ほらほら、早く行かないと、刑事さんに怒られますよ。担当さん……」
「あ、ああ……」
 格もねえのに無理して粋がっているからだよ。俺は心の中でほくそ笑む。まあ、こんな場所で本当に揉めても意味がない。今度は作り笑顔でなく、自然と微笑んでいた。

 いつものように取調べが始まる。
「まず、おまえは歌舞伎町の……」
「ねえねえ、刑事さん」
「何だ?」
「昨日言ってた三国志と日本の繋がりがあるとかって話…。あれって……」
「おうおう、それか! やっぱりおまえも気になっていたか。ちょっと待ってろ」
 担当刑事は嬉しそうに二枚の白い紙を持ってきて、地図を書き出す。
 中国の三国志時代の地図を丁寧に書いているようだ。
 これで今日もいい退屈しのぎができる。
 不思議なもので取調べ中は全館禁煙のはずの警察署が、ここだけはタバコを吸ってもいい場所になる。法律上そうさせるように定められているらしい。だから生活安全課の刑事たちもドサクサに紛れ、タバコを吸いに色々やってきた。
 その中には俺は捕まえる際、土木の格好をした刑事もいる。
「土木の刑事さん」
「何だ、その言い方は!」
 土木刑事は顔を真っ赤にして怒鳴りだす。
「だって俺をパクる時、その格好をしてたじゃないですか」
「仕事だからだ」
「一つ質問いいですか?」
「何だ?」
「あの格好、どこで着替えたんすか? タオルまでわざわざ汚して首に巻いて……」
 俺はそこまで言うと、つい吹き出してしまった。
「うるせえ!」
 乱暴にタバコを揉み消すと、土木刑事は取調室を出て行ってしまう。
「おい、神威!」
 目の前の溝口刑事が睨みつけてくる。
「何ですか?」
「あんまいじめるな」
「はい、すみません……」
「おい、おまえが本当はあの店のオーナーなんだろ? アルバイトなんて惚けやがって」
 メガネを掛けたカマキリみたいな顔をした刑事が睨みつけてくる。別におまえが俺の担当じゃあるまいし、何をそんなに張り切っているのだ?
「いえいえ、俺は週に一度のアルバイトですって。小説を書くネタにしたかったって何度も言ってるじゃないですか。まったくしつこいなあ」
「何が小説だ、馬鹿野郎」
「あれ、信じてくれないんですか? 俺のパソコンあったでしょ? あれの中身を調べれば、『新宿クレッシェンド』や『でっぱり』という小説の作品のデータが本当にあるでしょうが。あれ、俺が本当に書いたんですよ? 『打突』なんて原稿用紙換算すると、八百枚以上書いたんすよ」
「ふん、何が小説だ」
「嘘じゃないですって。あとで読んでおいて下さいよ。感想待ってますから」
 はたから見れば、取り調べの最中だというのにお互い世間話をしているかのようなのどかな風景に見えるだろう。
「だいたい裏ビデオなんて売りやがって」
「違いますよ」
「じゃあ、何を売ったと言うんだ?」
 妙にしつこいカマキリ。もしここが警察署の中でなく、こいつが刑事じゃなかったら、問答無用でぶっ飛ばしているだろう。
「裏DVDです」
「同じだろうが!」
「同じじゃないですよ。ビデオはビデオデッキじゃないと再生できないし、DVDはDVDプレイヤーじゃないと再生できませんよ?」
「舐めてんのか、キサマ!」
「刑事相手に舐めてどうするんです?」
「こんな猥褻なものを国中にばら撒いて恥ずかしいと思わんのか?」
「まったくそれについては思いません」
「何だと?」
「だって逆に聞きますけど、日本全国にレンタルビデオありますよね?」
「それがどうした?」
「どのビデオ屋も大きく分けて二種類のビデオしか置いてません。さて、何と何ですか?」
「何だ? 早く答えろ」
「アダルトかそうじゃないか。そうですよね?」
「だから何だ?」
「言い換えれば、それだけニーズがあるから置く訳ですよね?」
「それとおまえの裏ビデオと何の関係がある?」
「ありますよ。だって男にはある意味必須のものじゃないですか、AVって。刑事さんだって男だからそれは分かるでしょ?」
「ああ、だから何だ?」
「すべての男が女を抱ける訳じゃないんですよ。そりゃあ金を出せば風俗だってあるし、いくらだって抱けますよ。でも金がない奴はどうなるんです?」
「エロビデオを見ればいいだろうが?」
「ええ、それで済まない奴が痴漢や強姦などをする訳です」
「理屈ばっか言ってんじゃねえぞ」
「理屈かもしれませんが、法律ってそもそも人間の作った理屈の集合体じゃないですか。普通のAVにはモザイクってものがありますよね? それってその法律ってもんが勝手に判断してけしからんってモザイクを掛ける訳ですよね。お国事情で勝手にそうするのは仕方ないとして、女のあそこを実際に見た事ない奴はどうするんですか?」
「知るか!」
「ええ、知ったこっちゃないですよね。でも、そういう連中が犯罪に走りやすい傾向にあると思うんですよ」
「そんなもんはただの屁理屈だ」
「屁理屈と判断するのは自由ですけど、俺たちは必要悪な事をした訳になるんです」
「ふざけるな!」
 カマキリは顔を真っ赤にして顔面をピクピクさせていた。吹き出しそうになるのを堪え、俺は続ける。
「ふざけてませんよ。犯罪の抑制にはなっているはずです」
「だからって犯罪は犯罪だ」
「モザイクを外したものを売ってるからですよね。じゃあ、刑事さん。モザイクって何ですか?」
「けじめだ!」
「けじめって何ですか?」
 小馬鹿にしたように言うと、カマキリは俺の胸倉をつかんでくる。慌てて溝口さんが間に入った。
 その時、隣の取調室から怒鳴り声と共に机を叩く音が聞こえた。
「おい、名前はっ! キサマ、名前はってさっきから言ってんだろ!」
 まるでテレビドラマに出てくるような取調べ。一体隣の奴は何をしたんだろうか?
「横、すごい凶悪犯でも入ってきたんですか? ちょっと覗かして下さいよ」
「駄目だ。大人しく座ってろ」
「ちぇ、ケチだな~」
「うるさい、黙ってろ。そうそう、おまえ、何か飲むか? コーヒーでいいだろ?」
「いや、コーラがいいです」
 担当刑事はムスッとした表情で俺を見る。カマキリは今にもつかみ掛かりそうな表情で睨んでいた。実際に戦ったら、簡単にこの馬鹿のメガネを割れるんだけどな……。
「十倍の料金とるぞ?」
「どうせここにいたんじゃ、自弁とタバコがなくなった時ぐらいしか使い道ないですからね。全然構いませんよ。十倍でも、二十倍でも…。それでコーラが飲めれば俺は何だっていいですよ。」
 強がりでも嘘でもなかった。この中にいるとどうしても炭酸が飲みたくなってくる。出されるものはいつも水道水かただのお湯だけなのだ。
 食事の時、飲み物を注いでくれる人間がいるが、決まって偉そうにこう言う。
「ここは全員ハーフでいいのかな?」
 ハーフといっても、ただの水道水とお湯を混ぜただけのぬるま湯である。
「何がハーフだ、馬鹿野郎! たまにはお茶でも持って来い!」
「うるせぇー、じゃあ、何もやらんぞ!」
 いつも目くそ鼻くそのような会話になった。
 そういった環境のせいか、死ぬほどコーラが飲みたかった。欲を言えばマウンテンデューかメロンソーダ、もっと欲を言えばメローイエローが飲みたい。しかしメローイエローはとっくに売ってないしなあ。炭酸のすごいやつで喉を思い切り刺激したいのである。
「まったく……」
 呆れ顔の溝口刑事。怒ったようにカマキリは取調室から出て行った。あんな短気な性格でよく警察が勤まるものだ。
「頼みますよ。留置に戻ると、炭酸飲料飲めないじゃないですか。お願いしますよ」
「…たく、しょうがねーな…。俺の奢りだ。感謝しろよ!」
「え、奢ってくれるんすか?」
「当たり前だろうが! わざわざコーラ買うからおまえの金を取りに来ただなんて、留置の人間に言える訳ねえだろが…。感謝しろよ、この野郎」
「当たり前じゃないですか。俺はいつも感謝してますよ。溝口刑事さんのほうへ足向けて寝られないですからね」
「嘘こけ! 俺がどの辺に住んでいるのかも知らんくせに…。調子のいい野郎だ」
 溝口の刑事はブツブツ言いつつもズボンのポッケから小銭を取り出し、部下のカマキリにコーラを買ってくるように命じる。
「あ、メガネの刑事さん!」
「何だ?」
「できればこの階の自販機じゃなく、二階にあったペプシの五百がいいです」
 留置所から生活安全課の取調室まで連行される際、俺は目ざとく自動販売機の品をチェックしておいたのだ。
「おまえなあ……」
「だって、どうせ飲むなら量が多いほうがいいでしょ?」
「しょうがねえな…。買ってきてやれ」
 苦虫を潰したような顔でメガネ刑事カマキリは取調室を出て行く。警察をパシリにして、しかも奢らせるコーラは格別にうまかった。
 隣ではずっと怒鳴り声が聞こえていた。非常に気になる。何時間経っても「おまえの名前は!」の繰り返しだった。
 昼になると食事の為、一度留置所に戻される。
 先に取調室を出た俺は、さり気なく隣の部屋を覗く。
 その瞬間危なく吹きだしそうになった。
 なんと一室の乞食が取調べを受けていたのである。彼は自分の名前さえも満足に言えないようであった。なるほど、刑事もこれじゃてこずる訳だ。

 今日は月曜日。
 昼飯時に担当が明日の自弁を注文するか聞きに来る。明日はカレーライス。うまくないがそれでもほとんどの人間が頼む。
 一室は問題児集団扱いで、自弁の注文すら聞いてもらえない。自業自得だから黙って食パンを齧るしかないのだ。
 昼飯を喰い終わり再び手錠を掛け取り調べに向かう途中、俺は一室の乞食に話し掛けた。
「おい、五番。五番……」
「ん、ん…。立てばいいの? 立てばいいんでしょ?」
 乞食は鉄格子の前まで来た。
「おい、十五番。勝手に話をするな。五番、おまえはちゃんと座ってろ」
「明日はカレーだよ……」
 俺はボソッと呟く。
 その途端、乞食の反応が変わった。
 鉄格子にしがみつき、「カ、カレー……」と大声を出しながら興奮しだした。
「おい、五番。大人しく座ってろ!」
「担当さん、明日はカ、カレー? カレーだよね? 違う? だ、駄目? カ、カレー……」
「うるせえ、座ってろ!」
「カ、カ、カレー…。だ、駄目? カレー……」
「いいから座ってろってっ!」
「座っていればいいんでしょ? カ、カレー……」
「うるさいっ!」
 そんなやり取りを見て、俺は笑いながら取調室へ向かった。

 この日、五番はずっと明日はカレーなのかと担当に尋ねていた。
「カレー」という単語をこの日だけで、千回は叫んだんじゃないだろうか。
 交替で代わる担当も、みんな、さすがにうんざりして無視を決め込んでいる。
 同室のヤクザ者は俺に笑いながら尋ねてきた。
「ねえ、神威ちゃん。何で彼は、カレーにあんなこだわるんだろ?」
 何故カレーなのか? すぐピンとくる。
「例えばですけどね。歌舞伎町とか繁華街って、残飯にしても結構いいものがあるじゃないですか」
「そうだね」
「でもカレーって結局のところ、残飯でも液体だから生ゴミと混じってしまう。よって彼らは、カレーライスというものをちゃんとした形で食べた事がないと思うんです。だからあれだけのこだわりがあるんじゃないですかね」
「そ、そうか…。なるほどな……」
 ヤクザ者も納得した表情で隣の部屋の方向を見ていた。
「担当さん、明日はカ、カレー? カレーだよね? 違う? だ、駄目?」
「……」
 もう誰も彼の台詞を聞いて笑う人間はいなかった。
 軽い冗談のつもりで言った台詞。徐々にそれは俺の心を重くしている。

 朝の運動でタバコを吸っている時、五番の乞食と一緒になった。乞食はタバコを吸いたそうにこっちを見ていたから、俺は吸いかけのセブンスターをあげようとした。
 乞食は手を震わせながらタバコを取ろうとする。
「おい、十五番。駄目だ。規則で他人にものをあげてはいけないんだぞ」
 融通の利かない担当が注意をしてくる。
「いいじゃねえっすか。タバコの一口や二口ぐらい」
「駄目だ。規則で駄目と決まってるんだ」
 乞食は物欲しそうな顔で、ジッと俺のセブンスターを眺めていた。
「可哀相に…。彼だってタバコぐらい吸いたいだろうにな」
 俺は独り言のように嫌味を言いながら、担当を睨みつけた。
 みんなの吐き出す煙をただ眺めるだけの乞食。俺はまだ半分も吸っていないかったが、すぐにタバコを揉み消した。

 その日の昼飯時は、うるさくて堪らなかった。
 一室の乞食が、ずっと鉄格子にへばりつき、「カレー、カレー……」と千回ぐらい叫んでいた。
「明日はカレーだよ……」
 からかい半分で言った台詞。
 彼にとても悪い事をしたみたいで心が痛む。
「担当さん。俺の金からでいいから五番にカレーライスをくれてやってよ。頼むよ」
 いたたまれなくなり俺は担当に声を掛けた。
「駄目だ。気持ちは分かるけど、それは許可できないんだ……」
「俺の金をどう使おうと自由じゃねえか。な、頼むよ」
「悪い…、本当に規則で禁止にされているんだ。すまない」
 担当も力になれず、非常にすまないという表情をしていた。
 これ以上は、何を言っても変わらないか……。
「カ、カレー……」
 初めは笑って聞いていたが、何だか乞食がとても哀れに思えた。
 ここを出たら、好きなだけカレーライスを奢ってやろう。
 できもしないくせに、そんな事を考えていた。

 俺はずっと面会禁止だった。誰かが面会に来ても会う事すらできないのだ。俺の嘘っぱちの調書を地検にいる検事が信用していないのだろう。
 百合子が一度面会へ来たらしいが、靴下を二足だけしか受け取ってくれず、顔すら見られなかった。
 今度地検に行く事があったら、検事には早く接見禁止を解いてもらわないとな。
 捕まった人間に聞けば、大抵の人間が口を揃えて言うだろう。
「地検だけは絶対に嫌だ。あれだけは辛いよな……」
 俺の知り合いはみんな口をそろえてそう言う。
 地検とは一体何か?
 霞ヶ関にある東京地方検察庁。略して地検と呼ばれる。
 警察署では、留置所に泊まりながら警察官の取調べ。地検ではその上の立場である検事が尋問をしてくる。簡単に言えば、警察は検事の犬みたいなものだ。すべて検事の命令によって動いているに過ぎない。
 地検に行く者は朝早くから護送車に乗せられ連れて行かれる。
 各警察署では、署内に残っている大勢の警察官が犯罪者を護送車に乗るまで見送ってくれた。巣鴨は池袋署や大塚署などと同じコースで地検に運ばれる。
 各署から地検に行く容疑者が数名ずつ護送車に乗り込んできた。
 みんな手錠を掛けられ、一本の縄で括りつけられる。こんな手の込んだ事をしなくたって誰も逃げやしねえよと声を大にして言いたいが、まあしょうがない。規則なのだろう。
 二十二日間の留置生活で、俺は四回地検に行った。その内乞食とは二回も同じ日だった。不思議な縁でもあるのだろうか。
 実際の現実をこの目で見て驚いたのが、どの署も留置所は不法滞在の中国人など外人が半数以上を占めている点である。
 チャイニーズマフィアとかそんなんじゃなく、普通に日本で働きビザが過ぎてしまった不法滞在の外人がほとんどだった。俺と同室の中国人の委さんは、「私ら、ビザ切れただけ。あいつ、駄目」と妙に嫌っていた。
 俺ら日本人は早い奴で一週間、長くて二ヶ月ぐらいで出られるが、彼ら外人は三ヶ月から半年ぐらいは留置所にいるようだ。そのあとは別の施設に送られて強制送還になる。
 国の財政が赤字赤字といっているのに、ずいぶんと無駄な事をするんだなあと感じた。

 硬い椅子…、いや、木のベンチといったほうがいいのか。
 地検に着くと、そこに十名ずつ入れる部屋へ各容疑者たちが振り分けられる。
 その硬いベンチの上に手錠をキツく掛けられた状態で、十時間ほど話もせずにジッとしていなくてはいけない。検事と接する時間は十分から十五分だけなのに。
 トイレも西部劇に出てくるようなバーの扉が申し訳なさ程度にあるだけで、同じ部屋内にあった。下痢の奴がいたら、もう最悪だ。臭いが部屋の中を充満する。それを黙って耐えねばならないのだ。
 片手だけ手錠を外してもらう状態を片手錠と言う。その状態で、鉄格子の窓から両腕でクルクルとトイレットペーパーを巻きだしたら、要注意である。その人間がこれからここでクソをするぞといった合図になるからだ。
 集合時に一人一人、名前と何署からか来たかを呼ばれる。
「池袋、田中」
「神田、鈴木」
「八王子、佐藤」……といった具合に。
 俺の場合は、「巣鴨、神威」と呼ばれる。
 名前を呼ばれたら、元気良く返事をして立たねばならない。
 横で乞食がボーっとしながら座っている。今、彼は何を考えているのだろうか?
「巣鴨、ふ、不詳……」
 不詳なんて名前の人間など聞いた事がない。当然誰も立つ者はいなかった。
「巣鴨、不詳…。いないのか?」
 周りがザワザワざわめいている。
 俺は吹きだしそうになった。犯罪者だけで千人はいる地検の中、俺だけが知っているといっても過言ではない。
 不詳…、つまり名無し。名称不明と警官は言いたいのだろう。
 横にいる乞食の膝を軽く突く。
「ん、ん……」
「立たないと駄目だよ。名前、呼んでる」
 小声で囁くと、乞食はでかい声で話しだした。
「ん、立つの? 立たないと駄目? 座ってればいいでしょ?」
「違う。立つの。立たなきゃ駄目」
「立ってればいいの? 座っててもいいでしょ? 明日はカレー? 駄目? 違う?」
「カレーじゃない。立つの。OK? た・つ・の!」
 俺とのやり取りで、シーンと静まり返った地検の地下一階は一斉にみんなの笑い声でいっぱいになった。
 数十名の警官が必死に注意するが、千人の笑い声を黙らせるには非常に手間取ったようだ。
 悪党千人を笑わせる…。なかなか俺は貴重な体験をさせてもらえた。

 巣鴨組はいつも地検の帰りが遅かった。場所的には近いのに、グループ内で一番遠い池袋署から順に送っていくからである。
 巣鴨署に到着するのは最後なので、夜の八時を過ぎていた。
 昼食のコッペパン二つしか食べていないので腹はペコペコだ。本来なら五時に出る夕食を八時過ぎに食べさせられるのだから当たり前の事だが……。
 地検メンバーたちはとって置いてくれた飯を接見室でまとまって食べる。接見室とは一般的に言うと面会室である。
 俺は好き嫌いがとても多く、いつもおかずを残していた。
 元々肉食なのに、そんなものはほとんど出ない。不満だらけだったが、ここにいる以上文句を言っても仕方がなかった。
 乞食はとてもおいしそうに何でも食べる。「カ、カレー…」と、こだわる彼に罪悪感を覚えていたので、自分のおかずを何品かあげようと思った。
「ねえ、五番。おかずいる?」
「ん、ん?」
「これ、お・か・ず…。ほしい?」
 手でジェスチャーも加えて説明する。
「うん、うん」
 俺は笑顔でおかずを半分以上あげた。乞食は急いでそれらを胃袋に詰め込む。
「誰もとる奴なんていないよ。もっとゆっくり食べれば」
 乞食は俺の言葉など耳に入っていないような感じで、アッという間にご飯を食べ終えた。

 取調べの最中、溝口刑事はオーナーである松本を逮捕したと教えてくれる。
「こいつが松本だろう?」
 一枚の写真を見せてくるが、いまいちピンとこない。何度か見てようやく松本だと分かった。
「何ですぐに分からないんだ?」
「だって松本さん、いつも帽子被ってましたし、俺、たった四回しかあそこで働いていないんですよ? こんな帽子を取った写真見せられたってすぐには分かりませんて。松本さん…、結構ハゲていたんですね……」
「あいつは別の署にいるけどな」
「どこにいるんです?」
「それは言えん。うまく供述を合わせられちゃ、こっちも溜まらないからな」
 弁護士という便利な伝書鳩がいるんだけどな。
「それはそうですね」
 適当に相槌を打っておく。取調べの際、俺はとにかくタバコを吸った。無くなると預かっている金で警察がタバコを買ってきてくれるのだ。タバコ代と平日時の自弁ぐらいしか金を遣う事などない。
 ここを出たら弁護士が差し入れた五万もかなり残っているし、百合子にくれてやるか。
「溝口さん、浄化作戦って俺、てっきり新宿署がやるもんだと思ってたんですけど、何でわざわざ巣鴨署が俺をパクりに来たんです? そういうのって何か決まりでもあるんですかね?」
 うまく情報を聞き出せれば、今後に活かせるかもしれない。しかし溝口刑事は俺をジロリと睨むと、「何でそんな事を知りたがる?」と怒り口調で言った。
「だって小説のネタ的に知っておきたいなあと……」
「ふざけるな! そんなもん、企業秘密に決まってんだろ!」
 これ以上深追いすると俺自身がヤバいな。話題を変えるか……。
「ところで溝口さん、アメリカを最初に発見したのは日本人じゃないかって前に言ってたじゃないですか? 何でも古代史にどうのこうのって。あれ、もうちょい詳しく説明してもらえません?」
「おお、アメリカの件か。ちょっと待ってろ」
 説明する為にわざわざメモ用紙を取りに行く溝口刑事。本当にのん気なもんである。こんなに楽しみながらここにいる奴なんてそうはいないだろうな。
 出たら絶対に留置所の小説を書こう。俺は溝口刑事が奢ってくれたコーラを一気に飲み干した。

 夜九時半、消灯時間になって留置所全体が薄暗くなる。
 こんな早い時間に寝られる人間など誰もいない。そんな人間は、こんな場所に捕まって来るような事はしないだろう。
 だが、俺と同室のヤクザ者は密かにこの時間を楽しみにしていた。お互いの情報や馬鹿話に花を咲かせた。
 今日取調べを受けたヤクザ者は、面白い情報を仕入れてきた。
「神威ちゃん、知ってる?」
「何がですか?」
「隣の乞食いるじゃん」
「ええ、それが何か?」
「何で捕まったのかが、分かったんだよ」
「へえ」
 そう言うとヤクザ者は満面の笑みを浮かべた。非常に興味津々な話題である。
「あのね、模擬刀ってあんじゃん」
「ええ、偽者の刀ですよね」
「うん、それをどこで拾ったのか知らないけど、二本手に持ったまま池袋駅に入ったんだって……」
「一本だけでもすごいのに二刀流ですか…。すごい話ですね」
 俺はあの乞食が模擬刀を持って駅構内に入る様子を思い浮かべた。
「それで、夕方のラッシュ時の山手線にね。そのまま入ったんだってさ……」
「それは怖いですね……」
「だろ? もし、その場にいたとして、神威ちゃんならどうした?」
「速攻で逃げますよ」
「え、ほんと?」
 ヤクザ者は拍子抜けしたような表情で俺を見ていた。冗談じゃない。俺だって普通の人間だ。そんな状況下にあろうものなら、とっとと逃げるに決まっている。
「当たり前じゃないですか。怖いっすよ」
「神威ちゃんでも怖いか……」
「だってそんな奴が刀持っていたら、何かすげー嫌じゃないですか。しかもその時は模擬刀だなんて当然知らないですよね」
「でも喧嘩すれば、神威ちゃんなら勝てるだろ?」
「そういう問題じゃないです。そんな奴いたら、一目散に俺は怖いから逃げますよ。真っ先に……」
「やっぱ怖いか……」
 真面目な顔でヤクザ者が言うのでおかしくなってしまった。
「じゃあ、山手線…、大パニックだったんじゃないですか?」
「ああ、大パニックだろうな……」
 リアルにその様子が想像できた。
 あれだけの満員電車が、その車両だけガランと誰もいなくなったそうである。
 乞食は普通に椅子に座り何もせず大人しくしていたところを大塚駅で確保されたらしい。
 担当にその事を確認すると、「何でよりによって、うちの管轄で捕まるんだよな~」と、しかめっ面で愚痴をこぼしていた。大塚駅は大塚警察署の管轄でなく巣鴨警察署の管轄になるようだ。

 俺が入ってから二週間ほどして、先にヤクザ者は釈放された。
「神威ちゃんが出てきたら、今度歌舞伎町で会おうよ。その時飯でも一緒に食おうよ」
「はい、よろこんで。釈放、おめでとうございます。これで娘さんの運動会に間に合うから良かったじゃないですか」
「ありがとう。やっぱそうだね。それだけが気掛かりだったからね」
 毎日話す中、決まって出てくる話題が娘さんの運動会の事だった。傷害で捕まるのは慣れているけど、娘さんの運動会へ出るという約束をしていたヤクザ者は天井を見つめながら、「女房も娘も怒るだろうな……」と寂しそうにいつも呟いていた。その運動会まであと二日という時に、とうとう訴えた相手が被害届を取り下げたらしい。組員たちが必死に動き、相手を説得してくれたと、嬉しそうにヤクザ者は言った。その笑顔を見ていると、娘の幸せを願う普通の父親の顔にしか見えない。
「組員たちにはほんと感謝しなきゃなあ。じゃあ神威ちゃん、悪いけど先に娑婆に出てるよ。連絡待ってるからね」
 ヤクザ者は笑顔で俺とお別れを済ませる。
 俺は彼の連絡先を聞いておく事にした。ぜひ娑婆に出たら、一度ゆっくり飯を食いながら話をしたい。
「あ、原さん。携帯電話の番号とか聞いておいてもいいですか?」
「ああ、それなら神威ちゃんもよく知ってる店あるでしょ? そこの隣にうちの事務所あるからさ。そこに顔出しにおいでよ。今、番号言ったところで何も控えるものないじゃん」
「そうですね。分かりました。出たら挨拶に行きますね」
「おう、待ってるよ。ついでに神威ちゃんがうちの組に入ってくれたら嬉しいんだけどなぁ……」
「それは無理っすよ」
「残念だな~…。まあ、会ったら飯食おうね」
「ええ、ぜひ!」
 彼がいなくなって正直俺は寂しかった。あれだけ話の合う相手が急にいなくなったのである。退屈でしょうがない。
 しかし娘さんの運動会に何とか間に合いそうなので本当に良かった。「目に入れても痛くないよ、きっと……」と笑顔で答えたヤクザ者。虐待する親なんかより素晴らしい事だと思う。
 今頃、肉を好きなだけ食っているのかなあ……。
 女を抱きまくっているのかなあ……。
 想像すればするほど羨ましかった。百合子に会いたいなあ……。

 

 

新宿リタルダント 5 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

同室には中国人が二人いた。委さんという五十歳のおじさんと、林飛龍(リン・フェイロン)という二十五歳の若い男である。国に帰ったら中華料理の弁当屋をやりたいという委...

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