岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

1 新宿プレリュード

2019年07月14日 11時57分00秒 | 新宿プレリュード


新宿クレッシェンド第三弾 新宿プレリュード



 自分の居場所を失い、必死にもがきながらいつも彷徨っていた。
 生きている価値などない。何度もそう思い、その度自殺しようと考えてしまう。
 細部まで渡って鍛え上げたこの体。今では何の意味さえない。一般人とは明らかに違う強さ、そして肉体を求め、ほとんどの時間を鍛錬に捧げた。
 今じゃ誰もが俺の体を見ると、ビックリした目で見る。
 最初「レスラーになる」と言った時、百人中百人に笑われた。当たり前だ。俺の体重は六十五キロしかなかったのだから……。
 悔しかった。今に見てやがれ。常にそう思いながらトレーニングに没頭した。
 トレーニングのし過ぎで血尿をした事もあった。無理に食べ物を詰め込んで、起きると寝ゲロをしていた事だってある。腕立て伏せや腹筋の回数なんて数えた事なんてない。何回やったとかじゃなく、ぶっ倒れるまでやり抜くほうが辛かった。
 強くなりたい……。
 それだけの為に俺は生きた。女も抱かず、遊びもせず、ただひたすらストイックに体を鍛える日々。あの頃間違いなく俺は、人生そのものを賭けて望んでいた。
 左肘を故障するまでは……。
 自らが招いた行為でとはいえあの瞬間を思い出すと、未だ後悔してもしきれない。
 目的を失った俺は、自分が生きている事自体罪であると感じる。どんな風に死ねたら楽だろうか? 一人になると、ついそんな事ばかり考えていた。
 しかし楽にと考えている時点で、本当に死ぬ気など何もないのだ。真に嫌気が差したなら、とっくに命を絶っていたはずである。結局のところ、俺は臆病なだけだ。死ぬ勇気さえ持ち合わせていない。
 生きていれば寝るし、腹だって減る。何度も自殺を考えていたくせに、食事だけは取っている俺。しょせん自殺というキーワードを頭の中で思い浮かべ、現実逃避しているだけに過ぎないのだ。
 それでもこんな俺に同情してくれる人は、少数だがいた。
「何があっても生きてくれ。おまえは生きなきゃ駄目だ」
 そう言いながら俺を励ましてくれた先輩。涙が止まらなかった。俺を必要としてくれる人が一人でもいたという現実。薄暗いジメジメした空間にひと筋の光が差し込んだように思えた。
 このまま塞ぎ込んでいるだけでは、何一つ変わらない。俺は死ぬ事さえできない。なら醜く足掻いてでも生きていくしかないのだ。
 プロレスラーになりたかった。その為にすべてを犠牲にして費やした。プロテストも受かり、順調にいっていた。それが自分のミスで、おじゃんにしてしまっただけの事である。
 世の中自分の思い通りになど、なかなか生きられない。俺は生きるという事を選択する事で、これまでの事を乗り越えていくしかないのだ。
 さて、それではどう生きていけばいい? これからの事を考えられるぐらい余裕ができた時、知り合いからタイミングよくホテルの仕事の話が来た。


 それから数年が過ぎ、俺は浅草ビューホテルのラウンジで、バーテンダーをやっていた。
 メインで働く場所は最上階のラウンジ『ベルヴェデール』だったが、ホテル内は人手が足りなく、各レストランのサービスのヘルプも同時にこなさなくてはいけない状況である。
 和食レストランの場合、朝が早いので五時には行かなくてはならない。ラウンジの終了時間が夜中の十二時。そのあと、ランチの準備などしてから終わりなので、本当に終了する時間帯は二時を回っていた。なので和食レストランの朝食へヘルプに行くという事は、睡眠時間がほとんどとれないという事である。
 和食を済ませると、次は自分のラウンジへ戻ってイタリアンブッフェ。
 それが終わると、本来五時ぐらいまで空き時間ができるのだが、たまにフレンチや中華からも、ヘルプのお願いが来たりする。
 酷い時は、婚礼のほうでシャンパンタワーあるから来てほしいというのもある。
 そうなると朝の五時から夜中の二時までぶっ通しになるので、体がいくつあっても足りないものだ。
 しかし本業はラウンジなので、ここでのサービスが俺にとって一番の重要であった。
 目の前に座り、俺の一挙一動をジッと眺める客相手に笑顔を絶やさず、魔法を唱えるかのようにカクテルを作らねばならない。
 ボトルを取る仕種一つとっても最善の気を使い、シェーカーに材料を入れていく。
 シェーカーを持つ際、出来る限り指の当たる面積を少なくしながら持ち、リズミカルに小気味よく振る。八の字を描きながら、中で氷が滑らかに回るようイメージし、シェイクしてこそカクテルはおいしくできあがる。
 手早く緩やかに酒と氷を扱ってこそ、バーテンダーである。
 あとは客への気配りと話術。
 ご褒美は、「おいしい!」と顔をほころばせる客の笑顔だ。
 こんな生活を毎日送っていると、一ヶ月の仕事時間は四百時間を超えたりもする。
 細長いホテルという箱の中に、働く人間だけで二百人以上いるのだ。
 ストレスだって当然溜まる。
 だから俺はスナックへ年がら年中通い、憂さ晴らしをしていた。

 地元の川越駅に着くと家の方角とは逆の方向へ歩き出す。行き先はどこにでもありそうな飲み屋街。その中にある一軒の寂れたスナックへ通う俺。
 初めて連れていってくれたのは小学時代からの同級生である岩崎靖史。彼は新宿歌舞伎町で裏稼業をして、そこそこいい暮らしをしているようだ。数年ぶりに地元で偶然再会し、たまたま寄ったのがこの店という訳である。スナックという場所が初めてだった俺は、一気にハマってしまった。それ以来、すっかり常連となっている。
 ここで飲んでいると、他の同級生と会う事も珍しくなかったが、基本的に酒は一人で飲むのが好きだった。まだ消化しきれていない過去の事をあれこれ聞かれるのが嫌だったのかもしれない。
 カウンター席へ座り、スコッチウイスキーのシングルモルトであるグレンリベット十二年を黙々と飲む。酔いが回ると店の女に愚痴をこぼす出す。内容はほとんどホテルでの愚痴話だった。
「神威さんって昔、レスラーだったんでしょ?」
 誰から聞いたのか、店で働く女が俺に尋ねてくる。
 昔、プロレスラーを目指していた俺は、左肘の故障により選手生活を終えた。
「レスラーというか、練習生だっただけだ……」
「だから体が大きいんだね」
「馬鹿言え、これでもかなり小さくなったよ」
 九十六キロあった体重は忙しい毎日で七十五キロまで下がり、見る影もない。汗まみれになって必死に鍛えていたあの頃が、とても懐かしく思えた。
「あ、いらっしゃいませ~」
 客が入ってきたようだ。女の視線が入り口のほうへ向く。
 レスラーからバーテンダーへ。思えばまったく違う世界へ飛び込んだものである。
 強さだけを目指したあの頃。それがいきなりなくなる現実と虚無感。
 今はサービス業という職種へ生きる為、すがりついているだけに過ぎない。
 本音を言えば、リングの上でずっと生きたかった……。
「よっ、神威」
 背後から肩を叩かれる。振り返ると地元の同級生たちだった。
「今、ホテルの帰り?」
「ああ」
「大変だな~。泊まりも結構あるんだろ?」
「そうだな…。一回行くと二日泊まって帰ってくるという感じかな」
「俺じゃ真似できねえな」
 確かにサービス業といっても、ホテルの世界は少し特殊なのかもしれない。
「そんなところで一人寂しく飲んでないで、俺たちと一緒に飲もうよ」
 こうして俺は、ボックス席へと移る事になった。
 同級生たちが、俺の知らない話で勝手に盛り上がりだしたので、自然と会話から外れていく。黙って酒を飲みながら、先日の嫌な出来事を思い出していた。

 ある日俺の働く『ベルヴェデール』の営業時間外に、結婚式の二次会の予約が入った。
 従業員たちはみんな不平不満を言っていたが、予約を受けたのだからグチグチ言ってもどうにもならない。
 イタリアンブッフェのランチが終わると、早速この日は予約の準備に取り掛かる。
 二次会に参加した客らは、最上階にある当ラウンジの見晴らしのいい素晴らしい景色を見て騒ぎ、大いに盛り上がっていた。
 確かに俺たちにとっては日常がここなので見慣れた風景かもしれない。しかし客にしてみれば、新鮮で嬉しいものなのだ。
 新婚夫婦は来てくれた来客を見て、幸せそうに顔をほころばせる。百席あるラウンジ内は、それ以上の招待客で賑わっていた。店内中央に設置してあるステージは、通常ならホテルで契約し滞在している外国人歌手の唄う場所であったが、この時ばかりは新郎新婦が陣取っている。
 いつも静かでゆったりとした雰囲気に慣れ過ぎているせいか、二次会の盛り上がりは少し異様に感じた。
 新郎が大学時代、テコンドウのサークルに入っていたらしく、サークルメンバーが胴着に着替えて演舞を披露していた。
 ますます盛り上がるラウンジ内。
 どこから用意したのか知らないが、ネリチャギ(脳天踵落とし)という踵を使って蹴る技でレンガを二つに折る曲芸をやりながら、場内はどんどんヒートアップしていた。
 飽きれながら店内の様子を見ている俺の近くに、上司の羽田が近づいてくる。
 俺の顔を見てニヤニヤと、いやらしい笑みを浮かべていた。

 テコンドウのサークルに所属していた新郎の仲間が、試技でレンガを割る曲芸を披露している時だった。
「ねえ、プロレスじゃ、レンガ割りできないでしょ?」
 上司の羽田が意地悪そうに聞いてきた。
「どうでしょうね。やった事はないですけど、やろうと思えばできるんじゃないですか」
 そんな俺を鼻で笑うと、羽田は奥の厨房へ行ってしまう。嫌な感じだ。
 大騒ぎの中二次会が終わり、五時からの通常営業準備に至急取り掛かる。
 あらかた準備が終わった時、羽田がみんなに聞こえるようにワザと大声で話し掛けてきた。
「やっぱさ、考えてみたけどプロレスじゃ、レンガ割りできないでしょ?」
 さすがにムッとなる俺。いくら過去の事とはいえ、自分のしてきた事を笑われるのは屈辱である。
「レンガぐらい割れますよ」
 俺は少しムキになっていた。
「ほんとに?」
「レンガあればやりましょうか?」
「でも、プロレスだよ?」
 ワザと挑発する羽田。黙らせるにはレンガを目の前で割ってみせるしかないだろう。
「レンガあります? あれば割りますよ。それなら納得いくんでしょう?」
「本当にプロレスで割れるのかなぁ~?」
 他の従業員連中の吹き出す声が聞こえる。こいつら何がそんなおかしいんだ? 非常に耳障りだった。
「おい、村井。さっきのレンガ何個か余ってないか? あったら持ってきてくれ」
 近くにいた部下の村井へ俺は命令した。
 厚さ十センチ以上のレンガ。先ほどのテコンドウの連中は、足の踵の部分で割っていた。それほどビックリするような試技でもない。
 プロレスを軽く見ている上司の羽田をビビらせたかった。
「羽田さん…。いいっすか? さっきの連中が踵でなら、俺は頭突きで割ってみせますよ」
「お、おい、神威」
 遠くでニヤニヤしていたマネージャーが、慌てて駆け寄ってきた。
「何でしょう?」
「おまえ、怪我するぞ」
「こんなんじゃしませんよ」
 もちろんレンガ割りなどした事はない。しかしここまで挑発されたら、やらないと気が済まなかった。
 二つレンガを持って距離を置いて並べ、その上にレンガを乗せる。腕立てのような姿勢をとり、俺は頭突きをレンガにぶち込んだ。
「うぉっ!」
「すげー」
 割れたかどうか確認する前に、周りの声で理解できた。
 内心ホッとする。見事レンガは真っ二つに割れていた。割れなかったらどうしようかと冷や冷やものだった。
「レンガ割りはテコンドウと互角かもしれないけど、実際にやりあったらテコンドウのほうがプロレスより強いでしょ?」
 完全にからかっている羽田。はなっから俺を馬鹿にして楽しんでいるだけなのだ。何が面白いのかそのくだらない台詞に釣られ、笑い出す従業員までいた。
 目つきが鋭くなってくるのが自分でも分かる。この馬鹿を殴り倒したかった。
「さっきの連中をぶちのめせばいいんですか? 羽田さんの命令という事で……」
「ば、馬鹿、そんな事、駄目に決まってんだろ」
「じゃあ、くだらねえ事を抜かしてるんじゃねえ!」
 そう素直に自分の思いを言いたかったが、あえて我慢した。しかし神経は高ぶっている。
「羽田さん…。レンガ二つ一気に割ればいいんすか?」
「やめときなよ、テコンドウならできるかもしれないけど……」
 性格の腐った野郎だ…。俺は無言でレンガを二つ重ね、頭突きを思い切りぶち込んだ。額に痛みが走ったが、レンガは二つとも無事割れてくれた。
「キャッ、神威さん、血が……」
 割れた時の破片が額に刺さったのだろう。俺はトイレに行き鏡を覗き込んだ。確かに血が滲んでいる。だから何だ?
「こんなもんで騒いでんじゃねえ、クソ共が!」
 俺はトイレで独り言を言いながら羽田のビックリした表情を思い出し、静かに笑った。

 静かにグレンリベットの入ったグラスを置く。
 今、思い出しても後味の悪い出来事だった。
 血の小便を何度も流しながら、鍛えたこの体。一般の素人と一緒にするなという思いは今だってある。
 しかし今じゃ、酒でどんどん体力が落ちていくだけか……。
 酔いもいい感じで回ってきた時、同級生の一人が話し掛けてきた。
「なあ、今さ…。あそこのカウンターにいる客いるじゃん」
 あとから入ってきた常連客の集団を指して、同級生は言った。
「神威もプロレスに入って、少しは強くなったのかもしれないけど、あの集団には手を出さないほうがいいよ」
 別にスナックでたまたま居合わせただけの常連同士なのだから、手を出すも出さないもない。しかし俺を軽く見ているような発言が気に障った。
「何を抜かしてんだよ、おまえ…。特にこっちから絡むとかはないけどさ。何でわざわざそんな卑屈にならなきゃいけねえんだよ?」
「あいつらさ、結構数のある集団か何かでさ。手を出すとヤバいんだよ」
「俺から喧嘩を売るつもりはないけど、数でビビるような鍛え方はしてない」
「いくら神威が強いって言ってもよ……」
 イライラが増した。まったく情けない同級生を持ったものだ。
「もういいよ。酒がまずくなる」
 気分悪くなってきたので俺は一人先に会計を済まし、スナックをあとにした。
 外に出ると、急激に寒さが襲ってくる。アルコールがまだ足りなかったか。家に帰る前に、世話になっている先輩がやっている小料理屋へ寄る事にした。

 先輩の経営している小料理屋は、家の真向かいにある。
 入り口の扉の前に立つと、自動で開きだす。
「おっ、龍一。いらっしゃい」
「どうも~」
 先輩である長谷部さんは笑顔で俺を迎えてくれる。軽い挨拶を交わしながらカウンター席の中央に腰掛けた。
「何にする? やっぱグレンリベット?」
「ええ、もちろん」
 すぐさま長谷部さんはショットグラスを取り出し、グレンリベットを注ぐ。スナックだとストレート用の小さなグラスであるショットグラスさえ置いてない。やはりこのグラスで飲む酒は格別にうまく感じた。
「料理はどうする?」
「そうですね~…。あ、またマグロの酢味噌ってできますか?」
「うん、できるよ」
「それと…、あとは……」
「牛刺し? ハンバーグ? それともステーキ?」
「う~ん」
 すべて大好物ばかりなので、さすがに迷う。先輩は俺のツボを本当に心得ている。
「それとも茄子のしょうが醤油にする?」
「あ、それで……」
「あいよ」
 すべての食べ物の中で、茄子が一番の大好物であった。長谷部さんは俺の好みを熟知している。
 こぢんまりとした店内は、奥の座敷席も客の姿はなく、カウンターに二人連れのカップルがいただけだった。
「今日は、暇ですね」
「まぁ、二月だしね。しょうがないよ」
「もうちょっと遅い時間になれば客も来ますよ」
「そうだね。あ、先にマグロの酢味噌ね」
 寿司屋に行ってもマグロの赤身しか食べられない俺は、この酢味噌で赤身を食べるのが大好きだった。
 料理を出し終わると、長谷部さんは自分で烏龍ハイを作り出す。
「あ、長谷部さん。たまには俺、そのぐらい出しますよ」
「馬鹿言え。おまえから奢ってもらって飲もうなんて思ってないよ。気持ちだけで充分」
「じゃあ、いつか一緒に飲みに行きましょう。その時は出させて下さいね」
 いつも先輩らしく面倒見が良く、それでいて優しい。下手なスナックで飲んでいるよりも、ここで飲んだほうが癒されるのかもしれない。
 他愛ない世間話をしながら時間を過ごしていると、ようやく客が入ってきた。ガーという自動扉の音に反応して自然に振り向くと、先ほどスナックで同級生が言っていたカウンター席の危ない客の集団だった。
 家が真向かいというのもあり、この集団とは何度か長谷部さんの店で顔は合わせていた。集団はスナックで五名ほどいたが、途中で別れたのか二人だけになっている。
 ボス格らしい割腹のいい熊髭の四十歳ぐらいの男が、普通にカウンター席の俺の隣へ腰掛けた。
 特に今まで気に留めなかったはずが、同級生の言葉で妙に引っ掛かっている。
 こんな連中にビビるほど、ヤワな道など歩いてきていねえよ……。
 俺は横目でさりげなく見ながら、心でそう呟いた。
「おう、原田さん。いらっしゃい」
 熊髭の男は、原田という名らしい。
「長谷部ちゃん、あれちょうだいよ」
「暖かいほう?」
「そうそう」
 先輩にあれで分かるぐらいなので、かなりこの集団もここへ来ているだろう。大き目のグラスを取り出した長谷部さんは、大きな梅干しを入れ焼酎を注ぎだした。
 ホット梅焼酎を置かれた熊髭男は、嬉しそうに箸で梅を突きだす。
「これこれ…。やっぱ冬はこれがいいよなぁ~」
 案外悪い人間じゃないのかもしれない。梅焼酎をうまそうに飲む男を見て、俺はそう感じた。
 同級生の会話で、少し俺は偏見を持っていたのかもしれない。見かけと噂だけで、この熊髭男を判断していたようだった。
「原田さん、横にいる龍一って知ってるでしょ?」
 いきなり長谷部さんは、熊髭男に俺を紹介しだした。原田という男は俺を見て少し微笑む。ホッとするような笑顔だった。
「知ってるよ。神威さんとこの長男だろ?」
「え、知ってるんですか?」
「ああ、昔さ、親父さんやおじいさんには、本当世話になったしなぁ~」
 そう言いながら、原田という男は天井をゆっくり見上げた。
「え、親父やおじいちゃん、知ってたんですか」
「ああ昔ね。今は駅のほうでショットバーやってるんだけどさ」
 え、この人がバーをやっている? まさか自分と同業だとは思いもしなかった。
 ホテルで初めて酒に関する仕事をした俺は、髭を生やしながら接客をしているという事に対し、カルチャーショックを覚えたのだ。髪の毛の色は当然黒。身支度を小奇麗に整えるのは当たり前の世界なので、髭などもってのほかである。この辺が町のバーと、ホテルのラウンジの違いなのかもしれない。
 外見と身支度に気を使い、丁重なサービスと高級感が売りのホテルのラウンジ。
 個性的な接客をしながら、ある程度の自由がある町のバー。
 どちらを選ぶかは、個々の自由である。
「あそこの雷門ってラーメン屋さんあるでしょ?」
「え、ああ、雷門さんとこですか?」
「そうそう、そこでしばらくやっていたんだよね。四国から出てきた時さ」
 ここから歩いて五分ぐらいのところにあるラーメン屋雷門は、そこの社長とうちの家族はいい付き合いをしている。
 さっきまで顔を知っているぐらいの間柄だったのが、同級生の発言で気になり、今こうして長谷部さんのところで仲良く話している。不思議な感じだった。
「そうだったんですか」
 俺は、この熊髭の原田という男に親近感を覚えた。

 たまには自分のラウンジの仕事だけに集中したい。他のレストランのヘルプはもう懲り懲りだ。疲れが溜まると、そう願う時もある。しかしどんなに疲れていようと弱音は吐けなかった。
 俺のいたプロレス団体。関係は切れても、俺自身あそこへいたという事実は一生ついて回る。俺の行動一つで、「何だ、レスラーってこの程度か……」と思われるのだけは絶対に避けたかった。
 それがお世話になった団体に対する最低限の礼儀だと思っている。
 ホテルの中には上司という立場を利用して、俺をからかう奴もいた。
「ねえ、プロレスって八百長なんでしょ?」
 まだ営業時間前で暇だったのだろう。意地悪そうな表情でわざと俺に問いかける上司の羽田。これまでも何度かこういう場面はあった。先日のテコンドウのレンガ割り事件も、元はと言えばこいつのせいだ。
「いえ、違います」
「いつも、テレビ見てると耳元でゴチョゴチョと話し合ってるじゃん」
 全身、サーっと血の気が弾くのが分かった。
 冷静にいろ……。
 熱くなるな……。
 いつもの事だ。やり過ごせ……。
「してません。取り消して下さい。俺、本当に一生懸命やってきた世界なんです」
「だってしてるよ。ゴチョゴチョと」
 俺の体内で細胞が暴れだしていた。
「やっちまえ。こんな奴、やってしまえ!」
 そう俺に言っているようだった。軽く深呼吸をして落ち着かせる。
「もう、やめましょう。プロレスの話は……」
「だって、俺の親父がさ、俺に言ってたよ。プロレスラーは八百長だって」
「羽田さん……。本当にやめましょう…。自分自身、一生懸命体張ってやってきたものをそんな簡単に言われたら、正直、面白くないです」
「だってうちの親父が言ってたよ?」
「あ、あの…。お言葉ですが、羽田さんの親父さんは何かやっていたんですか?」
「いや、普通のサラリーマンだよ」
 わざとおどけて喋る羽田。周りのスタッフはその様子を見て、クスクス笑っている。
「じゃあ、何でそこまでハッキリとそんな言い方ができるんですか?」
「ん、前にテレビ見ながらさ、プロレスの…。それで俺に説明してくれたもん」
「……」
 完全に俺をからかって楽しんでいるだけだ。もうこの人とこの場では話すな。そう自分で必死に言い聞かせる。
「あれ、やっぱ八百長だって認めちゃうの?」
「違います。すみません……。本当にやめましょう、この話……」
「何だ、認めちゃうのか~」
 周りの笑い声。そろそろ我慢の限界だった。自分が必死にやってきたもの。それをこうまで笑いのネタにされ、黙っていていいのだろうか? ここで感情のままに吐き出したら、ここのホテルでの仕事は失うかもしれない。ただ自分の崇高な魂をこれ以上、汚されたくはなかった。
「ハッキリ言っておきます。俺がいた団体は、そんなもの一切ありませんでした」
「だってうちの親父が言ってたよ?」
「テメーの親父が何だってんだ! ただのサラリーマンじゃねーか!」
 声を大にして言いたかった。
 落ち着け……。
 切れるな……。
「男同士でさ、裸で触れ合うでしょ? プロレスって」
「だから…、何ですか?」
「いや、ホモばっかなのかなと思ってね」
 背後で爆笑している連中。俺は静かに目を閉じた。
 駄目だ……。
 悔しくて仕方がなかった。
 ここをクビになったら、俺を馬鹿だなという奴はたくさんいるだろう。でも馬鹿と言われてもいい……。
 ゆっくりと息を吐き出した。
「やっぱさ、神威も体験済みなの?」
 何かが俺の中で弾けた。
「おい、上等だよ…。喧嘩、俺に売ってんだよな? そこまで売りたいなら買ってやるよ」
 俺は着ていたホテルの上着を脱ぎ、床に叩きつけた。体中の細胞が歓喜の声を上げている。覚悟を決めた。人間、言っていい事と悪い事がある。
 それまで笑っていた連中の顔は、一気に凍りついていた。
「お、おい…。じょ、上司に向かって、そ、その口の聞き方は、な、何だよ……」
 静かに上から、羽田を睨みつけた。
「辞めちまえば、上司でも何でもねーよな」
「お、おい…、冗談に決まってんじゃんか……」
「こうまで言われちゃ、冗談にはとれませんよ」
 誰も、俺をとめようとする奴はいなかった。
「覚悟してくれ。あれだけ馬鹿にしてくれたんだ」
 静かに近づくと、羽田は、「ごめんなさい」を連発しだした。
「悪いけど、謝るってそんなごめんを連発するもんじゃねえぞ」
「す、すみません。すみません」
 完全にスイッチが切り替わりそうだった。こいつを殴らないと納まりそうもない。仕事だから、ずっと馬鹿にされても我慢してきた。しかし、どうしたって譲れない部分はある。ブレーキはもう利かない……。
「何やってんだ、おまえら!」
 いつの間にか、支配人がラウンジの入り口に立ち、怒鳴っていた。
 羽田のホッとした表情が目に映る。
「いえ、神威がプロレスを馬鹿にするなと言いながら、急に凄んできたので……」
「……」
 まったく要領のいい人間だ。俺は、口をへの字にして黙っていた。
 支配人が交互に、俺と羽田を見る。
「いいか、神威。おまえみたいな鍛え抜いた奴が、上司とはいえ素人に威圧したり、暴力を振るったりというのは卑怯な事だそ」
 言い分は分かる。しかしそれは時と場合による事もあるはずだ。俺は卑怯じゃない。
『いいかい、レスラーっていうのはね。何をやられても、壊れない体を作らないと駄目なんだよ』
「……!」
 落ち着け…。プロレス時代の師匠の声が聞こえたような気がした。今は堪えろ……。
「どうなんだ、神威?」
「……。すみませんでした……」
 まだ我慢しなきゃ……。俺はそれだけ言うと、頭を深々と下げた。

 

 

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