
2025/07/21 mon
前回の章
横浜へ到着。
部屋のドアを開ける。
「……」
伊達が掃除もせず一週間ほど居座った部屋。
ゴミも洗濯物もそのまま床へ放置されている。
とりあえず自分の横に慣れるスペースだけ簡単に片付けた。
マゲとチッチの囀り声が聞こえる。
「ごめんね、マゲにチッチ。あのね…、おじいちゃんが亡くなっちゃったんだ……」
餌や水を交換しながら思い出して、また涙が出てきた。
どこか非現実的な空間に生きているような気がしたが、これは現実なのだ。
しっかりしないと…、俺はまだこれから新宿の店の準備があるのだから……。
全十三卓の客席。
そしてキャッシャー用のパソコン。
予備も一台あったほうがいい。
全部で十五台のパソコンを準備し、なるべくスペックの高いものを選ぶ。
明日で十五日、通夜が二十一日、葬儀が二十二日。
約一週間で、新宿クレッシェンドがオープンできる手はずを整えねばならない。
酒井さんへ連絡をし、ポイントのお願いと、新宿ではどんなサイトが流行っているのかを聞く。
伊達から連絡があり、ほとんど金が無い状態で生活できないと言ってくる。
今まで働いて何も貯めていなかったのかよ……。
何で俺が自分の金を伊達にあげなきゃいけないんだよ、まったく。
俺だって店が始まらない事には無職と同じ、収入など無い。
伊達の名前で物件も契約しているので仕方なく口座を聞き、五万円の金を振り込む。
その代わり一原と連絡を取り合って、店内の掃除やドリンクメニューなどを決めておくようお願いした。
一原から連絡があり、一度新宿の店まで来て話し合いたいので行ける日時を聞かれる。
おじいちゃんの葬儀が二十一、二十二日だが、これは間に川越祭りがあり、それを終えてから送り出したい意向らしい。
俺も顔を出すようだから、川越祭りの十八、十九日は無理。
十七日に新宿で落ち合い、高橋ひろしが集めた店で働く従業員たちとの顔合わせも兼ねる。
その足で川越へ向かえばいい。
店のオープン日は、葬儀明けの二十三日にしてもらえないか一原へ頼む。
俺は実質十五、十六、二十日の三日間でシステム的なものをすべてこなさなければならなかった。
まだ身体のどこかに大きな穴が空いた感覚は未だある。
それでも色々なものが動き出してしまっていた。
弱音など吐けない。
本当はおじいちゃんに成功した姿を見せたかったけど、もうそれは不可能。
ならば巨額の富を得て、俺が岩上家の代表となるべく頑張るしかない。
そういえばほとんど睡眠を取れていなかった。
眠いはずなのに横へなっても眠れない。
精神的にかなりキツい状態だった。
誰かに寄り掛かりたい。
フェイスブックで川端里代が優しいコメントを残していたな……。
今日だけは少し彼女へ甘えに行こう。
俺は眠い目をこすりながら、里代の熟女パブへ向かった。
福富町仲通りエイトセンターの向かいにあるビル。
俺はそこへ入り、里代の店へ向かう。
アンチポップはあとで顔を出せばいいだろう。
薄暗い店内。
「あ、岩上さん、いらっしゃいませ」
年配のボーイが俺に気付き笑顔で近付いてくる。
「里代を」
「畏まりました。どうぞ、こちらへ」
席に座りセブンスターに火をつけた。
一本も吸い終わらない内に、里代が席につく。
「智君、フェイスブック見たけど大変だったんだね…。大丈夫?」
「……」
「元気ないなあって…、元気なんか出るはずないもんね」
「……」
駄目だ、何か言おうとしても、どうしてもおじいちゃんの死に対しこれまで数々の思い出だけが浮かんでくる。
「智君……」
里代の手が俺の手に触れる。
俺は一目憚らず大粒の涙をこぼした。
何かを話そうとして嗚咽を漏らすだけ。
無様で情けない姿をわざわざ金を払って見せに来ただけの俺。
おじいちゃんが亡くなって始めにやった事がこれか……。
「里代…、ごめんね。今日は帰る」
「うん、私こそそんな役に立たずにごめんね」
俺は何をしに里代のところへ行ったのか。
心の空洞は彼女では埋まらなかった。
甘えるなよ、俺の家の問題だろう?
何が岩上家の代表だ……。
こんな事で新宿の店をうまくやっていけるのか。
外へ出てからまたタバコを吸う。
ゲンのところでも寄って行くか。
エイトセンターの狭い階段を上がり、二階にあるアンチポップのドアを開ける。
「あ、岩上さん……」
おじいちゃんが亡くなって昨日の今日なので、まさか俺が顔を出すと思わなかったのだろう。
ゲンは戸惑いながらもショットグラスにグレンリベットを注ぐ。
今日ぐらい浴びるほど酒を飲んでもいい。
「岩上さん、ペース早いですって」
無言で空になったグラスを突き出す。
ボトルを一本近く飲み、ようやく酔いが回ってきた。
「おじいちゃんが亡くなったも…、俺は新宿の店の準備がある……」
「そうですよ。岩上さんにはやるべき事がたくさんある」
「もう誰も頼りにできないし、俺がやらなきゃならない」
「今日は飲みましょ」
ドアが開き、永井聡が入ってくる。
彼女の店は十二時閉店。
もうそんな時間になっていたのか。
二人とも祖父の死に対し、言葉を選びながら俺を気遣う。
アンチポップの閉店時間まで飲み、長八へトンカツを食べに行く。
みんな酒の飲み過ぎでかなりクタクタになっている。
「永井さんいつものブッシュブッシュやって下さいよ」
「そんな事した事ありません!」
運ばれてきたトンカツや刺身を食べて、今日はお開きにしようと会計をお願いした。
「七千と三百円になります」
俺が一万円札を出すと、ゲンも財布を取り出す。
「あ、いいすよ。俺が長八行こうって言ったから出しときますよ」
「いやいや、いつもご馳走になったんじゃ申し訳ないですって」
自分の分を出そうとするゲンを手で制し会計を済ませる。
「いや、岩上さん……」
その時永井聡が口を開く。
「ゲンは出す必要が無いんだよ」
「いや、でも聡ちゃんさ……」
「ゲンは出さなくていいんだよ」
彼女の言い方が気に障った。
この場は俺がすべての金を払っている。
その俺がゲンは払わないでいいなら筋が通る。
しかし俺にご馳走になった永井聡が、あえてゲンへ出す必要が無いと諭す意味合いはあるのか?
彼女の分までさえ俺が払っているのだ。
永井に諭され財布をしまうゲン。
俺一人が金を出していればいいのか……。
額は大した事ないが、インターコンチの人間たちへ連日酒を奢り、大金を失った頃を思い出していた。
この人も結局俺の金目当てなのか?
これまで築き上げた信頼が音を立てて崩れていく。
「眠いんで帰りますね……」
お釣りをしまい、店を出る。
何とも言えない嫌で複雑な気分。
まあいい、俺はもうじき新宿へ行くのだから。
ゲンは出す必要が無い。
その台詞を言えるのは金を出している俺だけだろ?
帰ってからも先ほどの件に対し、意味のない自問自答をする。
正直とても後味が悪かった。
俺が金を持ってそうだから、店でも金を使い、アフターでもすべて出すのが当たり前という感覚なのか?
何で横浜の人間は、タカり気質の者が多いのだ?
おじいちゃんを亡くし、失意のどん底にいる俺。
少しくらいの気遣いは欲しかった。
甘えるなって……。
酒など飲んでうつつを抜かした自分がいけないのだ。
インターネットカフェ新宿クレッシェンドを成功させるのだろ?
今はやるべき事をやらねば。
パソコンやプリンターの発注を済ませ、店内に貼る印刷物のデザインをする。
「クピピ」
「あ、ごめんね。水取り替えるからね」
マゲとチッチの世話。
新宿にこの子たちも連れて行くようだが、移動の際大丈夫だろうか。
環境が変われば卵を産んでくれるかもしれないな。
あと必要なものは……。
昼頃新宿の店へ行ってみよう。
残された時間は限りがある。
その中で俺はやらないといけない状況にあるのだ。
こんな話を受けずに横浜で普通にしていれば……。
タラればなんて考えるなって。
物事は動き出し、もはや自分の考えだけじゃ済まないところまで来ているのだ。
疲れているからだろう。
俺は横になり、睡眠を取った。
横浜の職場を辞め、これからという時のおじいちゃんの死。
何かの警告?
馬鹿な事を考えるなよ。
今はただ眠れって……。
携帯電話のコールが鳴り響き、目を覚ます。
一原からだった。
「岩上さん、家の状況が大変な中申し訳ないですが、店まで今日って来れますか?」
二十一日が通夜なので、葬儀が一通り終わらないと俺自身はキチンと動けない。
俺は今日から三日間、そして二十日なら動ける事を伝える。
「今大変な状況だというのは分かっています。なので店のオープンは、葬儀の終わる二十三日を予定していますから」
「今日中にパソコンやプリンターの発注を済ませておきます。あとで店に行くので、伊達は店用の携帯電話、あとインターネットは…、もう開通待ちでしたっけ?」
「ええ、ネットはオープンまでには間に合いますよ」
「じゃあ昼過ぎには新宿着くようにしておきます」
「頼みますね。働く従業員たちも、十七日には招集掛けておきますから」
まず今自分がすべき事の把握。
電話を切ると、俺はパソコン関連の発注を済ませた。
次に印刷物のデザイン。
一つ一つ物事を整理しておかないと、本当に大変だ。
こちらでできる一通りの準備を済ませ、マゲとチッチの世話を再度した。
「また夜に戻ってくるからね」
声を掛ける俺に対し、チッチたちは不思議そうに首を傾げている。
歌舞伎町へ着くと、まずは店内のチェックから始める。
各席は完成しているが、気になったのは天井だ。
コンクリートが剝き出しのままの天井。
「一さん、この天井って何とかならなかったんですか? 上に配線とかも剥き出しで客に見えてしまうし……」
「予算が掛かり過ぎてしまうんですよ。ここの家賃だけで七十万ちょい。頼んでいる大工で三百万。当初の金から半分以上使ってる状態なんですから」
もちろんこの物件を契約するだけでそのぐらい掛かるのは、元々予想の範疇だった。
しかしこれでは手抜きの内装だとすぐバレてしまう。
オープンまで日数もないにしろ、もう少し内装関係を決める際、もっと関わればよかったと後悔する。
ここまで来たら、ある材料だけで腹を括りながらやっていくしかない。
「スタッフは何名揃えたんですか?」
「まず伊達さんに、高橋のほうで丸太、桜井、中野…。全部で四名ですね」
「それだと十二時間二交代の二人ずつしかないですね」
「岩上さんは頭だから現場へ入らせる訳いかないので、この四人で店を回してもらうようになります」
「従業員が休む時は、どうするつもりです?」
「まだオープンしたばかりなのでしばらく休みなど無しですよ」
時折一原の考えには驚く事がある。
オープンから数日間だけを俺は聞いたつもりではない。
「いやいや、もっとあとにせよ、その態勢を揃えておかないと……」
「そうなってから考えればいいんですよ」
俺の台詞を遮りながら一原は無茶を言い出す。
「でも、それだと誰かしらが通しで働くようになりますよ?」
「しょうがないじゃないですか! ボスから使うのはその人数までにしろと押さえられているんですから」
「一さん! 店を経営していくのは俺です。休み要員の確保なり、もう一人はいないと営業になりませんよ? 俺が従業員の一人として入っていいというなら話は別ですが」
「いや、岩上さんは現場には入りません。従業員は先ほどの四人。これはボスからの決定事項ですから」
不思議と俺を強引に引き抜いた割におかしな点が多かった。
あの時以来、一原たちのボスは俺の前に姿をまったく見せていない。
しかも俺は連絡先さえ知らないのだ。
「ちょっと横浜まで行って、俺が直接話してきます。そんな事まで細かく決められたんじゃ、まるで話にならない」
「岩上さん! 何を言ってんですか? ここは俺と岩上さんの間だけの話です。俺より上などいないって前に言ったじゃないですか!」
「……」
都合のいい一原の言い回し。
先ほどこれらの決定事項は上のボスからだと言いながら、俺にはそんなボスなどいないと言う。
不協和音にならねばいいが……。
以前秋葉原で共に始めた裏ビデオ屋。
長谷川昭夫とそれまでうまくやってきたつもりが、徐々にその方向性や考え方の違いに気付き、そのままでは空中分解してしまうと危惧したあの頃。
あの時と似たような感覚を覚えた。
このまま彼と話していても埒が明かない。
とりあえず今できる事だけを考え、先に実行しておこう。
店内に必要な備品などを買い出しの為外へ出る。
別にこんな事いつでも良かったが、自身の頭を冷やす事が目的だった。
百円ショップやデパートなどを周り、目にいたものを購入。
大きなビニール袋二つを持ちながらうな鐵のところを曲がろうとした時だった。
「あっ、い、岩上さん……」
二年は離れていた歌舞伎町で俺の名前を知る人間。
誰だと振り向く。
「テメー……!」
吹き上がる憎悪。
面を見た瞬間、過去の怒りが蘇る。
池袋のインカジ『バラティエ』で揉めた坂田がすぐ傍に立っていた。
まさか俺が新宿にいるとは思わなかったと言わんばかりの表情。
この男のおかげで俺は池袋の店を辞め、単身横浜へ行った。
金にも汚く根性も薄ら汚れた屑野郎。
「おい、何でおまえみてえな屑が歌舞伎町にいるんだよ?」
「い、いや…、あ、あのですね……」
しどろもどろの坂田へ近寄り、持っていたビニール袋を勢いよくぶつける。
顔を押さえながらしゃがみ込む坂田。
「す、すみません! すみません!」
顔面を蹴飛ばそうとしたが、通行人の何名かが野次馬となり俺たちを見ていた。
警察でも呼ばれたら、厄介だな……。
「おい、次歌舞伎町歩いてんの見掛けたら、ぶっ殺すからな」
俺は平和通りに入り、店へと歩いてその場を去った。
インターネットカジノ新宿クレッシェンドへ戻ると、荷物を整理しているところ一原が名前を呼びながら近づいてくる。
「岩上さん! サイトのポイントを頼むところあるじゃないですか?」
「ええ、それが何か?」
「うちの系列で裏スロを任せている山口の話だと、マイクロのポイントもっと安く買えると言うんですよ」
現時点での契約ではマイクロのポイント百万円分を買うのに二十五パーセント。
二十五万円が必要となる。
「何ですか、いきなり……」
「マイクロが確か二十五ですよね? 山口の知り合いのポイント屋使えば、二十で済むと言っているんです。ポイント屋変えましょう」
酒井さんのところを俺が利用する理由は大きく分けて二つあった。
一つは俺にも入れた分の利益が入る事。
もう一つはふんだんな資金力を持っているのを知っているので、安心ができるといった部分。
「横浜時代からの付き合いもあるので、そんな急にできませんよ」
「何を言ってんですか! 百万毎に五万円も違ってくるんですよ? 五万も」
激情型の一原は、一度頭に血が上るといつもこうして自分の意見だけを強く被せてくる。
「パーセンテージについては先方と、もう一度話し合っておきますよ」
「岩上さん! そうじゃなくて、山口のほうを使おうって言ってんですよ。そっちのほうが安いんだから」
「……」
インカジとポイント屋の関係は、サイトのポイントを買う売るだけの関係。
俺は様々な過去から信頼もあり、信用できるところと組むのが理想だと考えている。
それを横から突然系列店の人間が出て来て、もっと安いポイント屋を知っているからそっちを使うと言う。
俺の言う事には駄目だしされ、店の中軸を担うような事まで勝手に決めようとする。
それでいて俺がこの店の代表?
別に俺の存在いらないじゃん……。
立ち上がり、タバコに火をつけた。
そのままドアに手を掛け出ようとすると、背後から「どこ行くんですか!」と怒鳴り声が聞こえてくる。
「俺、抜けるわ…。あとは勝手にやってちょうだい」
「今さら何を言ってんですか、岩上さん!」
雁字搦めにしておいて責任は俺になんて冗談じゃない。
重要なポイントを勝手にあれこれ決めて、それを強行したいのなら自分たちだけで勝手にやればいいのだ。
俺はまだ横浜のマンションすら解約していない。
ひょっとしたら下陰さんに話せば、また横浜での生活が継続できるかもしれない。
一原のやり口や考え方には、かなりうんざりしていた。
「岩上さんがいなくなってこの店何ができるって言うんですか?」
「その俺を差し置いて、ポンポンポンポン勝手に決めてんのはそっちじゃん。だからじゃあ勝手にやれば、俺は抜けるからと言っただけ」
「じゃあ、誰がこの店をやるんですか!」
ますます激高する一原。
「一さんでも、その山口って人でも勝手にやればいいじゃないですか」
俺も完全に自棄になっていた。
売り言葉に買い言葉。
店を開始する前からこんなにストレスを感じていたんじゃ、先が知れる。
それならもっと気軽な立ち位置で無関係に過ごした方がいい。
「一千五百万って金が動いてんですよ!」
「だから…、その金だって俺が預かった訳じゃない。それに俺はこうして動いているけど、無償で動いている」
「それは岩上さんの店なんだから当たり前じゃないですか!」
「ごめん、一さん…。もうちょっとその感覚の人と一緒にできない」
一原は入口の前に回り込み、両腕を上げた。
「ふざけないで下さい、岩上さん! もう動いちゃってんですよ、色々と」
生理的に一原のような性格の人間を受け付けなかった。
高橋ひろしのいるあの系列の人間たち。
中にはお喋りなレシエンの優美だっている。
とりあえず俺もその仲間の一人になっているという認識なのだろうが、みんながみんな身勝手過ぎる。
「岩上さんのポイント屋って、どこなんですか?」
酒井さんと俺の関係性。
それをわざわざ第三者へ話す必要性など、どこにもない。
「じゃあ、逆に聞きますけど、その山口って人とそのポイント屋は?」
「そんなの知る訳ないじゃないですか!」
「その言葉そっくりそのままお返ししますよ。あとはご自由に……」
「ちょっと待って下さいよ、岩上さん! どこへ行くつもりですか?」
「だから俺は抜けるから、あとはご自由にと」
「ふざけないで下さい!」
「じゃあ、何で勝手に物事を決めてそれを押し付けるんです? 全然俺の店なんかじゃないですか」
「分かりました。ポイントの件は一旦置いておきます。山口にもそれは伝えますから。岩上さんがいないんじゃ、この店話にならないんですよ」
自分で火種を起こしておいて、この言い草。
マッチポンプもいいところだ。
しかし冷静に考えてみると、俺は伊達を巻き込み、保証人として岡部さんまで巻き込んでしまっている。
明日辺り酒井さんと連絡を取り、この状況を話し合わないと問題は解決しないだろう。
「今日は一旦横浜へ戻ります」
「岩上さん!」
「だから俺も冷静さを失っていたのは認めますが、一さんももう少しすぐがなり立てるその言い方、本当に直した方がいいですよ? 本当気分が悪くなる」
「この店をやるんですね? やるって事でいいんですね?」
「勝手に物事を進めないならね……」
気持ち悪い気分のまま店を出る。
帰りの電車の中、今日一日で色々な出来事があったなあと振り返った。
まず因縁のあった池袋の坂田との偶然的な遭遇。
そして一原との衝突。
大まかにこの二つであるが、この先一原のような男と共に店の経営などやっていけるのか、正直不安しか覚えなかった。
ポイントのパーセンテージの件で酒井さんとの話し合いもしなければならない。
新宿歌舞伎町へ移り住む。
これまで平穏無事だった横浜の生活から変化をしようとした途端、妙な方向へ流れが進んでいるような気がする。
まず始めに最も敬愛するおじいちゃんの死。
そして一原の強引な店舗の進め方。
横浜で仲間だと思っていたシュールの永井聡の本音。
まだおじいちゃんの通夜も葬儀も終わっていないんだぞ?
傷心のあまり枕を涙で濡らしている暇さえないこの状況。
自身の選択した結果であるが、本当にこのままでいいのか不安で仕方がない。
今さら降りる事もできない立ち位置。
ならば少しでもオープンへ向けて先に進めるしか道はない。
今日店へ行って気付いた点。
店の名前入りライターも欲しいし、バカラをやる客の為に罫線も必要だ。
どうせ明日も新宿。
酒が飲みたかった。
ゲンに愚痴でもきいてもらうか……。
俺はマゲとチッチの世話を済ませ、エイトセンターへ向かって歩き出した。
アンチポップへ入る。
「あ、岩上さん、いらっしゃい。連日お越しになって大丈夫なんすか?」
「飲まなきゃやっていられない事ってあるじゃないですか。とりあえずグレンリベットを」
ウイスキーを胃袋へ流し込み、日々の疲れを癒す。
セブンスターに火をつけ、大きく煙を吐き出した。
酔いに任せ俺はこれまでの経緯をゲンへ簡単に説明する。
「何か面倒な事ばかり起きてますね」
「まあ大金を使って新宿で店をオープンするんだから、何も無い訳ないんですけどね……」
「こうなったら何が何でも店を成功させるっきゃないすよね」
そう、ゲンの言う通りすべてはその結果に尽きる。
金を摑む為に、これまでの横浜の生活を捨てた。
物事は動き出し、後戻りできないところまで来ているのだ。
ここで愚痴をこぼすよりも、まだやらなきゃならない事は山積み。
「ほんと金を摑まないと何の意味も無いか……」
「でも岩上さんの稼ぐ金は汚い金ですからね」
「はあ?」
今ゲンは何て言ったんだ?
「岩上さんの持っている金は悪い事をして稼いでいる金なんで、色々あるんじゃないすかねー」
俺の金が汚い?
じゃあ、以前ゲンに娘が生まれた時お祝いで祝儀を渡した金すらも汚い金だと言うのか?
それだけじゃない。
俺はこの店へ何回来ているか分からないくらい通っている。
ここで落とした金ですらも、この男は汚い金と言うのか?
アンチポップの営業が終わり、長八などで飲む際だってほとんど俺が金を出してきた。
散々ご馳走になっておいて、俺の金が汚い?
「ゲンさん…、俺のやっている事は確かに裏稼業だ。でも詐欺のように誰かを騙して得た金じゃない。インカジ…、インターネットカジノは通常の賭博じゃ我慢できないような客を相手にしているだけで、俺たちはその場を提供しているだけに過ぎない。それでも俺の金は汚いと言うのか?」
「ん-、実際に悪い事をしている事は事実ですからねー」
「ゲンさん! 俺は真面目に聞いているんだぞ?」
俺はタバコの火を揉み消し、真面目な表情をしながらもう一度聞く。
「悪い事は悪い事っすよ」
発言を取り消すつもりは無しか……。
「チェックして」
「え、もう帰っちゃうんですか?」
「チェック」
一万円札をカウンターの上に置く。
ちょっと前の仲が良かった頃なら、小銭はいつもチップ代わりに置いてきた。
しかしそういった金ですら俺の金は汚い金と言うのだ。
釣り銭と札を財布にしまう。
永井聡といい、このゲンといい、本当にげんなりする。
「ゲンさん……」
「はい、何ですか?」
「もう取り返しはつかないよ……」
「え、どういう意味すか?」
彼の問いには答えず店をあとにする。
決別の二文字だけが頭の中を支配していた。
横浜から俺はもういなくなるのだ。
つまらない事をいちいち気にするなって……。
ゲンは酔っていたのかもしれないが、それだけじゃ済まされない失言をしたのだ。
俺の金は汚いか……。
散々その金を受け取っておきながら、よくもまあそんな台詞を吐けたものだ。
この二年間の横浜での暮らしは一体何だったのだろう?
遣る瀬無い気持ちで道をトボトボ歩く。
「あれ、岩上さんじゃないですか?」
背後から声を掛けられ振り向くと、客でよく来ているキャッチの矢田部だった。
店で俺の姿を見掛けなくなったので、何かあったのかを聞かれる。
新宿でインカジをこれから始める事を伝えると、矢田部は驚いていた。
「岩上さんって凄いじゃないですか。あ、良かったら連絡先交換しませんか? テントと言っても岩上さん新宿行っちゃうんじゃ、あまり会う機会無くなってしまいますけどね」
少し前からスマートホンと呼ばれる携帯電話が流通し出した。
自分のは未だガラケーの携帯電話を使っているが、スマホやアイフォンといったまるで小型携帯パソコンと呼べる機種を矢田部は持っている。
「確かに新宿には行きますが、この横浜って土地は本当に気に入っているんです。だからまた何かの機会に戻ってはきますよ」
「でも、横浜のインカジからいきなり新宿で店を出すなんて、普通できませんよ。岩上さんって何か凄いすよね。何かやっていたんですか?」
俺に興味津々な矢田部。
「岩上智一郎で検索してみて下さいよ」
「え?」
「スマホで検索するところで岩上智一郎と検索すれば、多分俺の事は少々出てくると思いますよ」
言われた通り検索する矢田部。
「え、すげえっ! 何なんですか、岩上さん! 小説で本出しているんですか? あと総合格闘技のリングにも上がっている! え、何なんですか?」
何を俺は得意げに過去の事を語っている?
今さら二千八年の時の事を自慢してどうするつもりなんだ、俺は……。
もう六年前…、昔の話に過ぎない。
過去の栄光をひけらかして何がしたい?
本を出したところで未だ印税は入って来ない。
試合へ出たところで負けた。
本を出してもプロのリングに上がっても飯を食えないから、無一文で横浜へやってきたんじゃないのか。
「実るほど頭が下がる稲穂かな」
生前おじいちゃんが、俺に言い残した言葉が頭の中をよぎる。
何の成長もしていないじゃないかよ……。
「たまたま運が良くなる事が多かったってだけの男ですよ」
「え、でも凄いっすよ? 普通じゃ本とか出せないし」
「矢田部さん、またこっちへ来た時でもゆっくり話しますよ。俺、明日も新宿行かなきゃならないんで、また」
帰り道をゆっくり歩きながら、先ほどの出来事を思い返す。
横浜で唯一通じ合っていると思ったゲンとの決別。
俺の金は汚いか……。
そういえば森田たちのインターコンチ勢の愚痴を以前ゲンへ話していた頃、あいつは風評被害と抜かしていた。
あの時はただ単にゲンが言葉を使う意味合いを知らない愚か者と思っていたが、客である俺の事を小馬鹿に思っていた訳だ。
もういい、つまらない事を考えるなよ。
新宿で店を成功させる。
今の俺にはそれしかないのだから……。