休憩時間になっても、体調はまるで回復しない。
だるくなる一方であった。
最近鍛えていないから、弱くなったのかな? 体が弱ると心まで弱くなってくる。情けなくなったものだ。
五時になってラウンジの営業が始まる。
その頃になると、立っているだけでフラフラだった。
できれば今日は暇なほうがいいな…。そう願っても皮肉なもので、客足はそこそこ忙しかった。バーカウンターの中に入りカクテルを作る俺は、できるだけカウンター席には座らないように願う。
このラウンジは夜景が売りなので、ほとんどの客は外の景色が眺める窓際の席を好んだ。
「いらっしゃいませ……」
こんな日に限って、カウンター席を好む常連客が来たりする。しかも喋るのが大好きという中年女性で、確かお花の大元の先生だ。
「あら、神威君じゃないの、お久しぶりね」
「いらっしゃいませ……」
「あら、風邪でも引いたの? 酷い声ね」
「はい、そうみたいです」
声はさらに悪化している。
「マンハッタンもらえるかしら?」
「かしこまりました……」
お花の先生は、ジッと俺の一挙一動眺める。いつもなら慣れているのに、今日はその視線すら邪魔に感じた。
客の姿がぼやけて見える。さすがに自分でもまずいと思った。
カクテルを作り終えると、俺は一礼して奥の通路へ消える。少し歩いただけで辛い。俺の異変に気づいたのか、村井がさりげなく近づいてきた。
「大丈夫ですか、神威さん?」
「ご、声…、声が出…、出ない……」
喉まで痛くなってきた。一体、俺の体に何が起こっているんだ?
遠くから羽田まで近づいてくる。俺の姿を眺め、ニヤニヤと笑っていた。
「おい、神威が珍しく弱ってるよ」
普段なら苛立つのに、ダルさと辛さでどうでもよかった。村井がマネージャーへ気を利かせてくれ、俺は仕事中を抜け出し仮眠室で休む事になった。
「あ、ほんとだ。神威が弱ってる」
背後で笑い声が聞こえた。
こいつら元気になったら、覚えていろよ…。俺は静かに従業員用の通路に出る。
喉が痛い…。何度うがいをしてもガラガラ声が直らないでいた。
体調が全然良くならず、初めて俺は仕事を休む事になった。
家で大人しく寝ていたが、苦しさで何度も起き、何度もうがいをする。
タバコを吸うとさらに苦しくなり、最初の一口で消す始末だった。
その内飲み物を飲むだけで喉が痛く、水分すらほとんど取れなくなる。一体、俺はどうなっていくのだろう?
喉は渇きを覚え、水分を欲しがっている。口に含んでは喉の痛みから水分を吐き出すという繰り返しだった。
鏡で口を開け見てみると、扁桃腺がパンパンに腫れ上がっていた。喉が扁桃腺で何も見えないぐらい酷くなっている。
ここで初めて病院へ行こうと思った。
電話を掛けようとしたが、声すら出なくなっていた。
三日間、自分の部屋で倒れていたのに、家族は誰一人気づいてくれない。俺は、かなり衰弱していた。
メモ用紙に、俺は《はい》《いいえ》《喉が腫れて辛い》《声も出ない》それだけ書くと、家から出て目の前の病院へ向かった。
こんな状態になって初めて気づく。健康が人間一番なのだと。
病院へ行くと受付が話し掛けてくるので、俺は《喉が腫れて辛い》と書いたメモを差し出した。
「どのような状態でしょうか?」
呑気に聞いてくるのでイライラしながら《声も出ない》というメモ用紙を黙って出した。
「ですからどのような……」
あくまでもマイペースな受付の人間。出したくても声がまったく出ないのだ。《喉が腫れて辛い》と《声も出ない》のメモをテーブルの上に置き、乱暴にそれらを手で叩く。
「しょ、少々お待ち下さいね……」
受付はそれだけ言うと、俺の前から消え、奥でゴチョゴチョ話していた。
立っているだけできつい。俺はすぐ近くの待合室のベンチへ倒れ込むに横になった。ベンチの皮の冷たさが心地よい。
「神威さまー…。神威さまー」
看護婦に起こされるまで、俺は気を失うように倒れていたようである。診察室へ連れて行かれると、先生は口を大きく開いてと静かに言う。
「あ~、これは入院だね……」
そんなに俺の状態は酷いのか? 症状はどんどん苦しくなっていくばかりだった。
八人部屋のベッドの上。今、俺はそこにいる。
腕には点滴がついていた。
「ぁ……」
声を出そうとしても出ない。
ホテルに連絡しないと…。それだけが気掛かりだった。
ベルを押し、看護婦を呼ぶ。声が出せないので、何とかジェスチャーで伝えようとしたが、看護婦は何も理解してくれず、困った表情をするばかりだった。
途方にくれた看護婦は、婦長を呼んだ。そこで婦長は俺に紙とペンを持たせ、「言いたい事があったら書いてね」と、親切に言ってくれた。
ありがたい。言葉を話せないのが、ここまで大変な事だとは思いもよらなかった。
《ホテルに入院したというのを伝えて欲しいです》
それだけ書いて、電話番号とラウンジの名前を伝えた。これで確実に俺が入院したというのを知らせる事ができる。
「うん、分かったわ。安心してゆっくり休んでね」
ニッコリ微笑むと、婦長は看護婦を従えて病室から消えた。
村井はどうしているだろう。俺が欠けて、ラウンジのみんなに迷惑が掛かっているのだろうな……。
そんな事ばかり考えながら、いつの間にか俺はまた眠りについていた。
入院初日、俺は一日中、気を失ったように寝ていたようだ。
二日目、額にひんやりとした手が置かれた感触で目を覚ます。ゆっくりと目を開ける。視界には、ホテルの同じラウンジで働く北野さんの顔が見えた。
「き、北野さん……」
「あ、起きちゃった…。ごめんなさい」
夢じゃないよな。これは現実だよな……。
自問自答をする。八人部屋の病室を見回し、ここが病院の中だという事を確認した。
「大丈夫ですか、神威さん」
「何で北野さんが……」
入院したのは昨日、ホテルには婦長が連絡をしてくれていたはずだが、昨日の今日でお見舞いに来てくれるなんて……。
「心配しましたよ~。でも、声も出ているみたいで本当良かった……」
そういえばそうだ。今、俺は普通に声を出している。多少、声はかすれ気味ではあるにせよ、普通に話をしているのだ。
「点滴、昨日ずっと打っていたからかな」
点滴の力とは素晴らしいものである。たった一日で、あれほど苦しんでいた喉の痛みを一気に良くしてしまうのだから。
「昨日、いきなり神威さんが入院したって言うから、みんな、ビックリですよ」
「遠くからわざわざお見舞いにありがとう、北野さん。すごい時間掛かったでしょ?」
「う~ん、一時間半ぐらいですかね。でも電車に乗るの、そんなに嫌いじゃないので問題ないですよ」
「だって駅からここまで結構あるし、そんな時間じゃ」
「いえ、すぐに分かりましたので…。良かった、元気そうで……」
一時間半なんて、嘘なのはすぐに分かった。電車に乗っている時間だけで、一時間半は掛かるのだ。だからホテルで働く場合、泊まりがどうしても多くなっている。
どんな思いで、ここへ見舞いに来てくれたのだろう。彼女の来る様子を想像するだけで、目頭が熱くなった。
「あ、寝ていたので買ってきたお花、勝手に生けてしまったんですけど……」
枕元横にある台の上に、いつの間にか薔薇の花まで、小奇麗な花瓶に飾ってあった。
「それと…、退屈かな~と思って、これ……」
そう言いながら、恥ずかしそうに北野さんは、漫画の本を数冊手渡してきた。手塚治虫の『ブッダ』だった。
「ありがとう。本当にありがとう……」
プロレスを駄目になってから、ずっと色恋沙汰など興味を持たないできた。自分の居場所を作るのに精一杯だった。身近な異性を久しぶりに感じたような気がする。
照れ臭そうに笑う北野さんを素直に可愛いと思う。胸の奥がむず痒い。
「じゃ、私、明日も仕事あるので、この辺で…。神威さん、ゆっくり休んで下さいね」
「え…、じゃあ下まで送らせてよ」
「だって…、点滴したままじゃないですか?」
「いいよ。大丈夫だからさ」
「いいですよ~」
「いいからいいから……」
俺はけだるい体を起こし、点滴を持ったまま通路へ出た。北野さんは心配そうに見つめながら、横にピッタリくっついて歩く。
こんな俺の地元まで遠く遥々来るぐらいなのだ。俺に少しぐらい気があるのかもしれない。俺の右腕を優しくつかむ北野さんの手は柔らかく、いい匂いがした。
辛気臭い病院内で、こんな嬉しそうな表情をしているのは、俺ぐらいであろう。
「あ、この辺で大丈夫ですよ」
幸せ絶頂の中、あっという間に玄関へ辿り着いてしまう。
何でこんな狭い造りにしてやがるんだ、馬鹿野郎…。そう、近くの看護婦に怒鳴りたいぐらいである。
もう少しだけ、彼女とこのまま一緒にいたかった。しかし入院中なのでそうもいかない。北野さんを見送ると、俺はその後姿をしばらくずっと眺めていた。
人間とは非常に現金なものである。
先日まで死ぬような苦しみだと思い、健康が一番とか反省していたくせに、少し元気になると、入院は退屈で仕方がない。
あの苦しみは一体どこへ行ったのだというぐらい、俺は回復している。
一日点滴を二回、そして注射を一本。それだけの為に入院し、うまくもない飯を三食食べる。
誰かが見舞いに来てくれないと、どう暇を潰したらいいか時間を持て余していた。
三日目になって、ホテルで働く後輩の村井が来てくれた。彼も北野さんと同様、遠くから遥々見舞いに来てくれたのだが、あの時ほどの感動は得られなかった。日々人間はこうして贅沢になっていく。
四日目に、いきつけのスナックで働く飲み屋の女軍団が、五人一気に病室へ押し掛けてきた。
「どうして俺がここに入院してるって分かったんだ?」
「あの神威さんが入院したって、街じゃちょっとした大騒ぎよ」
「大丈夫なの?」
男だけのむさ苦しい部屋も、黄色い声がこれだけ集まると爽快である。
彼女たちは各自、花を持ってきてくれた。
「あら、一つだけ花が飾ってある。誰からかな、神威さん?」
狭い病室の中でも陽気な彼女たち。他の同室患者はそれを見て鼻の下を伸ばしていた。
「ホテルの同僚だよ」
「ほんと? 飲みに来るといつも彼女いないなんて言ってたけど、実は彼女なんじゃないの~」
「ば、馬鹿言え!」
彼女ではないが俺は北野さんに対し、あきらかに意識をしている。それを見透かされたような気がして恥ずかしかった。誤魔化すよう無理に大声を出す。女という生き物の直感は鋭い。
「でも思ったより元気そうで良かったよ」
五人分の花をもらうと、さすがに置き場所に困る。どこに置こうか散々迷ったが、結局近くにないと申し訳ないので、ベッドの周りに飾る事にした。
北野さんの花と、飲み屋の女五人分の花……。
全部で六つの花束が、ベッドの周りを取り囲む。
廊下から視線を感じる。振り向くと年配の入院患者たちが、俺の花を珍しそうに見ていた。
「あらあら、綺麗なお花ね~」
「ちょっと見せてもらいましょうか」
「わおっ! 神威さん、モテモテ~」
「うるせー、他の患者に迷惑だろ。とっとと帰れ」
そんな感じでその日から男性だけの病室に、他の病室の年配女性患者まで花を見に来るようになってしまった。
一週間ほど経つと、我慢の限界であった。
苦しくもないのにベッドの上で寝ているなんてできない。時間をただボーっと過ごすのに堪えられないでいた。
それにホテルのシフトで、俺の分の穴が開いている。羽田とか腐った連中はいい。しかし、北野さんや村井がその分を働いているのではないか? そう考えるといつまでもベッドの上で呑気に寝ている訳にはいかない。
声も出る。体も元気だ。熱もない。
こんな場所でジッとしているぐらいなら、ホテルに戻って働きたかった。いや、違う。本当はまた北野さんに会いたいのだ。そう思うと、いてもたってもいられない。俺は婦長のところへ向かった。
「看護婦さん、俺、もう退院したいんですけど。婦長さんいます?」
突然の言葉に戸惑う看護婦たち。奥の席に腰掛けていた婦長がこちらに気づき、近づいてきた。
「あ、婦長。俺、もうこんな元気です。だから退院させて下さい」
「いい、神威さん。それは病院で判断します。気持ちは分かるわ。でも……」
「もう大丈夫ですよ。ホテルの連中が大変なんですよ。俺が行かないと。これ以上、ジッとしていられません」
「神威さん……」
病院側の意見は何も聞けなかった。俺は一刻も早く働きたい。そして北野さんの顔を見たくて仕方がなかった。
入院してちょうど一週間。俺は強引に退院をした。
ホテルに復帰すると、マネージャーを始め、仲のいい面々が笑顔で出迎えてくれる。
全員の顔を見ながら笑顔を振りまくと、北野さんと二人きりで話せるきっかけを作るように努めた。
他の従業員がいるところだと、恥ずかしいものがあるので、どうしてもつい澄ましてしまう。男同士なら普通に接する事ができるのになかなか難しいものだ。
シフトの違いからか、北野さんと一緒に働く時間帯がとれない日々。
もどかしさを感じつつ、何も行動に移せない俺。
彼女はどう思っているのだろうか? 何もないのにあんな遠くまでお見舞いへ来てくれる訳がない…。そう思いながらも切り出せない自分がいた。
ホテルの忙しい日常は前と変わらず、徐々にストレスがまた溜まりだす。単なる俺の思い過ごすで、彼女とは縁がなかったのだろうか……。
気がつけば仕事帰りにスナック、そして長谷部さんのお店へというパターンになっていた。要は思い通りにいかず、酒で現実逃避をしているだけである。
ある日、以前見舞いに来てくれた一人のスナックの女が、カウンター席に座る俺に話し掛けてきた。
「ねえ、神威さんって彼女いないの?」
「ん、どうしたの、突然?」
「いや、仕事帰り、いつもうちに飲みに来ているような気がしてさ」
「彼女いたら、わざわざ金払ってこんなところ来やしないさ」
「ふ~ん…、そうなんだ」
「何だよ、その変な間は?」
「いや……」
二人の間に流れる妙な空気。
「じゃあ、今度の休み。俺とデートでもするかい?」
居づらかったので軽い冗談を言ってみた。
「え……」
彼女は一瞬顔を赤らめると、下をうつむく。まさか軽く受け流してくれると思っていた分、俺はビックリしている。
「そ、そんな嫌そうな態度をするなよ」
明るく言ったつもりだが、俺の声は震えていた。
「嫌じゃないよ…。突然だったから、ビックリしたの」
「はあ?」
「だっててっきりさ、店だと私じゃなくて、別の子を気に入ってると思ったから」
「別の子って?」
少なからず、俺の心臓はドキドキと音を立てていた。
「んーん…、何でもない……」
「そっか」
口下手な俺は、ここで会話がストップしてしまう。うまくいけばこの子とデートできるかもしれないのに。
「今度の日曜日って暇?」
沈黙を破るように女が口を開く。
「え、日曜日って……」
「さっきデートしようかって言ったじゃないの」
「……」
こんな展開になるなんて…。自分で振り出したものの、正直戸惑いを覚える。確かに目の前の子は嫌いなタイプではない。いや、顔でいえばむしろ好みのタイプだった。
「名前は?」
「嫌だな~、久美子よ」
「そうじゃない。店の源氏名でなく本名」
「逆なの……」
「え?」
「久美じゃなく、未来って書いて『みく』って言うの」
「分かった。じゃあ、今度の日曜、デートするか、未来」
「ちょ、ちょっと、店では本名で呼ばないでよ」
「ああ…、ごめんごめん……」
動揺しているのを悟られないようワザとおどけてみる。異性と二人きりでデートなど、ここ数年一度もしていないのだ。
「何時ぐらいがいい?」
「う~んとね、その日は土曜泊まりで、日曜日はランチ終われば上がれるんだ。三時ぐらいにはね。だからこっち戻ってくるの考えたら、五時ぐらいなら大丈夫」
「ほんと? じゃあ、一つ行きたい場所があるんだけど……」
「どこ?」
「神威さんの働いているホテルのラウンジ!」
「え……」
「駄目? たまに神威さんがホテルの事を聞かせてくれるでしょ。一回でいいから行ってみたいなあって思ってたの」
「あ、ああ…。いいよ……」
一瞬、北野さんの悲しそうな顔が思い浮かんだ。
「やったぁ~」
目の前で嬉しそうにはしゃぐ未来。その日、北野さんとシフトが被らないように…。俺はそんな事を考えていた。
昨日の出来事をマネージャーに相談してみる。
快くマネージャーは承諾し、日曜日の三時に上がるはずのシフトをランチ準備終了時間の十一時半上がりにしてくれた。ありがたい。これでかなりデート時間まで余裕が生まれる。マネージャーの憎い心遣いに感謝を覚えた。
「神威が、どんな女を連れてくるのか楽しみだ」
そう言いながら、マネージャーはニヤニヤしていた。本当の興味はそっちか……。
俺は北野さんには出来る限り悟られないように、厨房の料理長、ステージのホテルに滞在する外国人歌手に、よろしくお願いに行く。
主要な人間にだけ伝えたはずが、一時間後にはラウンジ内すべてに知れ渡っていた。もう北野さんの耳にも俺が女を連れてくるという情報は、耳に入っているだろう。たった一度見舞いに来てくれただけなのに、何故俺はこうも彼女を意識するのだ。
「神威さんも退院したと思ったら、いきなり素敵な女性をここに連れてくるなんて隅に置けないですねー。どんな女性なんですか?」
部下の村井は、嬉しそうに色々聞いてくる始末である。
別に俺は彼女がいる訳でもない。北野さんがどう思うかなど考えるなんて、自惚れている証拠だ。素直にこのラッキーな状況を楽しめばいい。
翌日になり仕事中、北野さんが声を掛けてくる。本当ならもっと早くこのシチュエーションがほしかった。
「神威さん、もう喉は大丈夫なんですか?」
「ああ、すっかりね。あの時はお見舞いまで来てくれてありがとう」
「うん、やっぱり元気そうな神威さんが一番いいですよ」
この子との会話は不思議と落ち着き癒される。相性がいいと言うのだろうか。
「そうかい」
「元気な姿が一番ですよ」
「うん、俺も入院して初めてそれは感じた」
北野さんは笑顔で接してはいるが、肝心の他の女とデートの件は一切突っ込んでこない。
「でも、まだ飲み屋ばかり行ってるみたいですね……」
「……」
俺の行動を見てないようで、ちゃんとチェックしていた北野さん。うまい台詞が出ない。
「また、喉を痛めちゃいますよ?」
「う、うん…。気をつけるよ」
そこで会話は何となく終わった。
この間のひょんな事がきっかけで、俺は未来の事も気にはなっている。もちろん北野さんの事も…。そして未来とは日曜日にここでデートが決まっている。一体俺はどうしたいのだろうか? 自分の事なのに気持ちが分からない。
北野さんの後姿が不思議と寂しそうに見えたのは、俺の気のせいだろうか。
土曜日は泊まり、日曜日はランチの準備を済ませる。今日はマネージャーの気遣いで、もう仕事を上がれるのだ。
幸い北野さんは本日休み。これからのデートするところを彼女だけには見られたくなかった。俺って運が何気にいいのかもしれない。
もう一度、マネージャーと従業員、外国人歌手のキャシーとポール、料理長へ挨拶をして仕事を上がる。
本当なら退院してすぐ北野さんを誘うつもりではいた。それがこんな状況になっている。まあ未来の事も嫌いではない。今は意識している。自分がいつも仕事をしている場へ、プライベートで飲みに来る。初めての事なので、どういう風に感じるのか想像もつかないでいた。ドキドキした感覚と北野さんに対する罪悪感が半々。
急いで地元へ帰る。時間はまだ二時を過ぎたところ。予定の時間まで三時間弱あった。
湯船に熱い湯を溜め、長い時間掛けて体の垢を落とす。
プロレスが駄目になってから、二年間…。いや、目指した時期を入れれば、丸五年間は女を抱いていなかった。
俺も男だ。いい女は抱きたい。誰でもいいという訳ではないが、それがもし未来なら、充分過ぎる相手ではある。
ベッドの上でよがる未来を想像してみた。全身に興奮が伝わる。
結局のところ、男は性欲というものに弱くできている。
北野さんを抱く想像はできなかった。
時間になると、車で待ち合わせ場所まで向かう。
未来はお洒落な服装でボーっと立っていた。ゾクッとするような黒の模様が入ったストッキング。見えそうで見えないぐらいのミニスカート。足元ばかり、つい視線が行ってしまう。
車に乗った俺を確認すると、未来は小走りに近づいてくる。
「どう? 一生懸命おめかししたんだよ」
「う、うん…。か、可愛いよ……」
「ほんとー?」
「ああ」
心の動揺を知られたくない為、努めて冷静に会話をする。そのぐらい未来は近くで見ても、綺麗だった。
電車で一時間半掛かる距離のホテルへ、車で向かう。何時間掛かるのか定かでないので、すぐ出発する事にした。
「何かドキドキしちゃうなあ~」
「俺もだ」
「うっそだぁ~。神威さん、女慣れしてそうだもん」
「いや、彼女はもう五年はいないよ」
「またまた……」
「本当だって!」
「まあ、そういう事にしておきましょう」
こうして俺と未来の初デートが始まった。
車内の窓越しから外の風景を眺める未来。非常に楽しそうである。
浅草に車でなんて初めてだ。こっちは道を間違えないようにと、緊張の連続である。
道がカーブする度に、未来のおいしそうな太腿が揺れ、息を飲み込む。異性と二人きり。どうしても意識してしまう自分がいた。
「神威さんって何かいいねぇ~」
「ん、何が?」
「何でもな~い、へへ……」
時折見せる笑顔が、たまらなく可愛く見える。大した会話もせずに妙な盛り上がりを迎えて、俺たちは浅草ビューホテルへ到着した。
しばらく俺の働くホテルを見上げる未来。
「どうした?」
「神威さんってこんなところで働いているんだぁ~……」
「変?」
「んーん…、ちょっとビックリしただけ……」
「そっか。じゃあ、行こうか」
入り口に入る際、俺の腕に絡み付いてくる未来。こんなところを北野さんに見られたら、どう思われるのだろうか。いや、彼女は休みだ。ここには絶対にいない。
未来に気づかれないよう軽く深呼吸をし、落ち着いてからホテルの入り口を潜る。
いつも見慣れた風景。目の前には白いグランドピアノが置かれ、自動演奏のクラシック音楽が掛かっている。白い大理石の清楚な壁と床。見慣れた顔の黒服サービスマン。
この時ばかりは、新鮮な気持ちになれた。客はこのような感じながら、俺たちの働くラウンジへ来るのだろうか。いい体験ができたような気がする。
通路を右手に進み、エレベータへ乗り込む。
二十八階のボタンを押すと、俺たちを乗せた箱は、急速に進み出す。従業員用のエレベータとはえらい違いである。
時間にして、八時十分前。
俺と未来は無事、ラウンジへと到着した。
漆黒の豪華な絨毯の上をゆっくり歩きながら、我がラウンジの受付へ通る。
受付には、あの嫌な上司である羽田の姿が見えた。
また嫌な奴が立っていたものである。まあ、仕方ない。誰がいようと、未来には関係のない事だ。俺たちはゆっくり腕を組んだまま、先へ進む。
「いらっしゃいませ……」
営業用の気取った声で出迎える羽田。内心、俺たちをどう思っているのか分かるはずないが、とりあえず通常通り接してくれそうだ。
黙々と歩く羽田の後ろをついていきながら、ホール内へ入る。目の前にある綺麗なライトアップされたショーステージでは、外人歌手のキャシーとポールがセカンドステージをする為、ちょうど出てきたところだった。
「わぁ~、素敵……」
うっとりその場に立ち尽くし、店内や夜景を見回す未来。恥ずかしかったので、俺は手を引いて、羽田の後ろへと行く。
池袋や新宿のビル群が見える側の席。そちらへ案内すると、すでに俺たち用の席がスタンバイされていた。
「どうぞ、お座り下さい」
あの嫌味な羽田が、俺にまで座席を引き座らせてくれる。席にはヘネシーのVSOPと、XO二つのボトルが並んでいた。こんないい酒を…。グレンリベットだけで充分なのに…。みんなの心遣いに感謝を覚えつつ、俺は心の中で頭を深々下げた。
「きれ~い……」
未来は、ジッと目の前に広がるガラス張りの夜景を見つめている。それはそうだろう。初めてこの景色を見た時は、俺自身もかなりビックリして景色に見とれていたぐらいである。こんな場所で俺は働くのか。そう考えた時、全身に震えが走ったのを思い出した。
何故、客が…、いや、男が女を高い金まで出して、ここへ連れてくるのか。それが今日、本当の意味で分かったような気がした。
単なる男の見得だけじゃない。高い金を払ってまで、自分の大切な子の笑顔が見たいのだ。
まずは乾杯する為にも、何か注文しなくては…。そう思った頃、村井が澄ました表情で席まで来た。
「神威さん、ご注文はいかがなされますか?」
「ん、ああ…。そうだね……」
「私、神威さんにお任せします」
「どんなのが好みだい?」
「えっと、甘くてアルコール度が弱くてね…。さっぱりした感じのがいいなぁ~」
甘くて、度数低く、さっぱり……。
「村井君、バレンシアをもらえるかな。で、アプリコットブランデーは少なめでね」
「かしこまりました。神威さんはどうしますか?」
「う~ん、せっかくだから、俺はここにあるボトルをストレートで」
「かしこまりました……」
俺と村井の様子を感心したように見つめる未来。オーダー用紙へ英語で注文を書くと、村井は立ち去る際、未来の耳元でボソッと囁いた。
「神威さんには、いつも兄のように慕っております……」
バレンシア……。
アプリコットブランデーとオレンジジュース、オレンジビターズをシェイクした甘めのさっぱりとしたカクテルである。度数も低く、女性が飲むには最適であろう。
何といっても当ラウンジのオレンジジュースは、フレッシュのオレンジジュースである。三日に一度、七百五十ミリリットル分のオレンジジュースを六本分作り、二日後には賞味期限切れとして捨ててしまう。勿体ないが、ホテルでの品質を保つ為には仕方のない事であった。
淡いオレンジ色のカクテルグラスを未来は慎重に持つ。
ショットグラスに入れたヘネシーXOのストレートを俺も手に取り、静かに口を開いた。
「乾杯」
緊張した心臓の音が、こちらにまで聞こえてきそうなぐらい、未来は普段と違い、顔を赤らめながら照れ臭そうにしている。
「おいしぃ~……」
「だろ?」
「うん、いいなぁ~、こんな素敵な職場で毎日働けて…。神威さんが羨ましい」
外から見れば、ホテルは非常に豪華で素敵に見えるのである。あくまでも外から見ればだが…。ここで彼女の夢を壊しても仕方がない。俺は静かに目を見つめながら、微笑み返した。
ステージでは、準備が終わったのか、一斉に眩いライトが点き始める。
「へロー、エブリワン! マイ、ネーム、イズ、キャシー。ヒーズ、ポール」
華やかな外人歌手のショーステージが始まった。
カーペンターズのコピー曲を手始めに唄い、客の拍手が鳴り響く。次の曲にいく途中、キャシーは俺のほうへ右手をかざしながら、静かにマイクを握った。
「ヘイ、ミスターカムイ! マイ、ベストフレンド。ヒーズ、スペシャルリクエスト、スティービーワンダー。マイ、シェリーアモール……」
いつの間にか俺たちの座る席にスポットライトが当たっている。
突然の出来事に俺は我を忘れ、キャシーを見ていた。軽くウインクしたキャシーは、俺の大好きな曲であるスティービーワンダーの『マイシェリーアモール』を唄いだした。
他の客は、俺たちの席を注目している。当たり前だ。こんな演出をされたら、誰だって何者なんだろうと感じるに違いない。キャシーとポールの演出が憎らしいほど嬉しかった。
「神威さんって幸せですね……」
未来の瞳はウルウルしている。この雰囲気で完全にやられたようだ。
キャシー&ポールの演奏中、静かに席へ近づく村井。先ほど去り際の「兄のように慕っております」が効いているのか、未来は満面の笑みを浮かべている。
村井は両手に料理を持ち、静かにサイドテーブルへ置く。
「こちら、料理長からです。お口に合えば、お食べ下さい」
やり過ぎだというぐらいホテルの従業員サイドは一枚岩で、俺たちを歓迎している。
一つのテーブルでは置ききれないぐらい、料理長からの料理は続いた。
和牛フィレ肉のステーキ、エスカルゴ、三大珍味はもちろんの事、チーズの盛り合わせ、ミックスピザ、サラダと果てしなく続く。
「おいおい、村井…。こんな食えないよ……」
「マネージャーより、残されたら一皿につき、一万円いただくように言われております」
「馬鹿、ふざけんじゃねーよ。こんな食えねえって!」
「はい、冗談でございます」
村井のジャブの効いたジョークに、未来は大はしゃぎである。
彼女のグラスが空になっていたので、何を飲むか聞いてみた。未来はすべて俺に任せると言うので、お次はスカイダイビングを注文した。
このスカイダイビングはラムベースのカクテルで、俺が最も好きなものである。ラムとブルーキュラソー、そしてライムジュースをシェイクして作るスタンダードカクテル。見た目の鮮やで爽快な青さと、さっぱりした飲み口が好きだった。
普段働いている浅草ビューホテルの『ベルヴェデール』。客としてこの場にいるのが何だか不思議な気分だ。