岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

新宿リタルダント 5

2019年07月19日 12時53分00秒 | 新宿リタルダンド

 

 

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 同室には中国人が二人いた。
 委さんという五十歳のおじさんと、林飛龍(リン・フェイロン)という二十五歳の若い男である。
 国に帰ったら中華料理の弁当屋をやりたいという委さんは、いつも寝ながら炒飯か何かを作っている素振りをしていた。寝た状態で宙に向かってフライパンを握り、おたまで何かを引っかき回している。あくまでも想像でそのような動きを毎晩のようにする為、非常に滑稽だった。
 日本に来て朝昼晩と三つの仕事を真面目に働いていたそうだ。真面目にと言っても一時、競馬にハマり、向こうに住む嫁と娘にこっ酷く怒られたらしい。ビザも切れ、給料をもらい、横浜の中華街にいる知り合いに会ってから帰ろうとした時、運悪く職質を受け捕まった。
 もう、ここに三ヶ月もいる。
「神威さん、向こう、弁当箱ない。中で色々分かれてる弁当箱、中国ない。神威さん、どこで売ってる?」
「う~ん、日本だと、河童橋商店街まで行けばあるでしょう」
「え、どこ?」
「河童橋。う~ん、浅草のほうですよ」
「分かんない。駄目」
 そう言って委さんは悔しそうな顔をした。

 飛龍は、どこか子供らしい幼い部分が残っている感じで話していて非常に面白かった。
 一度目は二百万を積んで、偽留学生のビザを手に入れたようだ。しかし、日本に到着してすぐ捕まったらしい。
「何でおまえ、日本に留学しにきたのに日本語全然できないんだ?」と怪しまれ、偽造の学生証が一発でバレてしまい、日本の地を一瞬踏んだだけで強制送還。
 二度目も三ヶ月持たなかった。新大久保にある普通のファミリーレストランで働き、道を歩いているところを刑事に見つかり、職質を受け、また捕まったのだ。
 運がないのもそうだが、可哀相という以外言葉が見つからない。
 それでも飛龍は、いつも明るく元気いっぱいだった。時には中国の訳分からない歌を口ずさみ、眠くなると床に転がり昼寝をしている。
 ここ巣鴨留置所内で一日に読ませてくれる本は、午前で三冊と午後で三冊。本の入ったプラスチックの箱を担当たちが檻の前まで持ってきて、一室から順番に本を三冊ずつ選んでいく。ジャンルはバラバラで、漫画本もあれば小説もある。雑誌だって古いけどあるし、エロ本もあった。
 いつも俺は漫画本二冊と小説一冊を選んだ。漫画本三冊だと、時間を潰せないのである。自分で小説を書くようになってから、一切小説は読まないようにしていた。読みたくないのではなく、読む時間があれば自分で作品を書きたい。そういう状況下の中に自分を置いていた。しかしこの檻の中じゃ執筆活動もできないので、時間を潰す為に小説を読んだ。飛龍は枕代わりになる幅のある本を二冊選び、残りの一冊は必ずエロ雑誌を持ってくる。
 そういえば弁護士の奴、あれだけ雑誌を差し入れるなんて言っといて、二回しかまだもらってないな。早く送ってこないかな。同じ本ばかりじゃ飽きちまう。
 たまたま睡魔が襲い寝ようとしている時、飛龍が話し掛けてきた。
「神威さ。神威さ」
 神威さんと言いたいのだろうが、飛龍の日本語の発音は非常に酷かった。
「ん、どうした?」
「神威さ、やってる? やってる?」
 そう言って飛龍は股間の辺りに右手を軽く握り、上下に素早く動かした。マスターベーションしたのかと聞きたかったのだろう。
「する訳ねえだろ!」
 留置所のトイレは各部屋の片隅にあり、一応ドアはついているもののガラスがあり中は丸見えである。便所に籠もって悪さをしないように警察側の防御策でもあるのだ。
「俺、六回。ここ、来て、六回、やった」
 人目もはばからず飛龍は笑顔で話す。この中に数ヶ月もいるのできっと我慢できなかったのだろう。でも彼が何回オナニーしたかなんて、俺にはどうでもいい事だけは確かである。
「はいはい…。飛龍、俺、ちょっと眠いから寝かせてよ……」
 そのまま目を閉じると、飛龍は俺の膝辺りに自分の頭をコテンと乗せ、横になった。
 何故か知らないが、どうやら彼に懐かれたようである。男に膝枕など気持ち悪いものであるが、無邪気な飛龍の顔を見ていると幼い子を寝かせているような感覚になった。
 隣で同じように寝転がりながら、委さんがこちらを向いて微笑んでいた。

 そんな飛龍に、面会へ来た人間がいた。
「おい、七番。接見だ。出ろ」
 担当が飛龍を呼びに来る。誰か友達でも来てくれたのだろうか?
 飛龍は俺のほうを見て、一瞬だけニヤリと笑った。
 俺はここに入れられてから相変わらず接見禁止の状態だったので、誰とも会う事ができない。唯一面会で会えるのは弁護士だけ。差し入れも弁護士からでないと一切受け取り不可能状態だった。
 一度、地検へ行った際、検事に接見禁止を解くようお願いした事がある。
「検事さん…。俺、結婚を約束した女がいるんですよ。何とか面会ぐらいできるようになれませんかね?」
「ああ、無理だね」
「女もかなり心配していると思うんですよ。普通のOLなんですよ?」
「ああ、無理無理」
 この野郎……。ここを出たら首を洗って待っていろよな。済ました顔でひょうひょうと向かす検事を睨みつけながら怒りを込めて、「そうっすか」と低い声で返事をした。
 その時の様子を思い出しながら、部屋で横になり天井を眺めていると、三分もしないで飛龍は帰ってくる。
「どうした、飛龍?」
「武狭、武祖、小龍…。三人、友達、面会、来た。でも、日本語、みんな、駄目。警察、おまえ、帰れ。帰ってきた」
 可哀相に……。
 まともに日本語の話せない飛龍は、中国語での会話を許されなかったのである。弁護士以外の面会は、常に担当の警官が一人横に付き添う。そこでどんな会話をしたのか、一語一句洩らさず書くようなのだ。中国語だと分からないので、その場で面会は打ち切りにされたのだろう。
 午後になり、本を選ぶ時間がやってきた。
 いつもなら楽しそうに本を物色する飛龍。しかし今日ばかりは部屋から出ようともしない。よほど先ほどの面会での担当の対応に腹を立てていたのだろう。
「ほら、飛龍。エロ本だぞ」
 少しでも元気付けようと俺はエロ本を借りてきたのだが、飛龍は「神威さ、いい…。ありがと、ありがと」とだけ短く答えると、その場でふて寝してしまった。

 そんな俺も、とうとう釈放される日が来た。
 様々な知略を駆使して、俺は起訴まで持っていかせなかった。
 検事は俺の顔を見る度、悔しそうな顔をした。
「おい、神威! キサマが週に一回のアルバイト? ふざけんなよ」
「だって本当にそうなんですよ。オーナーの松本さんも同じ事言ってませんでした?」
 叩けば埃が出る体でも、埃を出さないようにするやり方もある。叩いても埃が出なければ、この国は起訴にはならない。
 出る前日、担当の溝口刑事がこっそり内緒で教えてくれた。
「明日は五本だと思うぞ…。多分だぞ。多分……」
 結果を知っていても、警察官は容疑者に情報を洩らしてはいけない。
 だから向こうの出すヒントで、こっちがある程度勝手に解釈する必要がある。
 五本……。
 つまり明日、俺は罰金五十万で起訴されずに娑婆に戻れるという事だ。
 自分の思うよう起訴できず、検事の奴、悔しくて堪らないだろうな……。
 俺は自然と口元がニヤけた。実際にこうして捕まってしまったから試合には負けたが、勝負には勝ったといったところだ。
 このギリギリまで留置所に閉じ込められた二十二日間を振り返る。
 最初の二日間は刑事拘留で取調室にて調書を取る。あとは地検で十日拘留を二回。合わせて二十二日間で、起訴になるかどうかが決まるのだ。
 留置所の中は退屈で窮屈だったが、ここに入った事は本当に勉強になった。
 強がりでも何でもなく、いい経験ができたと思う。
 俺が捕まった事で心配をかけたみんなには申し訳ないが、国が決めたくだらない法に違反しただけで悪い事をしたという気持ちはどこにもなかった。停めてはいけないところに駐車をして見つかってしまった。その程度の事と変わらないと感じる。
 留置所で仲良くなった人間とは、連絡先をちゃんと控えていた。
 どうやったかって?
 簡単な話である。
「弁護士に手紙を書くから、俺の便箋をお願いします」と担当にお願いする。
 適当な文章を書いておき、それをグシャグシャに丸める。ノート式の便箋の後ろのほうの部分に、仲良くなった相手の連絡先を聞いて書いておくのだ。
 担当には、「やっぱ考えがいまいちまとまらないからいいや」とだけ答え、便箋を自分のロッカーにしまってもらう。
 この便箋をチェックする担当など、いやしない。
 あのバカボンパパに似た検事……。
 あの野郎が歌舞伎町で偉そうに歩いていたら、監視カメラの見えないところへ入った瞬間全力で走り、飛び膝蹴りをぶち込んでやろう。

 二十二日ぶりに黒いスーツを着て、両手に手錠をはめたまま鉄格子の外を歩く。
 他の部屋の仲間へ笑顔で簡単な挨拶を済ませる。
 みんなも笑顔で「頑張ってね」と素直に祝福してくれた。何を頑張るのか分からないが、みんなの気持ちはとても嬉しい。まだしばらく檻の内側で時間を過ごすようなのに笑顔で見送ってくれるなんて。
 一室の前を通る。
 五番の乞食が鉄格子にしがみついて俺を見ていた。
「五番…。俺、今日でここ、出るの。じゃあね、バイバイ」
「え、俺出るの? ここ出るの?」
「ううん、違うよ。出るのは、俺だけ。五番はまだ、そこ」
「え、座ってればいいの? 座ってればいいんでしょ? だ、駄目?」
「全然駄目じゃないよ。ゆっくり好きに座っていればいいんだよ。じゃあね」
 俺は笑顔で乞食に微笑んだ。
「まだ、ここ、いれるの?」
「うん、まだ大丈夫。まだ、ご飯、三回タダ。お風呂、五日で一回タダ。分かる?」
「ん、うん…。ここにいればいいんでしょ? だ、駄目?」
「駄目じゃないよ。いいんだよ。ここにいればいいんだよ。でも、俺はバイバイなんだ」
「行っちゃうの? ここ、いちゃ、だ、駄目?」
「ううん、駄目じゃないよ。でもごめんね、俺はバイバイなんだ。五番はまだここにいていいんだよ」
 乞食と話をしていて、何故か無性に別れが辛かった。
 大袈裟なジェスチャーも含め、何とか分かってもらうよう会話をした。
 いつもなら「喋るな」とうるさい担当も、黙ったまま俺と乞食の会話を眺めていた。
 乞食は寂しそうな表情で、俺を見送ってくれた。

 留置所を出ると、担当が俺に言ってくる。
「おまえ、接見禁止だったろ。それでも面会に来て差し入れだけしてくれた人が三十四人もいたんだぞ。ほら、この雑誌を見ろ」
 週刊ジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオン。ヤングマガジン、ヤングジャンプに漫画ゴラク。週刊スピリッツもあれば、ビジネスジャンプもある。同じ週に発売された雑誌が何冊もかぶっていた。
 それを縦に置いて繋げると五メートルぐらいになる。これだけの量をみんな、接見禁止だというのに持ってきてくれていたのだ。仲間の優しさが心に染み渡る。ありがたい話だ。
「どうすんだ、これ?」
「俺はこれからいくらでも好きなだけ読めます。中の仲間に全部差し入れしてやって下さい。気持ちだけ、俺はもらっておきます」
「そっか、ありがとな。きっとみんな、喜ぶよ」
「あ、あと俺が使っていたジャージとかの衣類。一室の五番に全部あげて下さい」
「分かった。ありがとな」
 一冊の本に目が留まる。『キン肉マン超人大全集』と書いてある本。一体誰がこんなものを差し入れたんだ?
「あ、担当さん…、この本って」
「ああ、おそらくおまえの彼女だろう。トランクにいっぱい色々なものを持って来たんだぞ。接見禁止だったし、上からも差し入れは駄目だって言われていたから靴下二足しか入れてやれなかったけどな」
 百合子…。どんな想いでここまでトランクを担いできたのだろうか。目頭が熱くなる。
「この『キン肉マン超人大全集』だけは持って帰ります」
「そうか。そうだな」
 大切にバックへ本をしまった。もうこれで心残りは……。
「あ、あとですね……」
「何だ?」
「五番に一回でいいから、カレーライスの差し入れしてもいいですか?」
「気持ちは分かるができないんだよ……」
「何でですか!」
「出る人間が中の人間に差し入れは、法律上禁止されている」
「じゃあ、二千円だけ渡しておくから五番が元々持っていたって事にすれば……」
「こっちの立場も分かってくれ…。最初の時点で金銭はいくらかってすべて記録に残っているんだ。正直おまえの気持ちは嬉しいよ。ありがとう。でも警官である以上、規則がすべてなんだ……」
「……」
「これは独り言だぞ…。運動の時、私のポケットからタバコが一本ぐらい、五番の前にこぼれてしまう事はあるかもしれないがな……」
「ありがとう、刑事さん」
 俺は笑顔で手錠を掛けたまま、護送車へ向かった。
「もう捕まるような真似、すんなよ」
「分かってますよ、溝口さん。お世話になりました」
「それとな、彼女と籍を入れてやるんだぞ」
「またそんな事言ってるし…。あ、溝口さん、そうそう……」
「ん、何だ?」
「俺、小説書いてるって言ったじゃないですか?」
「ああ、どうした?」
「あとで、俺の書いた処女作『新宿クレッシェンド』を巣鴨警察署の生活安全課へ溝口さん宛てでプレゼントしますよ」
「何だ、おまえ、本当に小説書いてたのか?」
「ひっでえなあ~…。嘘なんてつきませんよ。それに俺の書いた小説、溝口さんに見てもらいたかったんですよ」
「そうか…。ありがとな」
「溝口さんには、よくコーラ奢ってもらったじゃないですか」
「そうかそうか……」
 俺は担当の溝口刑事とガッチリ握手をして、護送車に乗り込んだ。これから地検に向かい、晴れて釈放って流れだ。

 両手に手錠、そして犯罪者は一本の縄で繋がれながら護送車へ乗り込む。いつもと違うのは手荷物がある点。これでようやく釈放されるのだ。
「おい、おまえのカバンはここに置いておくぞ。中身は何が入っているんだ?」
「パソコンですよ。乱暴に置かないで下さいよね」
「パソコン? 分かった。こういう風に置いておくからな。これで壊れないよな?」
 二千三年当時、パソコンを持っている人間がまだそこまで多くなかったせいか、警察官は妙にビクビクしていた。一般人では浸透しているパソコンも、歌舞伎町では珍しく、増してや犯罪者たちが集う地検へ行く護送車の中では稀だったのだろう。
 少しジャブの効いたブラックジョークでも言っておくか……。
「別に壊れてもいいっすよ」
「え、何でだ?」
「その時は国の金で弁償してもらいますから」
「ふざけんじゃねえ」
 護送係の警察官は顔を真っ赤にして怒っていた。それを見て俺たち犯罪者たちは大笑いする。
 護送車の金網越しに見える街の風景。いつだって視線は街を歩く女、そして食堂やラーメン屋、レストランに釘付けだった。結局のところ、男の本当に欲するものって女と食い物なんだよなあ。女を口説く為に男は無理をして見栄を張る。見栄を張ると言う事は、金を使う。よって経済は動く。今の世の中、男がしっかりと金を稼げない状況だから、こんな不況になっちまってんのかもしれないな。若い女が楽して大金稼ぐシステムを作り過ぎだ。それを容認している馬鹿な政府。まだまだ不況は続きそうだな。
 まあ国の経済事情なんてどうだっていいや。もうじき肉が食える……。
 頭の中は、血の滴るステーキでいっぱいになっていた。食い終わったら思う存分百合子を抱こう。
 そういえばあの五番とは一緒に護送車へ乗ったよなあ。一本の縄で繋がれた俺ら罪人たちは、地検に着くまで一切の私語を禁止される。非常に退屈だった俺は五番を見ると、彼もこっちを無言のままジッと見つめてきた。警官がこっちを見ていない隙を見計らい、俺がガシャッと音を立てながら不意に両腕を上げると、彼も同じように物真似をしてくる。周りの罪人たちはそのやり取りを数回見て一気に吹き出し、車内にいた警官は全員に「笑うな! 静かにしろ」と怒鳴っていた。
 地検の帰り道、大塚、池袋の連中を先に下ろし、残り巣鴨メンバーだけになった時、珍しくその警官は俺を見ながら「今日はありがとうな」と意味不明の台詞を言ってくる。
「え、何でお礼なんか? 何か俺しましたか?」
「いや…、まあ、本当は私語なんて禁止なんだけどさ…。こんな世知辛い商売だろ、うちらは。ああいう風に車の中でドッと笑いが起きるなんて滅多にない事なんだ。何か嬉しくてな……」
 そう照れ臭そうに話す警官。
 留置所生活を送って一つ変わった事がある。今までの俺は、警察を一つの敵対組織としてずっと憎んでいた部分があったが、実際は一人一人の人間の集合体に過ぎないのだ。このように人間臭く好感が持てる奴だって中にはちゃんといる。このような感情を持てるようになったのも、俺を担当した溝口刑事のおかげかもな。
「あ、雨……」
 五番が外を眺めながらポツリと呟く。
「ん、雨? 全然降ってないじゃないか。何を言ってんだよ」
 笑いながら警官が言うと、五分ほどしてザーザーぶりの雨が降ってきた。これには俺も驚いたが、普段路上で生活してきた彼にとって、天候の変化を感じ取るのは当たり前の事だったのかもしれない。
 あ、五番にどうにかしてカレーライス、ご馳走してやりたかったな……。
 そんな事を思い出している内に、護送車は地検に到着する。

 一本の縄で繋がれたまま地下へ向かう階段を降りる。よく覚えておこう。いつか自分の手でこの事を作品として書くまでは……。
 数名の警官と俺ら罪人たちしか通らない通路を黙々と歩きながら、地下の集合場所へ向かう。薄暗い中を進み、何度か左右に曲がる。一列縦隊で指示されながらだから、ただ黙って歩くのみ。
「池袋方面、総員二十三名、到着」
 いつもの集合場所へ行くと、俺たちはベンチに座らされ、自分の名前を呼ばれるまで大人しく待つ。
「巣鴨、神威」
「はい」
 呼ばれた時だけ立ち上がり、返事をする。それからまた硬い木のベンチがある檻の中へ振り分けられた。どのように区別されているのか知らないが、ここでは別々の者同士が適当に振り分けられているような気がする。
「あれ、久しぶりです」
 檻のベンチに腰掛けた瞬間、小声で隣の奴が話し掛けてきた。見ると一番街通りのゲーム屋『ワールド』で、俺が店長をしていた頃よく来てくれた客だった。千人近くいる場所で、奇遇にもこうして顔を合わせるなんてすごい偶然である。
「ああ、お久しぶりです。元気でしたか?」
「元気と言うか…、まあ退屈ですよね。知り合いに会うと思いませんでしたが」
「それは俺もです。何をして捕まったんです?」
「自分はシャブです。店長は? ゲーム屋で?」
「いえいえ、ビデオだから猥褻図画ですね」
「『ワールド』時代、『俺は絶対に捕まらない』とか言ってたじゃないですか」
「しょうがないですよ。捕まっちゃったんだから」
 俺たちは顔を見合わせて大笑いすると、すぐに警察官がすっ飛んできて「喋ってんじゃねえぞ、おまえら」と怒鳴りつけてきた。
 すると向かいに座る男が立ち上がり、牢屋に近づく。
「看守さん…、紙を」
 非常に嫌な予感がする。案の定、男は片手錠になり、トイレットペーパーを両腕でクルクルと巻き出した。
 レッツ、ショータイム。これから異臭漂うウンコタイムの始まりだ。
 他人がクソをしている空間にただ黙って座っているのは、拷問以外の何ものでもない。それでも文句一つ言う権利すらない俺たち。
 堅い木のベンチが尻に食い込んで痛い。はあ…、毎度の事ながら、ここへ来る度悪い事はしちゃいけないって反省する。
 ブリッ…、ブリリ……。
 ゲッ…、あの野郎、ひょっとして下痢かよ……。
 ブリッ…、ブリュリュ……。プー……。
 もう! クソしたら早く水で流せよ、この馬鹿っ! そうやって怒鳴りつけたいが、それさえも禁じられている俺ら。
 部屋の中にいる全員が手錠を掛けた両腕を上げ、黙って鼻をつまんでいた。
 最後の最後でとんだ味噌がついたもんだ。

「巣鴨、神威」
「はーい」
 ようやく俺の番が来たようだ。ここに着いてからどのぐらい時間が経ったんだ? 今日で釈放なんだから、もうちょっと早く呼べばいいのに。
 警察官二人に挟まれるような形で、黙々と細長い通路を歩く。
 コンコン……。
 軽くドアをノックする警察官。少ししてから「失礼します」とドアを開ける。
 中にはいつもの検事と秘書の女二人が座っていた。
「……」
 このバカボンパパ似の検事が接見禁止を解かないから、俺は誰とも面会できなかったのだ。本当にこの馬鹿はムカつく。
 向かいの椅子に座らされると、手錠についた青い縄を解かれ、そのまま背もたれと一緒にグルグル体ごと巻かれる。これは犯罪者が暴れたり、逃げようとしたりしないような処置なのだろう。手錠は外されているので、このぐらいは当たり前か。
 再び「失礼します」と頭を下げ、二人の警察官は部屋を出て行く。
 これでこの中は俺と検事と秘書の三人だけになる。
 このブサイクな秘書とブ男検事は、プライベートでやっちゃったりしているのかね? そんなどうでもいい事を考えていると、検事が口をようやく開いた。
「神威龍一…、罪名、猥褻図画販売目的所持。今回に限り初犯という考慮をして…、ば…、罰金五十万」
 とても悔しそうに言う検事。不起訴確定の瞬間だった。
 しかし表向きは裏DVDを売る仕事をして四回目というだけで、五十万円も罰金を取ろうとしているのだ。普通に考えてみればおかしい話。調書上では一日一万二千円しかもらえていないと伝えてある。金額にすれば四万八千円しか給料をもらっていない計算なのである。いや、四回目の途中で捕まっている設定だから、三万六千円か。どちらにしても、簡単にその金額を決められる検事。こんな奴が国を動かした気でいるから世の中おかしくなっているんだろう。
 どうせこれで釈放だ。ならば一つぐらいリアクションをしておこう。
「五十万? ずいぶんと高いな。こっちはたった数万しかもらっていないのによ」
「何だ、キサマ……」
 検事の目が鋭くなる。
「キサマ? そっちこそその言い方って何だよ? 俺だってちゃんとした一人の人間だ。確かに検事さんは人間を裁く立場かもしれない。でもな、もうちょっと人間の痛みってもんを知っといたほうがいい」
「何だと、この若造が……」
 昔から猛勉強をしていい大学へ入り、こうした立場の仕事につく。世間一般で見れば、エリートコースだろう。だが、こんな社会経験ゼロの男が自己判断で人を裁く。本当にそれでいいのかよ。
 罰金の五十万は組織がすぐ用意してくれるので、俺は別段痛くない。それでもひと言自分の気持ちをこうして言ってやりたかった。
「あんたが俺を不起訴に決めたんだ。俺は今日で釈放。これもあんたが決めた」
「だから何だ?」
「悔しいだろ? 俺を起訴できなくて」
「くっ……」
 絶対に起訴をさせないという俺の持論が、国の法律に勝ったのだ。
 食いたいものも自由に食えず、女も抱けない退屈で苦痛の二十二日間。俺はそれに耐え抜き、持論を押し通した。
 本当はこんな裏稼業の世界で幅を利かせるのではなく、リングの上で戦っていたかった。ずっと今回はプロレスの試合で想定すれば、相手の技をひたすら受けて耐えている状況である。だから最後にこっちの必殺技をお見舞いしなきゃいけない。プロレスってそういうものだから。
「いいか……」
 俺は縄で括りつけられた椅子ごと立ち上がる。
「な、何だ、キサマ!」
 一瞬怯む検事。
「安心しろって、何もしねえよ。俺の調書にプロレスと総合格闘技って書いてあったろ?」
「だ、だから何だ?」
「せっかくだし、対戦相手が気に食わない時、どうやってパフォーマンスをするか見せておこうかなと思ってね」
 ゆっくりと天井を見上げ、それから目線だけ下に向け検事を見据える。右の拳を真正面に突き出してから、ピンと親指だけを伸ばす。その状態のまま時間を掛けて肘を曲げ、左頬下の首まで右手を持っていく。
「……」
 検事は黙って俺の行動を睨んでいた。
 目を見開きながら舌を出し、スローモーションに真横へ腕を動かす。首を掻っ切るポーズを終えると、上から見下ろすようにして検事を睨みつける。
「俺は少なくてもこうやって対戦相手を威嚇するんだ」
「ふ、ふざけるなっ!」
 真っ赤な顔をして怒る検事だが、もう遅い。俺はこれで釈放。ようやく娑婆の空気を自由に吸えるのだ。
「検事さん…、別にふざけてなんかいねえよ。大真面目だ」
 そう言って俺は不敵に笑った。

 地下鉄に乗って池袋駅まで向かう。まずは百合子に連絡を入れないと。
 返してもらった携帯電話を取り出し電話を掛けようとすると、いきなり着信が入る。知らない番号だった。末尾が一一〇なんで、どこかの警察署というだけは分かる。釈放されたばかりなのに何故? これ以上やましい事などないので、電話に出た。
「あ、こちら川越警察署です」
「は?」
「川越警察署なんですが。神威さんですよね?」
「はあ、何でしょうか?」
「ご家族の方から捜索願いが出てまして、それで電話をしてみたところなんです」
 なるほど、俺が捕まってから二十二日間経つ。大方弟の龍也辺りが心配して警察にって事も考えられる。それにしてもついさっきまで巣鴨警察署にいたのに何もこいつら分からないのか。
「そうなんですか。ちょいと仕事で大阪のほうへ行ってましてね。それで出発する前知人のところに泊めてもらったんですが、その時携帯を忘れてしまったんですよ」
 よくもまあ俺もこう嘘がポンポンと出てくるもんだ。
「ああ、そうですか」
「まあ、そんな訳なんで捜索願いは取り消しといて下さい」
「かしこまりました」
「お騒がせして申し訳ないですね。お疲れさまです」
 電話を切ると、百合子にメールを打ってみた。
《心配掛けてすまなかったな。無事出て来れたぞ。今仕事中だろうからメールにしといた。このあと歌舞伎町へ行ってオーナーたちと会うから、そのあとゆっくり会おう。 神威》
 あとはどうするか? とりあえず歌舞伎町へ向かうとして、家でも大騒ぎになっている可能性がある。龍也に電話を入れておくか。
「あ、兄貴?」
「おう、久しぶりだな」
「何をやってたんだよ? ずっと連絡つかないからさ、家じゃ大騒ぎだよ」
「悪かったよ。仕事で大阪へ行っててさ、携帯こっちに忘れてしまったんだ」
「家じゃ兄貴宛てに俺々詐欺の電話あってさ」
「はあ、俺々詐欺? 何だそりゃ?」
「パートの茜さんいるじゃん」
「ああ、で?」
「茜さんが電話を取ったらいきなり兄貴が事故ったって。それで親父に『龍ちゃんが事故ちゃったー!』って大袈裟に言うもんだから親父も焦って出てさ」
「うん、それで?」
「相手が急いでいるところいきなり突っ込まれ、それで家に電話をしたとね。で、親父もパニくっているからさ、俺が代わったの。まず状況を聞こうと思ってさ」
「ああ」
「そしたら知り合いの車屋に見せたら結構いっちゃってるから、とりあえず百万円を振り込んでくれって」
「へえ」
「で、俺も車屋だから、どこにそんな事故したばかりで査定を出せるところがあるの?って聞いてさ。そんな車屋があるなら逆に紹介してほしいって。それで話にならないから兄貴を出して下さいって言ったんだ」
「うん」
「そしたらおまえの兄貴はブルブル震えちゃって電話で話せる状況じゃないなんて言うからさ。ああ、じゃあそれ兄貴じゃないっすねって。元々嘘だと思ってたから色々つっ込んだら、相手、何も言えなくなっちゃってね。向こうから電話を切っちゃったんだ。で、俺々詐欺なんだって分かって。でもそういえば兄貴を見た人間が誰もいないって話になってさ、どっかで無茶してさらわれて監禁されてんじゃねえのって捜索願いを出したんだよ」
「馬鹿か…。俺が何で無茶をしなきゃいけねえんだよ。今さっき川越警察から電話あったから取り下げといたよ」
「でもさ、連絡ぐらいつけるようにしといてくれよ。兄貴の仲がいい先輩の最上さんや月吉さんとかに聞いても分からないって言うしさ。大騒ぎだったんだぜ?」
「悪かったよ。一本電話をしときゃよかったな」
「最上さんとかも心配してたから連絡しといたほうがいいよ」
「ああ、すぐするよ」
 電話を切って最上さんや月吉さんへ掛ける。みんな、俺がもう殺されたんじゃないかって大騒ぎだったらしい。弟の龍也に本当の事を言えなかったのは、おじいちゃんの耳に入ると困るからだ。警察のご厄介になんて外聞悪いだろうし、いらぬ心配を掛けてしまう。なので仕事で大阪にという線は崩せない。最上さんらには真実を伝え安心させた。
 そういえば中に入っている時、百合子に亀田先生へ連絡しとけってメールしていたけどうまく言い訳できたかな?
 電話をしてみると、タイミング良く先生が出てくれた。事情を話すと、「何だ、この野郎…。まあ、これはうちの女房や真由香には言えないなあ。俺とおまえの話だけにしとこう。いきなりおまえの彼女から電話あったから、何かと思ったよ」とブツブツ文句を言っていた。

 久しぶりの歌舞伎町。靖国通りを渡り、歌舞伎町へ向かう。道を歩いていると顔見知りの人間とすれ違い、俺の顔を見ると「お疲れさまでした」と声を掛けてくれる。
 さくら通りをゆっくり歩くと知り合いがまるで俺の帰りを待っていたように左右に並び、みんな笑顔で「お疲れさま」と言ってくれた。
 この街に生き、この街を愛してきた。わずか二十二日間だったがずいぶんと昔の事のように思える。ここが俺にとって居場所。また戻ってきたんだ、この街に……。
 奥でオーナーの高山、金子、村川の姿が見える。照れ臭そうに会釈をすると、「辛い思いさせてすまんかったなあ」と肩を叩いてきた。
「松本さんは?」
「今、野方警察署にいる」
「そうですか……」
「とりあえず喉渇いてるやろ? ラーセン行こう」
 コマ劇場裏手にあるビデオ村。その近くにある喫茶店のラーセン。老マスターが一人で細々と営んでいるレトロな店である。
 マスターは俺の顔を見ると、嬉しそうに「お疲れさん」と声を掛けてくる。
 アイスコーヒーを注文し、留置所の話をひと通りした。オーナーたちは財布を取り出し、「少ないけど取っておいてくれ」と一人二十万円ずつテーブルの上に置く。全部で六十万。
「しばらく女抱いてないだろ? バルボアにでも行こうか」
 バルボア…、歌舞伎町で一番高級なソープランドである。百合子の存在がなければ喜んで行くところだ。
「いえ、お気持ちだけで…。一番始めに抱かなきゃいけない女がいますんで」
「そうか。じゃあ、これは気持ちや。取っとき」
 さらに高山が五万円をテーブルの上へ置いてくる。続いて金子と村川も同じ額を置く。
「いえ、こんなにもらったら……」
「気持ちや、気持ち。うまいものぎょうさん食って、ゆっくりしてきたらええ。本当にお疲れさん」
 二十二日間の留置所生活。組織の為というよりも、俺は純粋にあの空間を楽しんだだけ。それなのに手元に七十五万円の金が入ってきた。
「他の店は? 『ビビット』と『らっきょ』は無事ですか?」
「ああ、今のところ大丈夫」
「良かった……」
「しばらくゆっくりしてきな。店の事は考えんでもええ」
 もう少し話していたいが、百合子の奴、首を長くして待っているだろう。
 深々とお辞儀をしてラーセンをあとにした。
 まずは肉だ。肉を食いたい。
 パンパンに膨らんだ財布をスーツの内ポケットに入れ、俺は西武新宿駅へ向かった。

 

 

新宿リタルダンド 6 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

特急小江戸号が本川越駅に到着する。改札を出て駅前のロータリーへ走った。白い軽自動車に寄り掛かるようにして百合子は俺を見ていた。「し、心配掛けたな」満面の笑みを浮...

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