明日もまた早い時間から仕事だ。こんな朝四時起きの生活がいつまで続くのだろうか。一日の内、ゲーム屋で働き、ビデオ屋の仕事もこなす。どっちつかずの状況で一体、俺はどうなっていくのだろう。先のことを想像すると精神的に暗くなってしまう。
揺れる電車の窓に写っている自分の顔をボーっと眺める。非常にしけた面をしていた。普通のサラリーマンみたいに真っ当な職でも探すとするか…。いや、それでは何の為に歌舞伎町へやってきたのか、まるで意味が無くなってしまう。泉との今後の為にも金は必要だ。それにはこの街が一番俺には合っているような気がしたから歌舞伎町に来た。ここへ来た時の初心を忘れるな。
再び窓に写る自分を見ると、さっきより幾分かは表情が締まって見えた。まだ今の仕事は始まったばかり…。働きやすくなるもならないも、すべて自分次第なのだ。どんな形であれ、俺はあの街で成り上がって金を稼げるようになってやる。
ふと頭の中に岩崎のことを思い出した。歌舞伎町で初めて出会った人間。そしてもうこの世にはいない人間…。西武新宿駅の前の道路で二千万円をバラ撒きながら車に跳ねられて死んでいった。岩崎らしいといえば岩崎らしい最後だった。ホモだというのを除けば、あれほどいい奴はいなかった。岩崎にはこの街の生き方というのを教えてもらったような気がした。今の俺があるのも岩崎のおかげでもあった。
「いやー、赤崎さんとは運命的なものを感じてますよ。」
気のせいだろうか…。岩崎の声がどこかから聞こえたような感じがした。運命的…、例えそうだったとしても、死んじまったら何にもならないじゃねーか…。もう少しぐらい彼とは色々と話をしたかった。話をして歌舞伎町の様々な知識を教わりたかった。でも今となっては、いくら望んでも二度と叶わないことだった。
「岩崎さん…、あんた、いくらなんでも早過ぎたよ…。」
電車内にいる乗客の何人かが俺の方を振り向く。心の中で言ったはずが、つい声に出してしまったようだ。乗客の視線など気にせずに窓の外の風景を見つめる。
「あれ、赤崎さん、やっぱりノーマルなんですか?うーん、残念だなー。」
また岩崎の声が聞こえてくる。俺に迫ってきた時の台詞だ。いつの間にか全身に鳥肌が立っていた。あの時の気持ち悪い笑顔。いまだに思い出すとゾッとする。
「次は狭山市―、次は狭山市でございます。」
電車のアナウンスが鳴って我に返る。考え事をしている内に地元の狭山に着いたようだ。もう泉はマンションに帰っているだろう。帰ったら潔くちゃんと謝って仲直りするように努めよう。さっき電話で話した泉の態度を振り返りながら、ゆっくりとマンションへ向かって歩いた。
俺の横で理恵子はテーブルにもたれかかるように眠っている。度数の強いルシアンを調子に乗って四杯も飲むからだ。潰れて当たり前だ。ここは店の一番奥の席だから、誰も俺たちを気にする客はいない。理恵子のセカンドバックをそっと手に持ち、中身を調べる。あった、ヴィトンの財布だ。中を見ると二十万円入っていた。一万円札を二枚だけ残し、あとはズボンのポケットへ乱暴に押し込む。
「東京は怖いところだろ?じゃーな…。」
小声で理恵子に囁くと、俺は席を立ち上がり店を出ようとした。二万もあれば、ここの飲んだ分と帰りの電車賃ぐらいにはなるだろう。それにしても、あんなガキがどうやって二十万もの大金を持ってるんだ。答えは一つ、援助交際で体を売ったに違いない。世の中を舐めている馬鹿な女。少しぐらいこうして痛い目に合った方が本人の為だ。
「御客様、お帰りですか?」
店を出ようとすると、ボーイが声を掛けてくる。俺は携帯を取り出して耳に当てる。
「電話だよ。まだ、俺の連れが奥にちゃんと残ってるだろ?」
「すみません、大変失礼致しました。」
「いいよ、別に。」
うまくボーイをはぐらかして外に出る。ちょろいもんだ。俺が店を出るまで理恵子は完全に酔い潰れて、ピクリともしなかった。こういう形で金を奪うのは初めてだったが何も罪悪感は感じなかった。世の中を舐めてるクソガキに現実の厳しさを教えてやったまでだ。股を開けば男はみんな自分の言いなりになると思ったら大間違いだ。街を歩きながら、さっきの金をポケットから取り出し数えてみる。
「一、二、三、四、五…、十八と…。」
ポン引きが俺の手にしてる金を見て、馴れ馴れしく近付いてくる。
「おにーさん、これからどこかへ行く予定で?」
「うるせー、話しかけんな。」
「いい所ありますよ。」
「うるせーよ。向こう行けよ、ボケが…。」
「そんな寂しいこと言わないでさ。」
「失せろ。」
「チッ、このガキが…。」
引っ掛からないと見るや、ポン引きは捨て台詞を吐いてその場からいなくなった。これ以上、声を掛けられるのもうざいので金を財布にしまう。今日のとこは大人しくホテルに帰って寝るとするか。俺は真っ直ぐホテルに向かって歩いた。
ホテルに帰り、衣服を脱ぎ捨てる。もう一度シャワーを浴びてから、ベッドに腰掛け煙草を吸う。しばらくボーっとしていたが部屋が散らかっているので落ち着かない。脱ぎ捨てた衣服ぐらい片付けるか…。ズボンを持つと重い。携帯をポケットに入れっ放しだったな。ついでに充電でもしとくか…。ズボンのポケットに入れっ放しだった携帯を手に取ると、着信があったのに気付く。誰だろう。またうざい女連中か。履歴を見ると、お袋の実家からだった。珍しいこともあるもんだ。お袋と半年以上は連絡をとっていなかった。美千代が亡くなってすぐに、お袋の様態は悪くなり急遽入院した。検査の結果、癌だった。お袋には言わなかったけど自分で自分の体を分かっていたみたいだ。俺は出来る限り見舞いに行ったが、日々やつれていくお袋の姿を見るのはとても辛かった。だから、ここ半年の間は見舞いに行かなかった。その代わりに金を稼ぐようにした。入院費を稼いで早くお袋には良くなって欲しかった。ひょっとしてこの半年の内に回復に向かい、無事退院出来た知らせかもしれない。
「もしもし、光太郎だけど。」
「光ちゃんかい?」
「おばあちゃん…。一体どうしたんだい?」
「何かあったのかい?」
「光子が…、光子がね…。」
電話の相手はお袋方のおばあちゃんだった。おばあちゃんが電話してくるなんて初めてだったので、かなりビックリした。いきなり俺のお袋の名前を繰り返し言っている。何故かとても嫌な予感がした。
「今、家でしょ?すぐに行くから。だから落ち着いておばあちゃん。」
俺はすぐにホテルを飛び出して、お袋の実家へと向かう事にした。タクシーを捕まえ、おばあちゃんの元へと急がせた。
「落ち着け…。落ち着くんだ。常に最悪のケースを考えて行動しなきゃ。」
「は?何か言いましたか?」
タクシーの運転手が後ろを振り向く。考え事を自然と口にだしていたようだ。
「何でもない。運転手さん、頼むから急いで。」
「は、はい。」
九時にはマンションに着いた。さっきの電話の様子からすると、泉はプリプリしているだろうな…。恐る恐るドアを開けて中に入ると、泉と誰かの楽しそうな会話が聞こえてくる。男の声だ。誰が来てんだ、一体…。
「ただいま。」
声を掛けて慎重に中に入る。もし、泉が浮気をしていたら俺はどんな対応をすればいいんだ。ドアを少し開けて部屋の様子を覗き見ようとした瞬間、ドアが勝手に開きだした。
「わっ。」
「わっ、じゃないわよ。何よ、今日泊まるとか言っといて結局帰ってきたんだ?」
「兄貴、少しは泉さんの事、構ってやんなよ。」
声の主は弟の怜二だった。泉は俺を見て怒った表情で睨みつけてくる。
「何よ、泊まると言ったり、急に帰ってきたり…。言っとくけどね、私だって仕事してから隼人のご飯作ってるの。料理しているのに、いきなり泊るとか言われたら私だって頭来るわよ。最近、いつだって自分勝手で…。」
「まあまあ泉さん、落ち着いて。せっかく兄貴も帰ってきたんだしさ。でも良かったじゃん、泉さん。作っといたオムライス無駄にならないでさ。兄貴、泉さんはちゃんとご飯の用意していつ帰ってきてもいいようにしてたんだぜ。」
「ごめん…、俺が悪かったよ、泉。」
「もうちょっと一緒に住んでるんだから、少しは私の事を考えてくれてもいいんじゃないの?隼人、最近ちょっと酷いもん。」
「ああ、分かったよ。ごめんよ。反省してます。ところで何で怜二がここに?」
「いやー、嫌な話というか、噂聞いちゃったもんでね。」
「何の?」
俺ら兄弟の間に泉が仁王立ちで、会話を遮るように割って入ってくる。
「とりあえず隼人さー、ご飯食べちゃってよ。いつまで経っても片付かないからさ。」
テーブルの上にはオムライスとサラダがあった。もしかしたら帰ってくるかもしれないだろうと予想して、泉はちゃんと俺の分までご飯を用意してくれた。心にジーンとくるものがあった。オムライスを一口食べると、泉の愛情がいっぱい詰まっていた。一気に食べ終わり、泉にちゃんと心からお礼を言う。
「いつもいつもありがとう。俺、全然気が利かなかったよね…。もっと泉には感謝しなければいけないのに自分勝手だったよ。これから気を付けます。反省もしています。」
「何よ、急に…。変なの。」
泉が洗い物をしてる間、弟の怜二にさっきの話を聞いてみる事にした。
「怜二、嫌な噂って何だよ?」
「それがさー、ほんと聞かなきゃよかったって思うかもしれないけどさ。」
「何だよ、そこまで言い掛けといて。そこまで言ったらちゃんと話せよ。その為にわざわざここに来たんだろ?」
「ああ、そうだけど…。ほら、あいつの件なんだ。兄貴も大っ嫌いな…。」
そう言われても、すぐに思い浮かんでこない。俺が大っ嫌いな奴?
「大っ嫌い?最近そこまで俺が嫌いだって言う奴いたっけ?気のせいだよ。」
「何言ってんだよ。もうガキの頃を忘れたのかよ。」
すぐにピンと来るものがあった。右こめかみの傷が疼きだす。
「ひょっとして俺たちを生んだ馬鹿の事か?」
「ああ。」
「もう関係無いじゃん、全然。」
「もちろん関係は無い。だけどさ、兄貴…。よく聞いてくれよ。」
「早く言えよ。」
怜二はジッと俺を見てくる。まったく嫌な間を作りやがる…。
「もし、俺たちに妹がいたらどうする?」
「妹?何言ってんだよ。愛の事をおまえはもう忘れたのかよ。」
「愛の事じゃないよ。愛はとっくに亡くなってるだろ。別の妹がいたらって事だよ。」
「おまえ、何言ってんだよ。うちの親父は愛が生まれてすぐに事故で亡くなってるだろ。どうやったら愛のあとで妹が更にいるんだよ。だいたい…。」
自分で言ってて一つ嫌な事実に気付いてしまう。片方の親の遺伝子を受け継いでいるだけでも、ちゃんと兄弟だと言える。つまり家を俺が小四の時に出てったお袋が他の誰かとくっついて子供を生めば、俺たちの知らないところで弟なり、妹なりがいてもおかしくはない。考えてて吐き気を催してくる。
「そうだよ。実は出て行ったお袋に娘がいるらしいんだ。」
「何歳ぐらいなんだ?」
「どうだろね、俺も人に聞いただけの話だから。」
まさか俺と怜二に妹がいたなんて…。しかもこの世で一番憎い人間の遺伝子を受け継いで…。あの女はどこまで俺ら兄弟を苦しめれば気が済むのだろうか。いや、何も考えてないだけなのかもしれない。
「名前は?」
「だから俺も聞いた話だけだから、このぐらいの事しか知らないんだ。」
今まで存在すら知らなかった妹に非常に興味が出てきた。お袋は憎悪の対象だが、その子供だからといっても罪はまったくない。愛を失ってからずっと妹がいたらと考えていたような気がする。名前も何も知らない事だらけの半分だけ血の繋がった妹…。どうしても知りたい。妹の事を…。愛に出来なかった事まで、色々兄として振舞ってみたかった。その妹を知れば知るほど、心の中にある愛の件でポッカリと空いた穴が埋まっていくような感じがした。
「怜二…。」
「何?」
「俺、その妹の存在を知りたい。」
「知ったところでどうすんだよ。」
「分からない。ただ妹を見つけるっていうのが、俺にとって一つの区切りだと思うんだ。怜二は全然そういうのってないのか?」
「正直よく分からないな。愛が亡くなったのだって、もう十何年も前になるし…。」
怜二の言葉など、どうでもよかった。名も知らぬ妹の顔を想像してみたが、全然頭に浮かんでこない。途中で怜二が帰り、泉と二人で色々話していたが何の話題について話したのか、まるで覚えていなかった。
タクシーでお袋の実家に行き、おばあちゃんを乗っけて病院へと急ぐ。
「おばあちゃん、お袋に何があったんだい?ゆっくりでいいから話してみて。」
「医者から電話あってな、光子が危篤状態だって…。」
思った通りだったのでショックは最小限で済んだ。おばあちゃんは自分の娘の危篤状態に対し、焦点の合わない視線を下に向けてグッタリしていた。病院に着くと真っ先にタクシーを下り、医者にお袋の容態を問いただす。
「先生、坂巻です。うちのお袋の容態は?」
「残念ながら…。」
先生は首を横に静かに振った。その瞬間、何かが俺の中で壊れた音が聞こえた。俺が高校に入学する頃から、癌になってしまい入院していたお袋。誰にも看取られず、孤独にひっそりと亡くなってしまった。手術にも入院費にも莫大な金額が掛かる。おじいちゃんは亡くなり、残されたおばちゃん一人で払える金額ではない。俺が何としてでも、どうにかするしかなかった。だから女どもを騙してでも金を稼ぎ、送っていたのに…。もうこれで金を稼ぐ必要性がまったく無くなってしまったのだ。
外に出ると雨が降っていた。傘も差さずに俺は構わず歩いた。これで俺がしてきた事すべて無駄になった訳だ。美千代が去り、今度は俺をこの世に生んでくれたお袋が去っていった…。俺には何も残っていない。
思えば、お袋は何を楽しみに生きてきたのだろう。親父と結婚し、俺を生んだ。その時までが一番楽しい時期だったのかもしれない。俺が生まれて五年経ってから侵略者が家にやってきた。俺は両親と侵略者の三者が、入り乱れながら争う様子をガキながらジッと見てきた。難しい事は分からなかったが、それでもお袋が侵略者に負けて家を出て行った事ぐらいは分かっていた。俺がお袋の実家に美千代を連れて行った事があったが、侵略者の子供でもある美千代に対して、お袋はいい顔など出来る訳がなかったのだ。お袋は俺にだけ優しかった。
ロビーに行くと、おばあちゃんが放心状態で座っていた。無理も無い。親よりも子供の方が先に死んでしまったのだから。俺は横に腰掛け、朝までおばあちゃんの傍に黙って一緒に時間を過ごした。
さっきから携帯のバイブが鳴っていたが、どうでもよかった。もう金など貯める必要がなくなったのだ。部屋にある一千万以上の金…。俺には遣い道がない。いっその事パッと遣っちまうか。だがどうやって…。何だか疲れてきた。
俺に名前も知らない妹がいた。非常にショッキングな出来事だった。簡単にそれを知る方法と言えば、俺を生んだ奴に問いただせばいい。ただ、二度と関わり合いになりたくないという気持ちもある。
「隼人、明日も早いんでしょ?もう寝たら。」
「ああ。」
「さっきの怜二君の話が気になってるの?」
「そりゃー、気になるさ。今頃になって妹がいるなんて聞いて…。」
「愛ちゃんの事、まだずっと大事に想ってるもんね。」
「うん…、忘れろっていう方が無理だよ。もし今頃いたら可愛がっていただろうし、だから尚更、別に妹がいると聞いてそわそわ落ち着かなくなってる。多分、怜二も俺と似たような気持ちなんじゃないかな…。」
「隼人は愛ちゃんがいたらそれで満足でしょ?」
「そうだな…。絶対に叶わぬ想いだけどな。」
俺がそう言うと、泉は寂しそうな表情をしだした。
「どうしたんだ、泉?」
「ううん…、何でもない。」
「嘘つけ、じゃー何でそんな顔してんだよ。」
「私、もう寝るから。」
泉は立ちあがって俺の傍から離れだす。一体どうなってんだ。俺はあとを追いかけて泉の肩を掴む。
「おまえ、ちょっとおかしいぞ。」
振り向いた泉は顔を横に背ける。たちまち泉の頬を涙が伝い、泣いているのが分かる。何故泣いてるのか、俺にはまるで見当もつかない。両肩を掴んで泉と向かい合った。
「おい、何かあったのか?どうしたんだよ。」
「ごめん、今は私の事は放っておいて…。お願い。」
俺が肩から手を離すと、泉は寝室に消えていった。何でこうなるのか全然分からなかった。愛の事や新しい妹の話題がそんなに嫌だったのか。それもいまいち結びつかない。仕事先で嫌な事でもあったのだろうか。今日は俺がこれ以上気にしても仕方ない。明日にでもなれば、泉の機嫌も直ってるだろう。今日はソファの上で寝ればいいか…。
朝方までおばあちゃんと一緒に居てから、二日ぶりに家に戻る。目的は金庫の中の金を取りにきただけだった。朝の五時なので親父も侵略者もまだ寝ているようで、家の中はシーンと静まり返っている。自分の部屋に行き、金庫を開ける。目の前にある一万円札の束。全然何も感じやしない、使い道のない金。それでも急いで金をセカンドバッグに詰め込む。一千万といっても百万円の札束が十個あるだけなのだ。すぐに詰め込み終わると、一息入れて一服する。
「光太郎。何、コソコソやってんだい。」
いきなり声を掛けられたのでビックリした。ドアの方向を見ると、侵略者が立って俺を睨みつけていた。俺が気付かぬ内に背後に立って、一部始終を見ていたのだろうか。想像するだけでイライラしてくる。
「何だ、テメーは?勝手に人の部屋を覗いてんじゃねぇよ。」
「光太郎…。そんな大金を一体どうしたんだい。」
「オメーには関係ねぇんだよ。俺に気安く話掛けんじゃねぇ。」
俺は部屋から出ようとしてドアに向かうが、侵略者は両手で通路を塞いでいた。
「どけ。」
「その金はどうしたんだって聞いてんだよ。」
「俺がどうしようと、おまえには関係ねぇだろ。どけっ。」
侵略者は俺の金を見て、明らかに目の色が変わっていた。邪魔だったのでグーで殴ってやった。神経が尖って苛立っている。侵略者は床に倒れながらも俺を睨んでいた。
「よくも殴りやがったね。」
俺の拳は侵略者の顎にヒットして、足腰にダメージがきているみたいだ。俺の事を凄い形相で睨みつけ一生懸命立ち上がろうとしてるが、体がいう事を利かない様子だった。それでもその状態で廊下を這いながら、俺に近付こうとしている。普通、こんな状態になったら足腰がいう事を利くまでは、大人しくしてるもんだろ…。薄気味悪い光景だった。口から血を流し、足腰が利かないのに、それでも俺に向かってこようとしているのだ。本当におぞましい女だ。全身に鳥肌が立ち、恐怖を感じていた。
「うるせーよ、クソが。」
恐怖を振り払うように侵略者の顔面を蹴り上げる。
「くたばりやがれ。」
こいつが俺のお袋をこの家から追い出し、惨めに寂しく死んでいった。美千代がグッタリとなっている時、見捨てて知らん振りした。それなのにのうのうと、ここで暮しながらでかい態度をとっている。俺の家庭を壊し、侵略して…。明らかに意識を無くした侵略者をまだ殴りつけていた。
「光太郎、おまえ何、母さんに何やってんだ。」
いつの間にか親父まで起きて、俺に背後から覆い被さってきた。
「うるせぇよ、クソ親父が…。離れろよ。」
「お、親に向かってその口の利き方はなんだ。」
親父を振り払い、一定の距離を保つ。俺のお袋を捨て、この忌々しい侵略者を選んだクソ親父。半端野郎が俺を睨みつけていた。俺も憎しみを込めて睨み返す。どのくらいそうしてたのだろうか。しばらく親子同士の睨み合いが続いた。
「よくもやりやがったね…。」
侵略者の意識が戻り、俺と親父の間に割って入ってくる。口からの出血で顔中が真っ赤に染まっていた。
「しつこい奴だなぁ。またぶん殴るぞ。」
「やれるもんならやってみな。情けないよ。ほんと何でこんな子に育ったんだろね。私は一人の親として、光太郎に注意してんのに…。あなたもビシッと言ってやってよ。」
偉そうに話す侵略者を見て、俺の中で冷たい何かが静かに背中を這い上がってくる。親父が傍にいるから大丈夫だとでも思っているのだろうか。自分の事を棚に置いて、もくもまあここまで言えるもんだ。俺はこのクソ女を一生許さない。そしてそのクソ女をかばう親父も…。何であの時、お袋を今みたいにかばってやれなかったんだ。これじゃ亡くなったお袋があまりにも惨め過ぎる。
「おい、親父。知らないだろうし、もう関係ないかもしれないけど言っておく。俺を生んでくれたお袋が今日亡くなった…。我が母親ながら本当に惨めな死に方だったよ…。そこのクソ女。おまえは俺が生まれ育った家を堂々と偉そうに入ってきて、お袋を追い出した。全てを壊して台無しにした。そして親父…、あんたもな…。同罪だ。」
この家に居るのも今日が最後だ。もうこいつらの顔など見たくもない。だから言いたい事は全部言っておこう。
「み、光子が亡くなっただって?」
「おいおい…、お袋よりこの女とったあんたが今更そんな台詞吐くなよ。何言ったって、すべて自分の体裁の為のパフォーマンスにしか聞こえねぇんだよ。」
この世の中で唯一、血の繋がってる人間だった親父。それも今日で終わりだ。出来る限りの罵詈像音を浴びせてやる。
「いいか?父親であるおまえがだらしねぇから、こうなったんだよ。」
「光太郎。父親に向かって何て口の利き方を。」
「うるせぇよ。テメーはすっこんでろ。気安く俺の名前を呼ぶんじゃねぇよ。これは俺ら親子同士の話だ。血も繋がってもない無関係のおまえは黙ってろよ。」
俺の台詞に侵略者の表情は反応し、お得意の鬼の形相に切り替わる。これがこいつ本来の本性だ。俺は言うだけいうと、吸ってた煙草を侵略者に投げつけて家を飛び出した。
「あばよ。せいぜいクソ同士、仲良く暮せや。」
心残りは何も無い。十九年間住んだ家に向かって頭をペコリと下げて、別れの挨拶をする。さてと…、この一千万以上の金で今後どうするかな…。
朝四時に目覚ましが鳴る。昨日と同じように眠気を我慢して嫌々起きる。熱いシャワーを浴びながら目を覚まし、準備を着々と進める。時間があったので簡単なドレッシングとサラダを作って食べた。もちろん泉の分も作って、ラップをかけ冷蔵庫にサラダをしまっておく。結局、家を出る時も泉は起きてこなかった。変な感覚がしたが、昨日と同じ光景には変わりなかった。泉もこれから仕事なんだ。昨日、何故涙を流したのか聞きたかったが起こすのも可哀想だし、何より俺がそろそろ出ないと仕事に遅刻してしまう。
電車に乗って新宿へ向かう途中、高校生ぐらいのガキが電車内にもかかわらず、でかい声でベチャクチャと携帯で通話していた。明らかに他の乗客も迷惑そうな顔をしている。車内の人間全員の非難の視線を受けているのに、ガキは平然と話していた。俺も見ていてだんだん苛々してくる。席を立ち上がり、うるさいガキの横に腰掛ける。それでもガキは周りなど何も視界に入っていないかのように会話を続けていた。
「おい、うるせーよ。」
「でさー…、そーそー…。ギャハハッ。」
「聞いてんのかよ、おいっ。」
俺がガキの頭を引っ叩くと、一斉に注目されるのを肌で感じる。
「…ぃてーなぁー。」
俺はこの常識の無いガキの髪の毛を鷲摑みして、上から見下ろしながら脅してやる。
「おい、いいか?ここにいる誰もよ、テメーの話なんぞ聞く為にいるんじゃねーんだよ。さっきからうるせーから、とっとと電話切れや。」
「す、すいません…。」
脅しが効いたのか、そのガキは次の駅で逃げるようにして降りてしまった。一人残った俺はさすがにその場に居づらかったが、通勤途中なのでしょうがなかった。
鷺宮駅を過ぎた辺りで携帯のバイブが鳴る。誰からか確認すると坂巻光太郎と出ている。こんな早い時間どうしたんだろう。あいつの身に何かあったのだろうか。心配で電話に出たかったが、電車の中なので出る訳にもいかない。新宿に着いてから掛け直せばいいか。携帯を手に持ちながら電車が速く新宿に着かないかなと思っていると、対面に座るおばさんが俺にいきなり話し掛けてくる。
「ちょっと、お兄さん。」
「はい?」
「あのね、ここはそういう場所じゃないから。」
「は?」
このおばさんは一体何を俺に言いたいのだろうか。不思議そうに首を傾げると、おばさんは睨みを利かせてくる。
「だ・か・らー、ここはそういうの駄目だから。」
ひょっとして携帯の事を言ってるのだろうか…。でも俺は電話をしている訳でもない。ただ携帯を手に持っているだけだ。
「あのー…、ひょっとしてこれの事ですか?」
「そう、だからここはそういう場所じゃないから。」
周りの壁を見ても優先席付近では携帯の電源をお切り下さいと書いてあるが、俺が座っているのは電車の真ん中辺りだから問題はない。それに電話を手に持っているだけなのに、何故このおばさんはこんな事をしつこく何度も言ってくるのか理解出来なかった。
「あのー、すいません。お言葉ですが、自分は携帯を手に持ってるだけで通話してるわけじゃないんですよ。何が駄目なんですか?」
「あのね、ここは違うんだから。早くそれをしまいなさい。」
だんだん、このババアがムカついてきた。さっきから訳分からねえ事ばかり抜かしやがって…。軽く深呼吸をしてからババアの目を見てゆっくり話す。
「一ついいですか?」
「何?」
「ハッキリ言ってうるさいです。それに大きなお世話です。もし、気に入らないなら隣りの車両にでも行って下さい。」
ババアは顔を真っ赤にして立ち上がり、隣りの車両へと消えていった。新宿に通勤する電車の中だけで、二回もトラブルがあるなんて、今日はまだまだ何かありそうな予感がした。車内にいる連中はどんな目で俺の事を見ているのだろうか。電車は高田馬場を過ぎ、もうじき新宿に着く。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます