新宿からはすぐに戻ろうと思えば、戻れる距離だ。ただ、しばらくは向こうで腰を落ち着けるまで戻るつもりはなかった。
駅に着き、これから新宿へ向かう事にする。電車に乗り、俺の新しい生活が始まる。
電車に乗っていて何もする事がないと、つい大和プロレスの事を思い出してしまう。
よくヘラクレス大地さんは、飲みに連れてってくれた。内臓疾患で一度体を壊しているのだから、少しは酒を控えればいいのに、大地さんは行くと、必ずウイスキーのボトルを二本は空けていた。
本人曰く、これでもかなり抑えているらしいが、それでもやっぱり心配してしまう。トレーニング以外でも、俺に人間としての常識や、生き方をいつも話してくれた。
優しそうな顔でいつもニコリとしながら接してくれた大地さん…。今頃、元気でやっているのだろうか…。
伊達さんは、歌うのがとにかく好きで、いつもアニメの歌ばかり歌っていた。マイクをつかんだら離さない姿はリング上を見る限り、誰も想像できないだろう。ギャップが面白かった。
大河さんはみんなで飲みに行くのに、いつも付き合わなかった。その代わり、トレーニングばかりしていた。あれじゃ、底無しに強くなっていく訳だ。夏川さんも大河さんに感化されたみたいで、一緒に付き合い激しい練習をしていた。
夏川さんはこれからどんどん伸びて、近いうちにトップに立てる選手になるだろう。センスも抜群で俺がスパーリングしても、コテンパンにのされてしまった。
化け物集団に囲まれながらの生活は、確実に俺を強くしていった。それが今ではこの様だ…。
リングサイドで伊達さんと山田さんのシングルマッチを見た時は、プロレスラーとしての凄みを教えられたような気がした。
あの試合中ではハプニングが起きた。伊達さんの頭を思いきり腕で殴った山田さんの右腕が折れたのだ。山田さんは痛みを顔に一切出さず、試合をやり続けた。お互い遠慮せずに激しくやり合い、エルボーと蹴りのぶつけあいになる。山田さんは折れた右腕を構わず左腕とクラッチして、パワーボムで叩きつけた。そして初めて伊達さんに勝ち、試合後すぐに救急車で運ばれた。あの時は大変な騒ぎだった。
翌日の新聞でも扱いはでかく、見出しには山田、初の伊達越えも、代償は大きかったと書かれていた。何故、そこまでして戦うのかと書かれていたが、俺はちょっとだけ理解出来たような気がする。
俺にとって大和での半年間は、かけがいのない貴重な思い出だった。もう一度でいいから、あのちゃんこ鍋が喰いたいなぁ…。
左肘を見つめる。俺は本当に大馬鹿野郎だった。もう取り返しはつかないのを理解していても、悔しくてしょうがなかった。
このやり場のない怒りはどうしたら解消出来るんだろう…。
新宿に到着する。この間、来た時は昼間だったせいか、ここまで人はいなかった。俺の地元とは人口の密度が大違いだ。
駅構内を歩く通行人を見ているだけで驚きを感じる。あまりの人の多さに駅を出るだけで一苦労だった。
面接した人が新宿東口のアルタ前で待っているはずだ。人混みをかき分けながら何とかアルタの前まで辿り着く。キョロキョロと見回すがここでも人は溢れかえり、面接官を探すものの、どこら辺にいるのか分からない。
「おーい。」
振り向くと全然知らない男がこっちを見ながらニコニコしながら手を振っている。
「だいぶ待ったか?」
いきなり背後から体を押される。ちょっと体をずらすと、俺の後ろにいた女がその男に近寄り抱きつきだす。見ていてすごい熱々なカップルだ。
時間を見ると夜の八時を回っていた。俺も人の事は言えないが、ここにいるやつらは本当に暇人なんだろう。五、六人の集団グループは酒の勢いも手伝ってか、やかましいぐらい騒ぎ回っている。俺はこんな場所でこれから生活していくのか。ボーっとしていると、不意に肩をつかまれる。
「や、やっと見つかったよー。」
「あ、どうも。」
「よ、良かったー…。こ、この人混みで見つけられるか不安だったよ。べ、別の場所にすれば良かったね。」
「お手数かけて申し訳ないです。」
「いやいや、とりあえず荷物もあるし、寮に行こう。」
「すみません。」
面接官は、ひょいひょいと人の間を器用に潜り抜けながら、どんどん先へ進んでいく。俺は体重が落ちたとはいえ、彼のように歩くには体がでかいので無理だ。
でかい道路を渡り、一番街通りという道へ入る。道の角では、イソベ焼きと書いてある屋台があり、醤油の焦げたいい匂いがしてくる。
「この道を真っ直ぐ行くと、コマ劇場にぶつかるんだよ。」
「へー、それにしてもすごい人の数ですね。」
一番街通りの真ん中ぐらいに同伴喫茶ハニーという看板がある。一体、同伴喫茶とは何だろう…。怪しい雰囲気がプンプンする。2Fと書いてあるので二階にあるのだろう。
その入り口の下には、五人ほどの派手な化粧をしたおばさんたちが、通行人に声を掛けまくっている。俺がその様子を見ていると、一人のおばさんと目が合った。
「おにーさん、遊ぼ?」
妙にハスキーな声だが、すごい気持ち悪い。見ていて何か違和感を覚えた。面接官が小声で耳元に囁いてくる。
「この人たち、おばさんの格好をしてるけど、実は男だから相手しないほうがいいよ。」
背筋からゾーッと冷たいものが流れる。俺は無視して通り過ぎようとすると、親父のオカマ(正直なんて表現したらいいか分からない)は、俺の左腕に組み付いてきた。
「遊ぼー、遊ぼー。」
自然と頭の中で殺意が芽生えてくる。
「離せ…。」
「ねぇー、遊ぼ?」
俺は組み付かれている左腕をいったん持ち上げて、そのまま振り下ろしエルボーをぶちかました。かなり加減はしてやったが、親父のオカマは胸を押さえながら苦しんでいる。自業自得だ。俺の左腕を見ると、鳥肌がメチャクチャ立っていた。
勝男の言うコマ劇場にさしかかると、さっきのおばさんの格好した連中とは違う種類の気持ち悪い数人のオカマが道に立って通行人に声を掛けていた。実際に歩いてみて歌舞伎町は本当に不思議な街だった。
「ルーマニアー。」
いきなり黒いスーツの男に声を掛けられる。いきなりルーマニアとか言ってきて、訳が分からない奴だ。
「ルーマニアー、ルーマニアー。」
その男はいきなりチケットを俺に手渡してきた。思わず受け取る。
「何だ?」
「いい子、綺麗な子、いっぱい揃ってますよ。」
「は?」
「どうですか、お兄さん。今はルーマニアですよ。時代は、ルーマニア。」
面接官が無言で俺の手を強引に引いた。
「何でしょうか?」
「駄目だよ。あいつらポン引きだから、まともに相手してちゃ…。さっきもそうだけど、いちいち相手してたら、いくつ体があっても足りないよ。」
「へー、そうなんですか…。」
ポン引きの男は俺たちのあとをしつこくついてくる。かなりしつこいので、さすがにイライラしてくる。
「ルーマニアー。ルーマニアはいかがですか?お兄さん。」
俺はそいつの胸倉をつかんではっきり言ってやる。もちろん表情は怖がらせるモードに切り替えて…。目を剥き出しながら睨みつけた。
「おい、おまえ…、さっきからウゼーんだよ。いい加減、しつけえぞ。」
一喝すると、ポン引きは素直に引き下がってくれた。
無言のまま歩いていくと、また、焼き焦げた醤油のいい匂いが漂ってくる。
「君、お腹は?」
「うーん…、そこそこ減ってます。」
「あそこに見えるイソベ焼きの餅って、すごいうまいぞ。食べてみるか?」
「はい。」
屋台に近付くとメガネを掛けた中年の親父と、見習いみたいな小僧が餅を焼いていた。
「へい、らっしゃいっ。」
「らっしゃいっ。」
二人とも気合いの籠もった挨拶に好感が持てる。
百円玉を二つ渡しながら、面接官はイソベ焼きを二つ注文した。親方みたいな人がお金を受け取る。横にいる見習いの小僧が餅を醤油にひたしていると、親方が突然怒鳴りだした。
「おいっ!それじゃ、餅は柔らかくなんねーんだよ。客に失礼だろ。霧吹きが最初だろ!同じ事、何度も言わせんなよ。分かってんのかよ。」
「ひ、ひぃ…、すいません。」
「謝る前に、早く霧吹きだよ。ほれ、このタイミングだ。このタイミングを覚えればいいんだよ。餅がここで柔らかくなる瞬間なんだよ。早く、霧吹き、霧吹き!」
小僧の頭を親方が引っ叩く。餅の焼き方一つで、もの凄いこだわりを感じる。餅を早速食べてみると、確かにそこまでこだわる理由が分かる旨さだった。
「ありがとうございます。」
小僧が俺たちにお礼を言うと、親方はまゆ毛を吊り上げてまた小僧の頭を引っ叩く。
「この大馬鹿野郎。そんなんじゃ気持ちが籠もってねーんだよ。いいか、餅をお客さんに渡して料金を頂戴したら、腹の底から毎度―っ…ってありったけの感情を込めて客に言うんだ。分かったか?毎度―っだぞ、やってみろ。」
「毎度―っ!」
「あ、ど…、どーも。」
ある意味、もの凄い店だった。面接官は歩きながら、大笑いしていた。
店に着き、簡単な説明を受ける。自分の経歴などを聞かれ、簡単な履歴書のようなものを書かせられた。
大和プロレスの時の事を思い出す。初めて履歴書を持って大和の事務所に行ったのが、かなり昔のことのように感じる。あれから二年以上の月日が経つ…。本当なら今頃リングの上に立ち、戦っていたかもしれないのだ。思い出せば思い出すほど、せつなく悔しい。
ボールペンを持つ右手を見た。親指だけ醜く歪な形をしている。俺にとっての究極技、打突…。
醜い指ではあるが、誇りに思う部分、そのものだった。ヘラクレス大地さんに、以前、打突の事を話した事があった。
「馬鹿野郎。おまえ、人を殺すつもりでやってんのか?」
あのいつも優しい顔をした大地さんが、あの時だけは烈火の如く怒りだし、すごい勢いでブン殴られた。
自分ではすごい技だと思っていて有頂天になっていた時期でもあった。とても俺は、ショックを受けた。
確かにプロレス界にとって、何のメリットもない技だ…。同じ団体内で試合をするのが当たり前なのに、はなっから俺は、対戦相手を壊すつもりで考えていた。
一体…、誰に極限まで鍛え抜いたこの親指で、打突を打ち込むのだろう。クリンチ状態みたいな密着状態になって、初めて威力を発揮する。
打突はレスラーらしくない卑怯な技だ。虚しさだけが残ったが、それでも俺は右の親指を鍛え続けた。人間相手に使えなくても、俺の強さの拠り所だけでいい。そう思っていた。
俺を迎えに来てくれた人間の名前は、赤碕という名だった。学生時代は喧嘩に明け暮れていたらしく、昔の自慢話を嬉しそうに話していた。そんな話など、正直、どうでもよかった。
「レスラーやってたんだ?」
経歴に大和プロレスと書くと、赤崎はすぐに反応してきた。
「ええ…。でも、デビューする前に、腕を故障したので、正確にいえば練習生でしたけど…。」
「だから、体がごついのか。」
「今はそうでもないですよ。」
「まあいいや、うちはゲーム屋といって、簡単にいえば賭博の店だ。」
「はい。」
「仕事内容は結構きついぞ。」
「はい、覚悟しています。」
大和プロレス以上にきついところなど、通常の仕事じゃありえないであろう。だが、あえて黙っていた。
「うちの店は、忙しい店なんだ。店内の方針というものがあって、うちは軍隊形式をとっている。まあ、体力的にはプロレスの練習と、同じぐらいきついものがあると思うよ。」
ふざけんなと怒鳴ってやりたかった。普通に考えたら、ただの裏稼業だろ…。何が軍隊形式だ。プロレスの練習と同じぐらいだと…。体験した事もないくせに偉そうに抜かすな…。心の中でマグマが煮えたぎっていた。
しかし、今の俺は何の価値もない男だった。ここで金を稼ぎ、生活をしていくしかないのである。懸命に自分の感情を抑えた。
赤崎はさらに頭に乗って話していた。俺は黙って聞いてはいたが、右拳を思い切り握り締めて耐えた。もの凄い屈辱感だった。苦痛でしかない。
「実際、プロレスやってきて、強さってどういう事だか分かったの?」
何でも知っているような面しやがって…。
「俺は、大和プロレスの世界しか知りません。ただ、強さってものに関しては、少しだけ語れます。」
「空手家みたいにレンガでも割れるの?」
「ダンボールありますか?」
「はあ?」
「ダンボールなら、何でもいいです。」
赤崎は不思議そうな顔をしながら、缶コーヒーの入った状態のダンボールを持ってきた。
「まだ、開けてないやつだけど、これでいいのか?」
「ええ、それでいいです。ちょっと、失礼します…。」
俺は静かに立ち上がり、右の親指を突き出し、握り締めた。
缶コーヒーの入ったままのダンボールに向かって、打突を繰り出した。
ズボッ…。派手な音がしてダンボールに穴が開く。ダンボールの裏側から、すごい勢いで、缶コーヒーが飛び出した。
簡単にいうと、俺の打突がダンボールを突き破り、そのまま中にある缶コーヒーを直撃した。その勢いで裏側の面も破りながら、缶が後ろへ飛び出したのだ。
赤崎は目を真ん丸にしてびっくりしていた。目の前で見た光景が、信じらえないようだった。不思議そうに、穴を覗き込んでいる。
「な、何をしたんだ…。」
「俺がレスラー目指し、強さとは何かを追求した結果が、これでした…。」
「……。」
「親指を純粋に鍛え抜き、ただ、突き刺す。非常にシンプルな技です。」
「え、今、指でこの穴を開けたの?」
心なしか、赤崎の話し方は柔らかくなっている。
「ええ、でも、こんなのは曲芸みたいなもんです。想像してみて下さい。クリンチ状態で、真横から相手の横っ腹に、突き刺さる様子を…。」
「……。」
「でも、こんな技、人間には絶対、使ってはいけない技です。」
俺はまだ、打突の威力を人間相手に試した事はなかった。試したというよりも、出来なかったという言い方のほうが合っている。
「そ、そうだな…。」
「そう考えると強さって、虚しいものだと思います。」
「は、何故?」
「結局は人を壊せるかどうかって部分。行き着く先はただの殺し合いです。だから、俺にとって強さとは虚しいなって感じました。」
「そ、そうだな…。」
赤崎は、俺の指をじっと見ていた。自分の指と、見比べたりしてしばらく眺めている。
「お、親指、こんなボロボロじゃん。虚しいって言いながら、何で?」
「使う使わないじゃなくて、自分の拠り所だからです。」
「そ、そっか…。」
「プロレスを…。」
「ん?」
「出来れば、もっと続けたかったです…。」
ずっと心の底に渦巻いていた感情。そのひと言を口にしてしまうと、目尻が熱くなってくる。
俺は、あれからだいぶ経っているのに、全然プロレスに対しての想いを割り切れないでいた。俺の体の奥底には、マグマのように煮えたぎる熱い想いがあった…。
誤魔化すように、黙々とまた履歴書を書き始める。
「悪かったな、変な事まで聞いて…。」
「いいえ、大丈夫ですよ。ただ、赤崎さん。」
「何だ?」
「一つ、お願いがあるんです。」
「ああ。」
「俺が大和プロレスにいたっていう事、他のかたには内緒にしていて下さい。」
「何で?自慢出来る事じゃん。」
「いえ、色々と色眼鏡で見られてしまうので…。」
「そっか、分かったよ。」
本当の理由は違った。もし、従業員の誰かにプロレスの悪口を言われたりしたら、自分の感情を優先させてしまう恐れがあるからだった。
こんな状況になっても、俺はプロレスが大好きで堪らなかった。
初めて働く職場で、大和プロレスにいたという過去を自分からいちいち言う必要はないだろう。プロレスを冷たい目で見る世間から、少しでも守りたかった。
これから俺の新しい生活が始まるのである。
新宿に来て一ヶ月ほど経った。俺も仕事に慣れ、歌舞伎町というものが少しは分かってきたように思う。お客にも自分の名前と顔を覚えてもらえ、仕事もやりやすくなってきていた。
携帯をようやく購入した。これで知り合いと連絡をとれる。
最上さんや月吉さん、整体の先生に親方。高校の先生に石井。あとは守屋…。番号を教えた人が、男しかいなかった。所詮、俺の人生なんてこんなもんだ。
八人の人間がいる寮は、いまだに慣れない。歯ぎしりをする奴、いびきのうるさい奴。同部屋で寝て、初めて嫌なものだと感じた。
しかし贅沢はいっていられない。新しい人生を選択した俺は、何があろうとも逃げ出す訳にはいかなかった。
ゲーム屋とは、世間一般から見れば、ただの裏稼業でしかない。それでも俺はそこで働き、生活の設計を立てている。
辛い毎日であったが、ひたすら堪えて生きるしか術はないのである。
久しぶりに夢を見た。大和プロレスの合宿所で黙々とスパーリングをしている夢だった。
相手は夏川さんだった。
俺が、いくら関節を決めにいこうとしても、いいところを取らせてくれない。気がつくと、体重を掛けられて身動き取れなくなっている。
全然、夏川さんの相手にならなかった。
リング下で木ノ下が、俺の無様な姿を見て大笑いしていた。横では大河さんが、真剣な眼差しでリング上を見守っていた。
「相変わらず弱い奴だな。一本も取れないじゃん。」
木ノ下がヤジを飛ばしてくる。身動きの取れない俺は、その憎たらしい面を睨みつけるぐらいしか方法はない。
「次は俺とだろ。体力、残ってるか?」
木ノ下がリングに上がってきた。夏川さんに散々やられたあとなので、クタクタだった。思うように体が動かない。
大きく深呼吸しながら、息を整える事に努める。
今、俺の腕を破壊した憎い木ノ下が、目の前にいる。
俺は素早くふところに潜り込み、クラッチを組んだ。そのまま後ろに反り投げたいが、思うように力が入らない。
体重でつぶされ、うまくポジションをとられた。木ノ下が俺の左腕を極めにくる。
あの時の瞬間がプレイバックする…。
関節を極められる痛みに、どんどん視界が狭まり、俺は身動きが取れなくなっていく。こいつだけにはギブアップをしたくない。
薄れゆく意識のなかで、右手の親指を突き出した。
「ギャ―――――――――――――――ッ…」
木ノ下が左の横っ腹を両手で押さえながら、マットの上をのた打ち回っている。
俺の右親指は、真っ赤な血で包まれていた。
打突…。
人間の体を突き刺した嫌な感触が、親指を通して伝わってくる。木ノ下が、転げ回った跡には大量の鮮血がほとばしり、マットを朱に染めていく。
嫌な後味の悪い夢だった。
あれから特に変わった事もなく、新宿で働き続けるしかない俺。
これから、どうなっていくのだろう。このままでいても、何も変わりはしない。大和プロレスにいた誇りを持っていたが、それをどう生かしたらいいのか分からなかった。
一日働いき、一万二千円の日払いをもらう。月に六回の休みがあるので、一ヶ月間、約二十九万くらいの金額をもらっている計算になる。
寮代として、月四万の金を払っていた。女とは何の縁もない寂しい生活。
時たま、清美やさおり…、坂尾さんの事を思い出した。
新宿に来てから、半年が過ぎた。
久しぶりに携帯が鳴る。最上さんからの着信だった。
「久しぶりー、元気でやってるか?」
「ええ、相変わらず彷徨ってます。今日は、どうしたんですか?」
「結婚式が、九月の十三日に決定したからさ。早めに言っておこうと思ってね。」
「本当ですか。それは、おめでとうございます。」
「でも、婿養子になるから、九月から大和田聡史って、呼び方に変わるよ。まあ、サザエさんでいうマスオさんみたいなものだな…。」
「俺にとってはずっと最上さんですよ。ところで月吉さんには報告したんですか?」
「ああ、あいつ、大笑いしてたよ。今度、暇あったら神威の店、遊びに行くよ。」
お互いの近況をしばらく話し、電話を切る。最上さんも結婚か…。俺自身、まだまだ先の話になりそうだ。
仕事帰りに赤崎さんと飯を喰いに行った。
最初の印象は良くなかったが、慣れれば気心も知れ、うまい具合に付き合えた。赤崎さんが紹介してくれる店は、安くてうまい店ばかりだった。
「あのさー、神威。」
馴染みの中華料理店で食事をしていると、気難しい顔をしながら声を掛けてきた。
「なんですか?」
「今の現状ってどう感じる?」
随分と変な事を聞いてくるもんだ。正直、何て言ったらいいか、よく分からないで返答に困ってしまう。
「何に対してですか?」
「誤解しないで聞いてくれよ。」
「ええ、俺に言いたい事あったら、はっきりと言って下さい。」
「金をもう少しだけでも、稼ぎたくないか?」
「いきなり何を言ってるんですか?」
明らかに、いつもの赤崎さんと様子が違った。一体、何があったのか分からない。赤崎さんの目を見ると、真剣そのものだった。
「そのぐらいは答えられるだろ。」
「それは欲しいって言わないと、嘘になりますよね。」
「俺たちは今、裏家業で働いているだろ。」
「はい。」
「俺は店長として、今まで真面目にやってきたつもりだ。」
「ええ、それは分かりますよ。」
「でも、給料が、俺の働きに見合っていないと思う。」
「……。」
それについては、何も答えられないでいた。
「単刀直入に言う。俺と組んで、店の売上から抜かないか?」
「えっ…。」
精神的にかなりのショックだった。赤崎さんとは性格も合い、いい先輩だったつもりだ。見る目が変わりそうだった…。
店の売り上げを誤魔化し、二人で分けようと誘っているのだ。
確かに俺と赤崎さんで協力すれば、オーナーや他の従業員などにばれず、金をちょろまかすぐらいは簡単に出来るだろう。
言い方を変えれば、俺にそんな事を相談してくるとは、軽く見られているという事だ。
こんな内容の話なら聞かなければよかった。
以前、前の店で、赤崎さんは働いていて、毎日のように上から金をもらっていたと言っていた。もちろん店の売上から抜いてだろう。今の真面目に働いている状況に、嫌気がさすのも分からないでもない。
ただ、俺は堂々と生きていきたい。汚れた金を手にするのはごめんだった。せっかく、赤崎さんとは、いい関係になりそうだと思ったのに…。
「赤崎さん…、申し訳ないですけど、今の話、俺は何も聞かなかった事にして下さい。」
「あ?」
「お願いします…。本当にお願いします。これが精一杯の台詞です。」
自分で言っていて、非常に心苦しかった。赤崎さんの言うように、金はあるに越した事はない。俺も、そんなに稼いでいる訳でもない。金は喉から手が出るほど欲しい…。
でも、大和プロレスにいたというギリギリのプライドが、俺の精神を正しい方向に導いている。
「絶対にバレないって…。俺と協力しあえば問題ない、大丈夫だよ。」
赤崎さんもまた、欲望渦巻く歌舞伎町の悪い空気に、毒された一人だった。
最初に会った頃の印象を思い出してくる。俺がそんな理由で、抜きをやりたくないとでも、思っているのだろうか。
「そういう問題じゃありません。すいません、俺はこれで失礼します…。」
「お、おいっ。」
「大丈夫です。この事は絶対に他言しませんから、安心して下さい。」
俺は無言のまま伝票を持ってテーブルを立った。入り口の方へ歩く。
赤崎さんは呆然としていた。会計を済ませて店を出る。
出来る限り上を向いて歩くようにした。そうでもしないと涙がこぼれそうだった…。
寮に帰って眠りにつく。
目覚めて、出勤時間が近づくと、憂鬱になってきた。
赤崎さんの件で、仕事に対する気力がなくなっている。出来れば、このまますべてを投げ出して、どこかへ行きたかった。だが、そうもいかない。
気分転換に今度の休みは、久しぶりに地元に戻ってみるのもいい。整体の先生や月吉さんたちは、元気でやっているだろうか。
重い気持ちで、店に出勤すると、赤崎さんは何食わぬ顔して仕事に来ていた。
「おはよー。」
「おはようございます。」
何事もなかったように接してくる赤崎さん。
俺は黙々と仕事に集中して、出来るだけ相手にしないようにするのが精一杯だった。
「いらっしゃいませ。」
新規の客が店内に入ってくる。その客を見て、俺は自分の目を疑った。
「もっ、最上さんっ。」
以前、店に遊びに来るとは言っていたが、本当に来てくれるとは思わなかった。
ポーカーゲームのやり方を一通り簡単に説明する。
今日は客もそこそこで暇だったので、最上さんとゆっくり話す事が出来た。
ビギナーズラックとでもいうのだろうか。最上さんは運良く十万以上勝っていた。その頃には、客もボチボチ増え始め、店内が活気づいてくる。
「神威、飯休憩だ。」
赤崎さんが気を利かせたつもりのだろう。
結構動き回って、腹も減っていたのでちょうど良かった。最上さんも来ている事だし、一緒に食事にでも行ってくるか。
「最上さん、俺、これから飯休憩なんですけど、一緒に食べいきますか?」
「ごめん。台が調子いいから、今、離れたくない。ポーカーって、面白いな。」
確かにこんな調子で勝っていれば、中断はしたくないだろう。勢いついているところにケチをつけるのもよくない。結局、一人で食事に行く事にした。
近くのラーメン屋に入り、味噌ラーメンと餃子を食べる。ラーメン屋に入ると、地元のさざん子ラーメンをよく思い出した。マスターは元気でやっているだろうか…。
今度の休みにでも地元へ帰り、ガーリック丼を食べるのも悪くない。
早めに食べ終わり、店へ戻る。客が少しひいた状態になっていて、赤崎さんが最上さんと仲良く話していた。
正直、いい感じはしなかった。
考えてみたら最上さんも、赤崎さんも俺の二つ上だから同じ歳なのだ。気が合っても、おかしくはない。今日を境に、赤崎さんの印象がどんどん悪くなっていく。
赤崎さんに、売上げから協力して抜こうと誘われて以来、一ヶ月が経った。俺に対して、何事もなかったのように普通に接してくる赤崎。もちろん俺も、普通に接した。
以前と決定的に違うのは、仕事帰り一緒に食事へ行くという事が、なくなったぐらいである。
ある日、仕事が終わり、着替えをしている時の事だった。
「おい、神威。ちょっと帰り、付き合えよ。」
偉そうな言い方に、俺は苛立ちを感じていた。
「何か用ですか、赤崎さん…。」
「ああ、少しの時間でいい。」
「例の件じゃないですよね?」
赤崎さんは、いきなり俺の頭を叩いた。
「テメー…、声がでけんだよ。」
俺にしか聞こえないぐらい小さな声で、脅すように囁いてきた。
赤碕さん…、いや、赤碕でいい…。
理不尽な赤崎の行動にムカついた。どう考えても、悪いのは向こうだ。
「勘違いしてんじゃねーぞ、小僧…。」
赤崎は俺の足を踏みつけてきた。この野郎…。
「いてーな…。どかせよ。」
「あっ?」
「どかせよ、この野郎…。」
「テメー、誰に口、利いてんだ?」
「表に出ましょうよ。ここで騒いでも、赤崎さんが不利になりますよ。」
赤崎は返事もせず煙草に火を点け、ゆっくりと煙を吐き出した。じっと見ている俺に、ワザと煙を吹きかけてくる。
「……。」
「おい、いつからそんなでけー口、利くようになったんだ。?」
こいつの本性がようやく分かった。目をむき出して一丁前に、俺を睨みつけてくる。見ていて滑稽だった。
今まで俺は、事を荒立てないよう懸命に我慢していた。無理やり自分自身の中に、封じ込めていたのだ。
そういう態度で来てもらうと、俺としてもやりやすくなる。目線を合わせ、静かに息を吸い込む。
「たった、今からですよ。」
しばらくの間、無言の睨み合いが続いた。体重が落ちたとはいえ、強さがそれに比例して弱くなった訳ではない。この人は、俺相手に喧嘩を売っているのか…。
「表に行きましょう。」
「上等だよ。」
俺たちの会話は、他の従業員たちに気づかれなかったようである。店の外へ出て、無言で歩いた。
人があまりいない場所を求めていた。ここまできたら、引く訳にはいかない。
ゴールデン街の方向へ向かう。新しく出来たばかりの駐車場があった。辺りには人がいないようである。俺と赤崎は、中へ入った。
「おい、プロレスしてたんだか何だか知らねえけどよー。俺だってなあ、喧嘩で一度も負けた事ねーんだよ。」
そう言いながら、拳を目の前に突き出してきた。ビビらせているつもりなのか…。
所詮、この人もただの世間知らずな素人だった。格闘技と街の喧嘩を一緒にしているとは…。
まあいい。今、こいつはあきらかにプロレスを侮辱したのだ。
誰であろうと、俺の目の前でプロレスの軽口を叩く事は許せない。
「そんなに強さに自信ある人が、何故、こんな歌舞伎町の一介のゲーム屋なんかにいるんですか?腕に自信があるなら、格闘技でも何でも挑戦して、それで喰っていけばいいじゃないですか。」
「テメェ…、俺に、喧嘩売ってんだよな?やんのかよ、おいっ。」
「悪いけど、あんたじゃ、俺とは話にならないですよ。まっ、それでもいいならどうぞ。俺は売るつもりはないけど、売られたら買いますよ。」
赤崎は睨んではいるものの、内心、ビビりが入っていた。この人は、虚勢を張っているだけなのだ。
「随分と偉そうな口、利くようになったなあ。」
「今まで飯とか奢ってもらいましたけど、やっぱり割り勘にしときましょう。自分の分ぐらい、自分で出さないと駄目ですよね。いくらぐらい払えば、いいですかね?」
「そんなもん、いらねーよ。俺の奢りだ。とっとけ。」
「そうはいきませんよ。これから殴り倒す相手に、奢ってもらったっていうのも悪いじゃないですか。」
「随分と自信満々じゃねーか。俺が殴り倒される事はねえから安心しろよ。」
「しょうがないですね…。それじゃあ悪いから、サービスで力を半分だけしか出さないように、加減しときますよ。」
「あんまり舐めんじゃねえぞ。余裕こきやがって…。」
赤崎はそう言いながら、殴りかかってきた。俺は首に力を入れてパンチをワザと受ける。素人にしては中々の威力だ。口の中が切れて出血するが、何の問題もない。
血を吐き出してから、赤崎の顔を見てニヤリとしてみた。
「なんだ…、そんなもんすか。」
「口から血を流しながら、余裕こいてんじゃねー。」
新宿に来てから出会った最初の人物だった。赤崎との思い出が頭の中で蘇ってくる。
何でこうなってしまったんだろう…。欲望渦巻く歌舞伎町で、すっかりと金の魅力に染まってしまった赤崎。辛い喧嘩だった。
「何であんた、そんな風になっちまったんだ。」
「うるせえっ。」
「本当にいい人だと思ったし、ずっと仲良くやっていけると思ってたんだぞ。」
「やかましい。」
俺に向かって何発も殴る赤崎。状況的に仕方なかった…。
右の拳をギュッと握りしめる。
一撃…、せめて、一撃で済ませよう。
パンチをかいくぐり、横っ面に右拳をお見舞いした。散々人を殴ってきたが、今までで一番辛い一撃だった。
赤崎は大の字になりアスファルトの上で気絶していた。全身の血液が、慌ただしく体の中を所狭しと駆け巡っていた。
その日を境に、赤崎の姿を見る事はなかった…。