
2025/07/28 mon
前回の章
寝て起きると昼手前だった。
酒井さんへポイントの件で連絡をしてみないといけない。
冷静になって考えてみると、ポイントを購入する際パーセンテージが安い方が店の痛手はその分安く済む。
まだ見た事の無い組織の人間である山口。
どの辺までインカジの仕組みを知っているのか分からないが、そんなに出しゃばるなら自分で店をやればいいのにな。
酒井さんがポイントの報酬として百万入れる毎に二万円の金をくれたからこそ、俺は横浜で再起できた。
それを今回ポイントのパーセンテージをまけろと交渉しなければならないのだ。
憂鬱だが、時間はあまり残されていない。
昼になり酒井さんへ連絡をする。
「岩上さん、お疲れ様です。店の準備の方は順調ですか?」
「それがですね、酒井さんすみませんが……」
俺は組織の人間がパーセンテージの件でしゃしゃり出てきた事、そしてこの話し合い次第ではそちらのポイント屋へ権利を譲らないといけない状況なのを話す。
「うーん…、なるほど……。ポイントのパーセンテージですか……」
「いつもお世話になっているのに、こんな話をして大変申し訳ございません……。もちろん自分へ渡す二万円分を無くせば二十三パーセントにはできますよね?」
「状況は分かりました。少しだけお時間もらってもいいでしょうか?」
「ええ、本当にすみませんでした」
一原の事だ。
マイクロのポイントのパーセンテージを山口の用意した二十と同率、またはそれ以下にしないと、また代えろとがなり立ててくるだろう。
俺に店を任せると言いながら、ここまで色々な事に対して口を挟んで来るとは想定外だった。
新宿で借りたと言う俺用のマンションも、一度場所の確認をしとかねばならない。
今日明日とこの二日間で、ある程度店を仕上げる。
明日はそのまま川越へ行き、川越祭り。
二十日が俺にとって最終仕上げ段階。
翌日から通夜、葬儀と続く。
おじいちゃんと本当のお別れ。
未だドライアイスに包まれたままのおじいちゃんの遺体。
悪夢の中にいるような錯覚さえした。
もう俺にとっての家族はマゲとチッチだけ。
天涯孤独に等しい。
横浜での居場所も無くなった。
俺に金を出させるのを当たり前のように考えていた永井聡。
俺の稼いだ金を汚い金と罵ったゲン。
本当にくだらない。
俺は人を見る目が無さ過ぎる。
この二年、一心不乱に金を貯めていれば……。
はなっから大人しく部屋で料理をして、それに満足していれば良かったのだ。
変に行きつけの店を探そうとするから、このような目に遭う。
もうおじいちゃんの後ろ盾は無い。
甘えなど許されない状況になっている。
目の前の事柄へ集中すればいい。
今ならインターネットカジノ新宿クレッシェンドの為だけに。
昔を思い出せ。
全日本プロレスへ行こうとした時どうした?
それだけしか考えず我武者羅にトレーニングをして身体を大きくした。
浅草ビューホテルでのバーテンダーの時は?
常に酒の知識を勉強し、給料が入れば他のラウンジなどへ行き目で見ながら接客を吸収していった。
総合格闘技の時は?
またひたすらトレーニングに明け暮れ、身体をより強靭に仕上げた。
ピアノは?
楽譜の読めない俺はひたすら同じ曲を毎日何時間も弾き、鍵盤を押さえる指を暗記し、それを目で確認し、奏でる音を耳で聴いた。
小説は?
勢いのまま一気に物語を書き上げた。
整体は?
TBB総合整体の先生から教わった技術に自身の技を加え、誠心誠意患者が少しでも良くなるよう心掛けた。
二度目の復帰をしてから、俺は成長が止まっている……。
いや、裏稼業へまた戻ったから活躍の場が無かっただけであり、またこうして新宿で店をオープンさせるところまで来ているじゃないか。
集中しろ。
俺は必ず店を成功させなければいけない。
新宿歌舞伎町へ向かう。
店に着くと、一原が早速ポイントの件を聞いてくる。
「今先方と話し合っている状況なんで、もう少し待ってもらえますか?」
「岩上さん! もうね、そんな時間無いんですよ!」
時間無い状況の中、別のポイント屋を使うと言い出してきたのはどっちだよと言いたかったが、ここで揉めるのは何のプラスにもならない。
「一さん…、この店は俺に任せるって話で始まったんじゃないんですか? それをあれはこうしろ、これはこうしろって、俺のいる意味あります?」
「だからそれは……」
「俺だってちゃんと動いているんですよ。ポイントの件は分かり次第伝えます」
「時間無いから山口のところを使ってですね……」
「一さん! そうやりたいなら、俺は今すぐこの店抜けますから」
「岩上さん!」
「だから時間を少しくれと言っているだけです」
本当に感情の高ぶった一原とは会話にならない。
感情に任せてただ相手を威圧するだけ。
こんなのと一緒に組んで店をやって大丈夫なのか?
何とも微妙な空気間の中、珍しく高橋ひろしが顔を出した。
「岩上さん、自分の店が区役所通りにあるので、場所を教えとくので一緒に来てもらっていいですか?」
ここで一原と話しているよりはマシだ。
俺は伊達と共に区役所通りへ向かった。
東通りから区役所通りに出る細い道を通る。
以前俺が五つの裏ビデオ屋を統括していた内の二店舗『リング』と『らせん』があった場所。
今じゃまったく別物の飲食店になっている。
山下や大山がいた角のゲーム屋も、跡形も無くなっていた。
区役所通りへ出て左折、カラオケパセラの前を過ぎる。
「ここです。鰻屋の入っているビルの二階にあるんですよ」
「高橋さんの店って何屋なんですか?」
「JKの店です」
「JKって?」
「本物の女子高生がいる店ですよ」
二階へ上がり店内へ入ると、カウンター席があり奥にボックス席が三つある長細いバーのような造りになっている。
「あ、岩上さんと伊達さんね」
高橋が女子高生たちに俺たちを紹介すると、元気よく一斉に挨拶してきた。
カウンター内に四名の若い子たち。
「ビールか何か飲みますか?」
「いや、お茶でいいですよ」
「うちの子たち動かしていますからね。ちゃんとここでの飲み食いは料金発生しますよ。うちは三十分飲み放題で二千円なんですよ」
ちゃっかりというかしっかりした高橋ひろし。
「じゃあ、ウイスキーをロックで」
「自分は生を頂きます」
馬鹿らしいので、俺も伊達も酒を飲む事にした。
「夕方になったら裏スロを任せている山口さん、紹介しますね」
まだ名前しか聞いた事がないが、一原からのポイント騒動であまりいいイメージはない。
「うーん、でもインカジに関わる訳じゃないんですよね? それなら別に顔合わせしなくても……」
「ケツモチとかも紹介しないといけないじゃないですか。その辺は彼が担当していますんで」
群雄割拠の歌舞伎町。
確かにこの街で裏稼業を経営するに当たって、避けては通れない。
高橋と今後の展開について話していると、女子高生の一人が「あのー、ドリンク頂いてもいいですか?」と声を掛けてくる。
俺はジロリと一瞥をしてから「今仕事の話をしてんのが分からないのか?」と強めに言った。
「岩上さん…、うちの子たちに、そんな強い言い方しないで下さいよ。辞めちゃったらどうするんですか?」
彼女たちに対する彼なりの気遣いなのだろうが、こんな子供のような学生相手に鼻の下を伸ばすような輩が増えたから、日本もどんどんおかしな犯罪が増えるのだ。
それでも高橋からすれば自分の店の商品には違いない。
「ごめん、好きなの飲んで」
とにあえず女子高生たちへ精一杯の笑みを浮かべながら、タバコに火をつけた。
夕方になり新宿クレッシェンド店内に、山口がやってくる。
年齢は俺と変わらず、中肉中背のどっしりした中々迫力を持った男だった。
彼は食事でもしながら話をどうですかと提案をし、明治通り沿いにあるビックボーイへ向かう。
山口の話を聞いていて分かった事。
裏スロの店を任されている彼だが、業務のほとんどの責任を担い結果を出しているという部分。
現場には出ず絵空事を抜かす一原とは大違い。
そして店を運営するに辺り、ケツモチの〇〇会の本部長を紹介してくれた。
群雄割拠の歌舞伎町内で、そこまでの組織力としての強さはないものの、客層でヤクザを入れなければさほど問題は無い。
月に掛かるケツモチ料も毎月二十万、盆暮れの時だけ十万プラスの三十万という事で話がつく。
千五百万円という出資の元に始まった新宿クレッシェンド。
店を作っていく上でいまいち現実味がない部分は、その金を一原がすべて握っているところだった。
インカジはいつ大きなOUTが出るか予想つかない。
なので数百万円単位の金をすぐ動かせるようにしていないと話にならない業種である。
店内には基本百万円前後の回銭を用意し、店を統括する俺が常に三百万の金を準備しておくのが理想。
それは事業計画書にも書いたし何度も一原へ伝えたが、いつも都合よくはぐらかすだけ。
「オープンしてからでいいですよ、お金の事は」
「客がOUTして金が手元に無いじゃ、話にならないんですよ?」
「だから、それは店をオープンしてからでいいですよね!」
感情的になると話にならない一原。
こうなると無駄な時間の口論になるだけなので、俺は新宿の自分の住む部屋を見てくると店を出た。
職安通りにあるドンキホーテの二軒横の大きなマンションの十二階。
そこが新しい住処となる。
三十三平米の広さだが、1Kという妙な間取り。
だだっ広い部屋の中にキッチンもあり、ドアを挟んで玄関と風呂場にトイレ。
ドアを開けて外を見ると左斜め下にドンキホーテが見える。
ここが俺の新しい居場所……。
まだ何も無い殺風景な部屋だが、もう少ししたらここでの生活が始まるのだ。
家賃十二万円ちょうど。
横浜のワンルームの三倍。
一原の話ではここの家賃も経費で出してくれるようだ。
タバコに火をつける。
綺麗な夕焼けが見える部屋からの景色。
俺は写真を撮っておく。
さて、今日はそろそろ横浜へ戻るとするか。
チッチとマゲが俺を待っている。
部屋へ戻り鳥の世話。
いつもならどこかしら飲みに行くが、ゲンや永井聡の発言から外に出る気分さえ湧かない。
本当無駄な事にお金を使ってしまったなという後悔。
金を使って気分が悪くなるなら、はなっからそんなもの無いほうがいい。
「俺の金は汚い金か……」
くだらない。
ああいう恩知らずの抜かす台詞などに、いつまで囚われているつもりだよ。
横浜のプライベートでの仲いい知り合いは一人もいない。
それだけの事だ。
酒井さんからの着信が入る。
「岩上さん、遅くなってすみません。ポイントの件なんですが、二十パーセントと別のところは提示してきたという事ですよね?」
「ええ…、自分も食い下がったのですが、さすがに五パーセントの開きはあるので何を話しても通じない状況でして……」
「分かりました! 他のところ使われるくらいなら、うちもに十パーセントにします。岩上さん、それでよろしいですか?」
「本当にお手数お掛けしてしまい、申し訳ございません」
「いえいえ、これからもよろしくお願いしますよ」
これでポイントは酒井さんのところで問題なし。
一原や山口にはしゃしゃり出させない。
翌日になり新宿の店へ向かう。
今日は従業員との顔合わせと言っていたよな。
インターネットカジノ新宿クレッシェンドへ入ると、三名のスタッフがいた。
伊達の姿が見えない。
示しがつかないから、こういう場面で遅刻はやめてくれよ……。
電話を掛けると西武新宿駅に今着いたようで、向かっている最中。
一原が各スタッフを紹介してくる。
「こちらが丸田君です。高橋紹介の人間です」
黒短髪の男が会釈する。
パッと見プロレスリングノアのKENTAに似ているが、もう少しボケッとした雰囲気を醸し出している。
年齢は三十歳くらいだろうか。
「…で、こちらが山口君紹介の中野さん」
ギョロッとした目つきの悪い男が会釈する。
三十代後半から四十代手前、髪型は黒髪オールバック。
プライドが高く気の強そうな顔をしている。
口髭を生やしているのが気になった。
裏稼業でインカジとはいえ、本来接客業だ。
従業員が口髭を生やすというのは、自身の感覚の中で客から偉そうに見えるのではないか。
まあ今は挨拶の段階なので、おいおい話していけばいいだろう。
伊達が店に入って来る。
「すみません。あ、みんなもう集まっているんですね」
初顔合わせなのに、遅刻してちんたらしてんじゃねえよ……。
怒りたいのを我慢しつつ、スタッフたちへ伊達を紹介した。
「こちらが伊達さんです。この店の名義であり店長を兼任します。みなさん、よろしくお願いします」
「岩上さん、あともう一人従業員の紹介まだなんで言いますね。こちらが桜井君。彼だけインカジ経験無い感じですね」
「了解しました。ではこの店の責任者になる伊達さんから一言を」
突然伊達に振ったので彼は驚きつつも一歩前へ出て口を開く。
「この店の名義の伊達です。自分より上の人間が、この岩上さんになります。なのでみなさん、岩上さんの意見は絶対になりますので、よろしくお願いします」
俺はこのあとそのまま川越に向かい、明日明後日の川越祭りに備えればいいか。
「すみません、一原さん。ちょっといいですか」
中野が一原に声を掛ける。
「ん、中野さんどうしました?」
「ポイントの件てどうなってます? 自分の知り合いのところ通しちゃっていいんですか?」
一原は山口経由の話と言っていたが、この男からポイントの話になったのか。
「えーと…、岩上さんのほうのポイント屋はどうなったんですか?」
「昨日連絡来て二十パーセントでやってくれるとの事になったんで、そのまま俺の知り合いのところを使いますよ」
あえて酒井さんの名前をここで出すつもりもなく、淡々と結果だけを話す。
「はあ?」
豹変する中野の表情。
「一原さん! 俺のところに任せるって話じゃなかったんですか!」
一人この場で激高しているが、そもそもこの店で働く一従業員が何故そこまででしゃばろうとしているのだ?
「いや、元々は岩上さんにこの店を任せるんであって、そしたら中野さんがポイントをもっと安くできるって言うから話を聞いただけで……」
「話が全然違うじゃねえすか!」
怒り狂う中野と、何とか落ち着かせようとする一原。
俺の知らないところでの話なので、口を挟むに挟めない。
ただ中野がここまで怒る原因は何となく理解できた。
おそらくこの店のポイントを中野紹介でやる事により、自分自身にポイントが入る密約をしていたはずだ。
この俺が横浜の店でそうだったように。
この男が今後勘違いしないよう、俺からちゃんと伝えておいた方がいいだろう。
「一原さんに中野さん。申し訳ないけど、ここは俺がやる店だ。ポイント屋の付き合いも当然俺の知り合いを使うし、中野さんは普通にここで働いてくれればいい」
納得のいかない表情の中野を一原が店の外へ連れて行く。
一原も俺に聞かれたくない内容の話をしたいのだろう。
「とりあえず伊達さんは名義なので遅番。経験のある丸田さんは早番の責任者としてお願いできますか」
瞬間湯沸かし器のような中野を責任者にしてはいけない。
独断で番編成を決める。
「時間帯は何時交代になるんですか?」
「十時交代の十二時間。これで行こうと思います。店が流行り、売上も作れたら人をもっと入れて理想は三交代制の八時間勤務にしたいとは考えていますね」
「分かりました」
「伊達さんもオープン当初はそんな感じでお願いしますね」
「了解しました」
あとは従業員の桜井と中野を早番と遅番どちらへ振るか。
その時ドアの外から「やってらんねえよっ!」という怒鳴り声が聞こえてきた。
一斉にそちらを向くスタッフたち。
俺がドアを開け様子を伺いに行くと、通路には一原の姿しか見えない。
「一さん、どうしたんですか?」
「中野、あいつは駄目ですね…。ポイント屋を自分のところじゃないと働けないとか、無茶ばかり言うので、こっちは諭していたら大声出して帰ってしまいました」
最初からあのような短気でキレやすい人間など、こっちからお断りだ。
「まあいいですよ。あの性格じゃインカジで働くの無理ですから。ただあと一人従業員を探さないといけなくなりましたね」
「うーん、山口君ところの昇君をこっちに頼むしかないかなー」
「昇君?」
「ほら、高橋ひろしの弟ですよ。今山口君の裏スロで働いているんですよ」
高橋ひろしの実弟昇。
俺がワンオン系列のゲーム屋時代、系列店のリングで当時働いていた昇。
店長の世永からリングに来てくれと言われ向かうと「岩上君、誰かに似てると思わない?」と顔合わせしたのがファーストコンタクトだった。
三十代前半の頃だから十数年ぶり?
まさかここでこのような再会をするとは思いもよらないものだ。
「岩上さん、桜井と丸田は元々知り合いなんで離しましょう。丸田が早番なら、桜井は遅番で」
昔から裏稼業の鉄則として、友達同士はつるんで悪さをしやすいので同じ番で働かせないというものがある。
こうして早番は丸田に昇、遅番は伊達と桜井といった振り分けになった。
親睦を深める為、みんなで歌舞伎町の居酒屋に行き酒を飲む。
途中で加わった高橋昇との十数年ぶりの再会も果たし、終電を逃した俺は新宿のマンションへ泊まる事にした。
朝起きると全身が張っている。
フローリングの床の上にそのまま寝たからだろう。
こっち用に布団一式くらい買っておくか。
手前のドンキホーテで寝具を買い揃え、部屋へ運ぶ。
それにしても広い部屋だ。
一部屋で三十平米以上の広さ。
正直一人で暮らすには持て余す。
支度を整え西武新宿駅へ向かう途中、マゲとチッチの事を思い出す。
今日中に横浜へ帰れればいいが、明日も祭り。
「……」
仕事を終えて部屋に戻ったら亡くなっていたポーポを思い出す。
生き物を飼うという事は、同時に責任も発生する。
面倒だが一度横浜へ戻り、それから川越に行くか……。
丸一日以上鳥の世話をせずに部屋を空けるなど、さすがにできない。
あの子たちに何かあってからでは遅いのだ。
土曜の祭りはまだ前夜祭みたいなものだから、夕方までに川越は顔を出せればいいか。
湘南新宿ラインを使って横浜へ。
地下鉄ブルーラインで阪東橋まで向かい、部屋へ行く。
まだ餌は残っていたものの、水浴び用のプールは糞で濁っていた。
「ごめんね、すぐ取り替えるからね」
「クピピ」
今日の夕方行ったとして、明日は帰ってくるのが夜遅くにはなるだろう。
一日半くらい俺がいなくてもいいくらい、餌や水を用意しておかないといけない。
二十一、二十二日のおじいちゃんの葬儀を終えてから本格的な引っ越しをするようだな。
ベンチプレスを運ぶのに骨が折れるな……。
最近じゃまるでトレーニングをしなくなり、洋服をバーベルに引っ掛けておくくらいになってしまった。
こちらから向こうへ運ぶものはテレビ、冷蔵庫に洗濯機、あとは布団や本、ゲーム類程度。
二年間慣れ親しんだ横浜での生活も、もう少しで終わる。
川越で傷つき疲れ果て、新宿でより悪化し、横浜で癒された。
俺はまた店を始めるとはいえ、新宿へ戻ろうとしている。
おじいちゃんの死が、本当の節目になってしまったものだ。
まあいいさ…、新宿で店を成功させ金を摑んだら、また横浜へ戻って来てもいい。
夕方になってから俺は川越へ向かった。
二日間で百万人を超える人が集まる川越祭り。
駅を出てから家まで本来なら五分程度の距離が、人混みで一時間以上掛かってしまう。
家から一番近い西武新宿線本川越駅で下車。
改札を潜ると多くの人たちでロータリーはごった返している。
なるべく細い裏路地を使って進まないと、いつ到着できるか分からないぞ。
駅前の人混みを掻き分けつつ、母校である中央小学校方向へ細い道を通りながら進む。
おじいちゃんの亡骸へ最初に会いたかったが、道順的に最初連雀町へ行き、雀會と連々会に祝儀袋を渡して挨拶しておいたほうがいいか。
祭りに来る人のほとんどが観光客ばかり。
地元民でなければ分からない路地道を選んで歩き、ようやく連雀町へ辿り着く。
「あ、智一郎さんだ!」
「着物着てない!」
「ペイントしてない!」
連雀町内の連々会会員たちが面倒な指摘をしてくる。
二千六年…、まだ百合子と付き合っていた時にペイントを顔に書き、川越祭りへ出た若かりし頃。
まだ川越に住み、生活をして、祭りになればほとんど栗原名誉会長宅で酒を飲みながら過ごしたあの頃。
あれから八年も経ったのか……。
そりゃ町内でも知らない奴が増えるの当たり前だ。
「おまえらどけっ! とりあえず先に祝儀を持ってきただけだ」
連々会の人間を掻き分け、祝儀袋を渡す。
「あ、智一郎さんだ!」と言う声が増え、俺はどかしながら雀會詰所へと向かう。
たかが十数メートルの距離。
それでも祭りの見物客のせいで中々辿り着けない。
人をどかしながら先へ進むと、ようやく連雀町の山車が見えてくる。
駅も街中も人でうじゃうじゃ。
これが川越祭りだよな……。
囃子連の雀會詰所へ着き、祝儀袋を手渡す。
詰所では親父が連雀町の着物を着ながら座り、横には加藤皐月もいた。
またこんな女をこんな場所へ連れて来やがって、馬鹿親父が……。
「おう、智一郎。たまにはお父さんと会話ぐらいしろよ」
同じ座敷に座る全日空の元パイロットだった中川さんが声を掛けてくる。
この人は川越祭りに参加がしたくて、川越でマンションを買ったかなりの変わり者だ。
「智一郎さん、お久しぶりです」
「おう、修じゃないか! 元気でやってんのかよ」
「はい、もうちょっとしたら山車に上がって笛を吹きます」
弟だった貴彦の同級生である金子修一は、今でも礼儀正しい後輩。
「そうか、頑張れよな」
「ええ、栗原名誉会長に教わった笛ですからね!」
同じ通学班で一緒に小学校へ通った仲。
俺の茄子好きも、修の実家が八百屋だった頃茄子一山百円で売っていたのが原因だ。
地元へ戻ってくると、特に川越祭りはいつもこうだった。
人に囲まれ、俺を知る人間たちで一杯になる。
着物を今年は着ないで過ごそう。
おじいちゃんの亡骸がまだ家にある。
祭りではしゃぐ気分にはなれないでいた。
連雀町の中央通りを他町内の山車が通る。
うん、連雀はこうしてデンと構えていればいい。
気付けばすっかり夜だ。
昔からの懐かしい人たちとの再会を色々果たし、初日の祭りの火が消える頃実家へ向かう。
横たわったままのおじいちゃん。
今日は俺も同じ家で寝るからね……。
ドライアイスですっかりと冷たくなったおじいちゃんの身体。
俺はまた目の前で号泣した。
喪に服すじゃないけど、初めて着物も着ずに参加した川越祭り。
今日で十月十九日。
明日でおじいちゃんが亡くなってからちょうど一週間になる。
二年ぶりに二階の自分の部屋で寝た。
変に意地を張り、実家へ戻らなかった俺。
こうしておじいちゃんがいなくなってから、いくら戻ったところですべてが遅いのだ。
昔から川越祭りは土日のどちらか必ずと言っていいほど雨が降る。
窓の外を見てみた。
どんよりとはしているが、雨の降る様子はない。
久しぶりの川越だし、加賀屋の兼チンのおばさんのところ顔を出しに行こう。
元銀座通りの大正浪漫通りは屋台も出て、結構な人で賑わっている。
人を掻き分けながら進み、化粧品の加賀谷の前に向かう。
「ん…、恭、か?」
「あ、智さん! お久しぶりです!」
加賀屋の前でちょっとした屋台があり、そこで後輩の滝川恭央が豚汁やフランクフルトを売っていた。
「何だ、恭。おまえ、テキヤにでもなったのか?」
「違いますって! お袋に頼んで祭りの時だけ、店の前で屋台やらせてもらってんですよ」
加賀屋のおばさんの次男。
俺の同級生滝川兼一こと兼チンの弟でもある恭。
弟だった貴彦の同級生でもある。
兼チンも若い頃から剥げていたが、遺伝なのか恭は男らしくすべて剃り、スキンヘッドになっていた。
「あら、智ちゃんじゃない。こっちに帰ってきたんだ?」
おばさんが出てくる。
俺が川越に帰ってくる度、何だかんだこの人のところへ顔を出しているのは、幼少時代母性愛を受けなかった代わりを求めているのだろうか?
小説『新宿クレッシェンド』で賞を取り本にした時、真っ先に涙ぐみ喜んでくれた人。
「おじいさん大変だったねえ。葬儀もお祭り終わってからになるんでしょ?」
「そうですね…。何だかまだ現実味湧かないんですけどね……」
「あなたの親代わりだったもんねー……」
昔から岩上家の実情を知る数少ない人間であるおばさんは、いつも俺側の立場に立って物事を考えてくれた。
それがどれだけ心の救いになった事だろうか。
「おばさん、俺連雀のほう顔出してきますね。おう、恭。フランクフルトこれで適当に包んでくれや」
恭へ二千円を渡し、町内の連中への差し入れにする。
「そんな無駄遣いしなくたっていいんだよ、智ちゃん」
「後輩の前なんで少しは格好つけさせて下さいよ」
湿っぽくなったのを誤魔化すようにフランクフルトを受け取り、連雀町へ向かう。
中央通りに出ると、和菓子の伊勢屋の始さんが忙しそうに仕事をしている。
祭りは本当に書き入れ時。
邪魔しちゃ悪いので、奥さんの弘惠さんへ「これ、差し入れです」と手渡し連々会に向かった。
「智君、お団子食べていかない?」
弘惠さんの声が聞こえたが、好意に甘えるのも却って邪魔になる。
聞こえないふりをして先へ進む。
ちょうど連雀の山車が動き出し、蔵造り方面へ向かっていた。
俺も合流し、綱の中へ入る。
「智一郎さん、着物は?」
「おじいちゃんの葬儀もまだだからな。今回着物は無しだ」
「智一郎さん、ペイントしないんですか?」
「着物も着てないのにペイントしてたら、ただの変態じゃねえかよ」
見物客で埋め尽くされた中央通り。
その中を山車が通る際二本の綱で引っ張って動かしていく。
前方に他町内の山車が見える。
山車の上に乗っている人形で、どの町内の山車なのか分かるようになっていた。
途中で切り返し、本川越駅方面へ。
地元に帰ってきたんだなという気がする。
二日間雨降らなかったのって久しぶりなんじゃないかな。
去年出なかったので多くの方々に声掛けられたが、やっぱり地元っていいものだ。
さて…、明後日はおじいちゃんのお通夜、二十二日は告別式……。
一週間経ったけど、悲しみって中々消えないものである。