岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

1 食を忘れた男

2019年07月15日 19時01分00秒 | 食を忘れた男/北海道の雪/隠愛 ~いんあい~


食を忘れた男


 私の名前は、工藤明。
 これは、私がある知り合いの事務所で働いていた頃の話。
 オーナーと二人きりの小さな事務所。オーナーの人柄か、いつも事務所には仕事とは関係ない人が顔を出しにやってくる。私より十五歳年上の国さんとは、そこで初めて出会った。今私が二十五歳だから、国さんは四十歳。オーナーの知り合いでたまたま事務所へ顔を出したのがきっかけである。
 腰の低い物静かな人で、いつもみんなの話をニコニコ笑いながら聞いているだけだった。
 オーナーが言うには、とても頭のいい人らしい。有名な高校を卒業し、一流大学へ入った途端、大病に掛かり大学を辞めたと言う。人には様々な人生があるもんだなあというぐらいしか、この時は思わなかった。
 冬の寒い朝、私は事務所へ向かう途中、コンビニへ寄る。今日も誰か来ているかなと思い、私は多めに肉まんを買っておく。
 事務所へ到着すると、国さんの靴が玄関に置いてある。あ、国さん来ているんだ?私は笑顔で中へ入った。
「工藤君、お疲れさま」
「お疲れさまです。あ、国さん、いらっしゃいませ」
 元気良く挨拶すると、国さんも笑顔で会釈をしてくれる。私は暖かい肉まんを「どうぞ」と手渡してから、国さんにも「食べますか?」と渡そうとした。
 その時、オーナーがギョッとした顔で、「工藤君!」と大声で呼んだ。
「え、どうかしました?」
 オーナーのほうを振り向いた時、国さんが私の手にあった肉まんを取った。
「国さん!」
 慌てて立ち上がるオーナー。何だ? 何か私は悪い事でもしたのか?
 国さんはオーナーを手で制し、静かに口を開いた。
「工藤さん、ありがとう。遠慮なくいただきます。ただこの肉まん一つだと量が多くて食べられそうもないので、ちょっとだけいただきます」
 肉まん一つで量が多い? 国さんの妙な言い回しが気になった。国さんは手で肉まんをひと口分だけちぎり、大きく口を開けて中へ放り込む。目を閉じてゆっくり味わうように食べた。
「国さん……」
 オーナーが近くまで来て、国さんの手から肉まんを奪いとる。何が何だか分からない私。肉まん一つで何をそんなに騒いでいるのだろうか。一分ぐらい掛けて食べた国さんは、私を見て静かに言った。
「久しぶりに肉の味を味わいました…。工藤さん、ありがとう」
 たかだか肉まん一つでそんな言われ方をされると、変にむず痒い。

「そんな大袈裟な。肉まんぐらいで……」
 オーナーは黙ったまま国さんを見つめている。
「工藤さん、これから私が言う話は、とても長い話になりますが聞いてもらえますか?」
 真剣な表情の国さん。オーナーのおかしな対応も気になるところだ。
「ええ、構いませんよ。どうしたんです?」
「実は私、十八の時から一切食事をしていないんですよ」
「はあ?」
 いきなり何を言い出すんだ、この人は……。
 性質の悪い冗談だなと思った。今、国さんは四十歳。十八歳から二十二年も経っているのだ。食事を一切しないで、どうやって生きていけるというのだ?
 国さんは驚いた私を気にもせず、淡々と話し出した。
「奇病って言うんですかね…。病院では『クローン病』と診断されましたが、まったく食べ物を胃が受け付けないんです。無理に入れたとしても、すぐに吐いてしまいます」
「……」
 確かに国さんの体はガリガリに痩せ細っている。でもさっき肉まんを私の目の前で食べたじゃないか……。
「あ、工藤さん。ちょっと失礼。トイレに行ってきますね」
 そう言うと国さんはトイレへ向かった。

 国さんがトイレに行っている際、私はオーナーへ小声で聞いてみた。
「オーナー、国さんの言っている事って本当なんですか?」
「うん、俺と国さんとの付き合いは十年以上になるけどさ。あの人、いつも食べられないんだよ……」
「でも見た感じ、どこもおかしくなさそうですよ?」
「見た目はね。でも国さんさ、実際に国から身体障害者手当てが出ているんだよ。あ、これ言っちゃ駄目だよ?」
「もちろん言いませんよ」
 普通に仲良くなった身近な人で、そんな症状を持った人など今までいなかった。私は今後、国さんへどう対応すればいいのだろう……。
「あの人さ、本当に頭いいんだよ。この間なんて宅建の試験をたまたま受けたら簡単に受かっちゃうし、パソコンのプログラマーの免許も持ってるみたい。でも体がああだから、一年の半分は入院しているし、どこにも就職さえできないんだ」
「そうなんですか……」
 人間どうしても自分を中心に物事を考えてしまう生き物だ。私もそうである。こうして普通に生きている事に何の疑問も持たず、日々を過ごしているが、健康でいるという事が一番大事な事かもしれない。
 どんなに頭が良くて、腐るほど金を持っていても、病院のベッドの上に寝たきりじゃ何の意味もないだろう。そう考えると健康でいられるというこの現実に、もっと感謝をしなければいけない。
「あ、国さん、トイレに行くって言いましたけど、妙に長くないですか?」
「国さん今、吐いているんだよ……」
「え……」
「さっき工藤君が肉まん渡したろ? 多分国さんにとって本当に嬉しかったんだと思う。君の気遣いがね。だからひと口だけでも、食べてみたかったんだよ。あとでああやって吐くの分かっててさ」
「……」
「初めてみたよ。国さんがひと口だけとは言え、物を口に運んだ姿をね……」
 知らなかったとはいえ、本当に申し訳ない事をしてしまった。心の底から反省し、自分の安易さを悔やむ。
 あのドアの向こうで今、国さんはゲーゲー吐きながら苦しんでいるのだ。
 その姿を想像すると、自分が物凄い重罪を犯した気分になってくる。
「別に悪気があった訳じゃないんだからさ。工藤君がそんな顔をしていると、余計に国さん気にしちゃうよ? 今までと同じように普通に接してあげてよ」
「はい……」
 何度もトイレで水の流れる音がしたあと、ゆっくりドアが開く。私たちは自然と会話をやめた。

 ゲッソリした表情で国さんはゆっくりソファへ腰掛ける。
「大丈夫ですか、国さん?」
「ん、大丈夫大丈夫、いつもの事だから。そんな気にしないで」
 どんなに彼の気持ちを分かりたくても、健康な私はその十分の一も分かる事などできない。
「さて、どこまで話しましたっけ? あ、そうか。食べ物を受け付けず吐いてしまうってところまでですよね。十八歳の時、いきなりそうなったんです、私は…。当時診てもらった医者には、三十まで生きられないだろうとも言われました」
「でも、それから十年は生きていますよね?」
「ええ、医者からさじを投げられた状況の中、私は二十歳の時フィリピンへ行きました。工藤さん、心霊手術って知ってますか?」
「ええ、たまにテレビとかでやっている……」
「あれはまったく偽ですけどね」
 国さんは寂しそうに笑いながら言った。
「え、そうなんですか?」
「フィリピンでは心霊手術の医者だと名乗る人間が二千人はいるそうです。でも向こうの人の話でいえば、その中で本物はたった二人だけらしいです。私はその二人の内の一人と会えたんですよ、運良く……」
「よく手で切ったり、触れずに奇病を治したりするやつですか?」
 海外旅行へまだ一度も行った事がない私。それでも非常に興味深い話だった。国さんは話を続けた。
「ええ、そこまで大袈裟なやつじゃありませんでしたけどね。私は医者から見離された奇病患者ばかり集めたツアーで、その場所へ行ったんです」
「奇病患者ですか?」
「はい、様々な症状の患者がいました。自分よりすごい症状の患者なんてたくさんいましたよ。口をまったく開く事のできない患者。つまり話をする事ができないんですよね。当然食べ物だって食べられませんし。あとシャブをやっている訳じゃないのに、常に幻覚症状に陥っている患者とか。この人はさすがに、家族が同伴でしたけどね」
「……」
 想像もつかない世界の中で、国さんは生きてきたんだ。何て言葉を掛けていいか分からなかった。
「そこで会った心霊手術をする人に私はこう言われました。『あなたの病気は一度じゃ治らない。今日ここに来て、少し寿命を延ばす事はできました。でも、またここへ来なさい』と……」
 だから国さんは、四十になった今でも健在しているのか。
「それは良かったですね」
 心の底から笑顔で言えた。
「ええ、でもですね。その時、私もまだ二十歳で若かったというのもあり、そこの場所が書いてある紙をなくしてしまったんですよ。もちろん自分の命に関わる事ですからね。そりゃあ必死に探しました。でもその紙が見つからないんです……」
「他にその場所へ行く方法は分からないんですか? 例えばその時のツアーで一緒に行った患者さんに連絡をしてみるとか」
 すると国さんはその場所へ一度しか行っていない訳だ。私がそう言うと、国さんは寂しそうに笑った。
「当時、あそこへ行った人の大半はすでに他界しているか、もしくは連絡も取れないような病院へ入院していますよ。それにみんなその時は自分の事で必死ですからね。あの心霊手術をしたフィリピン人が、あそこにいた全員にそこの場所を書いた紙を渡したかどうかも分かりません。またあの場所へ行ける手段など、もうないんですよ……」
 そのフィリピン人の言葉が本当なら、少し寿命が延びただけという事になる。
「他に方法は何もないんですか?」
「自分の命が掛かってますから、今もずっと探していますよ。でも最近思うんです。これもまた私の運命なのかなと……」
「国さん……」
「まあ国から支給されるお金で、私もこうして何とか生きていられるから、感謝を忘れちゃいけませんよね」
 国さんの言葉がとても重く感じる。
 タバコの税金が上がった。
 ガソリンが高くなった。
 消費税がまた上がるかもしれない。
 そんな不満の裏で集められた税金。しかし、その一部分が国さんを始めとする医療費として使われているのも事実である。この日本に住んでいる以上、それは義務なのだ。
 義務だから避けられないじゃなく、私たちの払う税金が一人でも多くの人を救う。そう思いたい。
 だからといって私は、政府のやり方に満足をしている訳ではない。実際にどう見ても無駄な遣い方もしているのだから……。
「あ、ごめんなさい。私、あとちょっとしたら病院へ点滴受けに行かなくてはいけないんです。工藤さん、また会って色々お話しましょう」
「ええ、国さん。お互い頑張りましょう」
 頑張るという言葉が、国さんにとって適切かどうかは分からない。でも私の口から自然と出た台詞だった。

 国さんは事務所へ月に二、三回のペースでやってくる。大抵は病院へ行く前か、行った後に来た。
 病気に対する深刻な話ばかりだけでなく、今の世の中に対するお互いの意見を言い合ったり、パソコンの知識について話したりもした。彼の話はとても為になる。一緒に話していると、自分まで頭が良くなるような錯覚さえ感じた。
 私より十五歳も年が上だけど、お互いの相性がいいのだろう。また価値観が合うというのか。国さんと一緒にいる時間は心地が良い。オーナーは私と国さんの会話が盛り上がると、パソコンでインターネットをしながら一人で楽しんでいる。
「工藤さん、今日はちょっと見てほしいものがあるんです」
 そう言って国さんはバックの中から数百枚の紙を紐で束ねたものを出してきた。何だろう? 手に取りゆっくり眺めてみる。
『今の中学校で教えている英語は間違っている』
 そんなタイトルで、下にはお世辞でもうまいとは言えない平凡なイラストが描かれている。
「これって何ですか?」
「私がちゃんとした英語…、分かり易く言えば英単語の辞典みたいなものをイラスト入りで作ってみたんですよ」
 どれだけ時間を費やして作ったのかは、この本となった紙の厚さを見れば分かる。A5サイズの大きさに一枚一枚丁重にプリントアウトされた紙には、アルファベットのAから始まる無数の単語がイラストで分かり易い解説入りで作られていた。
「ちょっとこれ、すごくないですか? すごい時間掛かりましたよね?」
「え、ああ…、私、時間だけはたくさん人よりもあるじゃないですか。だからついこのようなものを作ってみようかなと思ってましてね。先日完成したばかりなんですよ」
「いくら時間あるからって……。すごい。素直にすごいなあって思います」
 私は英語が苦手である。まったく話なんてできない。だから国さんの作った辞典を見ても、それがどの程度のレベルなのかの判断はつかない。でもこんなものを作り上げてしまう国さんの頭の良さだけは感服するばかりだった。
「何が面倒かってA4サイズの用紙を一枚ずつ半分に切る作業でしたよね」
「え? これって用紙をいちいち切ったんですか?」
「ええ、A4だと大き過ぎるし、じゃあその半分ならいいかなと」
「国さん……。大きな店に行けば、A5サイズの紙って売っているんですよ……」
「え、ほんとに?」
 こんなにすごいものを作る頭を持っているくせに、どこか国さんは抜けている。しかしまたこういった部分が人間臭いと親近感を覚えた。
「分からなかったら今度一緒に買いに行きましょうよ。これだけの紙を切る作業の時間、馬鹿にならないじゃないですか」
「ありがとうございます、工藤さん」
「それにしてもよくもここまで丁寧に作ったもんですね。ほんと感心しますよ」
「数日貸すのでざっと通して読んでもらい、後日感想を聞かせていただきたいんですけど」
 正直面倒だなと思った。英語に対しまったく興味のない私にとって、面倒な事なだけだ。しかしこれを一生懸命作った国さんの気持ちを考えると、無下にもできない。
「分かりました。ありがたく読ませていただき、あとで感想を言いますね」
 私がそう言うと、国さんは笑顔でニコリと笑った。

 どんどん仲良くなり始めた頃、国さんは真剣な表情で私に言った。
「工藤さん、私が一緒にいる時でも普通に食事をして下さいね。そして私にも普通に接して下さい。例えば一緒に食事へ行こうとか声を掛けてもらったり…。そういうのが不思議と嬉しいんです。この病気の事で気を遣われるのって、あまり好きじゃないんですよ」
 以前オーナーが言った台詞を思い出した。
「さっき工藤君が肉まん渡したろ? 多分国さんにとって本当に嬉しかったんだと思う。君の気遣いがね。だからひと口だけでも、食べてみたかったんだよ。あとでああやって吐くの分かっててさ」
 私はこの事にずっと後悔し、胸を痛めていた。しかし国さんにとっては非常に嬉しい事だったのだろう。そのあとトイレであんなにゲーゲー吐いて苦しんだというのに……。
「久しぶりに肉の味を味わいました…。工藤さん、ありがとう」
 肉まんを食べた時のあの台詞。今にして思えば、とても重みを感じた。十八の時から食べ物を食べていない国さん。それをあの肉まんが、物を食べるという食感を思い出させてくれたのだ。
「国さん、食べ物を全然食べないと言っていましたけど、どうやって普段栄養を取っているんですか?」
「ああ、それはやっぱり点滴しかありませんよ」
「でも十八から二十二年間ですよね。私も入院した経験あるからちょっとは分かるんですけど、点滴って何度も同じ場所に針を刺せないじゃないですか?」
「ええ、そうですね。だから私の場合は刺すんじゃなく、鼻から入れるんですよ」
「鼻からですか?」
 プールで鼻に水が詰まった時の事を思い出した。あれは非常に苦しいものだ。詰まっただけでも苦しいのに、鼻から点滴を入れる? どんな苦痛なのだろう。
「案外慣れるもんですよ、人間って。刺すところがない。でも点滴を打たなければ生きていけない。要は慣れと覚悟ですよね」
 ニッコリ笑いながら、すごい事を平然と言っているなあと思った。
「工藤君、そろそろお昼にしないかい?」
 時計は昼の十二時を回っていた。
「あ、そうですね。国さんはどうします?」
 自然に聞いてからしまったと感じた。国さんは私のそんな表情を察知したのか、笑顔でこう答えてくれた。
「いいですね~。おそば屋さんなんてどうです?」
 ここで悲しんではいけないんだ。私は精一杯の笑顔で「じゃあそば屋にしましょう」と言った。

 国さんは本当にそば屋へ一緒についてきた。
 店の店員がお茶を三人分出してくる。実際に注文するのは私とオーナーだけ。国さんはそれでもいいと言ってくれた。自分が食べられない分、人がうまそうに食べるのを見ていると幸せを感じるそうだ。
 そう、国さんが言うように遠慮しちゃいけない。私は盛りそばを、オーナーは天丼を注文する。
「あの、もう一人の方は何に致しますか?」
 何も注文しない国さんを見て、不思議そうに店員は聞いてくる。
「いや、えっと私は……」
 申し訳なさそうに言う国さんを見て、私はつい「あ、お姉さん、カツ丼ちょうだい」と言う。
 店員が注文を受けテーブルから去ると、国さんは深々と頭を下げてくる。
「ごめん、工藤さん。変に気を遣わせてしまって……」
「いやだな~。何で謝るんですか? 俺、純粋に二つ食いたかっただけですよ。本当にお腹ペコペコなんですから」
「……。ありがとう……」
 下をうつむく国さん。オーナーは黙ったまま、横でタバコを吸っていた。
 食事が運ばれる際、勝手に店員が何も言わず国さんの目の前に盛りそばを置く。国さんはジッと盛りそばを見つめていた。
「工藤さん、悪いけど少しだけこのおそば、もらってもいいですか?」
「え、でも……」
 私の言葉を遮るようにオーナーが口を挟んでくる。
「いいですよ、国さん。好きなだけ食べて下さい。ここは全部俺が持ちますから」
「ありがとう」
 静かにそう言うと、国さんはそばを一本だけ箸でつまみ、つゆにしばらく漬してから口へ入れた。ゆっくり口を動かし、久しぶりのそばの感覚を味わっているように見える。
「いや~、おそばって本当にうまいっ!」
 目を閉じ左右に首を振りながら、大きな声で言う国さん。
 ひょっとして消化のいい食べ物を少しずつなら、大丈夫かもしれない……。
 そう思った時だった。国さんは口元を押さえ、真っ青な顔をしながらトイレへ向かった。
「『クローン病』って医学的には、口から肛門まで消化器官全般に、炎症や腫瘍を起こす病気でね。未だ原因不明なんですよ。奇病とも難病とも言われている。だから点滴を続けながら安静にしている以外、特別な治療方法なんてないんですよね」
 そう自分の病状を淡々と語っていた国さん。正直、トイレに駆け込む姿を見るのは非常に辛いものがあった。たった一本のそばでも、あんな風になってしまうのだ。どれだけ苦しいのだろうか?
 五体満足で健康な私。少しでいいから健康な部分を分けてあげたかった。

 国さんから借りた英語の辞典『今の中学校で教えている英語は間違っている』を全然見られないでいる私。悪いなあと思いつつ時間だけが過ぎていく。こんな事ならあの時正直に英語は分からないからと借りなければよかったのだ。この状態でいる事が一番国さんに対し失礼である。
 借りてしまった手前、私は仕方なしに本をめくり冒頭から読んでみる事にした。
 一つ一つの単語に対し、丁重に書き綴られた意味合いと活用例。最初の数ページを読むと、私は本をベッドの上に放り投げた。正直私にとって、どうでもいい事ばかりなのだ。うんざりしていた。
 どんな思いでこれを作ったのか。その苦労は分かるが、私には判断のしようがなかった。とりあえず国さんに返さなくちゃな。これは世界に一冊しかない貴重な本である事は間違いないのだから……。
 数日後、事務所へ訪れた国さんへ私は『今の中学校で教えている英語は間違っている』を返した。
「どうでしたか、工藤さん?」
 メガネの奥から小さな目を大きく見開き興奮した状態で、国さんは聞いてくる。
「う~ん、自分の場合、英語とか分からないので参考になるか分かりませんが……」
「何でもいいんです。これを読んで何か思った事や気付いた事…。とにかく何でもいいから人の意見を聞きたいんです」
 胸の奥がチクリと痛んだ。この人はいつだって一生懸命に生きている。国さんが作った作品に対し、私は中途半端でいい加減な対応をしているのだ。とりあえず正直に、率直に思った事を言おう。
「分かりました。正直に言いますと、まずこの本のコンセプトについてなんですが、中学で教える英語は間違いだという事について、その時点で少し違うかなって思うんですよ」
「何故ですか?」
「中学の英語の教科書って、国で認めて作っているものだと思うんです。それを真っ向から否定しているじゃないですか」
「ええ、だって工藤さん、中学の時に習った英語力で外国人と会話できますか?」
「確かに片言程度でまともに話しなんてできないですね」
「だから発音にも気をつけ、本来のその単語が持つ意味合いを若い内から知っておいてほしいんです」
「ターゲットは?」
「学生や受験生、またはそれに関わる親ですね」
 国さんの熱い思いは痛いほどよく分かった。だからこそ非常に徹して言わなきゃいけない事もある。
「受験生と言いましたが、みんな、いい高校や大学に入りたいだけで、正しい英語を習いたい訳じゃないんですよ。国さんの言う正しい英語、これが試験に出ればいいですが、学校で習う授業の範囲が試験にも出ると思うんです。嫌な言い方をすれば、非常にナンセンスなんですよ」
「……」
 私の厳しい意見に国さんは下をうつむき、黙ってしまった。少し言い過ぎたか……。
 いや、国さんは思った事を素直に言ってほしかったのだ。これでいい。
「でも、国さん。これってすごい事だと思うんですよ」
「あ、ありがとうございます」
「もうちょっと何か発想を捻れば、いい方向に行くんじゃないかなって気がします」
「いい方向? 例えば?」
「いえ、私にはよく分かりません。無責任な言い方かもしれませんが」
「もし、思いついたらでいいので、その時は言って下さい」
「分かりました」
 この日、国さんの帰る後ろ姿がいつもより不思議と寂しそうに見えたのは、私の気のせいだろうか。

 ある日国さんは、自分が入院した時の事を話してくれた。
 国さんが入院するような場所は、重症患者ばかりが集まる大きな病院ばかりらしい。末期症状に近い患者など当たり前のように見てきたし、目の前で患者が亡くなっていく様子もいっぱい見てきたようだ。
「工藤さん、エイズって知ってますか?」
「そのぐらい分かりますよ」
 エイズとは後天性免疫不全症候群。自分の知っている知識だけで言えば、エイズに掛かると免疫が一切なくなるという事だ。つまり風邪を引いても治らない。
 元々はアメリカの同性愛の男、つまりホモから初めて見つかった。それからエイズはホモの病気と差別や偏見を持たれていたが、ようやくその知識不足からくる偏見は少なくなりつつある。
 千九百八十一年からわずか十年程度で感染者は百万人以上に広がり、世界的脅威に晒された病気としても有名だ。現在日本でも報告されているだけで、一万人を超えていると言う。私が住む東京など、千人に一人は感染しているんじゃないかという可能性もあるらしい。
 感染する条件として血液によるもの。つまり感染者の血液が傷口についたり注射器の使い回ししたりするケース。セックスによって感染するケース。感染している母親からと、母乳を飲んでなるケース。
 …とだいたいこの程度である。
「あんな怖い病気、私は初めて見ましたよ」
 そう言うと、国さんはその時の事を語りだした。
 国さんの入院した大学病院の一室。そこは二人部屋だったらしい。向かいにいるのは、末期症状のエイズ患者。いつ亡くなってもおかしくない状態だったようだ。
 その男が足の腿の部分を痒いと行って手で掻く。すると次の日には、その部分がクレーターのようにボッコリした穴になっていたそうだ。私は月にできているクレーターの事を想像してみたが、うまくその男の足の部分の想像がつかなかった。
 ある日、十数名の女が見舞いに来たらしい。その男はホテトルの経営者で、立場を利用してたくさんのホテトル嬢とセックスをしていたようだ。来た女性が男に「あなた、エイズなの?」と聞くと、軽く頷いたそうである。この時、全員の女が「やっぱりか……」と同じような表情をして帰っていったそうだ。
「みんな多分、ある程度の覚悟をして来たんでしょうね。噂ぐらいは聞いていたと思いますから。不思議なのが、みんな落胆した表情をしていなかったんですよ」
 末期症状のエイズ患者は、自分の体がどんどん駄目になっていくのを我慢できず、病室内で堂々とシャブを打っていたらしい。看護婦も助かる訳ないと思っているから、見てもみんな見ぬふりをしていたそうだ。
 国さんがその男を最後に見たのは、二万円貸した時だった。「頼む、金が全然ないんだ。少しでいい。貸してくれ」と男は国さんへ懇願し借りたあと、病院を抜け出したのが最後だと言う。
「その人って今、何をしているんでしょうね?」
「もうとっくに、この世にはいないと思いますよ。最後だというのを本人が一番分かっていたと思うんです。だからあの二万円で最後のシャブを買いに行ったんでしょうね。その金額でシャブを変えたかどうかまでは知りませんが……」
 国さんは目を細め、遠くを見ながら静かに言った。

 

 

2 食を忘れた男 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

1食を忘れた男-岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)食を忘れた男私の名前は、工藤明。これは、私がある知り合いの事務所で働いていた頃の話。オーナーと二人きり...

goo blog

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3 隠愛 ~いんあい~ | トップ | 2 食を忘れた男 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

食を忘れた男/北海道の雪/隠愛 ~いんあい~」カテゴリの最新記事