岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

1 北海道の雪

2019年08月01日 18時19分00秒 | 食を忘れた男/北海道の雪/隠愛 ~いんあい~


北海道の雪





「へい、らっしゃーい!」
 客のトラックが入ってくる。俺は元気良く大声をあげ、椅子から立ち上がった。
「おう、いつも元気がいいね、君は」
 常連客である飯野公男さんは、笑顔でメンバーズカードを出してくる。まだ高校生の俺は車の免許を持っていないので、ひたすら動き頑張っていた。このスタンドに来る客は、全部俺が出迎えてやるんだ。そのぐらいの気持ちで仕事に臨んでいる。
 高校生活のほとんどをこのガソリンスタンドのアルバイトで時間を費やした。
 スタンドの冬は厳しい。常に外に出て待機している訳だから、非常に寒いのだ。
 飯野公男さんはトラックから降りると、サービスステーションへ入っていく。しばらく経ってから、両腕に缶コーヒーを人数分抱えながらこちらへ来た。
「寒いでしょ?良かったら、みんなで飲んでちょうだい」
「すみません、飯野さん……」
 いつもこの人は、スタンドの人間を気遣ってくれる。寒い中渡されたコーヒーはとてもうまかった。心から感謝を込めて頭を下げる。
 笑顔でスタンドを出て行く飯野さん。俺はこの人の優しさが大好きだった。
「おい、藤沢!あんまり客にペコペコしてんじゃねえよ」
 ち、うるせえ野郎だ。細かい事をブツブツいつも言いやがって……。
「あ、海道さん。飯野さんがコーヒー、みんなにって」
 先ほど受け取った缶コーヒーを海道に渡すと、「いらねえよ、こんなもん」と、そのままゴミ箱へ投げつけた。

 このスタンドの古株従業員である海道は、嫌みったらしい奴だった。だから頭のてっぺんがハゲるのだ。プライベートは絶対に帽子を被り、どんな時でも取る事はない。一度、強い風が吹いた時、海道の帽子がその勢いで飛ばされてしまった事があった。
「あぁ~っ!」
 両手で頭を隠すように押さえ、帽子を拾いに行く海道の姿は滑稽だった。何故この海道が、わざわざ俺にどうでもいいような文句を言うかというと、一度飯野さんと揉めた事があるからだ。海道の聞き間違いのミスから発展したトラブルなので、飯野さんに落ち度はない。傍若無人な海道は社長に怒られる前に、客である飯野さんのせいにしようとしたのだ。はたから見ていて非常に見苦しかった。
 あとで俺は社長にこっそりと事の成り行きを伝えた。このままじゃ飯野さんが可哀相だったからである。社長に呼び出され、海道はこっ酷く怒られた。その時の事をずっと根に持っているのだろう。根暗のハゲが逆切れ。みっともないものだ。俺が社会人になっても、絶対にこうはなりたくない。
 断っておくが、俺はハゲに対して差別などまったくしない。この場合のハゲは、海道だから嫌味でそう思うだけである。
「またあの人、藤沢さんに文句言ってきたんですか?」
 こっそりバイトの後輩が耳元で囁いてくる。
「どうでもいいよ、あんなハゲ」
 俺は吐き捨てるように言った。

 高校三年生の夏休み、家に帰ると地連と呼ばれる自衛官にスカウトするおじさんがいた。
 高校時代、好き放題暴れていた俺は、世話になった担任の先生に就職活動で面倒を掛けたくなった。
 同級生に「就職どうするの?」と聞かれた時は、「自衛隊ってのもいいんじゃねえの」と適当に答えていた。自衛官になる気などまるでなかったのに、地連のおじさんはどこでその情報をキャッチしたのか分からないが、家までやってきたのだ。
「うん、いい体をしてるねえ~。どうだい、自衛隊へ入らないか?」
 入る気などさらさらなかった俺は、無理難題を言ってみる。
「俺に飛行機を運転させてくれたら、自衛隊に入ってもいいですよ」
 すると地連のおじさんは怯むどころか、笑顔で「じゃあ一週間後、仮入隊という形で一緒に千葉まで行きましょう」と言ったからビックリだ。さすがに断る理由など見つからない俺は、夏休みの最後に仮入隊という形で千葉の下総へ向かう事になる。
 果たして本当に飛行機を運転させてくれるのか?
 半信半疑のまま千葉へ行くと、本当に運転をさせてくれた。九十九里浜の上を飛んでいる時運転席へ呼ばれ、操縦を代わってくれるパイロット。俺が乗った『YS21』という十数名乗りの飛行機をこの手で操縦できる。そう思うと非常に興奮した。
 ハンドルを右に切れば、飛行機は右に向かう。左に切れば左。ハンドルを手前に引っ張ると、上に向かって飛んでいく。それ以外の操作は教えてもらえなかったが、高校三年生の俺はそれで充分満足だった。
 仮入隊を終えた帰り道、地連のおじさんは笑顔で話し掛けてきた。
「そうそう藤沢君。自衛隊に行くと前期後期の教育でまず六ヶ月掛かるけど、そのあと中隊へ配属されると、すぐに大型免許が取れるよ」
「え、そうなんすか?」
「一任期もいれば、充分だよ。すぐに取れちゃうからさ」
 別に大型など欲しくはなかったが、車の免許がタダで取れるのならわざわざ高校卒業後、あくせくと自動車教習所へ通う手間もなくなる。車の免許だけは欲しかった。金だって掛からないし、いい事ずくめだ。
 残り半分の高校生活の間、俺は就職活動を面倒臭がって何もしなかった。地連のおじさんとの約束もある。しょうがなくそのまま自衛隊へ入る事になった。
 実はこんな事で自分の進路など決めたりしない。これは周りの友達に対する格好いい言い訳である。
 半分俺は、ヤケクソだったのだ。

 高校二年生の時に同じクラスになり、勇気を持って告白した永田瑞穂。一度だけデートをした。
 ちょうど一年前になる。
 夏休み、バイトが休みで暇を持て余していた俺は、瑞穂の事をずっと考えていた。今まで彼女のできた事のない俺。望みが叶うなら永田瑞穂と付き合いたかった。
 学生時代最後の夏が終わってしまう。焦った俺は、いつの間にか瑞穂の住む駅まで向かっていた。片道四十分も掛けて……。
 駅に着くと、俺は瑞穂の家に電話を掛けてみた。もし彼女が家にいるなら、このままデートへ誘っちまおう。心臓がドキドキ大きな音を立てていた。運のいい事に、瑞穂は家にいてくれた。
「おう、永田か?今、駅にいるんだけどさ」
「駅ってどこの駅よ?」
「ん、武蔵浦和の駅」
「えー、何やってんのよ、藤沢」
「何でもいいじゃねえか。もし暇だったら一緒に映画でも観に行かないか?」
 電話では強がった口調で言っていたが、実はそれだけ言うのが精一杯だった。
「う、うん…。いいよ……。今、仕度するからちょっと待ってて」
 この時の喜びと言ったら、どう表現していいか分からないぐらい嬉しかった。俺は電話を切るとその場で飛び上がって喜び、駅構内にいる人たちから白い目で見られた。
 いつも制服姿しか見ていなかったので、私服姿の瑞穂は新鮮で可愛らしかった。
 俺の地元、川越まで連れて行き、スカラ座というオンボロの映画館で『マリリンに会いたい』を観る。非常に退屈な映画で、俺は瑞穂の横顔ばかり観ていた。
 ビリヤードに行き、ロッテリアでハンバーガーを一緒に食べる。俺にとって至福の時間であった。心配だったので、帰りは瑞穂の家まで送っていく。何度も瑞穂は悪いからいいと言ったが、送り届けないと俺の気が済まなかったのだ。
 帰り道、何度も抱き締めてキスしたいと思ったが、勇気のない俺は何もできなかった。
 それから頻繁に、瑞穂から電話が掛かってくるようになる。素直に嬉しかったが、俺はそれをうまく表現できなかった。
 夏休みが終わり二学期が始まる。同じクラスだった俺たちは、みんなにこの関係を知られたくなかった。恥ずかしいという気持ちが強かったのだろう。瑞穂は休み時間になると、いつも俺の席まで笑顔で来る。クラスの連中に勘ぐられたくなかった俺は、無視して廊下へ逃げた。
 瑞穂は寂しそうな表情をしたが、何も言わなかった。いつの間にか彼女からの電話も減り、時間だけが過ぎていく。非常に気まずかった。
 三年生になっても瑞穂とは同じクラスだった。二年生の夏以来、俺たちはデートをしていない。瑞穂は俺の事をどう思っているのだろう。これって付き合っているのかな……。
 俺は変わらずアルバイトに明け暮れる生活をしていた。去年と違った事といえば、弟が俺の紹介でガソリンスタンドのアルバイトに入った事ぐらいだ。
 美人だった瑞穂は、よく男子生徒から話し掛けれていた。俺はそれを見て、ヤキモチを焼き、家に帰ると電話をして文句を言った。
 そんな感じで三年生の一学期が終わり、瑞穂から電話が掛かってきた。
「夏休みはどうするの?」
「ほとんどスタンドでバイトだな」
「そっか……」
「永田は?」
「う~ん、実は隣のクラスの田中君から食事に誘われているんだ……」
「え?それで永田はどうしたんだよ?」
 俺は非常に焦った。彼女の気持ちをすぐにでも聞きたかった。
「まだ何も返事してないけど……」
「何だよ。OKするつもりなんじゃねえの?」
「……」
「何で何も言わないんだよ?」
「藤沢って、私をとめてくれないんだね……」
「え……」
「ごめん、何か一緒にいるの疲れちゃった」
 そんなひと言で、俺の心はズタズタになった。
「おい、何だよそりゃ?」
「ごめん、もういい……」
「お、おい……」
 ガチャ……。
 電話を切られ、俺はその場でしばらく立ち尽くしたままだった。それから何度も掛け直したが、瑞穂は出てくれなかった。
 こうして俺は、永田瑞穂に見事ふられた訳である。悲しく過ぎて、ひと晩泣いて過ごした。それから夏休みに突入したのだ。
 自衛隊へ行くと決めたのも、半分ヤケクソだったのである。

 夏の終わりに幼馴染の松田忍と、家の前で再会した。中学を卒業した以来会っていなかったので、自然と話が盛り上がる。忍は立派な一人の女になっていた。しばらく見ない内に、女って変わるもんだなと感心した。
「ねえ、今度良かったらデートしない?しばらく会わない内に格好良くなっちゃってるから、私、ビックリしちゃった」
 別れ際そう言われ、俺は思わずOKしてしまう。
 永田瑞穂にふられたショックはずっと尾を引いていたが、忍ならそれを忘れさせてくれるんじゃないか。そんな思いもあった。要は寂しかったのだ。
 学校に内緒でアルバイトをしていた俺は、ちょっと高めのレストランへ連れていった。別れ際忍は、不意に抱きついてくる。そして目を閉じ顔を少し上にあげた。俺はしばらくその表情を眺めながら、ゆっくりキスをした。これが俺のファーストキスでもある。
 忍は俺の家に何度も遊びに来た。その度押し倒してしまおうという欲望に駆られたが、勇気のない俺は何一つできなかった。俺が望めば、忍をいつでも抱けたというのに……。
 そんな妄想をしながらも、結局ファミコンを一緒にやって過ごした。
 帰り際忍はそっと目をつぶり、俺は軽くキスをする。
「気をつけて帰れよ」
「うん、じゃあね」
 いつもキス止まりの俺。なかなかそれ以上のきっかけがつかめないでいた。ちょっと手を伸ばし忍の胸に触れればいいだけなのに、それができないでいる。そんな高校三年生の冬、忍は他に男を作り俺の元から去っていった。こんな俺にきっと呆れてしまったのだろう。イライラだけが残る。このやるせなさを解消するには、他人を殴るしかなかった。
 それから俺は妙に荒れた。地元の高校生と目が合っただけで喧嘩を売り、殴り飛ばした。学校でも他のクラスの連中をお構いなしに殴った。学校でも問題になったが、担任の先生はその度俺をかばい、必死にフォローしてくれる。この先生だけには頭が上がらない。
 無事卒業も決まり、喧嘩に明け暮れる懲りない俺。男相手なら自分をいくらでも素直に表現できるのにな。右の拳で何人もぶっ飛ばした。
 そんな状況で迎えた高校の卒業式。何故か俺は大泣きしてしまった。担任が泣きながらみんなに向かって話をしていたのを見て、もらい泣きしてしまったのだろう。
 机につっぷして泣いていると、俺をふったはずの永田瑞穂が肩に優しく手を置いてくれた。三年間、俺はずっと子のこの事が好きだったんだと自覚した。いや、それは卒業した今でもか……。
 どっちにしても、これで俺の学生生活は終わりだ。
 男には強いが、女には弱い俺。そろそろそんな性格も直したい。
 意気揚々と自衛隊へ臨もうじゃないか。まだ見ぬ社会に俺の希望は膨らむ。
 しかし現実の社会というか、隊の中は非常に厳しかった。

 平成二年四月に、陸上自衛隊朝霞駐屯地に入隊した俺。
 社会人としての新たなスタートでもあった。まだ夢と希望があった時期でもある。
 最初の身体検査では、ケツの穴まで広げられてチェックされる。一瞬刑務所の中にいるような錯覚を覚えた。
 体力測定で肺活量を測ると、六千三百という数字が出た。周りでどよめきが起こる中、地連のおじさんは、「どうだ、私が彼を連れてきたんだ」と得意げな表情をして辺りを見回している。
 一般教養の試験では、隣の席に座る男で自分の名前すら書けない奴もいた。よくこんなんで入隊できたものだ。いや、逆に入り手がいないから何でもありなのだろうか?
 辺りを見回す。
 それにしても、むさい男ばかりだ。
 高校は共学だったので、男子校に対する憧れもあった。この男臭い世界なら、思い切り暴れられるかもしれない……。
 まずビックリしたのがトイレである。小便をする便器が水洗じゃないのだ。便器の下にチューブがつけてあり、ポリバケツのようなものに繋がっている。上官に聞いた話によると、そのポリバケツが溜まったら化粧品メーカーの人間が来て、化粧品の原料にするらしいと言っていた。女性が多額の金額を掛けて使う化粧品。その一部分に俺たちの小便が使われているのかと思うと、不思議な気分である。
 朝霞駐屯地の敷地は異様に広い。外周を一周回るだけで五キロはある。敷地内は、様々な建物が並び、一回じゃ覚えられないぐらいの種類があった。端のほうに『立入禁止』と書かれた奇妙なボロボロの洋館もあり、興味を引かれた。
 自分の寝泊りする部屋は、古い戦時中に建てられた木造隊舎の二階の一番隅だった。
 正方形のように真四角な建物で、真ん中がくり抜いてあり中庭となっている。上から覗くとたくさんの洗濯物が干してあった。
 最初部屋へ入った時、何て広い部屋なんだと感じた。二十畳はある広さの中に、二段ベッドが両壁に沿って五台あり、シングルベッドが二台。部屋の中央には長テーブルが二つ並べて置いてある。両開きの木製のオンボロドアを開けてすぐ正面に、古い木炭ストーブがあった。もう春なんだから、ストーブなんか使いやしないのに。こうして一年中置きっ放し状態なのだろう。
 俺の配属された部隊は、『第三施設郡教育隊』の一区隊三班だった。
 一区隊は全部で四つの班に分かれている。各班とも十名ずつの新人二等陸士。
 部屋には一日前に、三名の班員が来ていた。青森、長野といった地方から、この朝霞まで遥々やってきたらしい。関東から来た俺たちは全部で五名。次の日に二名が加わり、十名すべて揃う。
 ふと気になった点がある。天井の四隅の一角だけ、斜めに太めの木の棒がついているのだ。高さも普通より高い部屋なので、手を伸ばしても届かない位置。洗濯物を干すには隅だし、天井から十センチほどしか離れていないから、この棒がどういう意味でつけられたのかが理解できなかった。

 レンジャー部隊出身の班長と副班長。彼らは異常なほど俺たちをしごいた。
 毎朝六時起床だが、俺たちの班だけいつも五時起きでいつも朝礼が始まるまで五キロは走らされる。
 悪さをすると、決まって班長、副班長から罰がある。
 腕立ての姿勢のまま一時間放置されたり、腹筋で九十度足を上に持ちあげたまま一時間放置されたりだ。素直に腕立て三百回と言われたほうがマシだった。
 酷い時にはテントの中で催涙ガスを焚き、サザエさんの歌詞本を手渡される。
 班長は冷酷な笑みで、テントの中に俺たち十人を入れ、サザエさんの歌を一番から五番まで唄えと命令された事もあった。テントへ入る前、全員にサザエさんの歌詞が書いた紙切れを渡される。
 五番までなど誰も知らないし、目を開けて歌詞を見るしかない。しかし、目を開けると催涙ガスが容赦なく目に沁み、口を開けて唄っているので喉はガラガラになる。
 ただの苛めにしか思えなかった。
 六四式七点六二ミリ小銃を各自渡され、射撃の練習をする。
 射撃検定の時、俺が一級の成績を収めても、班自体の成績が悪いと連帯責任で怒鳴られ罰を受けた。
 嵐と呼ばれる罰は酷いものだ。二十畳の広さはある俺たちの部屋は、嵐が巻き起こったかのように荒らされる。二段ベッドは逆さまに置かれ、引き出しの中身はすべて床にぶちまけられた。ここまでするかと言うぐらい、酷いありさまである。
 澄ました顔をしながら部屋へ入ってくる班長。俺たち班員の顔を一人一人じっくり見ながら、いやらしい笑みを浮かべる。
「随分散らかっているな、この部屋は」
 おまえがやったんじゃねえか…。俺はそう言いたいのをグッと堪える。班員すべてが俺と同じ気持ちだろう。
「今から十分の猶予をやる。それまでに元通りに片付けろ。はい、始め!」
 班長は笑いながら部屋を出て行った。班員の一人が「やってらんねえよ」と愚痴をこぼす。その途端、みんなの不満が爆発した。しかし十分間でこれを片付けないと、もっと酷い罰が待っているのだ。仕方なくブツブツ言いながらも、みんな片づけを始めた。
 人間やる気になれば何事もできるもので、十人の心が一つになった時恐るべき力を発揮する。十分以内にあれだけ散らかっていた部屋は元通りになった。やればできるんだ。この時みんな、そう思ったはずだ。
 班長が再び部屋へやってくる。ニヤニヤしながら部屋の隅から隅までを検査した。
「おっと、これは何だ?」
 テーブルの下に、以前使ったサザエさんの歌詞が書いてある紙切れがあった。
「はい、まず一つ。まずはおまえら腕立て十回な。まだあるかな?」
 棚の上に置いてあった小説を手に取ると、班長は嬉しそうに笑った。
「これはすごいぞ。何百回分あるんだ?ヒヒヒ……」
 小説のページをペラペラめくりながら、「一、二、三、四、五……」と数えだす班長。ひょっとして小説のページ数掛ける腕立て十回とか言うんじゃないだろうな?
 嫌な予感は当たった。結局俺たちは腕立て千三百三十回分をやらされるハメになった。プロレスラーじゃないんだから、そんなできる訳がない。
「しょうがない。残りの腕立ては貯金という形にしてやろう。ただし利子はつくぞ。今日で二百三十回だから、あと千百回残っているな。利子は一日腕立て百回だ。分かったな?」
 俗にいう連帯責任の辛さ。自分ひとりのペースじゃなく、十人みんながそろってやって一回なのだ。
 俺たちはブツブツ言いながらも、何とかこなした。

 朝恒例のランニングが終わり、ベッドに横になる俺。昨日の夜、一人で遅くまで起きていたから寝不足だった。そのまま寝てしまい、気付くと朝礼が始まっていた。
 確かに誰かが起こしてくれた気がしたが、寝惚けていた俺はそのまま二度寝してしまったようだ。
「おい、藤沢!起きろって!」
 同期の一人が大声で俺の体を叩く。
「ん?」
「朝礼始まっているよ!」
「えーっ!」
 慌てて俺はバネ仕掛けのように飛び起き、身支度を済ませ、部屋を飛び出した。
 すでに朝礼で集合している面々に冷たい目で見られ、俺は下を向きながら列に加わる。
 こうなると大変だ。俺一人の行動で、一区隊全員が連帯責任となる。仲間が起こしに来てくれたから、遅刻した時間は三分程度だ。それでも班長は腕時計で何秒まで測り、わざわざ区隊長に「二百七十三秒の遅れです」と報告した。区隊全員で二百七十三回の腕立て伏せをやらされる。これは非常に精神的にきつい。自分のせいで、みんなが一緒に罰を受けるのだから……。
 それでも俺を責める同期は誰もいなかった。
 上官の命令は絶対であるという事を盾にやりたい放題の班長たち。やるせない怒りと不満は皮肉な事に、みんなにとって妙な連帯感をもたらせていた。
 その日の気分でシゴキ内容は変わる。
 ガスマスクを顔に装着して、走らされた事もあった。あれは見た目よりも辛いものだ。呼吸が満足にできないからである。
 ただ班長も副班長も、口だけじゃなく体力が俺ら班員よりも数倍あるのだ。伊達にレンジャー経験者じゃない。だから何も言い返せない部分もあった。
 他の班の連中から食事中、「おまえら本当に大変だな」とよく同情をされた。自分が所属する教育隊全十二班の中でも、特に厳しい上官に当たった訳だ。
 俺たちはこんな毎日を送っている。

 ちょうど俺たちの時代は第二次ベビーブームと呼ばれた時期でもあり、入隊人数が例年よりも多かった。寝泊りしている部屋は、いつも夜中になると奇妙な音などがして不思議な現象が起きた。霊現象とでもいえばいいのだろうか。
 自衛官が寝るベッドは、二人一組で毎日毛布やシーツをキチンとたたむ。自分たちの分を引き終わると、班長、副班長のベッドメイキングもするようだった。
 毛布の両端を二人で持ち、ピーンと皺を伸ばす。奇麗にベッドを作らないと、あとで何を言われるか分からない。副班長はベッドメイキングが終わると、いつも十円玉を持って検査にやってくる。その十円玉を俺たちが作ったベッドの上に、一メートルほどの高さから落とすのだ。十円玉がピーンと張った布団の上でちゃんと跳ねればよし、大して跳ねないとやり直しとなる。そこまでやって何の意味があるのか分からなかったが、俺たち新人二等陸士は、命令された通り独動くしかないのだ。
 夜の十時になると、駐屯地は消灯の時間となる。まだ十八の俺たちがそんな時間に寝られる訳がない。班長たちは酒でも飲んでいるのか、いつも夜中の一時過ぎに帰ってくる。それまでが俺たちに与えられた自由な時間でもあった。
 十時に電気が消え、男十人のお喋りタイムになる。どうでもいい自慢話から女の話、今日の訓練の愚痴など、会話は尽きない。
 話に夢中になりながら、ふと誰もいない班長のベッドを見た。
「あれ……」
 俺の寝ているベッドは班長、副班長の隣にある二段ベッドの上。そこから班長のベッドを見ると、人が寝ているような膨らみが見えた。おかしい、あれだけ毛布やシーツをピーンと張っているのに、何だあの膨らみは?。
「おい、班長のベッド見てみろよ」
 班員に声を掛けるが、みんなの反応は「何が?」とまるで見えていないようだ。一人だけ、「何だ、ありゃ?」と驚いた声をあげた。という事は十名の内、あのベッドの上の膨らみが見えるのは俺ともう一人だけ。あとの班員は何も見えていないようだ。
 間近でそんな奇妙なものが見えているのにもかかわらず、あまり怖くなかった。何故かといえば、自分以外に九人もの同期がそばにいるという安心感からだろう。
 ベッドが膨らんで見える以外、何事もなかったので俺はいつの間にか寝ていた。
 それから夜中になると、「今日は膨らんでる?」と他の班員から聞かれ確認するのが日課となった。遅くに帰ってくる班長や副班長も、ごく普通にそのまま寝ていたので特に問題はないだろう。
 一週間ほど過ぎ、「今日も見える?」と下のベッドの奴が声を掛けてきた。
 いつものように班長のベッドを見ると、その日は膨らみがない。あれっと思いながら良く見ると、班長のベッドの左隅に誰かが後ろ向きでうずくまっているのが見えた。どう見てもおかしい。そのうずくまった後ろ姿は透明というか背景が透けて見えるのだ。
 薄気味悪くなった俺はその状況をみんなに話し、「今日は早く寝ようぜ」と促した。嫌な予感を感じたのだ。
 毛布を頭までかぶせ目を閉じる。シーンと静まり返った状態で耳を澄ませると、自分の心臓の音が聞こえてきた。その時、遠くのほうから別の心臓の鼓動が聞こえてくるような気がした。その鼓動は徐々にこちらに向かって近づいてくるような感じがする。気のせいだろう。そう自分に言い聞かせた。
「……」
 いや、やっぱり近づいてきているぞ……。
 そう思った瞬間ベッドが縦に大きく揺れた。思わず飛び起きる俺。すると向かいの二段ベッドの上にいた班員の坂田が、信じられないような動きを見せた。ベッドの外に向かってすごい勢いで右腕を突き出し、そのまま体ごと落ちそうになったのだ。落ち止め防止の鉄柵に体がぶつかり落ちずに済んだが、俺は彼の不審な行動にビックリした。すぐにベッドから降りて駆け寄る。
「おい、坂田!どうしたんだ?」
「いって~…。見れくれよ、これ」
 坂田はティーシャツをめくり、右わき腹についたアザを見せる。
「ん、何それ?」
「寝ていたら、急にもの凄い力で右腕を引っ張られたんだよ。俺必死で鉄柵にしがみついてさ。その時鉄柵にぶつかった衝撃で、このアザだよ……」
「……」
 坂田が嘘をついていないのはよく分かる。あのタイミングで、そんな自虐的な行為をする人間などいやしない。坂田の右わき腹にはくっきりと鉄柵の形をしたアザがついていた。

 同期である他の班員とはちょっとした事で、よく喧嘩になった。俺は生意気な奴がいると辺り構わず喧嘩を売った。強さこそが真実と履き違えていた時期でもある。
 自衛隊へ入隊し、始めに喧嘩を吹っ掛けた相手。同じ一区隊の同期だが、態度が気に入らないというどうでもいい理由で俺は喧嘩を売った。駐屯地の中を歩く時、新人の俺ら二等陸士は班ごとで常に行動しなくてはいけない。ひと班十名。五人ずつの二列横隊で歩調も合わせなくてはならないのだ。
 食堂へ行った帰り道、一班の列とすれ違う。その時、こちらを睨んでいる奴がいた。同じように睨み返したが、向こうも引かない。俺は飛び掛かり、そいつの頭を掴んで壁に叩きつけた。そうなると班同士の抗争へ発展する。
 この時揉めた一班の班員は、数年後プロボクサーになった。でもこれはまた別の話。機会があれば話す事にしよう。
 入隊して丸一ヶ月は外出禁止で、檻に囲まれた駐屯地内に閉じ込められる。女っ気がないかというと、そうでもない。朝霞駐屯地は、全国から新人の婦人自衛官が集められた教育隊がある唯一の駐屯地なのだ。しかも俺たちの住む隊舎の向かいに、婦人自衛官の住む隊舎があった。
 婦人自衛官…。何故だか知らないが、自衛隊内では『ワック隊』と呼ばれている。問題なのは可愛い女が一人もいない事だ。それでも檻の中に閉じ込められた男の性欲は凄まじいものがあった。
 深夜こっそり隊舎を抜け出し、ワック隊隊舎へ忍び込もうとする強者もいた。当然の如くすぐに見つかり、俺たち無関係の人間まで連帯責任を負わされる。
 ある日、勤務時間外に外でタバコを吸っていると、数名のワック隊の女が近づいてきた。俺を見ると、「あの~、良かったらこれ読んで下さい」と一人の女が手紙を渡してくる。見事に可愛くない女だった。同じ班の班員たちはそれを見て、大袈裟に冷やかした。恥ずかしくなった俺は、ワック隊の目の前で手紙も読まずビリビリに破く。
「ひぃー」
 その女の泣き方は非常に汚らしく思えた。酷い事をしたのは認める。だがハッキリした態度を取らず時間だけが過ぎるよりも、ちゃんと自分の意思を伝えたほうが親切だろう。
 その日の夜、ワック隊の上官がうちの隊舎へ殴りこんできた。当然、班長同士の話になる。あとで私は呼び出され、ワック隊の上官に土下座しろと言われた。冗談じゃない。なんでこんな事で土下座までしなきゃいけないんだ?
「とっとと謝って、土下座しなさい」
 ドブス婦人自衛官は偉そうに言ってくる。頭に来た俺は、「黙れ、このドブスが!」と悪態をついた。あとで班長らにボコボコニされた事は言うまでもない。
 性欲の溜まっている俺らはいつも夜中になると、トイレへ駆け込みオナニーをした。あんなワック隊を相手にするぐらいなら、自分で慰めていたほうがマシだ。
 夜になると、高校時代の同級生、永田瑞穂へよく電話を掛けた。一度ふられたが、俺はめげずに高校を卒業したあと、しつこく連絡をしていたのだ。まだ外出禁止で休みの日でも外へ出られないが、最初に出た時はぜひとも瑞穂に逢いたかった。
 何度もお願いして瑞穂の最近撮った写真を送ってもらう。
 自衛官は彼女のいない奴が非常に多い。要は女にいつも飢えているのである。瑞穂から来た写真を自慢げに見せつけると、みんな「うぉー」と興奮していた。
 ほとんど男だけの世界だった自衛隊。ワック隊を除けば、女との接触はないに等しい。
 他の仲間は高校の頃から男子校で、女と話した事がないとか大袈裟に抜かす奴もいた。永田瑞穂との通話中に、電話ボックスのそばで聞き耳を立てている馬鹿もいた。
 一度班長に瑞穂の写真を見られた事がある。その日から班長は特別俺だけを妙にしごくようになった。当然の事ながら、班長も女っ気がない男だった。
 俺が他の班員より班長に殴られた回数が多かったのも、ジェラシーからだと思っている。
「テメー、あんな写真、見せつけやがって。自慢してるつもりか?」
 以前そう言いながら殴られた事があった。班長は永田の写真を見て、相当俺にムカついたのだろう。

 相変わらず十時の消灯のあと、俺たちはどうでもいい事をベラベラと話していた。俺が十人の中で一番夜行性だったのか、いつも最後まで起きていた。普通に会話をしていて、相手からの話し声が聞こえなくなる。そんな感じで一人一人先に寝てしまう。
 さすがに俺一人で起きているのは退屈なので、目を閉じ寝ようとした。
 カタカタカタ……。
 一年中室内に設置された木炭ストーブが音を立てて揺れている。気にせず寝ようと心掛けた。
 カタカタカタ……。
 うるさいなあ。地震でもないのに何でそんな音を立てているんだ?
「……!」
 目を開けた瞬間、俺は悲鳴をあげそうになった。ストーブの横を昔の軍隊の服装をした半透明な男がゆっくり歩いていたからだ。どう見てもこの世のものじゃない。
 両開きの木のドアまで行くと、溶けるようにスッと姿を消した。
 他の班員たちの寝息が聞こえる。この状況で起きているの俺だけかよ?冗談じゃない。俺は必死に目をつぶり寝る事だけを考えた。
 こんな時に限って余計な事ばかり考えて眠れない。先日、目の前のベッドの二階にいる坂田がもの凄い力で外に向かって右腕を引っ張られたというシーンを思い出してしまった。俺は絶対あんな目に遭うの嫌だ……。
 勝手にビビった俺は両手で毛布をつかみ、頭からかぶってガチガチ震えた。
 その時だった。
 もの勢いで、俺の毛布がいきなり引っ張られた。両手でガッチリとつかんでいたのに、あっという間に毛布を引き剥がされてしまう。
「うわーっ!」
 俺は大声をあげて飛び起きた。
「……」
 俺のベッドの周りには誰もいない……。
「何だよ、うるせえなあ」
「どうしたんだよ、藤沢」
 叫び声で他の班員が起きてくる。
「い、い…、今……」
 ガタガタ震え、うまく声が出ない。落ち着くまでにしばらく時間が掛かった。俺の異様な震え方に、坂田が部屋の電気をつける。
「馬鹿、消灯時間なのに明かりつけちゃまずいだろ?」
「そんな事言ってる場合かよ?藤沢の震え方、尋常じゃねえぞ」
 パッとついた部屋の明かりが、少しだけ冷静さを取り戻されてくれた。ゆっくりと深呼吸をしてみるが、まだ震えはとまらない。ただ班員がそばに集まってくれたので、もう安全なんだとホッとした。
「でかい声あげて、どうしたんだよ?」
「はあー……」
 俺は大きく息を吐き出してから、ゆっくり状況を話し出した。ストーブが妙に揺れて音を出していた事。その横を半透明の人間がドアに向かって歩き消えた事。そして毛布をすごい力で引っ張られた事……」
「え、この落ちている毛布って、その何かに引っ張られたからだって?」
「あ、ああ…。前に坂田が急に右腕を引っ張られてベッドから落ちそうになっただろ?」
「ああ、あの時は本当にビックリしたよ。何かこう…、この世の力とは思えないような勢いで……」
 そう、坂田の言うように、あの力はこの世のものじゃないような異質さを感じた。
「絶対に何かあるぜ、この部屋」
「や、やめろよ!へ、変な事言うの……」
 怖がりの班員は怯えたように叫んだ。

 消灯時間が過ぎているのに俺たちは、しばらく明かりをつけたままみんなで話し合った。あまりにも異常な現象が続くこの部屋。こうして十人で起きていればそんな怖くないが、明日も朝五時に起床して走らなければいけない。
「班長室行って話そうぜ」
 班長室だけは、消灯時間が過ぎていても明かりがついている。他の班長らがそこで仕事の書類をまとめたり、雑談をしているのだ。
「こんな夜中に何だってまた明日、連帯責任でしごかれるぜ?」
「いいよ、そんなもん。それよりこの得たいの知れない部屋を何とかしないと……」
 結局俺たちは全員そろって、班長室へ向かった。
「すみません!」
 俺が先に入ると、他の班長、副班長を含めた八名の上官の視線が集中する。
「何だ、まだ寝てねえのか?」
「あんな部屋、ゆっくりなんか寝られませんよ!」
 俺たち十人が一気に押し寄せた事で、他の班長たちは軽く頷きながら「やっぱりか……」と、顔を見合わせあっている。
「何がやっぱりなんですか?」
「ん、ああ……。とりあえずおまえたちの部屋まで行こう。なに心配するな。俺たちも一緒に行くから大丈夫だから」
 普段なら怒鳴りつけるはずの班長。いつもと対応が違う。
「お、俺はここで留守番してますから……」
 他の班の副班長が虚ろな目でそう言った。きっとあの部屋には、何か曰く憑きなものがあるのだろう。
 三班の部屋に着くと、班長は天井の隅にある斜めの木の棒を指差し、静かに言った。
「二年前、あそこで首吊り自殺があったんだ……」
「え~?」
「マジかよ」
 騒ぐ班員たち。詳しく聞いてみるとここは通信隊が使っていたらしく、一人ノイローゼになった隊員がいたそうだ。ある日、天井の隅に木の棒を斜めにくっつけ、首を吊って亡くなった。他の自衛官らがその木の棒を撤去しようとしたが、原因不明の事故ばかり多発したので諦め、俺らが来るまでは物置部屋として使っていたそうだ。
「だけどもう大丈夫だ。おまえたちが寝るまで俺たちが明かりをつけたままいるから、早く寝ろ。いいな」
 何が大丈夫なのかさっぱり分からなかったが、上官の命令には絶対服従だ。昼の訓練で体はクタクタになっていたので、いつの間にか寝てしまった。
 先ほど見た半透明の人間は、その時の人なのだろうか?俺には何も分からない。
 しかしそんな事など気にならなくなるぐらい毎日しごかれていたので、夜はぐっすり眠れるようになっていた。

 

 

2 北海道の雪 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

部屋に幽霊が出ようが、班長たちのしごきのレベルはまったく変わらない。毎日ビシビシしごかれ、夜は爆睡する日々を過ごす内に、入隊して一ヶ月が経とうとしていた。待望の...

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