岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

新宿リタルダント 3

2019年07月19日 12時51分00秒 | 新宿リタルダンド

 

 

新宿リタルダント 2 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

新宿リタルダント1-岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)新宿クレッシェンド第6弾新宿リタルダンド新宿歌舞伎町浄化作戦……。都知事が発動した馬鹿...

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 一晩ゆっくり過ごし、朝食を取る。あと数時間後には新宿へ向かわないといけない。西武秩父駅にあるおみやげ屋へ行き、色々なものを物色する。駅前にあるそば屋へ入り、少し早い昼食を取った。たまたま入ったそば屋だが、とてもうまかった。おみやげを買い、百合子とは所沢駅で別れ、そのまま新宿へと向かう。
 歌舞伎町へ到着すると、オーナーの高山に連絡を入れた。もちろん金子や村川にもおみやげを買ってあるが、心情的に一番世話になっている高山へ初めに渡したかったのだ。
「気を遣わせてすまんのう。まだ店も開いてないし、いつもの喫茶店行こか」
 喫茶店で高山に刺身こんにゃくと菓子折りを渡し、アイスコーヒーを注文する。
「ところでなあ、伊田君いるやろ」
「ええ、伊田さんがどうかしましたか?」
「奴のやっている『リング』も、ようやく売り上げが上がってきたんや。ちょっとは仕事に対しやる気が出てきたんやなとね……」
「良かったじゃないですか」
「それがのう……。昨日やられてしまったんや……」
「え?」

「ワシな…、伊田君が頑張ってるから、ちょいと小遣いもやったんや。とても喜んどったわ。もっと頑張りますねって」
「ちょっと待って下さい。やられたって…、もしかして警察に……」
「ああ、あいつもやられてしまったんや……」
 あの伊田がパクられた? 自然と頭の中に伊田の顔が思い浮かぶ。
「いつですか!」
「昨日や。神威君にも知らせようと思った。でもな、彼女と楽しんでいるところじゃ、こんな事言ってどうすんのやって」
 高山の気遣いに感謝を覚えつつ、ショックを隠せない自分がいた。昨日俺が百合子と旅行を楽しんでいる間、捕まった伊田。
「……」
 またうちの系列で犠牲者が一人……。
 伊田との他愛ないやり取りを思い出していた。
「伊田さん、俺、彼女できたんですよ」
「え、羨ましいですね。自分なんて昨日、『エンジェルキッス』が半額デーだからワンタイムだけ行ったぐらいですよ」
 醜く太った体。焼きそばのようにモジャモジャのだらしない髪の毛。牛乳ビンの底のようなメガネを掛け、『巨人の星』に出てくる左門豊作のようなニキビだらけの頬。あそこのお触りで働く女も、いくら仕事とはいえ溜まらないだろうな。
「彼女の写真とかってないんですか?」
「ありますよ、ほら」
 俺は携帯電話で撮った百合子を見せた。
「すごい美人じゃないですか」
「いやあ、照れますね」
「じゃあ、今度神威さんに紹介してもらって、私も一緒に3Pとか……」
 本人は冗談で言っているつもりなのだろうが、俺にはまるで笑えない。素っ気なくその場を離れたが、この後も同じ事を繰り返しニヤニヤしながら話し掛けてきた。
 生理的に嫌いな男だった。仕事じゃなければ話す事すらなかっただろう。でも、あんな伊田でさえ捕まると、こうも悲しいものなのか……。
「高山さん、今『リング』は?」
「昨日やられたばかりやし、さすがに近づけんよ」
「上の『らせん』はどうするんですか?」
「まあ、他の店舗に関しては今日も状況を見て、営業はする。これ以上売り上げ落ちたらかなわんからのう。もうちょいしたら金子さんと村川さんもここに来る。残り三店舗になってしもうたけど、神威君、頼むで」
「ええ!」
 残り『らせん』『ビビット』『らっきょ』の三つ。もうこんな思いをするのは嫌だ。力強く俺は頷いた。

 午前中から昼に掛けて今日は五軒のビデオ屋がやられた。手当たり次第といった表現がピッタリの新宿歌舞伎町浄化作戦。俺たちは指をくわえて見ている事しかできない。世界一の繁華街と謳われた歌舞伎町も、国家権力の前では無力に等しい。
 それでもビデオ屋のほとんどは、昼の十二時ぐらいに店を開けだした。高い家賃、そして人件費などがあるから、警察にパクられるのは怖いが仕方ないと言った感じなのだろう。
 他の店が徐々に開きだしたから、少し様子を見てうちもやるか…。高山ら三人のオーナーと相談し、今日の営業は昼の二時から始める事に決める。うちの系列店もあと三店舗。『フィッシュ』の浜松や『リング』の伊田のような真似は、もう俺がさせない。ふざけんなよな、警察の連中……。
 西武新宿駅前の『らっきょ』の名義人、山崎に電話をする。彼は俺より五歳年上の三十八歳。オーナーの金子の話によると、昔は大金持ちだったらしい。親の財産の受け継ぎマンションの管理人をしていたそうだ。賭博好きの山崎は競馬にほとんどの金をつぎ込み、あっという間に破産した。俺も以前競馬に狂っていた時代もあるのでよく分かる。パチンコやスロットと違い、競馬は天井というものが存在しない。パチンコで十万円負けるのはとても大変だ。しかし競馬なら百円も一千万も一瞬でなくなる。マンションを手放した山崎は二億円という金を手にしたらしい。それでも懲りる事なく土日になれば競馬、平日はパチンコに入り浸り、現在『らっきょ』の名義人として働いている。
「山崎さん? 二時からやりますから」
「えー、てっきり今日は四時ぐらいからかと思ったのにー」
 後ろでパチンコ屋のやかましい騒音が聞こえる中、山崎は面倒臭そうに言う。この男、財産を使い果たしても懲りていないのか、四六時中パチンコをやっている。
「早く店を開ける準備をして下さいね」
 それだけ言うと、次は東通りにある地下の店『ビビット』へ連絡を入れる。ここの名義人の柏は六十歳を過ぎた老人だった。仕事がないようでこうして裏ビデオ屋の名義人をしているようだ。彼は今のビデオ業界についてこれず、五店舗ある系列の中で一番売り上げが悪い。それでも月に五十万円の給料を手にしている訳だから、本人的には満足なのだろう。ただ柏の人柄はとても良く、一緒に食事へ行くと必ずといっていいぐらいご馳走してくれた。『ビビット』も村川の店である。
 最後に高山の店『らせん』の名義人、松本へ連絡を入れておしまいだ。彼は非常に真面目で何故こんな裏稼業で働くのかと疑問に思うほどだ。細かい気配りもできるし、客が店に来てもすぐ分かり易いようなレイアウトを考え、人当たりも柔らかい。年は俺より四つ上の三十七歳。五店舗の名義人の中で唯一結婚している人間でもある。相手は中国人の奥さん。人間的にできている松本であるが、一つ問題があり、タイ人の女性に入れ込んでいる。いつも携帯電話に収めているタイ人の彼女の写真を見せては、「神威さん、どうです。綺麗でしょう?」と自慢をしてきた。
「でも松本さん、奥さんいるでしょう? マズくないですか?」
「私的には別れたいんですよ。このタイ人の子を愛していますからね。でもあいつ、絶対に別れないって頑固なんですよ」
 どう考えても松本のほうが悪いと思うが、他人事なので放っておく。
 時間は昼の一時四十五分。松本に電話をすると、電気屋に来て、空のビデオテープを買っているところらしい。生真面目な彼はDVDを見れない客の為に、暇を見ては自分でビデオテープにダビングして作り、売り上げに貢献していた。
「神威さん、すみません。今ビデオテープ買っているんですけど、戻るのに三十分ぐらい掛かってしまうんですよ。『らせん』の合鍵持ってますよね?」
 松本は遠い場所にあっても経費削減の為、安ければ平気で買い物に行く。俺の立場からすれば、松本のような名義人ばかりだと何の苦労もないのだ。
「ええ、ありますけど」
「申し訳ないんですが、お店開けてもらえませんか?」
 浄化作戦により、全体的な売り上げは当然の如く落ちている。金がいつもより少ない状態だから、オーナーたちも変にピリピリしていた。松本にしてみたら、あとあと文句を言われるような事は避けたかったのだろう。
「構いませんよ。戻ってきてもすぐできるよう準備しておきますから」
「ありがとうございます」
 こうして俺は『らせん』のオープン準備をする。万が一の事を考え、高山に『ビビット』と『らっきょ』の鍵を預けておいた。
『らせん』へ向かう途中、『ワールド』時代の部下大山が道端に立っている。
「あれ、神威さんどうしたんすか?」
「今、松本さんが買い出しに行っちゃってから、代わりに店だけ開けに来た」
「あとでジュース飲みに行ってもいいすか?」
「構わないけど、すぐに俺はいなくなるぞ。あ、一応警察とかの見張り、ヤバい事あったらすぐに連絡くれよな」
「分かりました」
 入口の鍵を外し、階段を上っていく。外に看板を出し、店内の明かりをつけた。いつも綺麗に片付いている店内。松本が戻るまでまだ二十分以上ある。たまには小説でも書くとするか。俺は常にノートパソコンを持ち歩いていたので、こういう時は非常に便利である。
 彼女の百合子も俺の書く小説を読むのを楽しみにしているので、早速書き始めようと電源を入れた。

 昼の二時過ぎ。階段を上ってくる足音が聞こえる。松本か? その方向を見ていると、サラリーマン風の三十代半ばの客だった。軽く会釈をして俺は小説の続きを書く。客がメモ用紙に商品を書いてカウンターまで来たら、奥にあるDVDの中から商品を探し渡すだけ。非常に簡単な仕事である。
 また階段を上がる足音が聞こえる。オープンして間もないのに客足がいいもんだ。入口を見ると、土木の格好をした状況の男が見える。首に汚れたタオルを巻いたままなので、大方近くの現場から抜け出して来たのだろう。
 しばらく執筆に没頭していると、『らせん』を開け十五分もしないのに気付けば十名以上の客が店内にいた。
「……」
 客層はバラバラであるが、何かヤバいものを感じた。これが駅前の『らっきょ』なら分かる。しかしこの店のエリアはそこまで人通りなどない。開けてすぐこんなに客が入るはずなどないのだ。
 客はそれぞれ壁に張られたビデオのジャケットを見ているが、おそらく演技だろう。
 今、俺は警察に囲まれている……。
 直感的に思った。
 すべてが警官ではないにしろ、ほとんどはそうに違いない。もし土木の格好した奴が警官だとしたら、思い切り殴りつけてやりたい気分だ。凝った格好しやがってと。
 さて、どうする? どうやってこの場から逃げ出すか……。
 パソコンを開いていたのは失敗だった。何もない状態なら、電話をするふりをして外へ行き、そのまま全力で逃げてしまえばいい。しかしパソコンを調べられたら、すぐに神威龍一だと分かってしまう。
 将棋でいう王手。
 変にオドオドするな。さり気なくパソコンの電源を落とす。こんな時すぐに落ちないのが恨めしい。逃げ道を探せ。
 いや、待てよ…。もし捕まったと考えたら、このパソコンを見られたらかなりヤバいぞ。俺はオーナーたちに頼まれ、裏ビデオの商品のジャケットなどをデザインして作る事もあった。そして商品の管理なども夜になるとパソコンを使って計算し、不正がないようチェックもしている。そんなデータを見られてみろ。名義人よりも罪は重くなるかもしれない。
 再度パソコンをつけ、怪しいと思うデータを片っ端から削除しだした。
 もはや王手などではない。逃げ場などどこにもない詰みなのだ。
 腹を括れ。
 もう俺はこの状況だと逃げられない……。
 携帯電話が鳴る。着信はオーナーの高山からだった。
 分かってる。分かってるよ、高山さん……。
 電話に出る事で高山まで被害が及ぶ可能性がある。俺はそのまま携帯電話の電源を落とした。少しばかり浄化作戦を舐めていたようだ。
 俺はパソコンの画面を眺めるふりをしつつ、店内の客の動向を見た。
 どのぐらい時間が過ぎただろうか……。
 時計を見ると二時二十分。まだ十分ぐらいしか経っていないのか……。
 できれば俺の杞憂であってほしい。
 一人の客がメモ用紙に作品名を書き終わり、カウンターまで歩いてくる。こいつは客か。
「はい、いらっしゃいませ」
 しょうがない。普通に仕事をするしかないだろう。
 その時、そばにいた中年オヤジが声を掛けてきた。
「すみません~。ちょっと、う~ん、作品名何だっけかな~。ちょっと待って下さいね」
 そのオヤジはカバンの中をゴソゴソと探している。
「あ、あったあった」
 そう言いながら俺の目の前に出てきたのは警察手帳だった。
「動くなよ、警察だ!」
 客のふりをした中年オヤジは、勝ち誇ったかのようにいやらしい笑みを浮かべた。

 シーンとなる店内。誰一人口を開こうとしない。
 俺は目の前に出された警察手帳をジッと見ていた。とうとうこの時が来たのか。『マロン』の時と決定的に違うのは、警察官の数。とてもじゃないが今度ばかりは見逃してくれないだろう。
 姓名鑑定士の言葉。まさか三十三歳の誕生日の翌日に、こんな目に遭うなんて……。
 せめて百合子に捕まったと連絡を入れないと。いや、さっき高山からの着信で電源を消したままだ。今さら何もできない。
 手帳を出した警官の周りでニヤニヤ笑う数名の客。中には先ほどの土木の作業着の奴もいた。呆然と立ち尽くし震えているのは一人だけ。この人以外すべて警官なのだろう。
「まだ買った訳じゃないんだから、客は関係ないっすよね?」
 俺は手帳を持つオヤジに言うと、つまらなそうな顔で「ああ、行け」と手を払う。唯一の本物の客は慌てて逃げ出した。
「ずいぶんと落ち着いているんだな」
「いえいえ、初めての事なんでメチャクチャ驚いてはいますよ」
「とてもそうは見えん」
「じゃあ、肝が据わってるだけでしょう」
「おい、キサマ! 何を偉そうにほざいてんだ、オラッ!」
 土木の警官が怒鳴りつけてくる。以前ヤクザ者数名が『マロン』に来た時いたチンピラ。こいつもそれと変わらないな。大人数でいるから、そして国家権力がバックにいるから粋がっているだけに過ぎない。
「キサマ? おい、若造。おまえこそ口の利き方気をつけろよ。くだらねえ格好なんぞしやがって」
 俺が立ち上がると、十名以上いる警官たちは臨戦態勢で身構える。
「たった一人相手にずいぶんビビッてんだな。安心しろよ。暴れはしねえって」
 静かに両腕をつき出した。パニックになるな。考えてみろ。『新宿クレッシェンド』を書いた時、みんな何て言ってくれた? リアルでとても面白い。そう言ってくれたじゃねえか。この状況、よく覚えておけ。そして俺の行動一つ一つがとても面白い物語を作る原動力になるんだ。
 自分の行動に対し、あとで後悔するのだけはやめよう。
 何の為にこの街へ来た? 何故この街にこだわってきた?
 神威家の力などまるで関係ない土地。俺が俺でいられるからこうしているのだ。
 そういえばなかなか手錠を掛けないな。覚悟を決めたんだから、早くしろって。
「まだ何もしない。大人しくその場にいろ」
 手帳を出したオヤジが口を開く。手を挙げると他の警官らは一斉に奥の部屋へ向かう。
「おい、ちょっと来い」
「何でしょう?」
 奥の部屋にあるテレビの電源をつけ、中にDVDをセットする警官。再生ボタンを押すと、裏ビデオの映像が流れる。
「これは何をしている?」
「え、何をしているって?」
「だからこれは何をしているんだ?」
 警官の一人が画面を指差しながらもう一度言った。
「くわえてますね」
「そういうのを何て言うんだ?」
 なるほど、捕まえる前に自供させないといけない訳か。
「フェラチオに決まってんじゃないすか」
「そうか、フェラチオだな?」
「しつこいなあ。それ以外にどう見えるんです?」
 逮捕状を取り出し両手で広げる警官。逮捕状には裏ビデオの作品名が一つだけ書いてある。以前聞いた通りだ。警察は数日前にビデオ屋で一枚以上のDVDをあえて買う。もちろん国の金を遣って。帰って逮捕状に作品のタイトルを記入し、ようやく逮捕へ踏み込めるという訳だ。
「二時三十分、猥褻図画『テーチャーNAO 及川奈央』の販売目的でおまえを現行犯逮捕する」
 手錠がとんどん近づいてくる。大和プロレスの合宿の前日以来だな。
「はいはい。あまキツくしないで下さいよ」
 できるだけ正々堂々といよう。あとで自分の行動を誇れるぐらい……。

 十数名の警官たちが、奥の部屋にストックしてあるDVDやビデオをダンボールに入れている。全部でダンボール十七箱。結構な量だ。
 何故かまだ俺に手錠を掛けない警察。暇を持て余すので親玉の後ろへ近づく。もしここでこいつの首を絞め、振り回せばうまく逃げられちゃうなあ。まあそんな事したらあとが大変だからしないけど……。
「な、何だ、キサマ! 近づくんじゃない」
 殺気を感じたのか、刑事は慌てて飛び退いた。
「何をそんなビビッてんですか。何もしやしませんよ」
「うるさい、そこから動くな」
「はいはい」
 土木の格好をした男は壁に貼っているものを大袈裟に破き、嬉しそうに片っ端から剥がしている。日頃よほどストレスでも溜まってんだな。そう思うぐらい男の行動はみっともなく見えた。
 店舗の中があらかた整理されると、今度は五名の警官が建築現場などで使うバールを手に持ち、壁に向かってフルスイングをしだす。柔らかい壁紙など簡単に穴が開き、ボード板の下地が見える。そう、こうやってこいつらは捕まえた店の中をメチャクチャにしていくのだ。
「おい、やめろよ。みっともねえぞ」
 俺がそう言うと、「壊さなきゃお前らみたいな人種はまだ懲りずに始めるだろうが」とニヤニヤしている。
「あくまでも借りている物件で、そんな事をして何の意味があるんだよ? これから俺は捕まるんだぞ。誰がここを片付けるんだ?」
「上から徹底的にやれって命令受けてんだよ」
 土木の男が嬉しそうに言う。
「格好悪いなあ、あんたら…。上から命令されれば、何でもやるんだ? それが警察って訳なんだな。チンピラ以下の集まりじゃん。まあいいや、それ以上するなら、俺も大人しくするのはやめるわ。徹底的に暴れて捕まろうじゃないか」
「何だとこのガキが!」
「始めに言っておく。暴力ってものならおまえらの専売特許じゃねえからな。俺は簡単に人間を素手で壊せる」
 右手の拳をギュッと固め、親指を突き出す。こんな腐った連中にただ屈服するのだけは嫌だ。罪が重くなったっていい。やってやる……。
「おいおい、落ち着けって。おまえらもやめろ。もういい。これ以上何もしないから落ち着け」
 手帳を持った親玉が間に入ってくる。俺は壁に開いた穴をジッと見つめていた。
「分かりました。それなら俺も大人しくいます」
 二人一組になってダンボールを運ぶ警官。押収物って訳か。
 時計を見ると、もう三時になろうとしている。
 人間一人しか通れないような狭い階段を警官二人に前後を挟まれ、ゆっくりと降りる。
 外へ出ると、右手にパトカーが三台待機してあった。
「刑事さん、捕まる前に聞いていい?」
「何だ?」
「ここに踏み込む前、どこで待機してた訳?」
「うるさい、そんな事など言う訳ねえだろうが」
 左手を見ると、すごい数の野次馬ができている。先頭に大山の姿が見えた。みんな、俺を心配しているのだろう。
 俺はスーツの上着のボタンを外し、端を両手でつかむ。そしてマントに見立て大きく広げた。この行動には何の意味もない。ただ大山を始めとする野次馬共を少しでも安心させようとした行為だった。五十メートルぐらい先から、ドッと笑い声が聞こえる。
「おい、キサマ。何をしてんだ。早く乗れ!」
「はいはい」
 パトカーに乗り込む際、土木の男が手錠を掛けようとする。すると親玉はそれを手で制し、「いい。こいつは逃げやしない。署についてからでいい」と言った。
 とうとうこの時が来たのか。俺を乗せたパトカーはゆっくりと発進し、区役所通りに出た。

 巣鴨警察へ連行された俺は、両手首に手錠をはめたまま署内へ入る。
 新宿歌舞伎町浄化作戦…、俺は少し甘く見過ぎていたようだ。最初にやられたうちの系列店『フィッシュ』。そして次が『リング』。すべて違う警察署だった。俺の時は巣鴨警察署…。つまり、都内中にある各警察署の生活安全課の刑事たちが、たった一店舗の裏ビデオ屋に対し、パクる為だけに十名から十五名ほどの動員を動かしている。
 さすがヤクザ者も驚く訳だ。今まで月に三十万の情報料を払って得た警察の動きの情報。浄化作戦の発動により、新宿警察署の情報を流していた刑事がビビったのだろう。その情報がまったく入らなくなったヤクザは、俺らに流せる情報手段を失った。それを知った時点でもっと慎重に動くべきだったのだ、俺は……。
 もう仕方ないか。腹を括るしかない。今、こうして警察署の中にいるのだから。
「動くなよ」
 身体検査をされ、財布の中にある金をすべて数えられた。一万円札は何枚。千円札は何枚。五百円玉は何枚といった具合で細かく分けられる。
 結構大きな機械の前に座らされ、指紋を取られた。両手の十本の指紋を右から左へ転がすように丁重にデータで読み込んでいく。その時指紋を取った警官は何故か弱気な奴で、妙にオドオドしていた。犯罪者相手にコイツは何を恐縮しているのだろうかと不思議に思ったが、変に揉めたところでこっちが損をするだけである。とりあえず大人しく指紋を取らせてやった。
 取調べの前、始めはカツ丼を食べさせてくれると思っていたが現実は違う。自分の持っている金で出前を取るだけなのだ。
「おい、神威。おまえ、カツ丼食うか?」
 最初にそう言われたが、すぐ「もちろん自分の金で出前取るだけだぞ」とつけ加えられた。冗談じゃない。定番のようにカツ丼など食って溜まるか。もしグリンピースが三粒ほどカツ丼の上に乗っていたら、それだけで無性にムカつきそうだ。どうせ自分の金で払うなら好きなものを食いたい。これからしばらくは好きなものなど何も食べられないのだろうから……。
「刑事さん。俺、味噌ラーメンの大盛りと、生姜焼き定食を頼みます。あ、あと餃子も食べようかな」
「駄目だ。一品だけにしろ」
「えー、いいじゃないすか」
「駄目だ。どっちにするんだ?」
 俺は散々迷った挙句、汁物のほうが中で出ないような気がして味噌ラーメンの大盛りを頼む事にした。

「さて調書を取るぞ。もう腹は膨れたか?」
「膨れる訳ないでしょ。だから生姜焼き定食と餃子も食べたいって言ったのに」
「うるさい! さっさと始めるぞ。あ、私の名前は溝口だ。おまえは『カムイ』って読むのか?」
「はい、そうっすよ」
「正直に答えてくれよ。私はこう見えてあのオーム真理教ってあるだろ? その幹部も尋問した事あるんだからな」
 だから何だと言いたかった。別に俺の件とオームなんて何一つ共通点などない。
 今の俺は何をしなきゃいけないか? 答えは明白だ。絶対に起訴されてはいけない。オーナーの高山は俺が巣鴨警察署にいるのを知っているだろう。松本も俺の身代わりで出頭するだろうし、明日、明後日辺りには弁護士だって来るはず。その時までにある程度の供述は作っておきなきゃいけないのだ。
「何でも話しますよ~」
 ワザと陽気に話す俺を溝口刑事は胡散臭そうに見た。
 まず家族構成から話し、大和プロレスの事、ホテル時代の事を大まかに伝える。
「それでおまえは体がでかいのか。絶対に暴れるなよな」
「そんな事する訳ないじゃないですか」
「もう少しプロレス時代の話をしてみろ。ひょっとしたら地検の検事さんも、プロレスファンかもしれん。優位に働くかもしれないぞ」
「そうですか。じゃあ話します」
 サラリーマンを辞めて、いきなりレスラーになろうとした経緯から話した。
「ずいぶんと長い話だな……」
「だって刑事さんが聞いてきたんじゃないですか」
「まあ、そうだが…。ところでおまえ、お母さんは?」
「ああ、俺が小二の時に家を出て行きました。冬の寒い時期ですね」
「何でおまえ、そんな淡々と話しているんだ?」
「そのあと高校を卒業したあと、俺が親父とお袋を離婚させたからですよ」
「はあ? 何でおまえが?」
 担当の刑事は驚いた表情で聞いてきた。
「話すと長くなりますよ?」
「どのぐらいだ?」
「う~ん、程度にもよりますけど」
 コース別にしたら分かり易いかな? 例えばAコースは俺の家の前に映画館がある事から話そう。Cコースだと三村も交えたこれまでの展開かな。
「程度?」
「ええ、Aコース、Bコース、Cコースならどれがいいですか?」
「何だ、そりゃ?」
「Aコースだと、多分…、おそらく…、う~ん、そうですね。丸一日話し続けるぐらいですね」
「ふざけんな。そんなに時間を掛けられる訳ないだろうが」
「そうですよね。だからどのコースにしますって言ったんですよ」
「じゃあ、Cだと?」
「そうですね…。まあ、八時間ほどあれば……」
「もう家族の事はいい! 次の事を話せ」
「了解しました」
 歌舞伎町時代に入るまでは正直に話した。問題は何故あそこで働いていたかという部分。その一点で俺の今後は左右される。
「何故俺があの店で働くようになったかという事なんですけど……」
「おお、正直に言えよ」
「ええ、元々パチンコとかパチスロ大好きで、西武新宿駅前のパチンコ屋で『北斗の拳』をしていたんですね。近くに『ラーメン阿呆一代』って本当にマズいラーメン屋があったんです。まあそのラーメン屋とはまったく関係ない話なんですけど、その時、常連客でもあった松本さんと知り合い、たまに食事をするような関係になったんですよ。で、俺、こう見えて小説を書いているんです。『新宿クレッシェンド』とか『でっぱり』って作品を完成させたら、近所の人や知り合いがとてもリアルだと。で、それを松本さんに話すと、『良かったら週一でいいからうちの店で働かないか?』と誘われたんですよ。俺もリアルさを追及するんなら、実際に入るのが一番だろうし、週に一回ぐらいなら問題ないだろうと。あのカウンターに座って来る客の相手をすればいいだけですからね」
「おまえが小説? 嘘こけ。そんな都合いい事を言ったって私は騙されんからな」
「そんなの嘘ついたってしょうがないじゃないですか。俺のパソコンを調べれば実際に小説のデータ入ってますよ。あ、でも、パソコンを変にいじって壊したら、弁償してもらいますからね。あと作品のデータもそのパソコンにしか入っていないので、変な事をしたらそれなりの責任は追及します」
「別におまえのパソコンなんてどうだっていい。じゃあ、その松本ってのが社長って訳だな?」
「そうじゃないすかね、多分……」
「多分って何だ。おまえは実際にあそこにいたんだろう」
「でも、働いて四回目の時でこうなっちゃいましたからね。一日一万二千円もくれるし、まあ割のいいバイトかなと思ってたんですけど、こんな目に遭うならもうちょい慎重にいればよかったって反省してます」
「当たり前だ、馬鹿野郎。どこの世界にリアルさを追求する為、裏稼業をする馬鹿がいる」
「ここにいるじゃないですか。目の前に。こんな俺だから将来はきっとうまくいきますよ」
「ふん、ほざいてろ。まあいい、だいたいの調書は済んだ。明日また続きをやるから留置所でゆっくり休め」
「ありがとうございます。そういえば刑事さん」
「何だ?」
「お名前を」
「ああ、溝口って言うんだ」
「溝口刑事ですね。実はあと一つ言いたかった事があるんですよね……」
「おう、言ってみろ」
 自分が捕まった事を女に連絡したいと、無茶なお願いをしてみる。俺の目をジッと見て、「わかった。おまえの目は悪人ではない」……と言い、電話するのを許可してくれた溝口刑事。普通ならありえない話であった。
「あ、百合子か? へへ…、実は今巣鴨警察署にいるんだよ」
「はあ? 何冗談を言ってるの?」
「いや、冗談じゃなくてさ。捕まっちゃったんだな、これが」
 まるで信じてくれない百合子。当たり前だ。途中、溝口刑事が電話に変わる。それで初めて現状を理解したようだ。どこかユニークな溝口刑事は、ここは冷暖房完備だから大乗とか意味不明な安心のさせ方をしていた。
「ほら、最後に声を聞かせてやれ」
「最後って何だか死刑になるみたいじゃないですか」
「うるせえ! 早く代われ!」
 携帯電話を受け取る。
「まあ、ちょっとしたら出てくるから安心しろ。心配掛けてすまんな」
 まだ百合子は何かを言いたそうだったが、あまり余裕でいるのもよろしくない。適度に話し、会話を終える。
 なかなか出だしは好調だな。俺はしおらしく手錠を掛けられ留置所へと向かった。百合子の奴、今頃心配しているだろうな……。

 二日目の調書は、昨日と変わらない内容を押し通した。最近になってワープロを覚えたという溝口刑事はたどたどしくキーボードを打ちながら、俺の話をまとめていく。昨日で調書はあらかた完成している。ほとんど二回目は形式的にしているだけだった。
 二回の尋問で分った事。この目の前にいる溝口刑事は人がかなりいいという事である。そしてとても変わった男だった。
 三国志の話や古代史の話が大好きな変わった刑事である。
「古代史によるとな、アメリカ大陸には日本人の先祖がいるんだ。昔は……」
「おまえ、パソコンやるだろ? いいか、それなら近くにサボテンを置いたほうがいいぞ。サボテンはパソコンから出る電磁波をうまく吸収する役割が……」
「テレビでよく報道されたオーム真理教あっただろ? あそこの指名手配されていた幹部の川俣、コイツは俺が取調べをしたんだぞ」
「君が代って国歌があるだろ? 『さ~ざ~れ~、い~し~の~』って。あれはだな。九州が発祥の地で、さざれやちよ神社って言うのがあるらしいんだ……」
 ……と常にこんな感じで刑事である。要は、犯罪とは何の関係もないどうでもいい話が大好きなのである。
 運がいい……。
 俺は図に乗って願い事を言ってみた。
「刑事さん…。実は、今週の土曜日、学生時代の恩師のところへ、女を紹介しに行くところだったんですよ」
「で、何だ?」
「いや、あのですね……。このままだと恩師に対し、無礼な真似をする事になるじゃないですか?」
「しょうがないだろう。捕まったおまえが悪い」
「でも、婚約している女を紹介しますって言っているのに、バックレるのはまずいですよ」
「じゃあ、どうしたいんだ?」
「女に連絡を取りたいんですけど、今はOLなので仕事中です。だからメールを打っておきたいんですよ。駄目っすかね?」
 俺は下をうつむきながら、悲しそうな表情になるよう懸命に演技をしてみた。
「しょ、しょうがないな……。手短に済ませろよ」
「あ、ありがとうございます、刑事さん!」
「ば、馬鹿、声がでかいっちゅうの! 早く打て!」
 携帯電話の中身は調べられるとヤバいデータが多数あった。なのでこれを機に、それらを消しておきたかったのである。
 何が入っていたかって?
 まずは浄化作戦時、歌舞伎町に来ていた覆面パトカーの車番である。全部で三十台分以上のナンバーを俺は携帯に控えておいたのだ。それに私服で歌舞伎町を歩き回っていた刑事の顔写真も、十名は入っている。歌舞伎町にいる頃は、常に周りと情報のやり取りをしていた。裏稼業の世界でこういった情報は非常に重要である。パクられるのを回避できる可能性がグッと増えるからだ。
 まさか自分が捕まるだなんて想像もしていなかったので、消しておかねばあとあと面倒になるのは目に見えていた。
 まあこの溝口刑事に対して俺は嘘をついていない。学生時代の恩師のところへ週末、行く約束をしていたのは本当だし、女を連れて行く約束をしたのも事実だったからである。
 まずは俺が、巣鴨警察に捕まったというメールを知り合いに送ろう……。
《巣鴨警察にパクられちゃった! 神威龍一より》
 それだけの短い文を打つと、俺は仲のいい知り合いへ一斉に送信する。その送信メールをすぐに削除してから、ヤバいデータを次々と消した。今頃メールが届いた仲間連中は見て大笑いしているだろう。
 最後にワザと長ったらしいメールを女宛てに打ち出した。
《迷惑掛けてすまない。一ヶ月弱は巣鴨の留置所から出られないだろう。で、今週末、俺の高校時代の恩師の家へ一緒に行く約束をしていただろ? このままじゃ何も連絡取れないので、おまえから先生にうまく伝えてほしい。心配掛けて本当にすまない。とりあえず俺は元気で毎日を過ごしているから、出たらうまいものでも食いに行こう。え、何を食うかって? そりゃあ肉しかねえだろ。焼肉…、いや、肉の塊をガバガバと食いたい。だとすればやっぱステーキになるかな。ここは肉なんて洒落たもん一切出ないからね。肉食の俺にとってそれだけは本当に辛い事だ。まあそんな訳で、先生の連絡先を載せておくから連絡頼むな。心配するだろうからパクられたなんて言うなよ? うまい具合に説明しておいてくれ。 神威龍一より》
「刑事さん、ありがとうございます。今、打ち終わりました。これを送っていいでしょうか?」
「どれ?」
 俺の書いた長文メールをじっくり眺める溝口刑事。しばらくしてからゆっくりと口を開く。
「駄目だ、これじゃ」
「え、何でですか?」
「ここを出たら一緒になろう…。その台詞が抜けてるぞ! 書いてやれ」
「真顔で何を言ってんですか、まったく……」
 俺は刑事を無視して、メールを送信した。
 取調べが終わると、留置所へ戻される。
 しばらく暇を持て余していると、弁護士が面会に来たようだ。
 俺はこれまでの調書の流れを説明し、オーナーとして出頭する松本にはいきなりじゃなく一週間後ぐらいがいいだろうとアドバイスをする。
 通常の面会だと常に俺の横に警官がいるようだが、弁護士の場合だけ一対一で話せるのだ。
「オーナたちから何か預かってきました?」
「はい、着替え一式と、五万円の差し入れを入れてます。他に何か欲しいものありますか?」
「う~ん、そうだなあ…。雑誌…、雑誌を入れてもらえますか?」
「どんなのがいいですか?」
「俺、結構な量を読みますよ?」
「ええ、何でも差し入れます。言って下さい」
「えっと月曜日はヤンマガとビックコミックスピリッツ。火曜日がアクションで、水曜日は少年マガジン。木曜日が週刊プロレスとヤンジャンとヤングサンデー。金曜日は漫画ゴラク…。そのぐらいですかね」
「まとめて差し入れますから安心して下さい」
「ありがとうございます。で、どうでしょう? この状態ならうまく検事も騙せるでしょ?」
「そうですね。あとは松本さんが出頭して口裏を合わせれば問題ないかと思います」
「みんなにはよろしく言っといて下さい。中で元気にやってると」
「了解しました」
 面会が終わると、俺は再び牢屋の中へ戻される。

 鉄格子の間から見える水道の蛇口。俺は水一杯すら自由に飲めやしない。
「担当さ~ん…。水ちょうだいよ、水」
 巣鴨警察署の留置にいる警察官。それを俺たちは担当さんと呼んでいる。
 警察といっても色々な課に分類されている。
 駐車違反のキップを切ったりする交通課や、この俺を捕まえに来た生活安全課。だいたい刑事ってのはこういう課の連中を指す。そして捕まっている間、色々と世話をしてくれる留置課。
 刑事と留置の人間は基本的に仲が悪いらしい。
 同室のヤクザ者がそう教えてくれた。何故か聞いてみる。
「だってさ、神威ちゃん。考えてみなよ。刑事って犯人を逮捕するだろ? 言い方を変えれば命をそれだけ張るって事じゃない。でも、留置の人間はほとんど安全。何せ警察署の中で捕まった連中の管理だけだしね。だから刑事連中は留置の人間を軽く見ているし、留置の人間は刑事に対し何だえばりやがってと思っているのが現状なんだよ」
 このヤクザ者とは、初めて会った時から何故か馬が合った。
 多分、お互い歌舞伎町の中で仕事をしていたという共通点で、妙に親近感が沸いたのだろう。
 お互いの情報を言い合い、俺たちはすぐ打ち解け仲良しになったのだ。
 巣鴨署の留置所は造りが古いらしく、扇形の留置室になっていた。上から見れば半円に見え、五つの部屋に区切られている。まるでみかんを半分に切ったような形である。これを作った人間はギャグでも狙ったのだろうか?
 どういう区分で部屋に振り分けられるのか分からないが、俺たちは右側から二番目にある二室と呼ばれるにいた。
「おい、十五番」
 担当が俺を呼んでいる。
 ここではみんな、名前を番号で呼ばれた。同室のヤクザは八番、痴漢で捕まった自衛官は十一番、俺は十五番といった具合である。
「何すか?」
「おまえ、元プロレスラーだったらしいじゃないか。聞いたぞ。だから体がでかいんだな」
「何年前の話ですか。もう、当時の体なんて、とっくに落ちてますよ。それに俺はリングに上がっちゃいないすからね。まあ、四年前に総合の試合なら上がりましたけど」
「頼むからおまえはここで暴れんなよ。そんなでかい体、誰にも止めらんないからな」
 鉄格子越しの会話。
 担当もたった一人で俺たちを監視するのが仕事だから暇で仕方がないのだ。常に誰かしらに話し掛け時間を潰している。突然横の三室の奴が大声で口を挟んできた。
「担当さん、俺だってね昔は……」
 この手の会話になると負けじと絡んでくる男。将棋で言えば積み、チェスで言えばチェックメイトなのに、まだ自分の存在をアピールし粋がろうとしている。
「うるさい、おまえはただのチンピラだろ。十五番なんかと一緒にするな」
 憐れにもその男はまったく相手にされないでいた。
 警察も人間の子である。人間の好き嫌いがあるみたいだ。プロレスファンの担当がいると何かと便利なものである。俺は特別扱いをされていた。
 留置の中は朝六時起床。
 眠い目を擦りながら布団をたたみ、部屋の掃除をして運動になる。
 運動といってもラジオ体操をする訳ではない。運動と形式上呼んでいるだけであり、別室で数名ごとタバコを吸ったり、髭をそったり、爪を切ったりするだけである。
 この留置所で吸えるタバコの本数は二本だけ。だからみんな、根元までちゃんと丁寧にキッチリと吸う。
 毎朝俺たちはトイレで使う分の紙をもらい、みんなで仲良く半分に折りたたむ。ヤクザ者だろうが、一般人だろうが全員で同じ作業をするのである。トイレットペーパーのような洒落たものは一切ないので、この紙切れで俺たちはクソしたあとのケツを拭くのだ。
 これについてもヤクザ者は語る。
「刑務所はもっと酷い。紙の枚数だって決まった枚数しかくれねぇんだぜ」
「え、じゃあ、クソする時、紙が足りなくなったらどうすんですか?」
「そんなのうまく使わない奴が悪い訳よ」
 それだけで刑務所送りにはなりたくないなあと思う。
 風呂は五日に一日だけある。
 三人ずつ順番に入り、最初に体や髪の毛を洗う。湯船はとても熱かったが、俺はいつも我慢しながら真っ赤な顔をして入った。
 あとになればなるほど、風呂に入る奴は悲惨だ。
 何故なら五日分の垢が溜まった連中が、次々と一斉に入るのである。湯船にはその人数分の垢がたくさん浮いている状態になるのだ。
 飯は七時、十二時、五時の三回。
 この辺は病院とそんなに変わらないか……。
 しかし、その三食の飯の内容は酷いものだった。
 朝はご飯に、きゅうりのきゅうちゃん二つ。あと海苔の佃煮のチューブとふりかけのみ。あ、あとインスタント味噌を溶かしたような味噌汁。
 昼は耳つきの食パンを二枚重ね、そこへマーガリンをボテッと乗せたものと、ジャムが乗せたもの。それとチーズスティック一本。
 それでも平日はまだいい。土日休日は甘い菓子パンが三つだけだった。
 さつまいものあんこが入ったアンパンや、チョコにすべて覆われた真っ黒のパン。甘いものが一切駄目な俺にとって嫌がらせにしか見えない。
 夜は冷めきったどこかの仕出し弁当。肉なんて洒落たものはほとんど入っていない。しなびた衣に包まれた謎のフライが、いつもメインのおかずであった。
 こんなものが毎日続く。さすがにうんざりしてくる。
 だから休日、祝日以外の平日の昼飯のみ、自弁というものが五百円で頼めた。値段の割にはなかなか豪華で、大抵の人間はみんな自弁を頼む。
 弁当業者が違うらしく交代で一日置きに作っているのか、日によって当たり外れも多い。
 そんな状況でも、毎週火曜日はカレーライスと定番になっている。
 しかし、そのカレーはとてもマズかった。味は何となくカレーの味がするような感じで、見た目はガラスのショーウィンドーの中で飾ってあるようなカレーライスである。それでも食パンを毎日齧っているよりはマシだから注文をしてしまう。

 

 

新宿リタルダント 4 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

隣の一室は問題児部屋と呼ばれていた。通常では留置の中に入ると、みんな仲良くしようとするものである。何故ならつまらない事で喧嘩をしたりイザコザを起こしたりすると、...

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