相変わらずの忙しい日常。いたずらに時間だけは過ぎていく。
ストレスだけは貯金されていった。
淡々と仕事をこなし、時間ができれば飲みに行く。
あれ以来原田さんとはいきつけのスナックや長谷部さんの店で行く度、顔を合わす機会が増えた。
会えば自然と一緒に話をするような間柄になるのに、そう時間は掛からなかった。
無精髭が伸びたような熊髭を生やした原田さんは、身長百六十五センチくらいなのに、体重は八十八キロもあった。
一見、見かけは強面だが、話せばこの人は優しい人だというのをすぐに理解できた。
「そういえば、龍一は何でプロレス辞めちゃったの?」
俺は、上着を脱いで左腕を突き出した。
「いいですか」
左肘を何度か曲げてみせる。過去、スパーリング中に壊した肘。歪に肘の骨が曲げる度に醜く突き出ていた。
「すごいなぁ~。肘、ぶっ壊しちゃったんだ?」
「ええ…。できればリングにしがみついていたかったですけどね」
当時を振り返ると、辛かった。
嫌な過去を思い出す度に左肘は疼く。
あの世界から去って二年の時が過ぎ、ようやく今のサービス業自体に愛着を持てるようになったのである。
何かにすがりついていないと、俺の心は常に不安定な状態であった。
多分この辛さは誰にも理解などできない。なのであまり他人にこの歪な肘を見せる事はなかった。
原田さんはジッと俺の肘を見つめただけで、何も言わなかった。
「龍一、頑張れよ」
言葉に出さないものの、表情というより目の奥でそう語っているような気がする。
俺はそれだけで充分だった。
気休めの台詞一つよりも、そうされたほうが楽だったのかもしれない。
ある日、ホテルの仕事帰りスナックに寄ると、例の同級生らが飲んでいた。
「おう、神威。今、終わり?」
俺の姿に気づき、声を掛けられる。
薄汚れた焦げ茶色の絨毯を眺めながら、ゆっくりと店内を歩く。ボトル棚の酒と酒の隙間には埃が積もり、掃除がいかに行き届いてないかが分かる。俺は職業柄、つい他店のチェックをしてしまう癖があった。
それでもそのずさんさが俺を気楽にさせ、肩の力を抜かしてくれていた。そう、ここでは変に気取る必要など何もないのだ。
奥のボックス席へ陣取る同級生らのところへ向かい、ゆっくりと腰を降ろす。
「神威さ~ん、これで良かったんですよね?」
「違う。それは眞露じゃねぇか」
スナックの女は、未だ俺のボトルを見間違える奴が多い。
グレンリベットも、焼酎の眞露も似たような緑色のボトルをしているだけで、あとはラベルの色から表記から中身まで、まったくの別物である。
いい加減覚えてくれ…。心の中でプリプリしながら、顔には出さないよう努めた。
「えっと、水割りでしたよね?」
「いや、ストレート……」
「は、はい。ごめんなさい」
そう言いつつ女はアイストングを持ち、ロックグラスに氷を入れようとした。
「おいおい、ストレート」
女の手がとまる。
「え、氷も駄目なんですか?」
溜め息が出そうなのを堪え、ゆっくり話した。
「いいかい? 飲み屋で働くならさ、ロックとストレートの違いぐらい覚えておこうよ」
「え、氷を入れるのがストレートですよね?」
「違う。それだとロック。ストレートはそのまま」
「あ、そうなんですかぁ~。でも神威さんみたいにそういう風に飲む人ってそんないないんですよ」
「あのさ、俺、ここに金払って飲みに来ている訳ね? 初めての客ならともかくさ、ここにかれこれ二年は通ってるよ」
「あはっ、ごめんなさい」
ペロッと舌を出しながら、酒を作り出す店の女。それで済むから飲み屋の女は楽でいい。ホテルで働く子ならそれじゃ済まない。まあ、ここにそれでも飲みに来る俺自身が一番の原因か…。嫌なら行かなければいいだけなのだ。
「まあまあ、神威も固い事を言うなよ。可哀相じゃん」
余計な同級生の助け舟。女に格好つけようとしてフォローしているつもりだが、何もこの子の為になっていない。
ステーキハウスに行ったとして、焼き方はレアを頼んだとする。それを店員がレアとはしっかり肉を焼くものだと勘違いしながらウェルダンで焼いてしまう。それを注意しているのに、まあまあと言っているようなものだ。
「当然の事を言っただけの話だ」
そう言いたかったが、場の雰囲気を考え黙っておく。
「まあまあ、楽しく飲みましょ。ね?」
自分のミスからそうなっているのに、この女は逞しい。
同じ接客業。ラウンジも酒を売る商売なので水商売だとして、何故ここまでサービスに違いが出るのだろうか? 俺らはサービスと技術を売りにしている。しかしこの店は女の色気だけである。こんな事を口に出すと女性から反感を買いそうだが、間違ってはいない。
真面目に働いている女性なら、きっと俺の考えを理解してくれる。そう思う。
「聞いてよ。今日、現場でさ……」
「俺も昔は良かったな。あの頃は……」
「学生の頃ならよ。あんな奴……」
他愛ない話を横で聞きながら、こいつらと一緒にいてもまったく楽しくない自分がいた。酒を飲んでいるのに陽気になれない。
これならカウンターで一人孤独に飲んでいるほうが楽でいい。
そんな状況下の中、原田さんが入ってきた。
それまで大はしゃぎしていた同級生らは、急に静かになる。何もしていないのに、何をそんな怯える必要我あるのだろうか? 下を向きながら大人しく酒を飲む同級生らの姿を見て、吹き出しそうになった。
この席から離れるのに、いいタイミングだな……。
「原田さ~ん、こんにちは~」
俺は立ち上がり、原田さんに声を掛けた。
「おう、龍一。来てたんだ」
仲間三人と共にカウンターへ座る原田さん。
「俺もそっち行っていいですか?」
「ああ、いいよ。今日は帰り、あそこ寄るの?」
「う~ん、原田さん、行きます?」
「そうだな。じゃあここ終わったら一緒に行くか」
「そうっすね」
同級生らはポカンと口を開けて、俺を眺めていた。
ホテルで働き出して三年が過ぎた。
労働時間はさらに酷くなる一方で、あまりの悪条件に辞める従業員も出ていた。
サービス業とは、本来チームワークが大事である。このラウンジにいた人数が、十五名だったとして、辞めたから新しく人をその分だけ補充しましただけで済まないところもある。
働くみんなが、ストレスをそれぞれ感じていた。
いつも夜が終わると、カウンターに座り、ホテルの酒を飲みながら、お疲れ会をやるのが恒例になっていたが、この日はいつもと様子が違った。
普段は真面目に仕事へ取り組む村井という部下がいた。その反動か、酒を飲み過ぎると一気に酒乱に変身する。以前、忘年会でこの村井は、物凄い豹変振りを見せた前例があったので、みんな飲む際彼にだけは気を使っていた。
それがこの日はどういう訳か、上司連中が面白がって酒をたくさん飲ませていた。ストレス発散を村井で解消しているようにしか見えない。
俺が感情を少し出すようになってから羽田は絡みづらくなり、代わりに真面目な村井へちょっかいを出す機会が多くなっていた。
「おい、村井君。ちょっと飲み過ぎだろ?」
心配で声を掛けてみた。
「らいろーぶれすよ……」
ほとんどろれつが回っていない。顔色も赤く目の瞳孔もおかしい。とめるのが少し遅かった事に気づく。
なったものはしょうがない。このまま潰れて寝てしまえばいいが…。俺はそう祈りつつ、他の従業員と会話を続けた。
「おい、貴様。何だ、その口の利き方は?」
上司の羽田が、いきなりでかい声を出す。どうやらすっかり酔っ払った村井に対して怒っているようだ。
「何れ、それが間違いないですかって、言ったらけれすよ」
「おまえよ」
「ろうして間違っているのれすかと言ったらけれす」
酔ったせいか、村井は言い方がくどくなっている。
「ちょっと来い」
「何れすか?」
村井の胸倉をつかみながら、羽田はしきりに粋がっていた。見ていて非常に見苦しい光景である。
カウンター席から村井を連れ出し、通路で殴っているような音が聞こえてきた。周りの上司は、それをニヤニヤしながら見ているだけ。
吐き気がしてくる。俺はとめようと立ち上がった。
「おい、やめとけ、神威」
「だって村井君、あんな酔ってるじゃないですか?」
「いいんだよ、口の利き方の知らないガキなんぞ」
偉そうに手で俺を制止しているつもりの阿呆な上司。こんな腐った職場。いい加減うんざりだった。
「一方的過ぎですよ。やり過ぎです」
制止した上司は、どこからくるのか余裕そうな笑みを浮かべながら言った。
「ああいうガキは少しぐらい教育が必要なんだよ」
俺は黙って上司の腕をどかし、村井と羽田のところへ向かう。通路で羽田が、一方的に殴っている姿が見えた。
「羽田さん、いい加減にしましょうよ。村井、まったく無抵抗じゃないですか」
俺に気がつき、動きがとまる羽田。カウンターで飲んでいた連中も、全員通路まで来た。
「何で、こんな殴られ方されなきゃいけないんすか?」
理不尽な暴力に村井は、興奮して涙を溜めている。その言葉に反応した上司が、村井に近づき顔面へ蹴りを入れた。黙ってその光景を見ていると、羽田まで加わりだし二人かがりで殴りだす。
もういいや……。
俺は羽田の首を後ろから捕まえると、壁に向かって叩きつけた。
「何だ、貴様!」
慌てて片方の上司は退く。俺は無視して村井に肩を貸した。
「大丈夫か、村井? あーあー…。こんな顔も腫れちゃって」
「神威、オメー」
村井を助け起こすと、近くの待合室の椅子に座らせた。
「勝手な事してんじゃねーぞ、神威」
優しく村井の頭を撫でると、腐った上司、いや、もう上司ではない…、腐った連中に鋭い眼光を飛ばした。
「おい、いい加減にせいよ」
「お、おい…。この間、おまえみたいな鍛え抜いた人間が暴力を振るうのは、ひ、卑怯だって支配人に言われたばかりだろ?」
「何、都合いい事ばかり抜かしてやがんだよ」
「……」
「じゃあおまえらがやった多人数で、酔った抵抗のできない部下を一方的にっていうのは、何て言うんだ?答えてみろよ?」
「……」
「卑怯が嫌で、平等がいいならよ。俺が村井の味方になるからよ。そうすりゃ、二対二でフェアだろうが?」
結局相手は何も言えず、身動き一つすらできなかった。俺の拳でこんな馬鹿共を殴って価値を下げてもしょうがないか。
俺は、村井に声を掛け、肩を貸して仮眠室へ向かった。
あそこで感情のままに殴ったら、師匠が悲しむだろうな。エレベータを待つ際、俺は渾身の力でホテルの壁を殴りつけた。白い壁が少しだけ俺の血で汚れていた。
次の日になって、俺は支配人に呼び出しを受けた。
都合よく向こうの言い分だけ聞き、自分が何とかしてやろうと思っているのだろう。
「神威君……」
「何でしょう?」
「来月になったらさ、宴会のほうへセクション移動してもらいたいんだよ」
すっかり昨夜の件で呼び出されたと思ったので、拍子抜けだ。だからといって宴会へ俺が移動するのは本意ではない。
「何故ですか?」
「当ホテルは、社員に様々なサービスを学んでほしいし、もうじき、新卒の新入社員が入ってくるだろ? 宴会が一番配属多くて、七十名は行くんだ。だから、新人の教育係も兼ねてだね……」
よくもまあ都合のいい台詞が、そうベラベラと出てくるものだ。羽田を始めとする連中が、支配人にある事ない事言ったのだろう。
「お断りします」
「えっ?」
「お断りします」
このホテルは好きになれないが、俺は酒を扱うバーテンダーという職種に愛着を感じていた。毎年新入社員は入ってくるが、一年経つと、残るのは僅か十分の一である。そんな連中の教育をするのはごめんだ。
「いやね、君の勤務態度が少し問題だという意見も出ているんだ」
本当はこっちが本音なんだろう。邪魔者は排除する。このホテルはそういった傾向があった。
「誰がそう私の事を言っているのですか?」
「だ、誰とかでなくね、そういった噂が私の耳にも入ってくるんだよ。まあ心機一転、頑張って新しいセクションでやってみるのもいいんじゃないか?」
「いえ、お断りします」
こんな馬鹿みたいな体制のホテルで働くのが、本当にどうでもよくなった。
「まあ、そう言わず少し考えてみてくれ、な?」
「嫌です」
「神威君……」
支配人は懇願するような表情を見せたが、そんな顔をされても嫌なものは嫌だ。
「今月末までですか。分かりました。それでもし、宴会へ移動しろというなら辞めさせていただきます」
「お、おい……」
「失礼します」
呆気にとられる支配人。俺は気にせず背を向けた。
支配人室を出ると、幾分スッキリしていた。腐った奴がここは多過ぎる。俺の居場所を作ろうと頑張っていたが、そろそろ潮時かもしれない。
この日、酒をたらふく飲みたい気分だった。
いつものスナックへ行き、グレンリベットを必要以上に飲んだ。
ヤケ酒のせいか、いつもより酔いの回りが早い。
「おい、今晩暇か?」
「え、何? どうしたの、神威さん」
「店終わったら俺に付き合えよ」
「え~、無理だよ。今日、予定あるもん」
目の前についた女を口説きだしたが、うまくかわされた。
物事がうまくいかない時は、何をしても駄目なものである。俺のプロレスに掛けた想いですらそうだ。あれだけリングの上で戦っていたい。そう思っていた夢は、見るも無残に打ち砕かれてしまった。
やるせない気分でいっぱいだ。
プロレスが駄目になった瞬間、本気で自殺を考えた事がある。
あれだけたくさんの人に応援され、期待され、そしてそれを裏切ってしまったという思いが強かった。生きていちゃいけないとさえ思った。
首を吊って死のうか……。
手首を切って死のうか……。
飛び降り自殺にするか……。
どんな死に方が楽だろう。ずっと考えたが死について思い留まる自分がいた。心の奥底で、誰かにとめてほしいという願いがあったのも事実である。
しかしこれ以上、生き恥をさらしてどうなる……。
死ねば、すべてが解決するのだろうか?
自問自答の日々。
誰からの電話も出ず、ただひたすら自分の部屋に籠もる毎日。
一番仲の良かった先輩は心配で会社を休み、俺の部屋に黙って一週間ずっと一緒にいてくれた。
何を話した訳でもない。
ただ、先輩はひと言だけ静かに言った。
「何があっても生きてくれ。おまえは生きなきゃ駄目だ」
思い切り泣いてしまった。
この言葉があったからこそ、俺は未だに生きている。次の目的もなく居場所もなく、ただ彷徨い続けながらもかろうじて生きていた。
あの頃に比べればこんなホテルでの事、大した問題ではない。しかし憂鬱な気分にはなってしまう。
今まで好意的に支えてくれた人たちの為にも、俺は歯を食い縛って生き抜かねばいかない。でも、どう生きたらいいのか…。未だ方法が分からない。
散々悩んだ。
俺が抜け殻状態のまま生きるという事に、意味合いを持たす事ができない。
「来月になったらさ、宴会のほうへセクション移動してもらいたいんだよ」
支配人の台詞が頭をよぎった。
ホテルのセクション移動を拒否したのは、単なる自我からである。こんなちんけなプライドを持つ俺。過去の幻影にいつまでしがみついて生きているのだろう。そこまでして自我を押し通す必要があったのか?
まあいい。時間が経てば、どうにかなるはずなのだから……。
月末までと割り切りがむしゃらに働こう。それだけをシンプルに考えるようにした。
今日のグレンリベットは、いまいちおいしく感じない。この店を紹介した同級生の岩崎は、うまそうにこの酒を飲んでいたっけ。あいつ、まだ新宿で裏稼業をやっているのかな。久しぶりに連絡を取ってみるか……。
「おす、龍一」
カウンターの隅でひっそり孤独に飲む俺に、原田さんが声を掛けてくる。
「何だよ、元気ねーな」
これまでのホテルでの経緯を話した。原田さんにしてみれば、ただの愚痴を聞いているだけに過ぎない。それでも俺は内部の不満を一気にぶちまけた。
黙って相槌を打ちながら、俺の話を聞いてくれる原田さん。それだけで心はかなりスッキリした。
「龍一、これから長谷部さんのところ寄るか?」
この日休みだったせいもあり、原田さんは朝の七時まで酒を一緒に付き合ってくれた。
職場で俺がホテルを辞めるという噂は、あっという間に広まっていた。
同じセクションで働く北野美加という女の子は、その噂を聞いて俺に心配そうに尋ねてきた。
「神威さん、ここ、辞めるって本当ですか?」
「う~ん、このラウンジから移動ってなるならね」
「そんな~」
「しょうがないよ。俺は酒を作っているのが好きなんだ」
「私、入ってから神威さんに丁寧に色々教えてもらったり、お世話になったり」
「しょうがないよ。バーテンダーといっても、しょせんサラリーマンなんだから」
部下の村井まで話に加わってきた。
「俺、神威さんが辞めるなんて嫌ですよ。納得いきません」
「おいおい…。まだ、月末まで一週間ほどあるだろ。大袈裟な……」
こんな自分を慕ってくれる人間が数名でもいたという事が、素直に嬉しかった。誰かに必要とされるというのはいいものだ。
「思い留まりましょうよ、神威さん」
「気持ちは嬉しいけど、難しいよ」
内心もっととめてほしいと願っている自分がいた。言っている事と矛盾しているが、俺はこんなホテルでも、ちょっとした自分の居場所を作っていたのかもしれない。
「神威さん、大丈夫ですか?」
「ん、何が?」
北野さんが心配そうな表情で、俺の顔を覗き込んだ。女性独特のほのかでいい匂いがする。同じ職場という事もあって今まで意識していなかった分、少しドキッとした。
「顔色、悪いですよ。体調おかしくしたんじゃないですか?」
朝まで酒を飲んでいたせいもあるだろう。確かに疲れは感じていた。
正直、今の俺は酒で逃げているだけである。
「最近、神威さんって飲んでばかりいるでしょう?」
「……」
「あまり体に良くないですよ」
理屈では分かっている。飲み過ぎで、あれだけ鍛えた鋼のような体は、どんどん痩せ細り衰えていくばかりなのを……。
「神威さん、大丈夫なんですか?」
「いいよ、俺の問題だ。ほっといてくれ……」
イライラしていた。普通なら苛立つところじゃない。彼女の言っている事が的を射ているだけに、余計苛立ちを隠せない。
悲しそうな北野さんの表情を見ていると辛かったので、俺はその場から離れる事にした。
「神威さん」
従業員用の通路を歩いていると背後から声を掛けられる。村井だった。あとを追い駆けて来たのだ。
「何だよ」
「先日俺が酔っていた時のお礼も、まだ言ってませんでした」
「何の事? お礼をされるような事なんて、俺はしてないよ」
「そんな事ないです。俺と同期の奴からあの時の事、全部聞いたんです」
「……」
真剣な眼差しの村井。
「ありがとうございました!」
「礼を言われる筋合いの事じゃない」
「何か俺で役に立てる事あったら、何でも言って下さい」
こんないい連中と離れなきゃいけないのが辛かった。だが俺にはもうじき居場所がなくなるのだ。俺と変に仲良くしている村井があとで酷い仕打ちを受けたり、苛めにあったりするのが一番嫌だった。
「ありがとう……。でも、俺とあまり話すな。おまえまで変な目で見られるぞ」
「そんな事ないですよ」
「そんな事あるだろう! 気持ちだけで充分だ」
それだけ言うと、俺は村井から離れた。
村井にしろ、北野さんにしろ、俺と接触しようとしているのが分かる。
今日は従業員同士話せる時間すらとれないぐらい仕事が忙しかった。逆に気まずくなるので、俺にはこの忙しさがありがたい。
夜中の二時になり、ラウンジを片付けランチの準備も終える。
たまたま村井も北野さんも、今日は泊まり要員だったので残っていた。
「今日は忙しかったですね」
「ああ」
いつもラウンジのカウンターに座り、お疲れ代わりに酒を飲むのだが、俺自身この場に居づらかった。
先に仮眠室に降りて、とっとと眠ろう。さりげなく行こうとすると、村井にとめられる。
「駄目ですよ、神威さん。お疲れは恒例でしょ?」
「そうですよ。神威さん、来ないとみんなお酒飲めませんよ」
北野さんまでやってきた。こうなると形式だけでも付き合わないと駄目だろう。仕方がない。幸い村井を理不尽に殴った上司と羽田がいないのが救いである。
「何、飲みます、神威さん?」
「あ、じゃあ、グレンリベットで……」
「いつもそうですよね」
「仕方ないだろ、これが一番好きなんだから」
「はいはい、どうぞ」
俺に気を配る村井。北野さんも会話を一生懸命俺に振っている。他の従業員らは俺がいると、話しづらそうにしていた。
一部の上司と反目になっているのだ。みんなできれば俺と関わりたくないだろう。
ショットグラスに注がれたグレンリベット十二年を一気に飲み干すと、ゆっくり立ち上がった。
「ちょっと今日は疲れてるから、先に寝かせてもらいますね」
「あ、お疲れさま」
「お疲れです」
「お疲れ……」
内心ホッとしているだろう従業員たち。村井と北野さんだけは、心配そうに見つめている。
「じゃ、お先に……」
それだけ言うと、俺は仮眠室へ向かった。
明日は朝食のヘルプがないので、朝十時に行けばいい。
時間的に余裕あったので、仮眠室横にある浴場で、湯船にタップリとお湯を溜めて浸かった。熱いお湯に浸かっていると、全身の疲れが抜けていくようだ。気持ちいい。
浴室内は、五名ほど入れるようになっていたので、湯船も幾分広く作られている。泊まった時、この広い湯船に浸かるのは密かな楽しみでもあった。
しかしもうじきこの湯船とも、おさらばなんだ。そう考えると少し寂しいものがある。数年の月日が愛着のある場所に変わりつつあったのだ。
奥で物音がする。
誰か他セクションの人間が、風呂でも入りに来たのかな? 特に気にとめずにいると、入ってきたのは村井だった。
「神威さん」
「何だよ。まだ、おまえはゆっくり飲んでいればよかったじゃん」
「いや、俺も少し考えてまして……」
「何を?」
深刻な表情を見せる村井。何か思いつめる事でもあるのだろうか。
「俺も、ここのホテル辞めようかなって考えているんです」
「おいおい、おまえまで俺に付き合わなくても」
「いえ…、そうじゃありません。もう嫌気さしたんですよ、こんなホテル」
先日の理不尽な上司らの暴力。腐った上下関係。気持ちは痛いほど分かった。しかし俺は彼にどうしてやる事もできやしない。余計な事など何も言えなかった。
「辞めてどうするの?」
「まだ、何もこの先は考えていません……」
村井も俺と同じなのだ。職場で自分の居場所をなくし、彷徨い続けているのだ。
「もうちょっと考えてみたら?」
「あの人たちとは、いまいちうまくやっていけないです」
確かにそうだろう。羽田などは、ここのホテルに長くいるというだけの腐りきった人間である。下の人間に対し面白いからというだけで、平気で人の大事な領域へ踏み込んでくる奴だ。
人間誰でも、踏み込まれたくない領域がある。人によってそれはさまざまだが、大事にしている部分は誰だってあるのだ。からかうと楽しい…。そんなふざけた理由で面白半分に土足で来られると、誰だって怒るだろう。
そのポイントが、俺にとってはプロレスだというだけの話である。
湯船の中、村井と話し込んでいたのですっかりのぼせたみたいだ。
仮眠室へ向かうと、俺は空調のダクトがそのまま剥き出しになって空気が出ている二段ベッドの上へ行く。
ざらついた空気の仮眠室。十畳ぐらいの薄暗い部屋に二段ベッドが六組。豪華な内装のホテルの中で、従業員用の仮眠室がこんなちんけなものだとは、誰も想像しないだろう。
体中が風呂上りで暑かったので、上半身裸のまま俺はダクトの空気が吹き出すところへ顔を向けて寝転んだ。
強烈な空中の風は、俺の顔を強めに撫でてくれる。あまりの気持ち良さにあっという間に寝てしまった。
この日、夢を見た。
寝て目を覚ますと、ツーンとした嫌な臭い。いつもの如く、無理やり食べ物を胃に詰め込んで寝たので、そのまま寝ゲロをしてしまったようだ。
元々、体重が六十五キロしかなかった俺は、とにかく必死に食べた。
動けなくなるぐらい胃に詰め込み、喉を通らない時は、二リットルのスポーツドリンクを一気飲みして押し込んだ。
走るのは大嫌いだったが、無理やりダッシュを織り交ぜながら走り、トレーニングウェアは二枚重ね着をしていたので、全身サウナのように汗がほとばしる。
毎日、十キロは走った。折り返し地点で、丹念にストレッチをし、腕立て、腹筋、スクワットを各三百回ずつこなす。大木目掛けて、右ひじを叩き込む。肘が血だらけでズタズタになろうとも、気にせず叩きつける。
帰り道、ホームセンターへ寄り、十五キロの鉄アレイを二つ買う。それを振りながら家まで帰った。家に着く頃は、いつも両腕がダランとだらしなく垂れ下がっている。
帰ってベンチプレスを始め、回数など気にせず、とにかく上下運動を繰り返す。終わるのは、腕が上がらなくなってから…。バーベルの重みが胸の上に心地よく感じる。窓から吹き付ける一陣の風が、俺の胸を優しく撫でると、俺って幸せなんだなと感じる事ができた。
ブリッチをしながら、額だけでなく鼻まで地面につける。その体勢で、足と頭の距離をさらに縮めていく。汗が床に、どんどん水溜りを作っていった。
一日で多い時は体重が六キロ落ちてしまった。だから最低でも俺は六キロ分以上、食べないと体を大きくできなかった。
こんな生活を一年続け、ようやく五キロ増えて七十キロ。
二年目からは体質が変わったのか、一気に八十五キロまでいった。
全身の神経は研ぎ澄まされ、日々、体の細部まで渡り細胞が喜ぶのが分かる。
トイレへ行けば、全身疲労から血尿と呼ばれる血の小便を流し、それでも体を大きくする事だけ考えて生きた。
現役時代の夢だった。
不思議とリアルで、ハッキリと覚えていた。
「神威さん…。神威さん……」
何度か肩を揺さぶられ、目を開ける。目の前には、村井の顔があった。
「ん……」
「もう、九時半ですよ」
「あ、もうそんな時間か……」
寝起きなので、声がいつもよりガラガラだ。
仮眠室を出ると、ホテルのユニフォームへ着替える。十時までにはラウンジへ行かないと遅刻である。髪をすべて上にあげ、オールバック風に整えると、エレベータへ向かう。
歩きながら、喉にちょっとした違和感を覚えていた。
イタリアンブッフェの準備を済ませ、時間になると、ホールを開放する。
壮大な景色を眺めながら、好きな料理を食べる当ラウンジのブッフェは、なかなか好評で忙しかった。
中には海外から旅行中の集団客も多く、この日はアメリカから来た人たちがいた。
料理が羅列する中、マグロのカルパッチョという料理を不思議そうに見ているアメリカ人女性。近くに上司の羽田が通り掛かると、声を掛けていた。
「エクスキューズミー…。ワット、フィッシュ?」
これは何の魚なんだと聞いているのだろう。まるで英語のできない羽田は、困った表情で周りを見渡している。みんな料理を運んだりテーブルの上を片付けたりと忙しく、誰も羽田の視線には気づかない。
羽田は黙って料理を見つめているのが精一杯なようである。
俺は客にパスタをサーバーで綺麗にまとめ盛り付けながら横目でその様子を眺め、心の中でニヤニヤしていた。
「ヘィ、ワット、フィッシュ?」
「ん~……」
「ワィ?」
「マ、マグロ……」
「ワット?」
「ジャパニーズ、マグロ!」
「ワット?」
「マグロ!ジャパニーズ、マグロ!」
「オォ~、マグロ~?」
「イエス、マグロ!」
物凄い力技である。素直にツナとか言えばいいものをこの馬鹿が…。アメリカ人女性は、渋々と納得したような顔でその場から席に戻った。
三時になりようやく客足も途絶え、後片付けを始める。
羽田の顔を見ると、先ほどの「マ、マグロ……」を思い出して吹き出しそうになるので、なるべく見ないように心掛けた。
フルーツの乗ったトレーを運んでいる最中だった。急に立ち眩みのようなものを感じ、その状態で通路の壁に寄り掛かる。
おかしい……。
体が変だ。
気のせいか熱っぽく、非常にだるかった。
目覚めた時のガラガラ声は直るどころか、よりいっそう酷くなっている。
ずっと健康にやってきたので、体の異変に気づくのが鈍っていたようだ。
自分が弱っているところを見せたくない。それだけを考え、非常に振舞った。これを片付ければ、五時まで休憩できるんだ。そう言い聞かせ、体に鞭を打つ。